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 幸せの香りはもう私の目の前にはない。

「そんな……」

 目頭が熱くなり、涙がこぼれ落ちた。
 
「あら、泣いてるのぉ? やめてよぉ、それじゃあ私たちが悪いみたいじゃない」

 サターニャはうすら笑いを浮かべ、迷惑そうに顔をしかめる。
 ドレイクも頷いて、眉間にしわをよせた。

「お前みたいな女が本気で僕に釣り合うと思っていたのかい? まともに人と話せない、気も利かない、クズでのろまで……ちょっと勉強できるからって、そんなに自分が価値のある人間だと思っていたのかい?」
 
 言葉のナイフがズキズキと心に突き刺さる。
 確かな痛みを感じながら、私はゆっくりと口を開く。

「なんでそんなことを言うのですか……わ、私たちは……愛しあっていたではありませんか……」

「それはお前の身勝手な妄想だ。僕は最初からお前なんかと婚約したくなかった。親に命令されたから、それに従っていただけだ」

 冷たい、とても冷たい。
 ドレイクは氷のような冷たい人間になってしまった。
 いや、違う。
 私がそう思っていただけだ。

「ノエル。あんたに非があるのよ? 散々私を馬鹿にして上から見てきたその報いなのよ。まあ、あんたのおかげでドレイク様と出会うことが出来たんだけどね……ふふっ」

「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。サターニャ……大好きだ」

「もう、ダメよ……こんなところで……」

 二人は私の目の前で再びいちゃつき始めると、激しくキスをした。
 嫌悪感に苛まれながら、私はぎゅっと目を閉じた。

 どうしてこうなってしまったのだろう。
 私はいつから……ドレイクやサターニャはいつから関係を持っていたのだろう。
 記憶を巡らしても、やはり二人との楽しかった日々しか思い出せない。
 それほどに、唐突な婚約破棄に、私は暗い闇の底に落ちていく。

 涙で視界が滲み、音が消える。
 夢の中にいるような浮遊感と共に、もうここから逃げ出したいという思いが混み上げる。
 その苦しみから逃げるように、私は楽しかった日々を無理矢理に頭の中で再生する。

「あっ……」

 しかし、そこで私はあることを思い出した。
 ドレイクとの婚約時に交わされた、あの契約のことを。

「なんだノエル。何か言ったか?」

 ドレイクがサターニャから顔を私に移す。

「……ドレイク様は婚約時に結んだ契約のことを覚えていますか?」

 涙が引いていく。
 彼への愛と共に。

「契約? ああ、そんなこともあったな。確か僕の所有物をいくつか渡すんだったっけ?」

「はい。正確にはドレイク様の都合で婚約破棄になった場合は、慰謝料として、私に金貨百枚と銀貨五十枚。更に馬車と山を渡す契約になっています」

 生憎勉強は出来る。
 一人だった私の唯一の武器だから。
 契約者の内容くらい、目の前にあるみたいに覚えている。

「ふん、よく覚えているな。で、それがなんだ? 僕がその程度の負債を怖がると思っているのか?」

 サターニャの笑い声も聞こえる。
 しかし、私は彼女に目を向けることなく、ドレイクに言う。

「いえ、そんなことは思ってはおりません。ただ、婚約破棄されるというのなら、その慰謝料をキチンとお支払いして頂きたいと思っただけです」

「まあ、意地汚い女! 幼馴染として恥ずかしいわ! お金のことにそんなに執着して令嬢として恥ずかしくないのかしら?」

 サターニャはとにかく私の評価を下げたいらしい。
 しかし、私は皮肉を込めて彼女に笑みを返してあげる。

「なら幼馴染じゃなくて結構よ。友達も辞めて結構。あなたに構っていられる程、私は暇じゃないから」

「はぁ!? 一人だったあんたを誰が構ってあげたと思ってるの! 私がいなかったら、何もできない無能女のくせに!」

「それはお互い様ね。あなたに何度も宿題を写させてあげたこと、忘れてしまったの? その程度の知能でよく最終学年まで進級できたわね」

「くっ……」

 サターニャは悔しそうに歯ぎしりをしたが、それ以上は反論してこない。
 ドレイクの手前、あまりに醜い言動は避けたいのだろう。
 一方、彼は嬉しそうな笑みを浮べて、私に言った。

「なら、婚約破棄は成立ということでいいな?」

 彼の言葉に、私は堂々と頷く。

「ええ、もちろんです。慰謝料さえ払って頂ければ、もう会うこともないでしょう」

 その後、ドレイクは契約で決められていた慰謝料を払い、私たちは婚約破棄となった。
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