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天外が入社してきた当時、会社はちょっとした騒ぎになった。モデルのような体型に小さな顔。ルックスがアイドルのようだと、別部署の人間まで、顔を見ようと営業課の廊下を何度も通っていた。
当時、係長をやっていた文彰もどうしてこんな男が、と不思議だった。ソノザキグループホールディングスの傘下にあるとはいえ、もとはソノザキにぶら下がる中小企業の寄せ集めにしか過ぎない子会社。
なんか芸能人とか、華やかな仕事が似合うだろう――後で本人から会長、父親の教育方針だと聞き、そういうものかと首を傾げた。
雲の上で生まれ育った王子を、下々と一緒に働かせる。金持ちの考えることは理解できない。
本来、仕事の関係上でしかつながりの無かった二人が、プライベートな話をするようになったのは、天外への嫌がらせがきっかけだった。
主犯は当時、主任だった文彰の部下と、彼に同調した男性社員数人。タチが悪かったのは、OJTをやる先輩社員がいじめに加担していたことだった。
新人の中でも飲み込みが早く、優秀な天外を恐れたのか、女性社員にちやほやされるのが同性としてむかついたのか。しょーもないので理由は聞いていないが、集団で嫌がらせを始めた。
必要な書類を展開しない、打ち合わせ日時が変更されてもメールをしない、OJTの先輩は伝えたと言い張り、主任だった部下も「自分も聞いていた」と平気で嘘を吐く。
『俺、何回も伝えてるんすよ。こいつ、マジで報連相できないんですよね』
『俺らの方が苦労してんだわ』
『香園って仕事できないよな』
どうにか無能のレッテルを貼ろうと、躍起になっていた。文彰は最初、全く気がついていなかった。主任の報告を聞くだけだったので、うっかりさんなんだなと聞き流していた。
事なかれ主義の文彰が異変に気がついたのは、タバコ休憩の時間。
喫煙室がいっぱいだったので、灰皿のある駐車場に降りて一服していると、視界の隅に人影をとらえた。
後ろ姿でも目立つ男は、裏庭に歩いていった。文彰は興味本位で、足音を立てずに付いて行った。清掃員や事務員しか使わない、ゴミの分別所があるだけの殺風景な場所に、何の用だと、裏に回った。
息を呑んだ。にこにこと、誰にでも笑顔を振りまく新入社員の姿はなく、ただじっと、地面を凝視していた。
石を蹴り上げてるとか、荒々しい行動の方が、何倍も良かった。表情を無くした、能面のような顔にぞっとして、文彰は思わず声をかけた。
『……どうした?』
『なんでもないです』
特別驚いた様子もなく、無表情な若者はさっさと横を通り過ぎようとする。宥めて『話を聞くよ』と言った。
『……言っても無駄でしょう』
明らかに文彰を見下した目だった。
『まぁ……そうだな、うん』
すげない言葉に、文彰は小さく吹き出した。いつも愛想良くて、社員から警備員、老若男女、誰にでも好かれている男――こっちが素なのか?
そして社内の情勢をよく見ている。係長の肩書きはあれど、既に文彰の言葉に耳を傾ける者はいなくなっていた。
『じゃあ、やっぱり無駄じゃないですか』
『まぁまぁ、手助けになるかも。俺もトラブルはめんどう――』
はっとして口を閉じた。部下が揉めるのが面倒。一応は係長だ。見て見ぬふりをして、天外にパワハラだとか告発されたら、定年退職できなくなるかもしれない。
自分本位な本音を慌てて隠した。
『社員一丸となってな、働いてソノザキに貢献しないとな、な』
取り繕うように笑って、薄っぺらい言葉を並べる。天外はしばらく黙っていたが、ぽつりぽつりと話してくれた。先輩と主任に嫌がらせをされていること。グルになって、責任を天外に全て押しつけていることを話してくれた。
『あぁ~、くだらないことするなぁ』
『ええ、あのような人達がいるのだと、勉強になりました』
あのような人達、か。
天外は怒りよりも、淡々としていた。相手にもしていなさそうな、冷徹な視線に大物感がある。文彰はずれたところで、関心していた。
『ですが、あれでも仕事を邪魔されると、進捗に影響が出ます』
『じゃ~、俺がなんとかするよ』
『……どうやって』
『話を聞いたら、あいつらは報連相ぐらいでしか、嫌がらせしてこないんでしょ?君をそれぐらいでしか、足を引っ張れないんだ……すぐ終わるよ』
デスクに戻り、主任を呼んだ。「なんすか?」とだるそうな部下に、トリプルチェックをすると言った。天外のミスが多すぎる。指導する先輩社員、主任でも通り抜けてしまうなら、自分が最終チェックをすると言った。密告したと部下が邪推しないよう、文彰は新入社員のミスのせいだと強調した。
部下の顔色がさっと悪くなった。
『いやいや、大丈夫です。係長まで出なくてもっ、三重チェックとか聞いたことないです。俺らが指導しますから!』
『それでミスが減らないんだから、対策しないと~。さすがにチェッカーが3人いたら、香園君もやる気だすよね、香園君』
聞き耳を立てていた天外を呼びつけた。新人は駆け寄るようにデスクにやってくると、瞬時に頭を下げた。
『係長の作業を増やしてしまい、誠に申し訳ありません。ご指導よろしくお願いします』
打ち合わせ通りのやりとりをし、目配せをした。殊勝な態度に、主任も黙り込んだ。
『じゃあ香園君、確認は四人皆で、必ず俺を呼んでね。君のミスをカバーするわけだから、君が、声をかけるんだよ』
『はい、自分のせいで申し訳ありません。必ず係長を含めて確認させて頂きます』
それから文彰は、メーリングリストから(わざと)天外が外れていれば、デスクから指摘し、天外に確認を取った。
お互いに相違があれば、主任や先輩を交えて確認を取る。本当のことを言うしかない部下はそこで詰み。嫌がらせはすぐに止んだ。
文彰は主犯格を問い詰めなかった。その場は収まったし、上に報告するのが、面倒臭かったからだ。幸い、天外もそこまで小物を気にしていないようだった。
これで文書偽造とか始めたらどうしよう……面倒だなぁと、文彰は考えることを辞めた。
始まったら、そこで対策をすればいい。原因の抜本的な解決は図らない。その場しのぎでお茶を濁して、なぁなぁにする。
文彰が最も好む方法だった。
『文彰さん、今日ラーメン食べたい』
『今日はー、気分じゃないなぁ』
幼稚な嫌がらせが終わった頃、ひとつの変化が表れた。天外が、文彰に甘えるようになったのだ。
係長、だったのも二人きりになると沖倉さん。すぐに下の名前で呼ぶようになった。断ると、ふくれっ面をする若い男に心が疼いた。
年上の沽券はないが、若者は眩しくて可愛い。甘えるように肩を寄せられ、心が傾いた。
『ん~……じゃ、いこっか』
『やった』
プライベートな時間を過ごすことが増えた。増えた分だけ、天外は遠慮がなくなった。「文彰さん、やる気ないよね」「恋人は?」「元カノ何人?」「結婚とかしたい?」…… 問われるまま、答えた。「嫌いなことは?」と聞かれて「揉めること」と言った。
『相手――家族でも仕事でも、騒がれたくない。とりあえず場を納めたいから謝る』
『最悪。保身じゃん』
『うん、保身しか頭にないよ』
『それでやる気ないとか、文彰さんって良いとこひとつもないよね』
ズケズケと言う若い男に、怒りはなかった。揉めたくないから。へらへら笑って「そうだなー」と答えた。
天外は本来であれば、こんな小さな会社に来る人材ではない。しばらくしてカナダの現地法人に行くと、二人きりの時に言われた。
『こんなこと言うの、恥ずかしいけど』
天外は酒も飲んでないのに、顔を赤くしていた。
『……俺、いい男になって帰ってくるから』
『今も十分、いい男だぞ』
『……もっといい男になるから、だから……連絡、欲しい』
退職する日、こっそり紙切れを渡された。確か、メッセージ用アカウントのIDと電話番号が書かれて――
「あ……」
文彰はテーブルに置いた名刺を裏返す。はっきり覚えていないが、6年前も渡されていた。スウェット越しに、ボリボリ尻を掻いた。
6年前のあれ、どこやったか。ごちゃごちゃした引き出しを漁る。コンビニの無料券付きレシート。ラーメン屋の替え玉無料券。ドラッグストアのポイント十倍券……ない。漁って5分。文彰はポイント10倍券の整理を始めた。
名刺は貰っているし、構わないだろう。会社に天外が挨拶しにきた日から、一週間経った。文彰はアカウントの友達登録どころか、検索すらしていなかった。連絡を取る気など。さらさらなかったからだ。
28と43の男。歳が離れ過ぎている。話題もないし、話も合わないだろう。元部下と上司とはいえ、もう直接のつながりはない。文彰は財布を取り出した。買い物に行こう。
柔軟剤が切れそうだった。あと予備のシャンプー、ハミガキ、食器用洗剤は……まだある。スマホのメモに買う物を打ち込むと、コルクボードに貼ったレシートを集めた。期日の近いポイント十倍券はこうやって、ボードに貼り出している。外行きの服に着替えて、アパートを出た。
文彰のアパートは、駅から徒歩20分の距離にある。オートロックマンションとか洒落たものではないが、1DKで5万。安さに満足している文彰は20年近く、住み続けていた。
駅からは遠いが、近くに公園はあるし、スーパーやドラッグストア、病院も揃っている。レジでポイント券を出して、お会計を済ませると、まず一番に、保有ポイントをチェックする。
保有ポイント:879pt
1000ptになれば、1000円分のお買い物券に交換して貰える。ニヤつきながら、エコバッグを持っていた。
公園を通り過ぎると、照り付く太陽の下、小学生が遊んでいた。心配になりながらも、目を細めて鑑賞していると、前方から人が走ってきた。
こんな暑い日にジョギング中か。熱中症になるぞと、脇に逸れようとしたところで、声を上げた。
「天外?!」
「――文彰さん!!」
ジョギングウェアを着ていたのは、天外だった。ブランドのロゴに、鮮やかな色のスポーツシューズが、若者によく似合っていた。
ショップに置かれたマネキンのような体型をしている。惚れ惚れするより先に、天外が汗だくなのが気になった。
「すごい……汗だな」
「……まぁ、うん、っ走ってたから」
天外は滝のように流れる汗を拭う。それでも汗が止まらないのか、まつげに溜まり、雨粒を作っていた。
7月、照りつける暑さのなか、どれだけの距離を走ったのか。文彰は呆然としていた。
「かなり走ったんだなー、運動好きだったんだな」
「……うん、まぁ……うん」
口さがない天外にしては、珍しく歯切れが悪い。ああ、文彰はすぐに察した。
「悪い。運動中に呼び止めて。それじゃ、あんまり無理すんなよー」
歩き出そうとしたら、腕を掴まれた。持っていたエコバッグを取り上げられた。
「……文彰さん」
「?」
身長差があるので、見下ろされる格好になった。睨み付けるように、こちらを無言で見つめる男に戸惑った。
なんだ?
天外の望む答えを絞り出そうと――6年前からだった。天外は無言で、目を見つめる癖がある。天外自身の口から憚られることを、文彰に言わせようとするのだ。
だがやる気のない頭では、何も思いつかない。暑いし、しょうがないので、思いついたことを口に出していた。
「なんか……偶然だな。近いのか?」
「……うん、まぁ」
「えー、あー、どこ?」
ぼそぼそ説明される。どうやら最寄り駅近くのマンションらしい。文彰の住む板橋区は、庶民的な下町のイメージがある。お坊ちゃんの一人暮らしには、似つかわしくない。
「へ~、天外、港区とか住んでそうなのにな」
「……」
しまった。とうとう無口になってしまった。何を言って欲しいんだ、聞いて欲しいんだ。本人が目の前にいるから聞きたいけど、眉間の皺が怖い。
揉めたくない文彰は「あー、あー、あー」と声を出していた。
「あー……うち、ここから近いんだ、ちょっと寄ってくか?」
「うん!」
花が咲いたような笑顔だった。正解をあてたことに、胸を撫で降ろす。どうやら適当な場所で休みたかったらしい。
周囲にスーパーはあれど、カフェなどといった休憩所は近くにない。上機嫌な天外を連れて、マンションに戻った。
部屋に入るなり、天外ははしゃぎ始めた。
「ここ、文彰さんの部屋?!」
「うん、適当に……座椅子、使っていいから」
「綺麗にしてる!意外!」
文彰の声など聞こえていないのか天外は、リビングをうろうろしていた。
「いつから住んでんの?家賃とかいくら?テレビ大きいね、ソファ買わないの?あ、俺はこの座椅子いいと思う!あ、これなに?なんでコルクボードにレシート貼ってるの?」
「……座って」
いちいち説明しながら、パックのジャスミン茶をグラスに注ぐ。走り回っていたから暑いだろうと、氷を多めに入れた。
一応、座りはしたが、目は落ち着かない。瞳孔は開き、ぎょろぎょろと眼球が動き回る。彼の鋭利な美貌に熱を上げていた女性社員には、見せられない表情だった。
「あ、文彰さん、ありがとう!」
「うん」
グラスに口をつけると、一気に飲み干してしまった。男らしい喉仏が蠢く。いくら乱雑な仕草が下品にならないのは、やっぱり骨格レベルから整っているから?
シャープな顎、すっと通った鼻筋、首から肩までバランスが良いのか、横顔のラインが特に美しい。部屋の中にアイドルがいる――眩しさに、文彰は目を眇めた。
「美味しい!これ、すげー美味しいよ!」
「うん、ありがとう」
「ずっと飲みたい」
「うん、あ、おかわり?ちょっと待ってな」
冷蔵庫に戻る。パック60個入りで税込み402円のジャスミン茶。2Lボトルに2つパックを入れて、あとは注ぐだけ――これ、そんなに美味いか?
首をひねりながら、ボトルを持って、リビングに戻る。喜んでくれる――と思ったら、天外はテーブルに視線を落としていた。
「……どうした?天外?」
「……これ」
つまみ上げたのは、天外の名刺だった。いきなり表情を無くした男に、文彰は「うん?」と促した。
「連絡してって言ったよね?」
「あー……そうだった、ね」
「そうだったね?!!!」
やばい。文彰の脳内でアラーム音が鳴る。忘れていた。天外のもう一つの欠点。
「そうだったね、てなんだよ!!ふざけてんのか?!なんで連絡しねーんだよ!」
「ごめん、ごめんな、天外、ごめんっ、あの天外、ここ壁があんま」
「なんで連絡しなかった??!!!」
ドンッ
拳をテーブルに叩き付ける音がする。頬は紅潮し、目が釣り上がっていた。怒りを示すように、何度もテーブルを叩く。
やばい、やばい……面倒くさい。
天外の面倒なところ。
「俺と連絡取りたくなかったの?!」
「違う、違うから、な、天外、ごめん」
すぐキレるところ。
文彰は心の中で、ため息をついた。虫けらを見る目で、先輩達を見ていた若者は、あまり怒りの感情が無いのだと――お坊ちゃんだから。心に余裕があるんだと思っていた。
交流が増えていくうちに、勘違いだと気がついた。ふてくされる、泣く、喚くは当たり前。特に文彰が、天外との予定を優先させなければ、般若の形相になる。6年前は、まだ若いからな~と、悠長に構えていた。
「違うじゃないだろ!俺のことどうでもいいんだろ!」
「違うって、ごめん、無くしてな、ごめん、連絡しようと思ってた。本当だよ」
唇を戦慄かせた若者に、文彰は謝り倒していた。まさか28になって、パワーアップしているとは思わなかった――変わらないんだなと、ちょっと懐かしくなった。
「ごめん、本当。本当に連絡しようと思ってて。でも、ほら、おじさんだから、メッセージ打つの苦手でさぁ」
「スマホ!!」
素直に出さないと、テーブルの上、全てなぎ倒されそうだった。スマホを差し出すと、ひったくるように取り上げられた。
「パスワード!」
「あ~……」
新機種に変えた日を教えると、天外はスマホから目を離さなくなった。血走った目で、小さな画面を覗き込んでいる。
とりあえず、怒鳴らなくなった。
静かになってくれたと、文彰はストレッチをした。負の感情をぶつけられるのは、仕事でもプライベートでも避けたい。好きなヤツなんか、いないだろう。
天外の若さ特有――もの凄い速さの、指の動きをぼんやり見つめていたら、スマホを見せられた。
「いいの?」
「パスワード!変更するから!」
ここで嫌だと言ったら、暴れるかもしれない。はいはいと、素直に設定画面を開いた。
「今から言う数字、設定して」
聞き慣れない、数字の羅列だった。聞くと天外の誕生日だと言う。なんで?と突っ込んだら「俺にこんな不誠実な対応しといて、嫌だとか言うわけ?!」と、またブチ切れられた。
「やっぱり俺と連絡取りたくないんだろう!!」
「違うよ、嫌とかじゃないよ、うん……覚えやすいなぁ」
ご機嫌を取るように「いい数字」「牡羊座?」と適当なことを言った。眼が吊り上がっていた天外も、徐々に態度が柔らかくなっていった。
「……アカウント、フレンド登録したから」
「あ~、ありがとな」
「SNSは一個だけ?こっちもフォローしといたから」
「ああ~、うん」
クーポン情報なんかを集めるだけのアカウント。近況も呟かないし、フォロワーもゼロ……アイコンが灰色の、tenというアカウントに、フォローされていた。
「SNSのアカウント、もう無い?」
「ないよ、ない」
「メールアドレス、電話番号、全部登録しといたから……文彰さん」
小さな頭を肩に乗せられた。甘えるような上目遣いに、困惑した――五分前、キレ散らかしていた男と、同一人物か?
首を傾げたくなる程、天外の情緒は安定していなかった。昔と変わってない。ちょっと安心して――少しだけ、文彰は不安を覚えた。
当時、係長をやっていた文彰もどうしてこんな男が、と不思議だった。ソノザキグループホールディングスの傘下にあるとはいえ、もとはソノザキにぶら下がる中小企業の寄せ集めにしか過ぎない子会社。
なんか芸能人とか、華やかな仕事が似合うだろう――後で本人から会長、父親の教育方針だと聞き、そういうものかと首を傾げた。
雲の上で生まれ育った王子を、下々と一緒に働かせる。金持ちの考えることは理解できない。
本来、仕事の関係上でしかつながりの無かった二人が、プライベートな話をするようになったのは、天外への嫌がらせがきっかけだった。
主犯は当時、主任だった文彰の部下と、彼に同調した男性社員数人。タチが悪かったのは、OJTをやる先輩社員がいじめに加担していたことだった。
新人の中でも飲み込みが早く、優秀な天外を恐れたのか、女性社員にちやほやされるのが同性としてむかついたのか。しょーもないので理由は聞いていないが、集団で嫌がらせを始めた。
必要な書類を展開しない、打ち合わせ日時が変更されてもメールをしない、OJTの先輩は伝えたと言い張り、主任だった部下も「自分も聞いていた」と平気で嘘を吐く。
『俺、何回も伝えてるんすよ。こいつ、マジで報連相できないんですよね』
『俺らの方が苦労してんだわ』
『香園って仕事できないよな』
どうにか無能のレッテルを貼ろうと、躍起になっていた。文彰は最初、全く気がついていなかった。主任の報告を聞くだけだったので、うっかりさんなんだなと聞き流していた。
事なかれ主義の文彰が異変に気がついたのは、タバコ休憩の時間。
喫煙室がいっぱいだったので、灰皿のある駐車場に降りて一服していると、視界の隅に人影をとらえた。
後ろ姿でも目立つ男は、裏庭に歩いていった。文彰は興味本位で、足音を立てずに付いて行った。清掃員や事務員しか使わない、ゴミの分別所があるだけの殺風景な場所に、何の用だと、裏に回った。
息を呑んだ。にこにこと、誰にでも笑顔を振りまく新入社員の姿はなく、ただじっと、地面を凝視していた。
石を蹴り上げてるとか、荒々しい行動の方が、何倍も良かった。表情を無くした、能面のような顔にぞっとして、文彰は思わず声をかけた。
『……どうした?』
『なんでもないです』
特別驚いた様子もなく、無表情な若者はさっさと横を通り過ぎようとする。宥めて『話を聞くよ』と言った。
『……言っても無駄でしょう』
明らかに文彰を見下した目だった。
『まぁ……そうだな、うん』
すげない言葉に、文彰は小さく吹き出した。いつも愛想良くて、社員から警備員、老若男女、誰にでも好かれている男――こっちが素なのか?
そして社内の情勢をよく見ている。係長の肩書きはあれど、既に文彰の言葉に耳を傾ける者はいなくなっていた。
『じゃあ、やっぱり無駄じゃないですか』
『まぁまぁ、手助けになるかも。俺もトラブルはめんどう――』
はっとして口を閉じた。部下が揉めるのが面倒。一応は係長だ。見て見ぬふりをして、天外にパワハラだとか告発されたら、定年退職できなくなるかもしれない。
自分本位な本音を慌てて隠した。
『社員一丸となってな、働いてソノザキに貢献しないとな、な』
取り繕うように笑って、薄っぺらい言葉を並べる。天外はしばらく黙っていたが、ぽつりぽつりと話してくれた。先輩と主任に嫌がらせをされていること。グルになって、責任を天外に全て押しつけていることを話してくれた。
『あぁ~、くだらないことするなぁ』
『ええ、あのような人達がいるのだと、勉強になりました』
あのような人達、か。
天外は怒りよりも、淡々としていた。相手にもしていなさそうな、冷徹な視線に大物感がある。文彰はずれたところで、関心していた。
『ですが、あれでも仕事を邪魔されると、進捗に影響が出ます』
『じゃ~、俺がなんとかするよ』
『……どうやって』
『話を聞いたら、あいつらは報連相ぐらいでしか、嫌がらせしてこないんでしょ?君をそれぐらいでしか、足を引っ張れないんだ……すぐ終わるよ』
デスクに戻り、主任を呼んだ。「なんすか?」とだるそうな部下に、トリプルチェックをすると言った。天外のミスが多すぎる。指導する先輩社員、主任でも通り抜けてしまうなら、自分が最終チェックをすると言った。密告したと部下が邪推しないよう、文彰は新入社員のミスのせいだと強調した。
部下の顔色がさっと悪くなった。
『いやいや、大丈夫です。係長まで出なくてもっ、三重チェックとか聞いたことないです。俺らが指導しますから!』
『それでミスが減らないんだから、対策しないと~。さすがにチェッカーが3人いたら、香園君もやる気だすよね、香園君』
聞き耳を立てていた天外を呼びつけた。新人は駆け寄るようにデスクにやってくると、瞬時に頭を下げた。
『係長の作業を増やしてしまい、誠に申し訳ありません。ご指導よろしくお願いします』
打ち合わせ通りのやりとりをし、目配せをした。殊勝な態度に、主任も黙り込んだ。
『じゃあ香園君、確認は四人皆で、必ず俺を呼んでね。君のミスをカバーするわけだから、君が、声をかけるんだよ』
『はい、自分のせいで申し訳ありません。必ず係長を含めて確認させて頂きます』
それから文彰は、メーリングリストから(わざと)天外が外れていれば、デスクから指摘し、天外に確認を取った。
お互いに相違があれば、主任や先輩を交えて確認を取る。本当のことを言うしかない部下はそこで詰み。嫌がらせはすぐに止んだ。
文彰は主犯格を問い詰めなかった。その場は収まったし、上に報告するのが、面倒臭かったからだ。幸い、天外もそこまで小物を気にしていないようだった。
これで文書偽造とか始めたらどうしよう……面倒だなぁと、文彰は考えることを辞めた。
始まったら、そこで対策をすればいい。原因の抜本的な解決は図らない。その場しのぎでお茶を濁して、なぁなぁにする。
文彰が最も好む方法だった。
『文彰さん、今日ラーメン食べたい』
『今日はー、気分じゃないなぁ』
幼稚な嫌がらせが終わった頃、ひとつの変化が表れた。天外が、文彰に甘えるようになったのだ。
係長、だったのも二人きりになると沖倉さん。すぐに下の名前で呼ぶようになった。断ると、ふくれっ面をする若い男に心が疼いた。
年上の沽券はないが、若者は眩しくて可愛い。甘えるように肩を寄せられ、心が傾いた。
『ん~……じゃ、いこっか』
『やった』
プライベートな時間を過ごすことが増えた。増えた分だけ、天外は遠慮がなくなった。「文彰さん、やる気ないよね」「恋人は?」「元カノ何人?」「結婚とかしたい?」…… 問われるまま、答えた。「嫌いなことは?」と聞かれて「揉めること」と言った。
『相手――家族でも仕事でも、騒がれたくない。とりあえず場を納めたいから謝る』
『最悪。保身じゃん』
『うん、保身しか頭にないよ』
『それでやる気ないとか、文彰さんって良いとこひとつもないよね』
ズケズケと言う若い男に、怒りはなかった。揉めたくないから。へらへら笑って「そうだなー」と答えた。
天外は本来であれば、こんな小さな会社に来る人材ではない。しばらくしてカナダの現地法人に行くと、二人きりの時に言われた。
『こんなこと言うの、恥ずかしいけど』
天外は酒も飲んでないのに、顔を赤くしていた。
『……俺、いい男になって帰ってくるから』
『今も十分、いい男だぞ』
『……もっといい男になるから、だから……連絡、欲しい』
退職する日、こっそり紙切れを渡された。確か、メッセージ用アカウントのIDと電話番号が書かれて――
「あ……」
文彰はテーブルに置いた名刺を裏返す。はっきり覚えていないが、6年前も渡されていた。スウェット越しに、ボリボリ尻を掻いた。
6年前のあれ、どこやったか。ごちゃごちゃした引き出しを漁る。コンビニの無料券付きレシート。ラーメン屋の替え玉無料券。ドラッグストアのポイント十倍券……ない。漁って5分。文彰はポイント10倍券の整理を始めた。
名刺は貰っているし、構わないだろう。会社に天外が挨拶しにきた日から、一週間経った。文彰はアカウントの友達登録どころか、検索すらしていなかった。連絡を取る気など。さらさらなかったからだ。
28と43の男。歳が離れ過ぎている。話題もないし、話も合わないだろう。元部下と上司とはいえ、もう直接のつながりはない。文彰は財布を取り出した。買い物に行こう。
柔軟剤が切れそうだった。あと予備のシャンプー、ハミガキ、食器用洗剤は……まだある。スマホのメモに買う物を打ち込むと、コルクボードに貼ったレシートを集めた。期日の近いポイント十倍券はこうやって、ボードに貼り出している。外行きの服に着替えて、アパートを出た。
文彰のアパートは、駅から徒歩20分の距離にある。オートロックマンションとか洒落たものではないが、1DKで5万。安さに満足している文彰は20年近く、住み続けていた。
駅からは遠いが、近くに公園はあるし、スーパーやドラッグストア、病院も揃っている。レジでポイント券を出して、お会計を済ませると、まず一番に、保有ポイントをチェックする。
保有ポイント:879pt
1000ptになれば、1000円分のお買い物券に交換して貰える。ニヤつきながら、エコバッグを持っていた。
公園を通り過ぎると、照り付く太陽の下、小学生が遊んでいた。心配になりながらも、目を細めて鑑賞していると、前方から人が走ってきた。
こんな暑い日にジョギング中か。熱中症になるぞと、脇に逸れようとしたところで、声を上げた。
「天外?!」
「――文彰さん!!」
ジョギングウェアを着ていたのは、天外だった。ブランドのロゴに、鮮やかな色のスポーツシューズが、若者によく似合っていた。
ショップに置かれたマネキンのような体型をしている。惚れ惚れするより先に、天外が汗だくなのが気になった。
「すごい……汗だな」
「……まぁ、うん、っ走ってたから」
天外は滝のように流れる汗を拭う。それでも汗が止まらないのか、まつげに溜まり、雨粒を作っていた。
7月、照りつける暑さのなか、どれだけの距離を走ったのか。文彰は呆然としていた。
「かなり走ったんだなー、運動好きだったんだな」
「……うん、まぁ……うん」
口さがない天外にしては、珍しく歯切れが悪い。ああ、文彰はすぐに察した。
「悪い。運動中に呼び止めて。それじゃ、あんまり無理すんなよー」
歩き出そうとしたら、腕を掴まれた。持っていたエコバッグを取り上げられた。
「……文彰さん」
「?」
身長差があるので、見下ろされる格好になった。睨み付けるように、こちらを無言で見つめる男に戸惑った。
なんだ?
天外の望む答えを絞り出そうと――6年前からだった。天外は無言で、目を見つめる癖がある。天外自身の口から憚られることを、文彰に言わせようとするのだ。
だがやる気のない頭では、何も思いつかない。暑いし、しょうがないので、思いついたことを口に出していた。
「なんか……偶然だな。近いのか?」
「……うん、まぁ」
「えー、あー、どこ?」
ぼそぼそ説明される。どうやら最寄り駅近くのマンションらしい。文彰の住む板橋区は、庶民的な下町のイメージがある。お坊ちゃんの一人暮らしには、似つかわしくない。
「へ~、天外、港区とか住んでそうなのにな」
「……」
しまった。とうとう無口になってしまった。何を言って欲しいんだ、聞いて欲しいんだ。本人が目の前にいるから聞きたいけど、眉間の皺が怖い。
揉めたくない文彰は「あー、あー、あー」と声を出していた。
「あー……うち、ここから近いんだ、ちょっと寄ってくか?」
「うん!」
花が咲いたような笑顔だった。正解をあてたことに、胸を撫で降ろす。どうやら適当な場所で休みたかったらしい。
周囲にスーパーはあれど、カフェなどといった休憩所は近くにない。上機嫌な天外を連れて、マンションに戻った。
部屋に入るなり、天外ははしゃぎ始めた。
「ここ、文彰さんの部屋?!」
「うん、適当に……座椅子、使っていいから」
「綺麗にしてる!意外!」
文彰の声など聞こえていないのか天外は、リビングをうろうろしていた。
「いつから住んでんの?家賃とかいくら?テレビ大きいね、ソファ買わないの?あ、俺はこの座椅子いいと思う!あ、これなに?なんでコルクボードにレシート貼ってるの?」
「……座って」
いちいち説明しながら、パックのジャスミン茶をグラスに注ぐ。走り回っていたから暑いだろうと、氷を多めに入れた。
一応、座りはしたが、目は落ち着かない。瞳孔は開き、ぎょろぎょろと眼球が動き回る。彼の鋭利な美貌に熱を上げていた女性社員には、見せられない表情だった。
「あ、文彰さん、ありがとう!」
「うん」
グラスに口をつけると、一気に飲み干してしまった。男らしい喉仏が蠢く。いくら乱雑な仕草が下品にならないのは、やっぱり骨格レベルから整っているから?
シャープな顎、すっと通った鼻筋、首から肩までバランスが良いのか、横顔のラインが特に美しい。部屋の中にアイドルがいる――眩しさに、文彰は目を眇めた。
「美味しい!これ、すげー美味しいよ!」
「うん、ありがとう」
「ずっと飲みたい」
「うん、あ、おかわり?ちょっと待ってな」
冷蔵庫に戻る。パック60個入りで税込み402円のジャスミン茶。2Lボトルに2つパックを入れて、あとは注ぐだけ――これ、そんなに美味いか?
首をひねりながら、ボトルを持って、リビングに戻る。喜んでくれる――と思ったら、天外はテーブルに視線を落としていた。
「……どうした?天外?」
「……これ」
つまみ上げたのは、天外の名刺だった。いきなり表情を無くした男に、文彰は「うん?」と促した。
「連絡してって言ったよね?」
「あー……そうだった、ね」
「そうだったね?!!!」
やばい。文彰の脳内でアラーム音が鳴る。忘れていた。天外のもう一つの欠点。
「そうだったね、てなんだよ!!ふざけてんのか?!なんで連絡しねーんだよ!」
「ごめん、ごめんな、天外、ごめんっ、あの天外、ここ壁があんま」
「なんで連絡しなかった??!!!」
ドンッ
拳をテーブルに叩き付ける音がする。頬は紅潮し、目が釣り上がっていた。怒りを示すように、何度もテーブルを叩く。
やばい、やばい……面倒くさい。
天外の面倒なところ。
「俺と連絡取りたくなかったの?!」
「違う、違うから、な、天外、ごめん」
すぐキレるところ。
文彰は心の中で、ため息をついた。虫けらを見る目で、先輩達を見ていた若者は、あまり怒りの感情が無いのだと――お坊ちゃんだから。心に余裕があるんだと思っていた。
交流が増えていくうちに、勘違いだと気がついた。ふてくされる、泣く、喚くは当たり前。特に文彰が、天外との予定を優先させなければ、般若の形相になる。6年前は、まだ若いからな~と、悠長に構えていた。
「違うじゃないだろ!俺のことどうでもいいんだろ!」
「違うって、ごめん、無くしてな、ごめん、連絡しようと思ってた。本当だよ」
唇を戦慄かせた若者に、文彰は謝り倒していた。まさか28になって、パワーアップしているとは思わなかった――変わらないんだなと、ちょっと懐かしくなった。
「ごめん、本当。本当に連絡しようと思ってて。でも、ほら、おじさんだから、メッセージ打つの苦手でさぁ」
「スマホ!!」
素直に出さないと、テーブルの上、全てなぎ倒されそうだった。スマホを差し出すと、ひったくるように取り上げられた。
「パスワード!」
「あ~……」
新機種に変えた日を教えると、天外はスマホから目を離さなくなった。血走った目で、小さな画面を覗き込んでいる。
とりあえず、怒鳴らなくなった。
静かになってくれたと、文彰はストレッチをした。負の感情をぶつけられるのは、仕事でもプライベートでも避けたい。好きなヤツなんか、いないだろう。
天外の若さ特有――もの凄い速さの、指の動きをぼんやり見つめていたら、スマホを見せられた。
「いいの?」
「パスワード!変更するから!」
ここで嫌だと言ったら、暴れるかもしれない。はいはいと、素直に設定画面を開いた。
「今から言う数字、設定して」
聞き慣れない、数字の羅列だった。聞くと天外の誕生日だと言う。なんで?と突っ込んだら「俺にこんな不誠実な対応しといて、嫌だとか言うわけ?!」と、またブチ切れられた。
「やっぱり俺と連絡取りたくないんだろう!!」
「違うよ、嫌とかじゃないよ、うん……覚えやすいなぁ」
ご機嫌を取るように「いい数字」「牡羊座?」と適当なことを言った。眼が吊り上がっていた天外も、徐々に態度が柔らかくなっていった。
「……アカウント、フレンド登録したから」
「あ~、ありがとな」
「SNSは一個だけ?こっちもフォローしといたから」
「ああ~、うん」
クーポン情報なんかを集めるだけのアカウント。近況も呟かないし、フォロワーもゼロ……アイコンが灰色の、tenというアカウントに、フォローされていた。
「SNSのアカウント、もう無い?」
「ないよ、ない」
「メールアドレス、電話番号、全部登録しといたから……文彰さん」
小さな頭を肩に乗せられた。甘えるような上目遣いに、困惑した――五分前、キレ散らかしていた男と、同一人物か?
首を傾げたくなる程、天外の情緒は安定していなかった。昔と変わってない。ちょっと安心して――少しだけ、文彰は不安を覚えた。
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