蟻地獄

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10.耽溺

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「正一さん、食事をお持ちしました」

 久野木がカートを押して、部屋に入ってきた。お盆に並べられた白い皿から、ほかほかと湯気が立つ。

 正一は天蓋のベッドで、虚空を見つめていた。忍び寄るように、ベッドに近づいた教え子が、正一の背中に腕を回す。
 熱い手で素肌を撫でられ、びくりと肩が震えた。

「っ……自分で、起きれる、から……」

 いやいやと体を捻ると、肩にぐっと指が食い込んでくる。久野木は微笑んだまま、正一の抵抗を抑え付けた。

 輝く宗教画のような笑みが、正一の罪悪感を照らす。力なく項垂れた。

「さ、まだ本調子ではありませんからね。料理長に頼んで、お粥を作って頂きました」
「……ありがとう」

 お盆に添えられたスプーンに手を伸ばした――久野木にひったくられた。にこにこと笑う教え子は、ベッド近くに椅子を運んだ。

「正一さん、はい」

 粥を一口、久野木が掬う。スプーンを口元に運ばれ、仕方なく正一は口を開いた。温かい出汁が効いた、白米のお粥。
 贅沢な食べ物を一口、また一口と、スプーンを運ばれる。正一が咀嚼するのを、久野木がじっと見つめていた。

 息を潜めるように注視され、落ち着かなかった。見張られているようで――実際、正一は久野木の部屋から、外に出られなくなった。

 屋敷を出た途端、里中に拉致され、長屋で男達に犯された。長時間、嬲られているところを保護されたのだった。

 久野木は屋敷に戻ると、寝泊りしていた離れではなく、私室に正一を運んだ。背広を一枚、着せられた正一は裸同然で、媚薬を塗られた体は疼いたままだった。耐え切れず、年下の男に縋り付いた。

『せ、せんっ、いれて、いれてぇ』

 熱い。最も敏感な場所が熱を持ち、男を求めていた。

『先生、苦しいでしょう』

 ベッドに正一を降ろすと、久野木が覆い被さってきた。ネクタイを解きながら「どうぞ」と、胸元を開ける。

『好きにしてください』

 蜂蜜色の肌に、正一の息が上がった。逞しい咽喉仏に触れると、ごろりと教え子は横になった。

『先生、私を好きにして』

 正一は教え子に飛び付いた。圧し掛かると、釦を引き千切り、服を剥いだ。獣のようにまたがり、腰を振る。思うがまま、教え子の体を使うと、正一の熱が引いていった。

 同時に体は限界だったのか、眠気が襲ってきた。だらりと、自分の上で力を失くした愛人を、久野木は抱きしめた。

 出て行ったことを責めず、ただ外は恐ろしいところですよと、言い聞かせるように、囁かれた。

 ……あの日から、正一は服を着せてもらえなくなった。

 裸で久野木のベッドに潜り込む。部屋の主は優しいのに、頑なに服は着せてくれなかった。 

 服が欲しい、気晴らしに散歩がしたいと言っても駄目だと言われる。優しく、子どもに言い聞かせる口調で、服を着せたら外に出るでしょう、などと言う。

 シーツを体に巻き付ける正一に、ますます久野木は優しくなった。教え子の態度が不思議だったが、妻だからと、耳を疑うような発言をされた。

『約束は約束でしょう』

 本気だったのかと、正一は絶句した。ならば一糸まとわぬ姿は、久野木の「妻」になったからか……扱いに変化が生じたのは、これだけではなかった。

 先生、先生と慕っていた教え子は時おり、「正一さん」と名前を口にするようになった。

『正一さんは私の妻だから』

 久野木は、妻とはベッドで夫の帰りを待つものだと言う。ただひたすら、夫のことだけを考え、褥で帰りを待ちわびるのだと――拷問だ。正一は、久野木に全てを取り上げられた。

 ぼんやりと一日を、久野木の部屋で過ごす。これはひょっとして、屋敷を勝手に出た正一への――久野木の復讐ではと、勘繰るまでになっていた。

「美味しかったですか?」
「うん……」

 皿が空になると、久野木はナプキンで、正一の口元を拭った。唇をしつこく拭かれて、頭を撫でられる。

「ねぇ、先生」

 ベッドに乗り上げた久野木が、自分の膝を叩いた。犬猫を呼び寄せる仕草に――逆らえない正一は、頭を乗せる。

「今日ね、取引先の会社は、イギリスにありましてね――」

 正一の耳朶やら髪を弄りながら、今日の出来事を話す。これも「めおと」の日課だと、久野木は言う。膝に頭を預けて、正一は相槌を打った。

 食事が終わったら、雑談などして、風呂に入る。服を着せて、耳かきから爪切りまで、久野木は世話を焼く。
 正直、子供扱いされているようで、居心地は悪い。だが嫌がれば、力で抑え付けるか、目を潤ませてくるのだ。

「可愛い奥さん……寝ちゃった?」

 鼻歌交じりの、上機嫌な声がした。すぐに口づけが降ってくる。

「……先生、もう大丈夫ですからね、ここは安全です」

 どうやら、久野木の過剰なまでの世話は、同情心からきているらしかった。これが、正一の抵抗を弱めた。抑圧であれば、反発できたが、すぐ泣きそうな顔をするのだから困った。

「先生は……私が守ります」

 頭を抱えられ、口づけが深くなる。真摯な誓いもそっちのけで、正一は桑山達の所在が気にかかっていた。
 唇が離れた時、伺いながら口を開いた。

「……なぁ、亘」
「なぁに?」
「その……桑山や、ほら、警察に連行された若者はどうなったんだい」

 慎重に聞いたつもりだったが、部屋の空気が凍り付いた。美しい顔が、途端に険しくなった。

「どうしてそんなことを?」
「……それは、あー」
「あんな輩をっ、あの、っあいつらが、貴方に何をしたかっ!」

 長屋に踏み込んだ時、正一は教え子達に好き放題されていた。体内で狂う快楽に支配され、我を忘れた。

 よがり狂った記憶に羞恥はあれど、傷はなかった。それが久野木は、輪姦されていたことに、憐憫を感じているらしい。

 確かに世間では、強姦されたら傷物だとか、口さがない者は多い。表面上、同情しながら汚物のように扱う。

 正一は桑山に犯されてから、タガが外れていた。男に犯されるたびに股は濡れ、涎を垂らすようになっていた。

 おかしい

 自分はもう、以前の若槙正一ではない。教員として壇上に立っていた頃には、戻れないのだと、教え子の視線から――怒りから、実感した。

「私の先生に、あいつらは」
「――僕はもう以前の……君の先生じゃないんだよ」

 事実を述べただけだったが、久野木の同情を誘ったらしい。慰めるように、唇を重ねられた。

 くちゅくちゅと水音が響く。唇が離れると、透明の糸が引いていた。ぺろりと、男の舌が舐めとった。

 ころりと頭を枕に運ばれる。覆い被さった男に、きつく抱きしめられた。

「先生は……もう私の妻です。だから先生じゃなくてもいいんです」

 しばらくすると、ぐずぐずと泣き声が聞こえてきた。久野木の哀れみは、見当違いではあったが――それでも自分のため、泣いてくれるのだ。心を締め付けられた。

 持て余すほどの淫乱な体が、申し訳なくなる。正一は抱きしめる背中に、腕を回した。

「先生は私の奥さん」

 妻、奥さん、可愛い人……口癖になった教え子は、近々、妻のお披露目パーティを開くと言う。

「……お父上はどうするんだい」
「先生はそんなこと気にしなくていいんです」
「じゃあ、パーティに出る服を着ないとね」

 服を着せてくれと、遠回しな要求をしたが、教え子は首を振るばかりだった。

「お願いだよ。服が欲しい。それに……庭に出るくらいいいだろう?」
「駄目です。服を着せたら外に出るでしょう」

 同じようなやり取りを繰り返し、正一はため息をついた。教え子は耳穴に舌を入れたり、耳朶を噛んだりしていたが、やっと頭を離した。

「また外に出たら……あんな風になるかも」

 屋敷を出た途端、里中に捕まり、長屋で嬲られた記憶が甦る。久野木が匂わせる物騒な気配に、ぞくりと肌が粟立った。

「先生、私が先生を守ります」 

 体がずぶずぶと沈み込んでいく感覚がした。男達に輪姦された可哀想な「先生」を慰めようと、教え子は世話を焼く。

 可笑しいよ

 久野木に助け出されて、安堵する気持ちは――正一には、ちっともなかった。あのまま長屋にいたら、男達に犯(や)り殺されていただろう。本音は犯され続けて、快楽に殺されたかった。

「もうあんな怖い目には合わせませんからね」

 過剰な世話は滑稽だと笑っても、真摯な声には逆らえなくなった。自分を抱きしめる男の背中に腕を回せば――生きていて良かったと、正一は心の底から思った。

「先生……」

 切なそうにまつ毛を震わせた、美しい顔が近くにあった。柔らかい唇を合わせて、啄ばむような口づけをする。

 競売で、正一を助け出した男は一度ならず、二度も「先生」を助け出してくれた。

「もう子どものような、幼稚な気持ちを先生にぶつけたくない……先生のことをお慕いしております」

 とろりと溶けた目で見つめられる。正一は相手が何を欲しているのか――これも日課だった。
「僕もだよ」と返事をした。

「僕も君を……うん」
「私達はこうやって一緒になる運命だったのですよね」
「……そうなの、かも」
「そうですよ……私達は遠回りしてしまいました」

 再び、口づけをされる。正一には拒む理由もないので、大人しく口を開けた。湿った舌が、入り込んできた。

「ふぅ、ん……」

 舌先を絡めると、脚も同じように絡み合う。舌先が動き回り、正一の弱点を突いた。

「んぅっせん……」
「正一さん……愛してる」

 あとはぼんやりと、ベッドに横たわっていれば良かった。正一好みになった男は「愛している」と言いながら、体を舐めしゃぶる。
 甘い言葉を囁く男に、体を放り投げるようにして、身を委ねた。

「愛してるっ……私だけのせんせぃっ」

 久野木が繰り返す言葉に、正一は教え子達を思い出した。せんせぇ、大好き。先生、お慕いしておりました。先生が一番好き……皆、正一に圧し掛かり、孔に突っ込んできた。

 久野木も変わらないな

 誘ったのは正一だったが、今や旺盛な精力を見せるのは、教え子の方だった。

「しょう、いちさんっ……しょういちっ」
「んぅっ」

 唇に噛み付かれ、ベッドで悶える。シーツが乱れるだけ、体が絡み付いていく。快楽の波が押し寄せる……頭に何かが、引っかかっていた。

 長屋で里中が叫んだ、約束が違う……約束したんだぁ……これで先生と、これからもやれる……

 貪るように体を重ねて、眠りに付いた。朝、仕事だと部屋を出て行く久野木と口づけを交わす。名残惜しむように、何度も振り向きながら、教え子は出て行った。

 食事を運ぶ使用人が、部屋を訪れるまで、まだ時間はある。正一はずるずるとシーツを体に巻き付け、久野木の書斎に近づいた。

 浅ましい自覚はあったが、手が止まらなかった。頭にもたげた違和感は、膨れ上がるばかりで、何も解決していなかった。

 重厚な黒塗りの書斎を、正一は漁り始めた。予備のペンや仕事の書類か、正一にはさっぱりな、紙の束が入っていた。

 一段目、二段目、と引き出しを開けていく。同じような書類ばかりで、正一は肩を落とした。

 久野木から聞き出すしかないのか……

 三段目を漁っている時だった。奥に、嵌め込んだように仕舞われた、木箱を見つけた。何気なく取り出して、蓋を開けた。

 むわっとカビの臭いが立ちあがり、正一は顔を顰めた。中身は茶色い染みだらけの葉書だった。

 彩子、元気ですか。正二は、体の調子はどうですか。

 忘れもしない。正一が、サイパンから家族を案じて出した、軍事郵便だった。
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