1 / 5
1
しおりを挟む
時には、苦渋な決断も下さなくてはいけない。
昔家庭教師に来ていた年老いた先生が言っていた。
幼い私にはよく意味が分からなかったが、今はそれが痛いほど分かる。
夫の寝室の扉の隙間に、私は顔を近づけていた。
細長い視界の先には、ベッドの上で乱れる男女がいた。
男は私の夫のバースで、女の方は家に仕える使用人だった。
……朝早くに目が覚めて、水を飲もうと食堂へ向かっていた時のことだった。
誰かを起こしてしまわないように、音をなるべく立てずに廊下を歩いていると、逆に不自然な物音を耳にした。
どうやらそれは夫の寝室から漏れ出ているようで、私は恐る恐る寝室に近づいた。
扉が少しだけ空いていて、中からはまるで愛し合っているような、淫らな声が聞こえている。
それで私は扉の隙間から中を覗いてしまい、夫の浮気を知ったというわけだ。
「嘘でしょ……」
開いた口が塞がらなかった。
使用人の体を抱きしめる彼が、夫のバースだと信じたくなかった。
だがその姿と声を聞く度に、彼でない確率はどんどん下がっていく。
『時には、苦渋な決断も下さなくてはいけない』
昔、家庭教師の先生が言っていたその言葉が、脳裏をよぎった。
この辛い現実から目を逸らして、無人島にでも逃げてしまいたい気持ちが心にはあったが、その判断は間違っているような気がした。
私はこの事実と向き合わなくてはいけない。
そう覚悟を決めたものの、扉を開ける勇気はなく、私は扉からゆっくりと顔を離した。
喉がカラカラに乾いていた。
しかし食堂に行くこともなく、私は部屋へ引き返した。
天窓から差し込むまだ暗い陽光が、点々と自室への道を照らしていた。
私はそれを避けるように歩を進める。
自室までの道が恐ろしく長く思える。
「嘘よ……」
自分に言い聞かせるように呟いた。
もし私が魔法使いだったのなら、自分の記憶を消去してしまうのに。
……自室の扉を開けると、私は窓辺の椅子に腰を下ろした。
ふと窓から外の景色を見ると、朝方の青っぽい世界がそこには広がっていた。
すでに動き始めた人はいるようで、馬車が一台、道を快活に進んでいく。
ちらほらと歩いている人もいて、どこかその足取りは楽しそうだ。
痛い。
心が突然、ズキリと痛んだ。
次の瞬間には、目頭が熱くなっていて、悲しみの涙が溢れだす。
「うっ……ううっ……」
乱雑に目をこすり涙を拭うが、一向に涙は止まらない。
むしろ徐々に量を増やしていき、私を散々に困らせる。
バースとの思い出がふいに駆け巡る。
公爵令息であるバースと結婚したのは二年前。
完全なる政略結婚だった。
しかし彼は私に愛を囁いてくれて、優しい彼のことが、私はすぐに好きになった。
結婚して大変なことはたくさんあった。
まだ年若く伯爵家という身分である私は、あまり歓迎されておらず、バースの家の使用人たちからはどこか冷ややかな目で見られていた。
しかし私はバースの妻として、相応しい女性になれるように努力をした。
礼儀や作法を勉強し直し、バースが行っている領地経営も手伝うようになった。
ひたむきな姿勢が通じたのか、私は次第に周囲に認められるようになっていった。
そして二年の時が流れ現在。
バースは堂々と浮気をして、私を絶望の底に叩き落とした。
……やっと涙が止まった。
椅子から立ち上がった私が時計を見ると、既に一時間が経過していた。
外の景色は大分明るくなっていて、煌びやかな太陽が姿を現していた。
「私はどうすればいいの……?」
誰も答えてくれるはずはなかった。
たった一人しかいないこの部屋で、その問いに答えられるのは私だけだからだ。
苦渋な決断を下さなければいけない。
浮気の事実を胸に留めるか、それともバースを断罪するか。
どちらも私にとっては地獄であるような気がした。
昔家庭教師に来ていた年老いた先生が言っていた。
幼い私にはよく意味が分からなかったが、今はそれが痛いほど分かる。
夫の寝室の扉の隙間に、私は顔を近づけていた。
細長い視界の先には、ベッドの上で乱れる男女がいた。
男は私の夫のバースで、女の方は家に仕える使用人だった。
……朝早くに目が覚めて、水を飲もうと食堂へ向かっていた時のことだった。
誰かを起こしてしまわないように、音をなるべく立てずに廊下を歩いていると、逆に不自然な物音を耳にした。
どうやらそれは夫の寝室から漏れ出ているようで、私は恐る恐る寝室に近づいた。
扉が少しだけ空いていて、中からはまるで愛し合っているような、淫らな声が聞こえている。
それで私は扉の隙間から中を覗いてしまい、夫の浮気を知ったというわけだ。
「嘘でしょ……」
開いた口が塞がらなかった。
使用人の体を抱きしめる彼が、夫のバースだと信じたくなかった。
だがその姿と声を聞く度に、彼でない確率はどんどん下がっていく。
『時には、苦渋な決断も下さなくてはいけない』
昔、家庭教師の先生が言っていたその言葉が、脳裏をよぎった。
この辛い現実から目を逸らして、無人島にでも逃げてしまいたい気持ちが心にはあったが、その判断は間違っているような気がした。
私はこの事実と向き合わなくてはいけない。
そう覚悟を決めたものの、扉を開ける勇気はなく、私は扉からゆっくりと顔を離した。
喉がカラカラに乾いていた。
しかし食堂に行くこともなく、私は部屋へ引き返した。
天窓から差し込むまだ暗い陽光が、点々と自室への道を照らしていた。
私はそれを避けるように歩を進める。
自室までの道が恐ろしく長く思える。
「嘘よ……」
自分に言い聞かせるように呟いた。
もし私が魔法使いだったのなら、自分の記憶を消去してしまうのに。
……自室の扉を開けると、私は窓辺の椅子に腰を下ろした。
ふと窓から外の景色を見ると、朝方の青っぽい世界がそこには広がっていた。
すでに動き始めた人はいるようで、馬車が一台、道を快活に進んでいく。
ちらほらと歩いている人もいて、どこかその足取りは楽しそうだ。
痛い。
心が突然、ズキリと痛んだ。
次の瞬間には、目頭が熱くなっていて、悲しみの涙が溢れだす。
「うっ……ううっ……」
乱雑に目をこすり涙を拭うが、一向に涙は止まらない。
むしろ徐々に量を増やしていき、私を散々に困らせる。
バースとの思い出がふいに駆け巡る。
公爵令息であるバースと結婚したのは二年前。
完全なる政略結婚だった。
しかし彼は私に愛を囁いてくれて、優しい彼のことが、私はすぐに好きになった。
結婚して大変なことはたくさんあった。
まだ年若く伯爵家という身分である私は、あまり歓迎されておらず、バースの家の使用人たちからはどこか冷ややかな目で見られていた。
しかし私はバースの妻として、相応しい女性になれるように努力をした。
礼儀や作法を勉強し直し、バースが行っている領地経営も手伝うようになった。
ひたむきな姿勢が通じたのか、私は次第に周囲に認められるようになっていった。
そして二年の時が流れ現在。
バースは堂々と浮気をして、私を絶望の底に叩き落とした。
……やっと涙が止まった。
椅子から立ち上がった私が時計を見ると、既に一時間が経過していた。
外の景色は大分明るくなっていて、煌びやかな太陽が姿を現していた。
「私はどうすればいいの……?」
誰も答えてくれるはずはなかった。
たった一人しかいないこの部屋で、その問いに答えられるのは私だけだからだ。
苦渋な決断を下さなければいけない。
浮気の事実を胸に留めるか、それともバースを断罪するか。
どちらも私にとっては地獄であるような気がした。
53
お気に入りに追加
75
あなたにおすすめの小説
旦那様、そんなに彼女が大切なら私は邸を出ていきます
おてんば松尾
恋愛
彼女は二十歳という若さで、領主の妻として領地と領民を守ってきた。二年後戦地から夫が戻ると、そこには見知らぬ女性の姿があった。連れ帰った親友の恋人とその子供の面倒を見続ける旦那様に、妻のソフィアはとうとう離婚届を突き付ける。
if 主人公の性格が変わります(元サヤ編になります)
※こちらの作品カクヨムにも掲載します
夫が寵姫に夢中ですので、私は離宮で気ままに暮らします
希猫 ゆうみ
恋愛
王妃フランチェスカは見切りをつけた。
国王である夫ゴドウィンは踊り子上がりの寵姫マルベルに夢中で、先に男児を産ませて寵姫の子を王太子にするとまで嘯いている。
隣国王女であったフランチェスカの莫大な持参金と、結婚による同盟が国を支えてるというのに、恩知らずも甚だしい。
「勝手にやってください。私は離宮で気ままに暮らしますので」
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
今さら、私に構わないでください
ましゅぺちーの
恋愛
愛する夫が恋をした。
彼を愛していたから、彼女を側妃に迎えるように進言した。
愛し合う二人の前では私は悪役。
幸せそうに微笑み合う二人を見て、私は彼への愛を捨てた。
しかし、夫からの愛を完全に諦めるようになると、彼の態度が少しずつ変化していって……?
タイトル変更しました。
愛想を尽かした女と尽かされた男
火野村志紀
恋愛
※全16話となります。
「そうですか。今まであなたに尽くしていた私は側妃扱いで、急に湧いて出てきた彼女が正妃だと? どうぞ、お好きになさって。その代わり私も好きにしますので」
選ばれたのは美人の親友
杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる