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 時には、苦渋な決断も下さなくてはいけない。
 昔家庭教師に来ていた年老いた先生が言っていた。
 幼い私にはよく意味が分からなかったが、今はそれが痛いほど分かる。

 夫の寝室の扉の隙間に、私は顔を近づけていた。
 細長い視界の先には、ベッドの上で乱れる男女がいた。
 男は私の夫のバースで、女の方は家に仕える使用人だった。

 ……朝早くに目が覚めて、水を飲もうと食堂へ向かっていた時のことだった。
 誰かを起こしてしまわないように、音をなるべく立てずに廊下を歩いていると、逆に不自然な物音を耳にした。
 
 どうやらそれは夫の寝室から漏れ出ているようで、私は恐る恐る寝室に近づいた。
 扉が少しだけ空いていて、中からはまるで愛し合っているような、淫らな声が聞こえている。
 
 それで私は扉の隙間から中を覗いてしまい、夫の浮気を知ったというわけだ。
 
「嘘でしょ……」

 開いた口が塞がらなかった。
 使用人の体を抱きしめる彼が、夫のバースだと信じたくなかった。
 だがその姿と声を聞く度に、彼でない確率はどんどん下がっていく。

『時には、苦渋な決断も下さなくてはいけない』

 昔、家庭教師の先生が言っていたその言葉が、脳裏をよぎった。
 この辛い現実から目を逸らして、無人島にでも逃げてしまいたい気持ちが心にはあったが、その判断は間違っているような気がした。

 私はこの事実と向き合わなくてはいけない。
 そう覚悟を決めたものの、扉を開ける勇気はなく、私は扉からゆっくりと顔を離した。

 喉がカラカラに乾いていた。
 しかし食堂に行くこともなく、私は部屋へ引き返した。

 天窓から差し込むまだ暗い陽光が、点々と自室への道を照らしていた。
 私はそれを避けるように歩を進める。
 自室までの道が恐ろしく長く思える。

「嘘よ……」

 自分に言い聞かせるように呟いた。
 もし私が魔法使いだったのなら、自分の記憶を消去してしまうのに。

 ……自室の扉を開けると、私は窓辺の椅子に腰を下ろした。
 ふと窓から外の景色を見ると、朝方の青っぽい世界がそこには広がっていた。
 すでに動き始めた人はいるようで、馬車が一台、道を快活に進んでいく。
 ちらほらと歩いている人もいて、どこかその足取りは楽しそうだ。

 痛い。
 心が突然、ズキリと痛んだ。
 次の瞬間には、目頭が熱くなっていて、悲しみの涙が溢れだす。

「うっ……ううっ……」

 乱雑に目をこすり涙を拭うが、一向に涙は止まらない。
 むしろ徐々に量を増やしていき、私を散々に困らせる。

 バースとの思い出がふいに駆け巡る。

 公爵令息であるバースと結婚したのは二年前。
 完全なる政略結婚だった。
 しかし彼は私に愛を囁いてくれて、優しい彼のことが、私はすぐに好きになった。

 結婚して大変なことはたくさんあった。
 まだ年若く伯爵家という身分である私は、あまり歓迎されておらず、バースの家の使用人たちからはどこか冷ややかな目で見られていた。

 しかし私はバースの妻として、相応しい女性になれるように努力をした。
 礼儀や作法を勉強し直し、バースが行っている領地経営も手伝うようになった。
 ひたむきな姿勢が通じたのか、私は次第に周囲に認められるようになっていった。

 そして二年の時が流れ現在。
 バースは堂々と浮気をして、私を絶望の底に叩き落とした。

 ……やっと涙が止まった。
 椅子から立ち上がった私が時計を見ると、既に一時間が経過していた。
 外の景色は大分明るくなっていて、煌びやかな太陽が姿を現していた。

「私はどうすればいいの……?」

 誰も答えてくれるはずはなかった。
 たった一人しかいないこの部屋で、その問いに答えられるのは私だけだからだ。
 苦渋な決断を下さなければいけない。
 
 浮気の事実を胸に留めるか、それともバースを断罪するか。

 どちらも私にとっては地獄であるような気がした。
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