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1巻
1-3
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桜井を前にすると、麗華はいつも顔が真っ赤になってしまう。
憧れの人だから仕方ないのかもしれないが、恥ずかしさは拭えず、それでまた顔が赤くなるという悪循環ぶりだ。
「ああ、藤井さんも自販機? 私もなんだ。喉が渇いてね」
麗華の押していた階数ボタンを見て桜井が気さくに話しかけてくる。
赤面していることに触れてはこない。そのことに安堵を覚え、麗華は落ち着きを取り戻した。
「あの、先程はありがとうございました」
桜井が助けてくれなければ、あの場で麗華は吊るし上げ同然に責められていたかもしれない。
改めて思い返しブルリと身を震わせれば、桜井が溜息を吐いた。
「いや。女性が少ない職場っていうのも困ったもんだなと、さっきのを見ていて思ったよ」
「え?」
「少ない異性に気に入られようとするのは、まあ自然の摂理なのかもしれないけどね」
「ああ……」
肩を竦めて話す桜井に、麗華は苦笑を漏らした。
つまり、先程麗華を取り囲んだ男性社員達は、伊田に気に入られたいがために麗華を吊るし上げようとしたということだろう。
「伊田さんは私から見てもとても可愛らしい方ですし、仕方ないですよ」
自分を卑下する言葉にならないよう注意する麗華に、桜井は形の良い眉を顰めた。
「あなただって可愛らしいよ、藤井さん」
一瞬何を言われているのか理解できず、麗華は苦笑のまま数秒固まってしまった。
「…………ぅえぇっ!?」
動揺のあまり妙な声が出た。やっと治まったはずの頬の紅潮が、また一気にぶり返したのを感じる。
焦って涙目にすらなっている麗華を、桜井は不思議そうに眺める。
「あなたはどうも自己評価が低いよね。そんなにきれいなのに、なぜなんだろう」
「きっ!?」
――何を言っちゃってるんでしょう、桜井課長!
パニクる麗華とは裏腹に、桜井はさり気なく麗華の顎を摘まむと、くい、と上向かせた。
麗華は目の前に桜井の整った顔が迫って来てギョッとする。
「さ、さささ……」
さくらいかちょう、という次に続く音は、桜井の「ふむ」という頷きに行き場を失った。
「やっぱりきれいだ。美しいパーツがあるべき場所に収まっている。それなのにどうして自分の美しさの出し惜しみをしているの?」
その平坦な声色に、桜井が自分の顔を観察しているだけなのだと気付く。自分の狼狽が滑稽に思えて、麗華は慌てて姿勢を正した。
「あの、美しいかどうかはなんとも言えませんが、出し惜しみ、という言葉にはなんとなく心当たりがあるというか……」
「ふむ?」
麗華の曖昧な返答に、桜井は興味深そうに先を促した。
「えっと……私は幼稚舎からずっと女子校育ちだったんです。課長がご存知かは分かりませんが、女子校の中だと、背が高かったり、ボーイッシュだったりする女子は……なんというか、周囲からまるで男子のように扱われるんです」
「ああ……なるほど。あなたはずっと『男役』だったということか」
女子校のそういう事情が男性に上手く伝わるか心配だったが、桜井はアッサリと理解したようだった。かの有名な女性だけの歌劇団をイメージしたのかもしれない。
「そうです。なので、女性らしく振る舞おうにも、その仕方が分からないというか……」
あはは、と後ろ頭に手をやって笑って見せれば、桜井が未だに親指で麗華の顎を撫でながら思案顔になる。
「ふぅん……でもそうだとしたら、さっきの伊田さんのような女性からの敵意に、戸惑ったんじゃない?」
「えっ……そ、それは……」
桜井が、伊田の麗華への敵意を見抜いていたことに驚きながらも、何と答えていいものか迷う。言いあぐねていると、桜井がクスリと笑った。
「これまで男役だったのなら、女性から向けられる敵意の的にはならなかったはずだ。驚いたでしょう?」
麗華の状況を正確に把握しているだけでなく、心情を丸ごと読み取ったかのような発言に、唖然としてしまった。
「あなたは女子校という特殊な環境下で男役になったことで、女性からは賞賛を受けてきたんだろうね。だが男性がいる『社会』に入った以上、あなたは『女性』に戻ることになる。これからは女性として同性の、あるいは異性の敵意と賞賛の対象となるわけだ」
そこで一旦言葉を切ると、桜井はようやく麗華の顎から手を離した。
大きな手の少し骨張った感触が離れていくことに、なんだか淋しさを感じてしまう。そんな自分にビックリしながら、麗華は桜井の一挙一動を見つめていた。
「同性と異性の思惑が交錯する中を生きるには、あなたは少し無防備過ぎる」
「む、無防備、ですか……」
「武器を身に着けなさい、藤井さん」
艶のある低い声で落とされた穏やかな命令は、まるで厳かな天啓のように聴こえた。
桜井は微笑を浮かべていた。
「資格や取得言語、それにコミュニケーション能力なんかも武器と言えるよね。あとは、人柄なども。そしてもうひとつ。外見だ。人の印象は第一印象で八割決定する。あなたのその美しさは、磨けば大きな武器になる。原石のまま放置しておくのは惜しいよ。武器にするべきだ」
やんわりと諭すような言葉は、揺るがない重みをもって麗華の腹に落ちる。
「美しさ……」
ふと麗華は、自分が初めて中等部の制服であるセーラー服を着た時のことを思い出していた。
紺色に白のラインの入ったセーラーカラー。
幼稚舎の時はもったりとしたブレザーだったから、セーラー服がとても可愛らしく見えた。
中学生になったらあれを着られるんだと、ワクワクしていたのを覚えている。
だが実際に着てみた時、鏡に映る自分の姿に愕然としてしまった。
男の子のようなショートカットに、真っ黒に日焼けした凛々しい顔。
少年が間違ってセーラー服を着てしまった、そんな姿だった。
――私は、女の子らしくない。可愛くないんだ。
自分の中に芽生えたその認識は、麗華の中心にぐさりと刺さった。
少女だった麗華は、まだ可愛らしさ、か弱さなどの女の子らしさへの憧れを持っていて、そのカテゴリから逸脱した自分に、大きなショックを受けたのだ。
とはいえ、元来あまり悲観的な性格ではなかったため、そのショックをポジティブな方向へ変換した。
『男の子っぽい』を転じて、『カッコイイ』へと。
――女の子らしくなくても、カッコ良ければ、別にいいじゃない。
そうして、立ち振る舞いまでもを少年っぽくするようになったのは、この頃からだった。
だが、社会人になればそうもいかない。男にもなり切れず、女であることを強みにもできない麗華は、確かに生きづらい性質だと言えるだろう。
その事実に薄々気付きながらも、これまで見て見ぬふりをしてきたことを、麗華は認識したのだ。
そしてそれを指摘してくれた桜井に、崇拝にも近い感情が湧いて出た。
だって、言いづらい内容だ。
下手をすれば麗華のユニセックスさを非難したと捉えられかねない。
あるいは、セクハラだと言われる可能性もあるのに、それを押して桜井は麗華に忠告してくれた。
――桜井課長は、私が変われると、信じてくれているんだ。
武器を身に着けろ、と桜井は言った。そして麗華の中にその武器はあるんだとも。
――だったら、やってみせる。
やってやろうじゃないか。
武器を磨いて、強かに、しなやかに生きるために。
麗華は顔を上げた。
桜井がいつもの穏やかな表情で、真っ直ぐに麗華を見つめている。
「やります、桜井課長。武器になるようなものが私の中にあるのなら、武器にしてみせます」
――あなたのようになりたい、桜井さん。
桜井のように、穏やかで、揺るがず、けれど柔軟に、しなやかな、大きな人間に。
これまでもそう思ってきたのだが、この日、それに明確な色が付いたのだ。
桜井のようになりたい。
桜井に近付きたい。
彼の隣に立てるようになりたい。
その願いは、紺碧の真夏の夜空に咲く三尺玉の花火のように、一発で麗華の心の中を染め変えてしまった。
決意を込めた麗華の眼差しに、桜井は何を見たのか。
クスリ、と息を吐き出すように笑って、桜井は無言のまま麗華の頭に手をやった。
ぽん、ぽん。
小さな子をあやすみたく、大きな掌が頭のてっぺんで弾む。
大きく、温かい手。
――インターン生の時も、この手を追いかけたんだった。
この人と働きたい、そう思って、この会社に入るために頑張った。
そして今は、この人の隣に立ちたいと願った。そしてまたこの手を追いかけるんだろう。
――私はずっと追いかけるのかもしれない。
そう思った時、自覚した。
――ああ、恋に落ちてしまった。
藤井麗華、この時二十三歳。
人よりも少しばかり遅咲きの、初恋だった。
3
あれから五年経った今も、麗華は桜井からの教えを守り続けている。麗華は、営業部にてビシバシと扱かれ、今や女性初の主任という地位にまで上り詰めた。
そんな三楽不動産営業部の女神こと、藤井麗華の朝は早い。
ワンルームマンションにある住人専用のフィットネスルームで、朝五時からの一時間、軽く汗を流すのが麗華の日課だ。
シャワーを浴びメイクを施し、新聞を片手に熱いコーヒーと、数種類の果物とグラノーラにヨーグルトをかけた朝食を摂ったら出勤する。
靴には、履く前に傷がないかを確認してから足を入れる。
身だしなみは足元から、と教えてくれたのは憧れのあの人だ。
以来忠実にその教えを守り続けている。
きっかり八センチの黒いパンプスは、自分の脚を美しく見せ、かつ動きに支障が出ない、お気に入りのブランドのものだ。
玄関を出る前に、姿見の前で自分を確認する。
肩までの艶やかな黒髪は、女性らしく緩やかに、けれど清潔感を第一に結い上げられている。
ナチュラルに見えるけれど、しっかりと施された化粧。毎日の食生活に気を付けているおかげで、吹き出物が出なくなった肌はきめ細かく滑らかだ。メイク乗りも良い。
程よくフィット感のある女性らしいフォルムのパンツスーツは、上品に見えるモーヴグレイで、最近のお気に入りだ。
「よし!」
鏡の中の自分にそう頷くと、麗華は玄関のドアを開いた。
***
麗華は自分のデスクに着くなり、背後の席の後輩に声をかけた。
「水戸くん、港区のタワマンのペントハウスの件どうなった?」
自分も余裕を持って出社する方だが、この後輩はいつもそれ以上に早い。
彼は、麗華が教育係を担当した去年の新卒だ。
要領はまだあまり良くはないが、営業には珍しく柔らかな物腰と丁寧な仕事ぶりから、先が楽しみな若者だった。
しかも唐突に大きな仕事を取ってくるタイプで、それ故『ラッキーボーイ』などと周囲から言われていたりする。だが水戸が誰よりも努力家であることは、教育担当だった麗華が一番よく分かっていた。
その証拠に、朝一から振った質問にも、打てば響くように回答が返って来る。
「はい! 昨日先方からこちらの話を聞きたいとリプライがありました。空いている予定を訊いてありますので、本日中に折り返します」
溌剌とした顔で麗華の指示を待つ後輩を見て、麗華は笑いを噛み殺す。彼の顔が、尻尾を振って「マテ!」をする仔犬のそれに見えてしまったからだ。
だがここで笑ってしまっては彼が可哀想だ。
麗華はにっこりと微笑むに留めて、満足気に頷いた。
「そう。じゃあ早々に決めてお電話しなくちゃ。陳様は今どこに?」
「今日はドバイということでした。近々では来週の月曜日から来日するそうなので、それに合わせてもいいと自分は考えていました」
如才ない返答に、麗華はにっこりと微笑んだ。
「そうね。では来週の月曜日に予定を合わせましょう。水戸くん、電話での陳様との会話は英語で?」
「あ、はい。陳様はすごく堪能なので」
「そう。でも今回は契約が決まるかどうかの重要な機会になると思うから、上海語を少し勉強していって」
「しゃ、上海語、ですか……」
「あなた、中国語は大体できるんでしょう? そしたら大丈夫よ。標準語と東北弁くらいの差しかないから。日常会話程度でいいの。相手の心証を良くするお守りみたいなものよ」
陳氏は、中規模な貿易業を営む典型的な新華僑だ。世界を股に掛けて商売をしている彼らは、自分達のルーツを大切にしている。
彼らの言語である上海語を使う機会があるとは限らないが、もしこれでコミュニケーションが取れたなら――役に立つかもしれない『お守り』をいくつか用意しておくのが、麗華の験担ぎだ。
だがそれを後輩に教えるつもりはない。彼は彼で、自分なりの験担ぎを作っていくべきだと思っている。
麗華の若干あやふやな説明に、それでも後輩は「分かりました」としっかり頷いた。その様子を見て麗華の顔に笑みが零れた。彼のこういった素直さに、ポテンシャルを感じている。
「じゃあ、月曜日にアポイントを取っておいてね。私も同行します。時間は先方に合わせて」
「了解です!」
パッと顔を輝かせて元気よく返事をした後輩の掌に、麗華はポンとチョコレートバーを置いた。ポカンとする彼に、麗華は軽く肩を上げてみせる。
「とりあえず、のご褒美。この契約が上手く行ったら、ちゃんとしたご褒美をあげるから、今はそれで我慢してね」
少々お高い焼肉屋にでも行きましょう、と続けようとした麗華は、後輩の顔が真っ赤に染まっていくのを見て目を瞬かせた。
「藤井主任の……ご褒美……!」
「……水戸くん……?」
どこか恍惚と呟く姿に首を傾げていると、いきなりポン、と肩を叩かれて仰天した。
麗華の肩を簡単に覆ってしまうほど大きな骨張った手。ふわりと鼻腔を擽るのは、僅かにムスクが混じるグリーンノート。
麗華が敬愛してやまない彼の香水の匂いだ。
「藤井くんに出させるまでもない。水戸くん、この契約が決まれば、私がご褒美をあげますよ。それこそ寿司でも焼肉でも、ね」
いつの間にか麗華達のすぐ傍に立っていたらしく、柔らかな笑みを浮かべた桜井がするりと会話に入ってきた。
「ひいっ」という情けない悲鳴は、水戸から聞こえたものだ。桜井の顔を見て、顔色が薄紅から蒼白へ急変している。
「さ、桜井部長!」
水戸の声に、麗華の背筋がピッと伸びた。
桜井、という名前を聞いただけで、心臓が猛スピードで拍動し始める。
「さ、さ、さくらい、部長……!」
麗華はと言えば、恋をしている憧れの人の唐突な介入に、狼狽のあまりどもってしまった。
全身の血が沸騰するように熱くなり、顔にまでその熱が伝わっていく。
――ああ、また、顔が真っ赤になっちゃってるわ……
頬が熱いのが分かる。
きっと他の者が見ても丸分かりだろう今のこの自分の赤面に、恥ずかしさが込み上げてきた。だからといって今更どうなるものでもない。
急に顔を赤らめた自分が、周囲に呆れられてやしないかとチラリと窺うも、同期や後輩達に特に驚いた様子はない。
気付かれていないことにホッと胸を撫で下ろしていると、水戸がなんだか妙に温かい笑顔でこちらを見ていた。なんだろう。
「おはよう、藤井さん、水戸くん。朝早くから熱心だね」
対する桜井の方は微笑んで挨拶をくれる。穏やかな美形紳士は今日も通常運行である。
「あ、ありがとうございます!」
水戸が直立不動で礼を返す。放っておいたら敬礼までしそうな雰囲気だ。
水戸は桜井が苦手だったろうか、などと内心で自問していると、桜井が「時に藤井さん」と話を振ってきた。
慌てて振り仰げば、思ったよりも近くに桜井の端整な顔があって息を呑んだ。
そう言えば、あまりに自然な所作で不思議にも感じなかったが、肩を叩かれた後もずっと、桜井の手は麗華のそこに置かれたままだ。
朝っぱらからの恋しい人との近過ぎる距離に、嬉しいのか苦しいのか分からない。
「は、はぃ……」
緊張のあまり、語尾が小さくなってしまった。
「実は来月からウチに異動になる者がいるんだが……」
「あ、は、はい! 山口さんの代わりですね!」
山口は中途でこの会社に入った三十八歳の女性だ。
超有名国立大学を卒業後、某化粧品会社の研究職に就いたものの、肌に合わず一年で退職。その後証券会社で営業をしていたところを、三楽にヘッドハンティングされたという異色の経歴を持つパワフルなバリキャリである。
その山口女史が、数か月前に電撃結婚をして、部内一同をびっくりさせたのだ。
しかも授かり婚で、相手は一回りも年下だというから驚きを通り越して賞賛するしかない。
幸せいっぱいの彼女は、大事を取って来月から早めの産休に入る。
だから人事がその代わりの人間を回してくれたのだろう。そう見当をつけて頷くと、桜井は少し困った表情になる。
「実は、経理部からの異動で、しかも入社二年目の若い女性なんだ」
「え……」
それは困りましたね、という声を麗華はすんでのところで呑み込んだ。
産休に入る山口は、麗華と肩を並べる実力の持ち主だ。
その代理が営業経験のない、しかも二年目の女子となると、その仕事量の差は考えるまでもない。
そのカバーをしなくてはならないのは、当然ながらこの部署の人間である。そう考えて、思い出したのは、同期だった伊田だ。
あの一件後も麗華への敵意は変わることなく、何かにつけて絡むような言動を取られ、ずいぶんと悩まされた。
それだけではなく、伊田は仕事に対して真摯ではないところがあった。
彼女がやり損ねたりヘマをしたりする度、部署の人間がカバーしなくてはならず、部署内が殺伐とした雰囲気になったのだ。
それまで伊田に対し甘い顔をしていた男衆も、徐々に冷たくなっていったのは言うまでもない。
四面楚歌となりかけた後、彼女はすぐに逃げるようにして他部署の男性と結婚し、寿退社をしていったのだ。
新しい女性社員はそんな人ではないだろうが、仕事に慣れないままだと周囲がきつくなる。またあの時のようなことになるかもしれないと思うと、正直憂鬱になる。
麗華の言いたいことは伝わってしまったらしい。
桜井も形の良い眉を下げて苦笑の面持ちだ。
「君が何を想像したか分かるよ」
「は……す、すみません」
「いや、私も危惧しているところではあるんだ。ウチは男所帯だし、きっと女性にとってはいろんな意味でやりづらいことが多々あると思う。OJT指導者は佐野くんに頼もうと考えているんだが」
「佐野くんですか」
なるほど、と麗華は頷いた。
佐野は麗華の一年後輩で、この営業部の中では物腰の柔らかい部類だ。実務を通じて教育するOJT指導者にうってつけだろう。
「良いと思います。仕事は細やかですし、優しいから指導も威圧感なくできるんじゃないかと。……ただ……」
そこで言葉を濁した麗華に、桜井がクスリとまた苦笑を漏らす。
「ちょっとチャラい?」
「……えっと」
紳士桜井のものとは思えないスラングに、麗華は思わず彼を凝視してしまった。
びっくりまなこの麗華に、桜井は愉快そうに笑いながらクツクツと喉を鳴らした。
「佐野くんは女の子が大好きだから……違う?」
「いえ……違いません」
麗華が言いたかったのはまさにその点だ。
佐野は優しそうな外見と物腰を利用して、しっかり仕事を勝ち取って来る肉食獣だった。
彼の顧客には、細やかでマメなアプローチに陥落した資産家のマダムが多い。
女好きでも有名で、可愛いと思われる女性には片っ端から声をかけるイタリア男のような一面があるのだ。
つまり、端的に言えば、チャラい。
今度入って来るという女性社員が彼の餌食にならなければいいのだが……という憂慮が、麗華にはあった。
「私もそう思ったんだけどね、実際にその新人さんに会ってみて気が変わった」
「部長、お会いされたんですか?」
少々意外な気がして目を丸くすれば、桜井は小さく肩を竦めた。
「いや、偶然なんだけどね。まだ異動が決まる前に、一度会ったことがあるんだ。少々危なっかしい感じはあるけど、なんとなく、ウチに新しい風を入れてくれる気がしてね」
「新しい風、ですか……」
桜井の言葉を鸚鵡返しにする麗華の胸に、もやっとしたものが生じた。
異動になってくる女性を思い出しているのか、桜井の表情が楽しげに見えたからだろうか。
麗華にはこれが嫉妬だと分かっている。
桜井に恋をしてから、これまでに何度もそういう想いをしてきたからだ。
桜井はモテる。この容姿に、このハイスペック。加えて性格も紳士で未婚とくれば、モテないはずがなく、取引先や顧客など、桜井にアプローチをかける女性は後を絶たない。
紳士である桜井はそういった女性達にも、とても丁寧に接する。
それが桜井という人間だと分かっているのに、それでも麗華の中の恋心が、それを嫌だと醜く喚くのだ。
――こんな醜い感情、知られたくない。
桜井は麗華を頼りにしてくれている。まだまだ男性優位のこの会社で、女性である麗華を主任という地位に推してくれたのは、他でもない桜井だと聞いている。
『君と仕事ができたら面白そうだな』
そう言ってくれた桜井の期待に応えられるよう精一杯やってきた。そんな自分の努力が、この醜い感情ひとつであっという間に穢される気がしてしまう。
だから麗華はお腹に力を入れて、殊更にっこりと微笑んでみせる。
「部長がそう仰るなら、私もその新人さんにお会いするのがとても楽しみです」
パーフェクト、と麗華は心の中で自讃した。完璧な笑みに、完璧な受け答え。これまで培ってきた『藤井麗華』ならば、こう微笑んでそう言うに決まっている。
だが桜井は、麗華の完璧な微笑を前に、少しだけ眉を下げた。
「うん」
その相槌は何を意味しているのか。桜井にしては曖昧な受け答えで、麗華は内心戸惑った。
桜井の表情が、どうしてか淋しげに見えたのだ。
憧れの人だから仕方ないのかもしれないが、恥ずかしさは拭えず、それでまた顔が赤くなるという悪循環ぶりだ。
「ああ、藤井さんも自販機? 私もなんだ。喉が渇いてね」
麗華の押していた階数ボタンを見て桜井が気さくに話しかけてくる。
赤面していることに触れてはこない。そのことに安堵を覚え、麗華は落ち着きを取り戻した。
「あの、先程はありがとうございました」
桜井が助けてくれなければ、あの場で麗華は吊るし上げ同然に責められていたかもしれない。
改めて思い返しブルリと身を震わせれば、桜井が溜息を吐いた。
「いや。女性が少ない職場っていうのも困ったもんだなと、さっきのを見ていて思ったよ」
「え?」
「少ない異性に気に入られようとするのは、まあ自然の摂理なのかもしれないけどね」
「ああ……」
肩を竦めて話す桜井に、麗華は苦笑を漏らした。
つまり、先程麗華を取り囲んだ男性社員達は、伊田に気に入られたいがために麗華を吊るし上げようとしたということだろう。
「伊田さんは私から見てもとても可愛らしい方ですし、仕方ないですよ」
自分を卑下する言葉にならないよう注意する麗華に、桜井は形の良い眉を顰めた。
「あなただって可愛らしいよ、藤井さん」
一瞬何を言われているのか理解できず、麗華は苦笑のまま数秒固まってしまった。
「…………ぅえぇっ!?」
動揺のあまり妙な声が出た。やっと治まったはずの頬の紅潮が、また一気にぶり返したのを感じる。
焦って涙目にすらなっている麗華を、桜井は不思議そうに眺める。
「あなたはどうも自己評価が低いよね。そんなにきれいなのに、なぜなんだろう」
「きっ!?」
――何を言っちゃってるんでしょう、桜井課長!
パニクる麗華とは裏腹に、桜井はさり気なく麗華の顎を摘まむと、くい、と上向かせた。
麗華は目の前に桜井の整った顔が迫って来てギョッとする。
「さ、さささ……」
さくらいかちょう、という次に続く音は、桜井の「ふむ」という頷きに行き場を失った。
「やっぱりきれいだ。美しいパーツがあるべき場所に収まっている。それなのにどうして自分の美しさの出し惜しみをしているの?」
その平坦な声色に、桜井が自分の顔を観察しているだけなのだと気付く。自分の狼狽が滑稽に思えて、麗華は慌てて姿勢を正した。
「あの、美しいかどうかはなんとも言えませんが、出し惜しみ、という言葉にはなんとなく心当たりがあるというか……」
「ふむ?」
麗華の曖昧な返答に、桜井は興味深そうに先を促した。
「えっと……私は幼稚舎からずっと女子校育ちだったんです。課長がご存知かは分かりませんが、女子校の中だと、背が高かったり、ボーイッシュだったりする女子は……なんというか、周囲からまるで男子のように扱われるんです」
「ああ……なるほど。あなたはずっと『男役』だったということか」
女子校のそういう事情が男性に上手く伝わるか心配だったが、桜井はアッサリと理解したようだった。かの有名な女性だけの歌劇団をイメージしたのかもしれない。
「そうです。なので、女性らしく振る舞おうにも、その仕方が分からないというか……」
あはは、と後ろ頭に手をやって笑って見せれば、桜井が未だに親指で麗華の顎を撫でながら思案顔になる。
「ふぅん……でもそうだとしたら、さっきの伊田さんのような女性からの敵意に、戸惑ったんじゃない?」
「えっ……そ、それは……」
桜井が、伊田の麗華への敵意を見抜いていたことに驚きながらも、何と答えていいものか迷う。言いあぐねていると、桜井がクスリと笑った。
「これまで男役だったのなら、女性から向けられる敵意の的にはならなかったはずだ。驚いたでしょう?」
麗華の状況を正確に把握しているだけでなく、心情を丸ごと読み取ったかのような発言に、唖然としてしまった。
「あなたは女子校という特殊な環境下で男役になったことで、女性からは賞賛を受けてきたんだろうね。だが男性がいる『社会』に入った以上、あなたは『女性』に戻ることになる。これからは女性として同性の、あるいは異性の敵意と賞賛の対象となるわけだ」
そこで一旦言葉を切ると、桜井はようやく麗華の顎から手を離した。
大きな手の少し骨張った感触が離れていくことに、なんだか淋しさを感じてしまう。そんな自分にビックリしながら、麗華は桜井の一挙一動を見つめていた。
「同性と異性の思惑が交錯する中を生きるには、あなたは少し無防備過ぎる」
「む、無防備、ですか……」
「武器を身に着けなさい、藤井さん」
艶のある低い声で落とされた穏やかな命令は、まるで厳かな天啓のように聴こえた。
桜井は微笑を浮かべていた。
「資格や取得言語、それにコミュニケーション能力なんかも武器と言えるよね。あとは、人柄なども。そしてもうひとつ。外見だ。人の印象は第一印象で八割決定する。あなたのその美しさは、磨けば大きな武器になる。原石のまま放置しておくのは惜しいよ。武器にするべきだ」
やんわりと諭すような言葉は、揺るがない重みをもって麗華の腹に落ちる。
「美しさ……」
ふと麗華は、自分が初めて中等部の制服であるセーラー服を着た時のことを思い出していた。
紺色に白のラインの入ったセーラーカラー。
幼稚舎の時はもったりとしたブレザーだったから、セーラー服がとても可愛らしく見えた。
中学生になったらあれを着られるんだと、ワクワクしていたのを覚えている。
だが実際に着てみた時、鏡に映る自分の姿に愕然としてしまった。
男の子のようなショートカットに、真っ黒に日焼けした凛々しい顔。
少年が間違ってセーラー服を着てしまった、そんな姿だった。
――私は、女の子らしくない。可愛くないんだ。
自分の中に芽生えたその認識は、麗華の中心にぐさりと刺さった。
少女だった麗華は、まだ可愛らしさ、か弱さなどの女の子らしさへの憧れを持っていて、そのカテゴリから逸脱した自分に、大きなショックを受けたのだ。
とはいえ、元来あまり悲観的な性格ではなかったため、そのショックをポジティブな方向へ変換した。
『男の子っぽい』を転じて、『カッコイイ』へと。
――女の子らしくなくても、カッコ良ければ、別にいいじゃない。
そうして、立ち振る舞いまでもを少年っぽくするようになったのは、この頃からだった。
だが、社会人になればそうもいかない。男にもなり切れず、女であることを強みにもできない麗華は、確かに生きづらい性質だと言えるだろう。
その事実に薄々気付きながらも、これまで見て見ぬふりをしてきたことを、麗華は認識したのだ。
そしてそれを指摘してくれた桜井に、崇拝にも近い感情が湧いて出た。
だって、言いづらい内容だ。
下手をすれば麗華のユニセックスさを非難したと捉えられかねない。
あるいは、セクハラだと言われる可能性もあるのに、それを押して桜井は麗華に忠告してくれた。
――桜井課長は、私が変われると、信じてくれているんだ。
武器を身に着けろ、と桜井は言った。そして麗華の中にその武器はあるんだとも。
――だったら、やってみせる。
やってやろうじゃないか。
武器を磨いて、強かに、しなやかに生きるために。
麗華は顔を上げた。
桜井がいつもの穏やかな表情で、真っ直ぐに麗華を見つめている。
「やります、桜井課長。武器になるようなものが私の中にあるのなら、武器にしてみせます」
――あなたのようになりたい、桜井さん。
桜井のように、穏やかで、揺るがず、けれど柔軟に、しなやかな、大きな人間に。
これまでもそう思ってきたのだが、この日、それに明確な色が付いたのだ。
桜井のようになりたい。
桜井に近付きたい。
彼の隣に立てるようになりたい。
その願いは、紺碧の真夏の夜空に咲く三尺玉の花火のように、一発で麗華の心の中を染め変えてしまった。
決意を込めた麗華の眼差しに、桜井は何を見たのか。
クスリ、と息を吐き出すように笑って、桜井は無言のまま麗華の頭に手をやった。
ぽん、ぽん。
小さな子をあやすみたく、大きな掌が頭のてっぺんで弾む。
大きく、温かい手。
――インターン生の時も、この手を追いかけたんだった。
この人と働きたい、そう思って、この会社に入るために頑張った。
そして今は、この人の隣に立ちたいと願った。そしてまたこの手を追いかけるんだろう。
――私はずっと追いかけるのかもしれない。
そう思った時、自覚した。
――ああ、恋に落ちてしまった。
藤井麗華、この時二十三歳。
人よりも少しばかり遅咲きの、初恋だった。
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あれから五年経った今も、麗華は桜井からの教えを守り続けている。麗華は、営業部にてビシバシと扱かれ、今や女性初の主任という地位にまで上り詰めた。
そんな三楽不動産営業部の女神こと、藤井麗華の朝は早い。
ワンルームマンションにある住人専用のフィットネスルームで、朝五時からの一時間、軽く汗を流すのが麗華の日課だ。
シャワーを浴びメイクを施し、新聞を片手に熱いコーヒーと、数種類の果物とグラノーラにヨーグルトをかけた朝食を摂ったら出勤する。
靴には、履く前に傷がないかを確認してから足を入れる。
身だしなみは足元から、と教えてくれたのは憧れのあの人だ。
以来忠実にその教えを守り続けている。
きっかり八センチの黒いパンプスは、自分の脚を美しく見せ、かつ動きに支障が出ない、お気に入りのブランドのものだ。
玄関を出る前に、姿見の前で自分を確認する。
肩までの艶やかな黒髪は、女性らしく緩やかに、けれど清潔感を第一に結い上げられている。
ナチュラルに見えるけれど、しっかりと施された化粧。毎日の食生活に気を付けているおかげで、吹き出物が出なくなった肌はきめ細かく滑らかだ。メイク乗りも良い。
程よくフィット感のある女性らしいフォルムのパンツスーツは、上品に見えるモーヴグレイで、最近のお気に入りだ。
「よし!」
鏡の中の自分にそう頷くと、麗華は玄関のドアを開いた。
***
麗華は自分のデスクに着くなり、背後の席の後輩に声をかけた。
「水戸くん、港区のタワマンのペントハウスの件どうなった?」
自分も余裕を持って出社する方だが、この後輩はいつもそれ以上に早い。
彼は、麗華が教育係を担当した去年の新卒だ。
要領はまだあまり良くはないが、営業には珍しく柔らかな物腰と丁寧な仕事ぶりから、先が楽しみな若者だった。
しかも唐突に大きな仕事を取ってくるタイプで、それ故『ラッキーボーイ』などと周囲から言われていたりする。だが水戸が誰よりも努力家であることは、教育担当だった麗華が一番よく分かっていた。
その証拠に、朝一から振った質問にも、打てば響くように回答が返って来る。
「はい! 昨日先方からこちらの話を聞きたいとリプライがありました。空いている予定を訊いてありますので、本日中に折り返します」
溌剌とした顔で麗華の指示を待つ後輩を見て、麗華は笑いを噛み殺す。彼の顔が、尻尾を振って「マテ!」をする仔犬のそれに見えてしまったからだ。
だがここで笑ってしまっては彼が可哀想だ。
麗華はにっこりと微笑むに留めて、満足気に頷いた。
「そう。じゃあ早々に決めてお電話しなくちゃ。陳様は今どこに?」
「今日はドバイということでした。近々では来週の月曜日から来日するそうなので、それに合わせてもいいと自分は考えていました」
如才ない返答に、麗華はにっこりと微笑んだ。
「そうね。では来週の月曜日に予定を合わせましょう。水戸くん、電話での陳様との会話は英語で?」
「あ、はい。陳様はすごく堪能なので」
「そう。でも今回は契約が決まるかどうかの重要な機会になると思うから、上海語を少し勉強していって」
「しゃ、上海語、ですか……」
「あなた、中国語は大体できるんでしょう? そしたら大丈夫よ。標準語と東北弁くらいの差しかないから。日常会話程度でいいの。相手の心証を良くするお守りみたいなものよ」
陳氏は、中規模な貿易業を営む典型的な新華僑だ。世界を股に掛けて商売をしている彼らは、自分達のルーツを大切にしている。
彼らの言語である上海語を使う機会があるとは限らないが、もしこれでコミュニケーションが取れたなら――役に立つかもしれない『お守り』をいくつか用意しておくのが、麗華の験担ぎだ。
だがそれを後輩に教えるつもりはない。彼は彼で、自分なりの験担ぎを作っていくべきだと思っている。
麗華の若干あやふやな説明に、それでも後輩は「分かりました」としっかり頷いた。その様子を見て麗華の顔に笑みが零れた。彼のこういった素直さに、ポテンシャルを感じている。
「じゃあ、月曜日にアポイントを取っておいてね。私も同行します。時間は先方に合わせて」
「了解です!」
パッと顔を輝かせて元気よく返事をした後輩の掌に、麗華はポンとチョコレートバーを置いた。ポカンとする彼に、麗華は軽く肩を上げてみせる。
「とりあえず、のご褒美。この契約が上手く行ったら、ちゃんとしたご褒美をあげるから、今はそれで我慢してね」
少々お高い焼肉屋にでも行きましょう、と続けようとした麗華は、後輩の顔が真っ赤に染まっていくのを見て目を瞬かせた。
「藤井主任の……ご褒美……!」
「……水戸くん……?」
どこか恍惚と呟く姿に首を傾げていると、いきなりポン、と肩を叩かれて仰天した。
麗華の肩を簡単に覆ってしまうほど大きな骨張った手。ふわりと鼻腔を擽るのは、僅かにムスクが混じるグリーンノート。
麗華が敬愛してやまない彼の香水の匂いだ。
「藤井くんに出させるまでもない。水戸くん、この契約が決まれば、私がご褒美をあげますよ。それこそ寿司でも焼肉でも、ね」
いつの間にか麗華達のすぐ傍に立っていたらしく、柔らかな笑みを浮かべた桜井がするりと会話に入ってきた。
「ひいっ」という情けない悲鳴は、水戸から聞こえたものだ。桜井の顔を見て、顔色が薄紅から蒼白へ急変している。
「さ、桜井部長!」
水戸の声に、麗華の背筋がピッと伸びた。
桜井、という名前を聞いただけで、心臓が猛スピードで拍動し始める。
「さ、さ、さくらい、部長……!」
麗華はと言えば、恋をしている憧れの人の唐突な介入に、狼狽のあまりどもってしまった。
全身の血が沸騰するように熱くなり、顔にまでその熱が伝わっていく。
――ああ、また、顔が真っ赤になっちゃってるわ……
頬が熱いのが分かる。
きっと他の者が見ても丸分かりだろう今のこの自分の赤面に、恥ずかしさが込み上げてきた。だからといって今更どうなるものでもない。
急に顔を赤らめた自分が、周囲に呆れられてやしないかとチラリと窺うも、同期や後輩達に特に驚いた様子はない。
気付かれていないことにホッと胸を撫で下ろしていると、水戸がなんだか妙に温かい笑顔でこちらを見ていた。なんだろう。
「おはよう、藤井さん、水戸くん。朝早くから熱心だね」
対する桜井の方は微笑んで挨拶をくれる。穏やかな美形紳士は今日も通常運行である。
「あ、ありがとうございます!」
水戸が直立不動で礼を返す。放っておいたら敬礼までしそうな雰囲気だ。
水戸は桜井が苦手だったろうか、などと内心で自問していると、桜井が「時に藤井さん」と話を振ってきた。
慌てて振り仰げば、思ったよりも近くに桜井の端整な顔があって息を呑んだ。
そう言えば、あまりに自然な所作で不思議にも感じなかったが、肩を叩かれた後もずっと、桜井の手は麗華のそこに置かれたままだ。
朝っぱらからの恋しい人との近過ぎる距離に、嬉しいのか苦しいのか分からない。
「は、はぃ……」
緊張のあまり、語尾が小さくなってしまった。
「実は来月からウチに異動になる者がいるんだが……」
「あ、は、はい! 山口さんの代わりですね!」
山口は中途でこの会社に入った三十八歳の女性だ。
超有名国立大学を卒業後、某化粧品会社の研究職に就いたものの、肌に合わず一年で退職。その後証券会社で営業をしていたところを、三楽にヘッドハンティングされたという異色の経歴を持つパワフルなバリキャリである。
その山口女史が、数か月前に電撃結婚をして、部内一同をびっくりさせたのだ。
しかも授かり婚で、相手は一回りも年下だというから驚きを通り越して賞賛するしかない。
幸せいっぱいの彼女は、大事を取って来月から早めの産休に入る。
だから人事がその代わりの人間を回してくれたのだろう。そう見当をつけて頷くと、桜井は少し困った表情になる。
「実は、経理部からの異動で、しかも入社二年目の若い女性なんだ」
「え……」
それは困りましたね、という声を麗華はすんでのところで呑み込んだ。
産休に入る山口は、麗華と肩を並べる実力の持ち主だ。
その代理が営業経験のない、しかも二年目の女子となると、その仕事量の差は考えるまでもない。
そのカバーをしなくてはならないのは、当然ながらこの部署の人間である。そう考えて、思い出したのは、同期だった伊田だ。
あの一件後も麗華への敵意は変わることなく、何かにつけて絡むような言動を取られ、ずいぶんと悩まされた。
それだけではなく、伊田は仕事に対して真摯ではないところがあった。
彼女がやり損ねたりヘマをしたりする度、部署の人間がカバーしなくてはならず、部署内が殺伐とした雰囲気になったのだ。
それまで伊田に対し甘い顔をしていた男衆も、徐々に冷たくなっていったのは言うまでもない。
四面楚歌となりかけた後、彼女はすぐに逃げるようにして他部署の男性と結婚し、寿退社をしていったのだ。
新しい女性社員はそんな人ではないだろうが、仕事に慣れないままだと周囲がきつくなる。またあの時のようなことになるかもしれないと思うと、正直憂鬱になる。
麗華の言いたいことは伝わってしまったらしい。
桜井も形の良い眉を下げて苦笑の面持ちだ。
「君が何を想像したか分かるよ」
「は……す、すみません」
「いや、私も危惧しているところではあるんだ。ウチは男所帯だし、きっと女性にとってはいろんな意味でやりづらいことが多々あると思う。OJT指導者は佐野くんに頼もうと考えているんだが」
「佐野くんですか」
なるほど、と麗華は頷いた。
佐野は麗華の一年後輩で、この営業部の中では物腰の柔らかい部類だ。実務を通じて教育するOJT指導者にうってつけだろう。
「良いと思います。仕事は細やかですし、優しいから指導も威圧感なくできるんじゃないかと。……ただ……」
そこで言葉を濁した麗華に、桜井がクスリとまた苦笑を漏らす。
「ちょっとチャラい?」
「……えっと」
紳士桜井のものとは思えないスラングに、麗華は思わず彼を凝視してしまった。
びっくりまなこの麗華に、桜井は愉快そうに笑いながらクツクツと喉を鳴らした。
「佐野くんは女の子が大好きだから……違う?」
「いえ……違いません」
麗華が言いたかったのはまさにその点だ。
佐野は優しそうな外見と物腰を利用して、しっかり仕事を勝ち取って来る肉食獣だった。
彼の顧客には、細やかでマメなアプローチに陥落した資産家のマダムが多い。
女好きでも有名で、可愛いと思われる女性には片っ端から声をかけるイタリア男のような一面があるのだ。
つまり、端的に言えば、チャラい。
今度入って来るという女性社員が彼の餌食にならなければいいのだが……という憂慮が、麗華にはあった。
「私もそう思ったんだけどね、実際にその新人さんに会ってみて気が変わった」
「部長、お会いされたんですか?」
少々意外な気がして目を丸くすれば、桜井は小さく肩を竦めた。
「いや、偶然なんだけどね。まだ異動が決まる前に、一度会ったことがあるんだ。少々危なっかしい感じはあるけど、なんとなく、ウチに新しい風を入れてくれる気がしてね」
「新しい風、ですか……」
桜井の言葉を鸚鵡返しにする麗華の胸に、もやっとしたものが生じた。
異動になってくる女性を思い出しているのか、桜井の表情が楽しげに見えたからだろうか。
麗華にはこれが嫉妬だと分かっている。
桜井に恋をしてから、これまでに何度もそういう想いをしてきたからだ。
桜井はモテる。この容姿に、このハイスペック。加えて性格も紳士で未婚とくれば、モテないはずがなく、取引先や顧客など、桜井にアプローチをかける女性は後を絶たない。
紳士である桜井はそういった女性達にも、とても丁寧に接する。
それが桜井という人間だと分かっているのに、それでも麗華の中の恋心が、それを嫌だと醜く喚くのだ。
――こんな醜い感情、知られたくない。
桜井は麗華を頼りにしてくれている。まだまだ男性優位のこの会社で、女性である麗華を主任という地位に推してくれたのは、他でもない桜井だと聞いている。
『君と仕事ができたら面白そうだな』
そう言ってくれた桜井の期待に応えられるよう精一杯やってきた。そんな自分の努力が、この醜い感情ひとつであっという間に穢される気がしてしまう。
だから麗華はお腹に力を入れて、殊更にっこりと微笑んでみせる。
「部長がそう仰るなら、私もその新人さんにお会いするのがとても楽しみです」
パーフェクト、と麗華は心の中で自讃した。完璧な笑みに、完璧な受け答え。これまで培ってきた『藤井麗華』ならば、こう微笑んでそう言うに決まっている。
だが桜井は、麗華の完璧な微笑を前に、少しだけ眉を下げた。
「うん」
その相槌は何を意味しているのか。桜井にしては曖昧な受け答えで、麗華は内心戸惑った。
桜井の表情が、どうしてか淋しげに見えたのだ。
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