蟻地獄

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1.帰還

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『先生、僕は先生をお慕いしております』

 眼前に迫る、あどけなさを残した唇に、朱色の頬。若槙わかまき正一しょういちにとって、忘れたくても頭から追いやることが出来ない記憶だった。

 紅顔の美少年と騒がれた美貌には、雄々しさが滲み、そこには一人の精悍な男がいた――彼は久野木くのぎせん。正一が一年時、担任を受け持った、高等科の三年生だった。

『僕も君を好ましく思っているよ……優秀な学生として』

 人気のない教室で、正一は言葉を慎重に選んだ。夕焼けが、熟れた柿のように赤々しい日だった。

『……分かっている癖に』

 すっと通った鼻筋の下、形の良い唇を血が滲むほど噛み締めた生徒は、眦を釣り上げた。憎しみと劣情が混じった瞳に映し出されたのは、一人の冴えない男。
 怯えた目で生徒を見やる情けない姿を晒した正一は、そっと距離を取った。

『なんのことだい』
『僕が先生にお渡しする和歌です。気付いていらっしゃるでしょう?』

 逃がすまいと、腕を引っ張られる。正一はこれ以上、醜態をさらさないよう、曖昧な笑みを浮かべた。

「兵隊さん、お帰りなさい!」
「お帰りなさいっ!お帰りなさいっ!」

 物思いに耽っていた正一の耳に、甲高い声が響いた。看板から外を見ると、浦賀港に国旗や村の名前を記した旗を振る大勢の人がいた。

 紺色のモンペに、同性は同じ薄茶色の国民服を着ていた。旗を振る人々は、みんな笑顔だった。正一は手を振ろうとして――腕を下げた。

 何もない

 うず高く積まれた瓦礫に、骨組みが剥き出しになった建物が点在していた。配置されたサイパン島で、国内の状況は何となく耳にしていた。東京は焼け野原になった、米兵が我が物顔でのさばっているとか……彩子さいこは無事か、正二しょうじはどうしているか。いやそもそも、家自体が残っているのか。

「引揚証明書をお見せください」

 落ち着かないまま、港を降りると、同じリュックを背負った同志たちが、紙を取り出す。正一も破れかぶれなった証明書を取り出した。

「こちらがありませんと、汽車や電車に乗れませんので、お気をつけ下さい」

 港から家のある世田谷に帰ることはできたが、家族は疎開していた。帰るには汽車などを乗り継いで、一日はかかる。

 宿舎に案内する声に、ぞろぞろと集団が動き始める。四肢を負傷した者、チフスに罹った者、正一のように幸い、大きな怪我もなく、帰還した兵士達。皆が歩いて行く方向を、正一も付いて行く。

 長い船旅で、色濃く疲労が出ていたが、ほっとしたような――正一と同じ顔付きになった兵士達は宿舎に着くと、思い思いに寝床に入り始めた。

 急遽、こしらえたのか、三角兵舎は真ん中が通り道、左右一定の間隔に布団が敷かれた、簡素なものだった。

 引揚にこの仕打ちかと――あの瓦礫の山を見れば、文句を飲み込んだ。正一は左一番奥、端の布団を、今日のねぐらに決めた。
 リュックを降ろし、ごろりと横になる。薄暗い天井を見上げていると、がやがやと周囲の雑多な声が遠くなっていた。

 ――久野木は文武両道と謳う学校の模範生だった。噂に聞くと、教科書を渡された当日に目を通し、授業を聞くだけ。試験勉強などせず、それでも成績上位者であった。運動神経も良いらしく、注目の的と言えばいいのか、周囲の視線を集めていた。

『久野木は凄いねぇ』

 職員室で隣に机を構える同僚の桑山くわやまが言うには、校門で女学生を見かけるそうだ。近くの女学校から、久野木が下校するのを待ち構えたように、女子生徒達が通りかかる。頬を染める乙女たちの姿を、容易に想像できた。

『そうだね……』

 だが正一は担任でありながら、苦手意識を持っていた。才貌両全と言える生徒は、どこか他人を小馬鹿にした――ニヒルを気取っているのか、他者を見下した態度が鼻についた。
 愛想も良く、手放しで褒める教員すら「この程度」だと言いたげな目。聡い子どもにありがちな、冷めた表情。
 あのなんの感情も映さない瞳が嫌で、正一は距離を取っていた。

 必要以上に関わりを避けていた生徒が、話しかけてきたのは、担任も半年を過ぎた頃。国語を担当していた正一に、久野木が和歌を持ってきた。教科書には乗らない、古今和歌集だった。

『ああ、紀貫之か』

 百人一首にも収録された、久方ぶりに訪れた土地を歌った和歌だった。職員室で説明をする間、久野木は覗き込むような目で、こちらを見ていた。

 確か部活動は剣道部だったか。熱心で優秀な生徒だと、教師全員が褒めちぎる優等生。おまけにこんな雅な趣味まであるのかと、正一は内心、感服していた。

 さすが華族

 彼の苗字を聞けば、目ざとい者は色めき立つ。現に、職員室ではちょっとした騒ぎになっていた。久野木、と言えば、あの大物財界人の名前が浮かぶ。

 なんでも幕末、国の混乱期に一旗上げた商人がいた。彼は莫大な財産を築き上げると、「お姫様」と傅かれる、没落華族の令嬢を正妻に迎えた。
 皇室から嫁いだと話もある華族と結び付き、商人は富、地位、そして名誉を手に入れ――国の財閥として、政治に大きな影響力を及ぼしていた。

『紀貫之と言えば、土佐日記ですね。教えてください』
『あー……』

 咄嗟に答えることができなかった。紀貫之が土佐国から京都に帰る道中の出来事を綴った日記だが、中身が思い出せない。
 こちらを値踏みする、また嫌な目をした生徒に、正直に話した。

『分からないから、勉強するよ。説明は後日でもいいかな』

 久野木は瞠目していた。いつでも人懐っこい笑顔を浮かべた彼にしては、珍しい表情だった。

『先生が教え子の前で、そのようなことを口にされて……恥ずかしいとは思わないのですか』
『間違ったことを教える方が恥ずかしいよ』
『……そう、ですか』
『羞恥なんて僕個人で済まされる問題だが、間違いを教えたとなれば、大問題だ。だから勉強させてくれないか』

 驚愕した表情のまま、久野木はこっくりと頷いた。正一は授業の準備と共に、土佐日記を読んで後日、彼を呼び止めた。

 生徒に侮られるだとか、不安がないと言えば嘘になる。ましてやあの、久野木亘だ。教員よりも秀でた頭を持つ生徒を前にして、正一は取り繕うことをやめた。幸い、久野木は馬鹿にするでもなく、真剣な表情で、正一の話を聞いてくれた。

 てっきり軽蔑にしてくるかと思った正一は、肩透かしをくらった。これは育ちかと――正一の家は旗本で、子爵だったらしい。らしい、と言うのは、正一が物心着いた頃には、平民と変わらない生活を送っていたからだ。
 曾祖父の代で、ありがちな事業失敗。借金の穴埋めに土地を売り払った結果、没落。残ったのは、古い屋敷と猫の額ほどの土地だった。

 それでも兄弟二人、大学に出してもらえた。正一は漢文を専攻していたため、そこまで和歌に興味はなかった。生徒の手前、教師としての義務を果たすつもりだった。

 それからだ。久野木はちょくちょく、話しかけてきた。決まって、和歌の話を聞きたがるものだから、正一も勉強した。

 担任教師を試しているのか、万葉集から古今和歌集、久野木は幅広く和歌を取り寄せては、教えを乞いた。
 だんだん、恋愛の和歌が多くなり、詠めば正一も感傷的になる。ある時『気持ちが分かる』と零した。

『なかりし昔いかでへつらむ……恋い慕う前、自分は何を考えていたのか、もう思い出せないよ』
『……奥様ですか』

 久野木の声に、ヒヤリと背筋が寒くなった。屈託のない笑みを浮かべていたはずが、一転、剣呑な眼差しに変わった。

『ああ、悪いな。先生の話なんかつまらないよな』

 図星だった。彩子と結婚したのは、ここに赴任する前。まず烏の濡れ羽色と言える豊かな黒髪に、目を奪われた。口紅を差した唇がよく動く、溌剌とした彼女に、心まで奪われた。

 太陽のような妻を自慢したい気持ちもあったが――優等生らしからぬ、濁った目にうすら寒くなった。正一は慌てて、話を打ち切った。

『奥様とは男女交際というものですか』
『いやいや、ただの見合いだよ』

 むっつりと黙り込む生徒に媚び諂へつらって、なんと情けない男か。内心、己を叱咤する声が聞こえたが、正一は必死だった。

 久野木は一年生でありながら、教員の背丈を超えていた。上背のある逞しい体は、軍人のようで、近くにいると圧迫感を感じる。初等科では美少年だと可愛がられたのだろうが、愛らしさなどは消え去っていた。

 きりりとした聡明そうな眉の下、彫りの深い瞳が輝いていた。高い頬骨に、がっしりとした顎。久野木は高貴さと野性味が混じった美しい男だった。

 彼に命令されたら、無条件で服従したくなる――何を考えているのだ、自分は。

 妙な妄想を打ち切り、正一は当たり障りない会話を続けた。和歌のやりとりは、久野木が進級しても続いた。正一は担任ではなかったが、それでも話しかけられたら,
 無下にはできない。

 和歌は恋愛一色になり、久野木から感じる熱のこもった視線を無視した。

 もう「先生」とか「教えて」とも口にはしない。無言で和歌を押し付けられ、見つめられる。腕を取られ、肩に触れられるようになった頃、正一に召集令状が届いた。

 やっときたか。

 三年前、国家総動員法が施行されてから、どこかで覚悟はしていた。新聞は開戦!などとはしゃいだ記事を出したが、世間を見ればどうだろう。

 成人男性の服が統一され、不穏な看板が目立つようになっていた。学校の授業も重たく、校内は灰色に染め上げられていた。

 正一は二十歳の時に受けた徴兵検査で、甲種とされた。だが病弱な弟は戊種として、兵役には適さないとされた。若槙家から出るとしたら正一だった。

 三十二歳になっていた正一は、妻の彩子や担任する生徒達に心を砕いた。その中でも特に、久野木には気を配った。

 出兵は成人が原則だが、十八歳を迎えた生徒も、いつ動員されるか分からない。相変わらず和歌を持ってくる生徒が、声をかけてきた。

『……先生、お話があります』

 夕暮れ時、人気のない教室まで引っ張られた。耳まで赤くした生徒は、正一と向き合うと、告白した。

『……君の気持ちは本当にね、嬉しいよ。でもね、ここは男子校であるから、おそらくだけど、君は尊敬の気持ちを恋愛と勘違いしているんだ――』
『違う!』

 久野木は我慢ならなかったのか、正一の腕を取り、抱きしめた。耳朶にかかる熱い吐息――妻とはもう何年も営みがない正一には、刺激が強過ぎた。

 もがくと抱き込まれた。呼吸が苦しくなる力強さに、正一は慄いた。立派な雄の証を下半身に感じる。体が硬直していた。

『先生を愛しているのですっ、貴方を考えるだけで、胸が苦しくなる!これを愛と言わずして、なんと言うのです?!』
『く、久野木、落ち着きなさい、君はこれから国を支える人として、学校の外に出れば、また視野も広がる。だから』
『――父に頼みます』

 囁かれた言葉に、ぎょっとした。そろそろと顔を見れば、熱を帯びた目と合う。後頭部を撫でられ、耳朶を甘噛みされて、体を突き飛ばした。

『家の別荘に泊まってください。そこで何日か過ごして頂ければ、父が手を回してくれます。徴兵は免れる』
『それはできないよ』
『どうして?!奥様と連れ立って下さいっ、僕は貴方に生きて欲しいっ、それ以上のことは望まない!』

 嘘だと、正一の直感が告げていた。ならば何故、むやみに触れようとするのか。ごくりと泣き腫らした男の咽喉仏が蠢いた。
 食われる――獣の気配を感じて、正一は距離を取った。

『……久野木、君の卒業を見届けられないのが残念だ。君が大人になって、慕う人に、和歌を送って欲しい』

 努めて、正一は教師らしい――久野木の興奮を抑えようと、冷静な声を出した。

『先生!』

 突き放すと、久野木は涙を零していた。教室で号泣する男が、膝をつく。まるで懇願するような態度に、正一は首を横に振った。

『駄目だよ。家から一人は出ないと、同じ区民になんと言われるか』

 弟が病弱で、兵役を免除されている。没落した身分故、平民と同じ生活を送っているのだ。逃げることはできない。

 それと……正一は密かに、泣きじゃくる久野木に、ただならぬものを感じていた。

『行くしかないんだ』

 久野木の好意からくる親切に答えたら、自分はどうなる?何かが忍び寄る気配に、正一は背中を震わせた。取り返しがつかなくなる。

『……先生は、僕がっう、これにかこつけて、先生に無体を働くなどと考えていらっしゃるのですかっ?!』
『違うよ……そうじゃないよ』

 内心をずばり当てられ、冷や汗を掻いた。立ち上がった久野木が、じりじりと距離を詰めてくる。正一は逃げるように教室を飛び出した。

 ――あれから五年も経ったのか

 正一が起床すると、周囲は布団を畳み始めていた。倣ならうように正一も片付け、宿舎を出る。朝から雲一つない晴天に、目を眇めた。

 正一がサイパン島のジャングルを行ったり来たり、同じ場所をぐるぐると彷徨っていた頃、終戦を告げらえた。引揚の船は順番に回ってくる。船に詰め込まれて帰ると、戦争から一年経っていた。

 瓦礫とあばら屋が並ぶ道を歩いて行くと、駅が見えた。ホームから人が溢れようとする光景に、正一は苦笑した。
 ぎゅうぎゅうと荷物のように詰め込まれるのは、船で慣れている。人の波に流されながら、電車に乗り込んだ。

 人がすし詰め状態の車内、正一は家族を案じた。妻の彩子、弟の正二、両親は元気にしているだろうか。戦時中、手紙を何度か出した。

 特に妻は心細い思いをしているのではないか。正一と彩子の間には、子どもがいなかった。結婚して間もない頃、彩子が閨を共にするのを嫌がったからだ。

 正一は今年、三十七になる。子どもを作るには遅いかもしれないが、それでもいないよりはマシだろう。
 これから家族として、一緒に過ごして……正一が思い描く家族が壊れたのは、疎開先のカブト屋根が、見えてきたあたりだった。

「おかあさーんっ!」

 甲高い、幼子の声が聞こえてきた。庭で五歳ぐらいの女児が、走り回っていた。縁側に腰掛けるのは――忘れもしない、妻と正二だった。

「よっちゃーんっ!」
「おとうさーん!あそんでーっ!」

 正二が口を大きく開けて、笑い声を上げる。記憶では、青白い肌をしていた弟は日焼けをして、逞しい男になっていた。

 袖を捲り上げた正二が、子どもを追いかける。黄色い声を上げた女児が、はしゃいでいた。

「……あ」
「兄さん……」

 気付いた時点で、足を止めれば良かった。方向を変えて、駅に戻れば良かったのだ。正一は猛烈な後悔に襲われながら、庭に入った。

 割烹着姿の彩子は驚愕し、弟は顔が蒼白になっていた。表情から全てを察した正一は、笑顔を作った。弟と妻を問い詰めたいわけではないのだ。

「ただいま……大丈夫。すぐ、出て行くから」

 凍り付いた空気の中、姪が無邪気な目で、伯父を見上げる。正一は若槙家の家長となった弟に、頭を下げた。
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