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「オーウェン、あなたを愛しているわ」
美しい顔をした母は、僕が子供の時から事あるごとにそう言っていた。
母に頭を撫でられる瞬間が好きで、用もないのに母の元を訪れては、小さなことを自慢して、何とか撫でてもらおうと必死だった。
父はそんな僕を見て、呆れたように笑っていたが、きっと父も母と同じ思いなのだろうなと思った。
この時はまだ、家族が幸せに包まれていた。
幼い僕は、この幸せに既にヒビが入っていることにも気づかずに、永遠に続いていくと思っていた。
僕が八歳の時。
母が突然消えた。
朝目覚めた僕の耳に飛び込んできたのは、怒鳴る父の声。
恐る恐る寝室を開けて廊下を覗くと、父が使用人に怒鳴りつけていた。
彼女は真っ青な顔をして、すぐに駆けて行った。
まるで落とし物を探すように、俊敏に。
僕は廊下に出ると、不安げに父へと近づいた。
父の厳しい瞳が僕を見降ろす。
「オーウェン。お前は部屋に戻っていなさい」
「嫌です……」
なぜか即答できた。
父はそのまま僕を品定めでもするかのように睨みつけていたが、やがて諦めたように息をはいた。
「分かった。落ち着いて聞けよ」
父はそう言うと、母が突然消えたことを僕に話した。
昨日の夜までいたのに、朝には寝室がもぬけの殻となっていたらしい。
外部から誰か侵入した形跡もなければ、家に仕える人間が一緒にいなくなったということもない。
「つまり、お母様は自分から出て行ったということですか?」
核心を突くように僕が言うと、父は短い呻き声を上げた。
「ああ、そうだ。あいつは昔から自分勝手で冷徹な奴だからな。私たちのことなど、本当に愛してはいなかったのだろう。きっと他所の男と駆け落ちでもしたのだろう」
「え……」
子供だが、何となく言葉の意味は知っていた。
途端に心に吹雪が吹いたように寒くなり、悲しい気持ちが全身を巡る。
「信じられないだろうが、それがあいつの本性だ。ふん、所詮女なんてそう生き物なのかもしれんな」
父は不貞腐れたようにそう言った。
僕は床の一点を見つめ、何も言葉を発することができなかった。
それから母は、帰ってこなかった。
時が経ち、父によって縁談が取り付けられた。
相手は同じ公爵令嬢のフィオナ。
長く美しい赤い髪を持っていたが、その目は厳しく、まるで四六時中怒っているようだった。
だが、僕は彼女の本心にすぐに気が付いた。
彼女はその竜のような眼光とは裏腹に、自分に自信がなく、不安なのだ。
その思いが更に眼光を鋭くされ、悪循環になっていた。
一瞬、僕の胸が高鳴った。
しかし、心の奥から悪魔のような低い声が聞こえてくる。
女を信じるなと。
いつか、絶対に裏切るからと。
父の不貞腐れた声が脳裏に蘇り、僕はその内なる声に従った。
フィオナのことは愛さない、そう決心した。
僕の決意は態度に現れ、夫婦生活は円満とは言えなかった。
彼女もすぐにいなくなるのかと思うと、僕は不安でたまらなくなり、やがて不倫をするようになった。
外国へ旅行だと嘘をつき、不倫相手のローラと濃密な時間を過ごした。
予定よりは少し早いが家に帰り、ローラと続きを行っていた。
幸いなことに、フィオナは王宮に呼ばれて、家にいなかった。
だが、思ったよりも早く帰ってきたフィオナは僕達の関係を知り、離婚を叫ぶ。
不倫現場を見られた僕は、それに承諾した。
彼女は冷たい声で「では、さようなら」と言うと、部屋を去っていった。
「これで奥様は消えましたね」
ローラが僕に抱き着いてきた。
「実は私、少しだけ扉を開けておいたんです」
「は?」
「だって、私たちのことを多くの人に知ってもらった方がいいじゃないですか。早くオーウェン様の妻になりたかったし!」
呆れた女だと正直思った。
だが、それほどまでに僕を求めてくれているのなら、仕方がないことなのかもしれない。
「ローラ、僕も早く君を妻に迎え入れたかったよ」
「ふふ、うれしい」
こうしてローラが新しい妻となり、あっという間に半年の時間が流れた。
念のため、ローラの他にも不倫相手を数人作っておき、ローラが消えても大丈夫なようにしておいた。
女は最後には僕を裏切るのだから、当たり前の対処だ。
食堂で朝食を食べていると、メイドが新聞を持ってきた。
僕は食べながら新聞に目を通し、フォークを落とした。
「どうかしましたか?」
向かいで食事をとるローラが、不安げに僕を覗いていた。
しかし僕は彼女に言葉を返すこともなく、新聞の写真に目を奪われていた。
初めてあった時のように心臓がドクドクと音を立てていた。
そこには、もう離婚したはずのフィオナが写っていた。
この国の王女として。
女は裏切る生き物だ。
母親は僕達を捨てて消えた。
しかし、彼女はまだここにいる、僕の前から消えていなかったのだ。
「ふふっ」
可笑しいくらいに嬉しい。
ああ、僕はこんなにもフィオナを愛していたのか。
フィオナの姿が、消えた母と重なる。
彼女を再び、手に入れられれば、母も帰ってきてくれる気がした。
「オーウェン様?」
僕はローラへと顔を向け、爽やかな笑顔で言う。
「もうお前とは離婚をすることにするよ。僕は真実の愛を見つけた」
美しい顔をした母は、僕が子供の時から事あるごとにそう言っていた。
母に頭を撫でられる瞬間が好きで、用もないのに母の元を訪れては、小さなことを自慢して、何とか撫でてもらおうと必死だった。
父はそんな僕を見て、呆れたように笑っていたが、きっと父も母と同じ思いなのだろうなと思った。
この時はまだ、家族が幸せに包まれていた。
幼い僕は、この幸せに既にヒビが入っていることにも気づかずに、永遠に続いていくと思っていた。
僕が八歳の時。
母が突然消えた。
朝目覚めた僕の耳に飛び込んできたのは、怒鳴る父の声。
恐る恐る寝室を開けて廊下を覗くと、父が使用人に怒鳴りつけていた。
彼女は真っ青な顔をして、すぐに駆けて行った。
まるで落とし物を探すように、俊敏に。
僕は廊下に出ると、不安げに父へと近づいた。
父の厳しい瞳が僕を見降ろす。
「オーウェン。お前は部屋に戻っていなさい」
「嫌です……」
なぜか即答できた。
父はそのまま僕を品定めでもするかのように睨みつけていたが、やがて諦めたように息をはいた。
「分かった。落ち着いて聞けよ」
父はそう言うと、母が突然消えたことを僕に話した。
昨日の夜までいたのに、朝には寝室がもぬけの殻となっていたらしい。
外部から誰か侵入した形跡もなければ、家に仕える人間が一緒にいなくなったということもない。
「つまり、お母様は自分から出て行ったということですか?」
核心を突くように僕が言うと、父は短い呻き声を上げた。
「ああ、そうだ。あいつは昔から自分勝手で冷徹な奴だからな。私たちのことなど、本当に愛してはいなかったのだろう。きっと他所の男と駆け落ちでもしたのだろう」
「え……」
子供だが、何となく言葉の意味は知っていた。
途端に心に吹雪が吹いたように寒くなり、悲しい気持ちが全身を巡る。
「信じられないだろうが、それがあいつの本性だ。ふん、所詮女なんてそう生き物なのかもしれんな」
父は不貞腐れたようにそう言った。
僕は床の一点を見つめ、何も言葉を発することができなかった。
それから母は、帰ってこなかった。
時が経ち、父によって縁談が取り付けられた。
相手は同じ公爵令嬢のフィオナ。
長く美しい赤い髪を持っていたが、その目は厳しく、まるで四六時中怒っているようだった。
だが、僕は彼女の本心にすぐに気が付いた。
彼女はその竜のような眼光とは裏腹に、自分に自信がなく、不安なのだ。
その思いが更に眼光を鋭くされ、悪循環になっていた。
一瞬、僕の胸が高鳴った。
しかし、心の奥から悪魔のような低い声が聞こえてくる。
女を信じるなと。
いつか、絶対に裏切るからと。
父の不貞腐れた声が脳裏に蘇り、僕はその内なる声に従った。
フィオナのことは愛さない、そう決心した。
僕の決意は態度に現れ、夫婦生活は円満とは言えなかった。
彼女もすぐにいなくなるのかと思うと、僕は不安でたまらなくなり、やがて不倫をするようになった。
外国へ旅行だと嘘をつき、不倫相手のローラと濃密な時間を過ごした。
予定よりは少し早いが家に帰り、ローラと続きを行っていた。
幸いなことに、フィオナは王宮に呼ばれて、家にいなかった。
だが、思ったよりも早く帰ってきたフィオナは僕達の関係を知り、離婚を叫ぶ。
不倫現場を見られた僕は、それに承諾した。
彼女は冷たい声で「では、さようなら」と言うと、部屋を去っていった。
「これで奥様は消えましたね」
ローラが僕に抱き着いてきた。
「実は私、少しだけ扉を開けておいたんです」
「は?」
「だって、私たちのことを多くの人に知ってもらった方がいいじゃないですか。早くオーウェン様の妻になりたかったし!」
呆れた女だと正直思った。
だが、それほどまでに僕を求めてくれているのなら、仕方がないことなのかもしれない。
「ローラ、僕も早く君を妻に迎え入れたかったよ」
「ふふ、うれしい」
こうしてローラが新しい妻となり、あっという間に半年の時間が流れた。
念のため、ローラの他にも不倫相手を数人作っておき、ローラが消えても大丈夫なようにしておいた。
女は最後には僕を裏切るのだから、当たり前の対処だ。
食堂で朝食を食べていると、メイドが新聞を持ってきた。
僕は食べながら新聞に目を通し、フォークを落とした。
「どうかしましたか?」
向かいで食事をとるローラが、不安げに僕を覗いていた。
しかし僕は彼女に言葉を返すこともなく、新聞の写真に目を奪われていた。
初めてあった時のように心臓がドクドクと音を立てていた。
そこには、もう離婚したはずのフィオナが写っていた。
この国の王女として。
女は裏切る生き物だ。
母親は僕達を捨てて消えた。
しかし、彼女はまだここにいる、僕の前から消えていなかったのだ。
「ふふっ」
可笑しいくらいに嬉しい。
ああ、僕はこんなにもフィオナを愛していたのか。
フィオナの姿が、消えた母と重なる。
彼女を再び、手に入れられれば、母も帰ってきてくれる気がした。
「オーウェン様?」
僕はローラへと顔を向け、爽やかな笑顔で言う。
「もうお前とは離婚をすることにするよ。僕は真実の愛を見つけた」
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