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序章 天変地異

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 少年の目前で右から歩いてきた一組の親子が立ち止った。夜道の縁石に車道に向けて腰掛け今にも睡魔に取り込まれそうな少年は、目の前に立ち尽くす裸足の四脚の持ち主を認知するために残る力を余すことなく消費する。ひび割れた漆黒のアスファルトを背景に淡く縁どられた、骨と皮で構成されるふくらはぎを辿って目線を上げていく。それ以外に見えるのは茶色く擦り切れた衣服。少年は空しくも主張する自らの腹部が今にも満たされるのではないかと儚く期待した。
 少年の背後から照射する光源不明の青白く薄い光だけが、夜空一面を覆う薄ら橙色で彩られた灰色の雲を背景とする親子の像を映し出している。半開きの目に映る廃れ切った景色はスローモーション。その漸進的な視線はついに片方の人物の頭部に達した。少女だ。手前で母と手をつなぐこの子の歳は十歳に満たないだろう。乱れ腰まで伸びる黒髪が絡み合い輝きを失って風による単調的な軌道を描いた。ホッとした。この狂乱に至るまでの一か月間、涙を流していない子は一度も見たことがなかった。しかし、その安堵は間もなく消失した。肌に年相応の艶を残す少女は虚ろな顔を前に向けたまま微動だにしないのである。その異変を認識し僅かばかりの焦燥に駆られた少年は猶予なく隣に佇む母の表情を確認すると決心した。だが、その決心が脆弱であったためかもしくは視界の左上に映る顔らしき輪郭の向く先が不鮮明であったためか、目にも顔にも自分の意志が反映されることはなかった。
 大きく拍動し始めた心臓が更なる焦りを生み出しそうになり、少年は目を瞑った。瞼が擦れる音すら発しそうな乾いた眼球をなぞり、張り詰めた眠気を思い出す。しかし、次の瞬間には眼球が既にもう片方の人物の頭部めがけて瞼の裏を移動していた。後は瞼を取り払うだけだ。満ちていく緊張に耐えかね、勢いのままに目を開いた。

「はぁ……あ、あぁ……ッ!」

 皮膚がきしむほど目を丸くした少年は、機能を忘却した声帯を震わせ空虚な声を吐き出した。そのまま後退する腰が縁石から外される。その顔は眼球が飛び出るほど目を見開いて奇妙な薄ら笑いを浮かべながら少年をジッと見つめていた。消費しつくしたはずの体力がいつの間にか湧いている。だが、その異様な人物と目を合わせたままどうすることもできない。呼吸が非常に速いリズムを刻む。嫌だ、死にたくない、死んでたまるか。
 その時であった。その母は視線を狂わせることなく顎を外すようにして発狂した。甲高くかつ摩耗した声が瓦礫だけが広がる辺りに響き渡った。道路には既に十人ほどいたのだが、誰一人としてこの声に反応する者はいない。
 驚嘆した少年は急いで子の方へ視線を移した。その光景は少年の予想に完全に反し、少女は母が発狂してもなお表情一つ変えず前を向き続けている。今、少女の目には何が映っているのだろうか。それと対照に母は激しく身体を震わせ生暖かい風の吹く頭上に空いている右手を掲げた。次に始まる動作は何だ。絶望にも近い感情を抱いた少年はとうとう余りにも空疎な死への覚悟を決めるしかなかった。針のように細くとがった右手は少年に思考の猶予すら与えず少女の頭を鷲掴みにした。その動作が完了したころには、少女と手をつないでいたはずの左手が少女の首元に添えられていた。満たされた恐怖の間隙を縫って微かな疑問が浮かぶ。しかし、これも束の間に過ぎず、身震いすらもままならない恐怖が少年の心情から溢れ出た。

「あ、あ、ぐあぁーッ‼」

 一滴の唾すら含まない口内から発せられた声にならない音は埃舞う空間に溶け込んでいく。娘を掴む母の細すぎる手に僅かばかり力が入ったかと思うと、それは娘の頭部を軽々とむしり取った。頼りを失い地面に倒れこんだ哀れな胴体の首元からは色鮮やかな肉が覗き粘度をもった赤黒い液体がとめどなく流れ出る。その上からは母に掴まれ無表情な少女の頭部。落とされた鮮血は地面に溜まる胴体からのそれと融合すると酷く美しい王冠を形作る。吐き気がする。目と鼻の先で繰り広げられる惨事にパニックを起こし全身に力がこもったまま硬直する少年は開いた口をガクガクと震わせた。
 少年の精神を沸々と圧迫する憂虞はやっと彼に乾性の悲鳴を上げさせた。一点に集中させることができない視線は今程から、子の胴体・子の頭部・母の頭部を刹那の隙に何往復もしている。未だ、その母はこちらを凝視していた。
 その刹那、その母が虚空であったはずの灰空に獣から発せられる雄叫びにも似たそれを放つと、口と鼻さらには目から大量の生血を瞬時に噴出した。案の定、それは今にも白目を剥いて失神しそうな少年の頭上に降り注ぐ。だが、これ以上の恐怖をする余地は少年には残っていなかった。浅ましい少年の全身が一斉に震えだしたと同時に母は彼に向かって倒れこんできた。空虚な一点を見つめる少年と目覚ましい赤いドレスで顔から足元までを纏ったその母が重なり合うその間際、見事に赤い装飾を身に着けた少年は一人の老人に抱えられ、その場を後にした。そこには、赤く重い絨毯の上に横たわる一組の親子が残るだけ。その絨毯は火山灰が堆積した地面に見る見る広がってゆく。温い風が通るたびに、毛根と濡れた地面とに両端を固定された母のごわつく長髪は震えるように靡いていた。

「坊や、名前は?」

 よろける足元を気にする老人は咳払いを含めながら少年に尋ねた。少しばかり急ぐようにして霞んだ眼で前方遠くに焦点を合わせている。

「し……修輝しゅうき

 遠のく意識の中で、一向に消えない恐怖と込み上げてくる安堵が混じり合い、最後に口にしたのは囁くような自らの名前だった。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 一か月前の六月十一日、華やかな日常は瞬く間に寂滅した。未曾有の異常気象が同時多発的に全世界を襲ったのである。アジアを中心に異常なまでの気温上昇、それに伴う豪雨・暴風。反対にアフリカやヨーロッパでは干ばつの被害。南北アメリカやオセアニアでは季節関係なく豪雪の被害をもたらした。勿論、いくつもの災害が重なって発生した地域もある。やがて、世界的な海面上昇が突如として始まり、いくつもの島が沈むという結果をもたらした。日本のその例外ではなく、台風の発生や海面上昇などによって各地の都市機能は三日ももたずに麻痺が始まった。海岸部では死に物狂いの住人たちによる大規模な避難が開始され、既に限界に達しようとしていた自治体からの避難指示など彼らに通じるはずもなく、全国の交通網は更なる混乱に陥った。
 この頃の人々はまだ自らの生きる術について考える余裕をもっており、いずれ開始される自衛隊などからの救援を渇望する程度の困窮を覚えるまでであった。
 しかし、世界が震撼させられてから二週間が経過した六月二十五日、あろうことか更なる災害が異常気象とともに再び世界を襲ったのである。それは、微塵の希望を抱き復興が開始されようとしていた地の傷口により一層深く染み入った。火山の噴火、地震の発生とそれに伴う津波、地域を問わず多発する竜巻。各国の政府があまりにも遅すぎる二度目の非常事態宣言を発表するが既に都市機能は壊滅、行政機関が機能するはずもなくどの場所をとっても地獄絵図に劣らない景色が広がるばかりである。日本においても首都圏のみならず地方の隅々に至るまで災害の脅威は行き渡り、完全に死んだライフラインは夥しい数の屍を幾重にも積み重ねた。家屋はそのほとんどが全壊、高層ビル群も片っ端から崩れ落ちていく。悶え苦しみ喘ぐ声が老若男女問わず至る所から聞こえてくる。消えては生まれこの繰り返し。皆がでたらめな方向に遅々と進み、力尽きればその場に儚く倒れこむ。人類の居場所は人類の産物によって徐々に失われていった。
 一連の大災害から一か月、世界人口はそれまでの〇・五パーセントまで減少。依然、人口減少に歯止めはかからず、荒廃した世界を生き残った人々は絶望を抱え食料を求めた。
 そして、新ウイルスの蔓延が世界各地で始まった。このウイルスは後に『リモデリングウイルス』と呼ばれ、感染者の脳内に侵入するとその構造を変化させる。感染者の多くは何の前触れもなく突如発狂し絶命する。その中、ウイルス感染が好転的に作用し超人的な能力を手にする者たちが現れた。ある者は崩れた崖を颯爽と駆け上がり、ある者は詳らか未来を予測する。相手の心情を読み取ったり怪物的な力を手に入れたりする者もおり、その能力の種類に限りはないとされている。その誰もが並外れた人体の再生能力を有していた。やがて彼らは『モデルアルファ』と呼ばれるようになり、その能力開花の所以を解明しようとする研究によって幾人ものモデルアルファが検体として捕らえられた。経口感染によるウイルスであるとされ、自ら感染を望む者も現れたがその大半は即座に命を落とした。
 この混乱の中、恐れていた事態が発生した。武力によって管理され非人道的な扱いを受けていたモデルアルファによる反乱が始まったのだ。七月十五日、この日から日本では機能しているか否かの判断もつけ難い形だけの政府によって人類が『真人類』と『モデルアルファ』とに区別された。
 日本においてはモデルアルファを隔離する目的の下、真人類は始めこそ武力によって優勢に立っていたが、徐々に結束を高めていったモデルアルファによってすぐさま劣勢に立たされた。戦渦は首都圏から地方都市へと拡大。瓦礫の中を戦車が突き進み、それをモデルアルファが次々に破壊していく。戦闘機も攻撃を開始する前に墜落を余儀なくされた。それは他国でも同じ状況であり、日本が支援を要請しようともどこからの応答もなかった。
 戦闘開始から二日目、ついに危惧していた出来事が起こった。奇跡的にリモデリングウイルス感染が始まっていないアジアの国による日本侵攻が開始されたのである。無秩序の日本は首都圏を攻撃され、真人類は境地に立たされた。しかし、モデルアルファは今までと変わらぬように並外れた威力の銃や電気系統の破壊によって戦闘機を撃ち落としその形勢に変化はない。そこで、真人類は苦渋の決断に至った。モデルアルファとともに防衛を行うものである。この時点での日本人口は約七十万人、うちモデルアルファは千人にも満たなかったとされている。そのほとんどが防衛に参加した。
 適正な判断の結果、堕落した日本の被害は最小限に抑えられ、モデルアルファの犠牲も数十人ほどで戦闘は終息した。
 再び同じ事態に発展することを懸念した政府は、モデルアルファとの戦闘を終了することを決定。モデルアルファの人権を認めるとともに、真人類のみが居住可能な『真人類区』を指定することを全国の自治体に通達した。さらに、モデルアルファ一人ひとりにはライセンスが交付され、戦闘への参加やその他政府指導の活動に参加した場合にはそれに応じた報酬が贈与されることとなった。
 この決定に満足しないモデルアルファも現れ小規模な混乱が生じたが、首都圏ですら荒野と化した日本の荒廃を鑑みると納得せざるを得ない状況であることなど容易に判断できた。今は何を望もうとも帰ってくるものは威勢を失った詫び言ばかりだ。真人類区よりもそれ以外にいた方がまだ希望はある。
 こうして真人類の移動が始まったが、住む場所はなく食料は不足、犠牲者は右肩上がりに増えていった。一方、モデルアルファは真人類区よりも遥かに広い土地を保証され、その高い生命力も相まって徐々に生活を確立していった。
 真人類区が制定されてから一か月以上が経過した九月二十四日。真人類の移動が完了し、真人類区以外の地域は『アルファエリア』と名付けられた。自治体が発足し始めたアルファエリアは真人類区を囲うように広がり、日本はかつての地方中枢都市を中心として地域ごとに統治されることになった。その境界には高さ十メートルを超える壁またはフェンスが設置されることも決まっている。
 行政機関は今にも逆上しそうな市民といつ反乱が起こるかわからないアルファエリアの統制に怯えながら、地域復興への計画を始めた。リモデリングウイルスへの対策が迅速に協議され、どうにか感染拡大を食い止めようと必死だ。その裏で、モデルアルファとなった人物はアルファエリアに追放されていった。
 未だ冷めやらぬ異常気象・災害は人々に絶望を募らせ、リモデリングウイルスの感染を拡大させる。偽りの青空の下広がる灰色の大地は容赦のない日光を浴びて歓喜の煌めきを見せる。惨憺たる天変地異から四か月、栄華の世界は虚しくも一変した。

 ――それから五年、一つの部屋に集う五人の男女は徒に大きな宣言をした。 

わらわほし奈菜香ななかはここに宣言するッ!――」
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