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紅砂は蘭武を抱きかかえたまま自室へと戻った。自分の部屋に返してくれと蘭武は必死に頼んでいたが、お前に話があるから、と言って抱きかかえられたまま部屋に通された。
蘭武は座布団の上に座らされ、紅砂の開口一番、
「お前はいい加減、自分が女であることを受け入れろ」
と、言った。
蘭武の胸に鈍い痛みが走る――。
蘭武にとって紅砂に言われる事が何より辛い。
蘭武は拳を握り締め、声を震わせた。
「それは出来ません……。今更、女らしくとか、俺には到底無理だ」
紅砂は承知の事といった風に頷き。
「無理して女らしく振舞えといってるんじゃない。お前は、お前、そのままでいい。問題は、男として、男と同じよう武道に向き合うのは止めろ、と言っているんだ。男と女では急所が異なる。女は両方の乳房がある分、男より急所が二つ多い。羅遠流は元々女人禁制だ。だから正中線を守る上下の動きが重要視され、女の急所を守る左右の動きはない。加えて男と女では体力さも歴然。女なら、女としての技を磨け!すなわち、自分自身の技だ!」
蘭武は恐る恐る顔を上げた。
「女として、自分自身の技?」
「そうだ。女には女のやり方があり、強さがある」
「女……、女……、女なんだな、俺は……どうしても……」
蘭武はまた顔を伏せ呟いた。
「だったら、こんな胸なんか……いらない……。俺には必要ないよ」
蘭武は自分の胸元に手を当て道着をきつく握り締めた。
「そんな事分からないだろ……いつかお前も子を産むかもしれない。今、その決断を下すのは早急に過ぎる」
紅砂の言葉に蘭武は首を振り、
「そんなの考えられないよ!女になんか……なりたくない……なりたくないんだ!」
膝の上に拳を置き、握り締めたまま肩を震わせ泣いた。
(子供なんか無理だ……!想う人に、この想いは決して届かない。届かせてはいけないんだから!)
蘭武の顎を伝って、涙の雫が拳に止め処なく落ちて行く。
紅砂は暫くその様子を黙って見ていたが、ゆっくりと彼女に近づくと右手を伸ばし顎に手をかけ顔を上げさせた。
涙で潤みきった瞳に紅砂の姿が映っている。
「なりたくないと言っても、お前は常に女だろ。心も、体も……」
その言葉に蘭武の目から大粒の涙が零れる。それは、もちろん自分でも分かっていることだ。でも、それを認めたら、自身の苦しみが増すとでも言わんばかりに蘭武は否定し続けた。蘭武にとって、男の振りは始まりの動機こそ違えど精神を守る重要な鎧だ。その鎧を脱いだら、どうなるか――?
蘭武は、首を横に振る。
目の前には――、紅砂がいる。
違う…、違う…、と否定する度に自身が女であることに気づかされる。そんな自分が嫌になる。
どうして女に産まれてきたのだろう?
どうしてこの人が兄なのだろう?
嫌だ…、嫌だ…、違う…違う…、を繰り返す。
言う事で、打ち消したいのだ。
女であることを―― 何より、自分の中で燻り続ける想いを……。
紅砂が蘭武に向かって身を乗り出してくる。真っ直ぐ見据えるその瞳と白皙の美貌に蘭武はいつも心奪われる。
紅砂が近付き、蘭武の耳許で囁いた。だが、それはいつものような優しさで、蘭武を包む兄の言葉とは思えない悪魔の囁きに聞こえた。
「開放しろ――、お前の中で燻ってる女をーー」
紅砂が低い声で囁くように言った。
蘭武が硬直する。
「そ……そんなものは、ありません……」
なんとか声を縛り出し、ようやく言った。
「嘘だ」
紅砂が即座に否定した。口元には艶やかな微笑みを浮かべている。そして、瞳は全てを見透かしてように蘭武を見つめている。
蘭武は退いた。
―― ああ、この人こそ、自分を惑わし、淫欲へと陥れるインキュバス―― 夢魔だ。
濡れた魅力的な唇が開き、紅砂の吐息が耳朶に当たる
「僕はお前の中の女が見たい。―― 出してみろ!」
そして、紅砂は誘うように身を引いた。
(何を言っているのだろう……本気で言っているのか?この人は……自分がそれを開放したら、困るのはこの人なのに……)
時折、蘭武は兄の紅砂が恐ろしいと感じる。
蘭武は紅砂を見つめた。
紅砂も蘭武を見ている。
紅砂の唇が開く。
「自分の思うままに体を動かしてみろ。その方が学ぶ事も多い。得る物も……」
「逆に失う物の方が多いかもしれません……」
「それは、本人次第だ。失って初めて学ぶ事もあるだろう……その時、自分がどう思うかだ。結果に対して幸と思うか、不幸と思うか、選ぶのは自分だ」
蘭武は唾を呑み込んだ。
「じ、自分にはまだ解りません……、どうすればいいのか……」
「慌てることはない。解らなくてもいい。その時が来たら自然と体が動く――、何もかもその時でいい」
はい、と小さな声で蘭武は呟く。
それを見た紅砂はそっと蘭武の髪に触れると、左手で頭を撫で自分の方へふんわりと抱き寄せた。先ほどまでの蘭武を惑わすインキュバスの姿は消え、ゆったりとした優しさだけが残る。本当に不思議な人だ。
蘭武の鼻を森緑の香が掠める。
紅砂の匂いだ。
蘭武はこの香が好きだ。深い、深い緑の香は蘭武の心を癒していく。
森の香は、人間世界のしがらみなど関係なく、蘭武を生まれたままの姿で包んでいく。
(ああ……、そうか。この人は本当に森のような人だ。森は時として人を迷わせ命を奪う恐ろしい面がある、しかし一方で人々を癒し育むことができる。この人はきっとそういう人なんだ……)
紅砂が優しく頭を撫でている。――なんて心地よい……。ずっとこのままでいれたらいいの……と蘭武は思う。
「お前はいつも僕といるときだけは女の子だな」
ガバッと蘭武が離れる。
「女の子?」
「女の子だろ?出会った時から……」
紅砂が艶やかに微笑む。
「そ、そんなことは……」
今、自分で自覚してなかったから余計に戸惑う。紅砂はひょっとして自分の想いに気づいているのだろうか?自分が紅砂の事を、好きだという事実――。でも、もしそうならば自分の中の女を出せ、とは言えないだろう。母親が違うとはいえ、二人は兄妹なのだから。
「まあいい、茶でも飲んでいくか?」
そう言って紅砂は離れ、部屋の隅に置いてある茶筒とポットを引き寄せる。
「有難う御座います」
と、蘭武は言ってテーブルに近づいた。
卯月は四鵬が部屋から出て行った後、ベットの中で、彼が血を吸った傷を眺めていた。四鵬に血を吸われた時の体中を駆け巡っていく快感は、あの幼い日の体験と同じだった。それと、四鵬の光る真紅の瞳……あの瞳もあの時と同じ――。
しかし、最初に卯月の血を吸い、傷を癒した黒い影と四鵬は明らかに違っていた。違っていたが、卯月は高まる欲情を押さえることが出来なかった。気が付けば自分の意思に反して、四鵬と肌を合わせていた。心の奥底で、違う!違う!この人は、あの時のあの人とは違う!そう叫んでも、体が思うように動かなかった。
心では、別の人を欲していたのにーー。
その事実が卯月の心を暗闇に落とした。
別のーー幼い頃に出会ったあの人を、自分は求めていたのに、四鵬と舌を絡めながら恍惚とする自分がいた。
卯月がまだ9歳だった頃。
森で血を吸い傷を癒したあの黒い影。
あの影が自分の傷口に舌を這わす度、全身に例えようのない快楽が走った。しかし、それ以上に卯月の胸を締め付けてきた感情、それは――。
哀しみ
切なさ
そんな想いが、胸の内の一点に凝縮されて行く――。それまで、茫として感じていたそれが一点に集中し、真っ暗な地の底へと吸い込まれて行く感覚。
どうして、こんな辛い想いをするのだろう……?
地の底はとても冷たく、暗く、そして、卯月自身を圧縮し、押しつぶす。
卯月の体は硬直し、筋肉が強張った。心臓の脈動も止まり、地の底で石のように硬くなっていく。苦しくて……意識も遠のき……もう……動くことも出来なかった。
しかし、遂にその苦しみが限界に達した時だった。
突如として、熱いマグマに触れたかのように、全身が熱を帯び、一気に体が上昇して行く。
今まで自分を押しつぶしていた暗い地中など、無かったかの如く体が浮遊していくと、急に視界が開けた。瞬く光の中で自分は目を大きく開き、果てしなく広がる世界を見た。
これはなんという、開放感――。
なんて優しい風――。
そして、何処からともなく湧き上がってくるクリアな感情に卯月は涙した。
あれは一体なんだったのか……?
こんな想いを私にさせるのは誰?
しかし、卯月はこの人を知っているのだ。確かに知っているはずなのだ。それ以来、卯月は時折、自分とは違う自分の夢を見る。
※
それは荒涼とした紅い大地に横たわる自分。
体中、傷ついた自分の傷口を舐め癒していく少年。
自分は最初、この少年を……いや、少年に流れる血を憎んでいた。だから、何度もこの少年が近づくと爪を立て、罵倒し、追い払おうとした。しかし、何度追い払っても、少年は自分の元にやってきた。
その時の罵声は凄惨を極めた。
少年は自分を犯し、傷つける男共に比べ遥かに軟弱だった。
少年が自分に対し、何をしたわけでもない。しかし、自分の中で、膨れ上がるどす黒い憎悪を晴らす術が何もなかった。あの男共が居る限り自分の周りには、人どころか子鼠一匹寄り付かぬ。男共の目を盗んでやって来れるのは、何故かその少年だけだった。だが、この少年が居たところで、自分の運命が変るわけでもない。あの男共から自分を解放してくれるわけでもない。少年にそんな力はない。
無い無い無い――。
何も出来ないのなら、無くていい!!
こんな奴がここに居たところで、目障りだ!!
自分が受けた苦痛を、八つ当たりでそのまま少年に与え続けた。
しかし、少年は自分が眠りにつくと、こっそり傷を舐め癒していく。自分の体に少年の舌先がそっと触れる度に、卯月は奇妙な感覚を覚え、これが少年の持つ優しさだと気づいた。
そして、次第にそれは、自分の中に渦巻く憎悪と少年の優しさが心を掻き乱していった。
何故、少年は危険を犯して、自分に罵倒されてまで、優しく自分に触れるのか……?
いつしか少年の優しく温かな舌先が傷口を這う度に、少年に気づかれぬよう自分は泣いた。泣くことで、憎悪で凝り固まった自分の心が次第に溶かされてゆく。そして、胸の内から別の澄んだ感情があふれ出す。
そんな事が数日続いた後、ついに最後の時がやってきた……。最後の時とは、まさしく自分がこの時代を自分としてきられる最期のとき――。それは、激しい痛みと苦しみ、全身から大量に流れる出血から始まった。
痛くて……痛くて……、苦しくて……苦しくて……、怖くて……怖くて……耐えられなかった。
最後にこんな思いをするのなら、早く誰かに息の根を止めてほしいと本気で願った。
その時だった――。
力強く、しっかりと……、だけど、優しくて温かな手が自分の右手を握り締める。痛みで朦朧とする自分の目にその人の姿は映らなかったが、すぐにそれが誰なのか分かった。
あの少年の手だ――。
彼の左手のぬくもり……。
そのぬくもりが自分の今の苦しみを和らげた。
気が付けば自分は泣きじゃくりながら、その少年に胸の内を全てぶつけていた。
自分が本当は、どんな風に生きたかったのか、何一つ叶わなかった自分の夢、想いを彼に語った。最後に、自分が夢見た素朴な生き方を語ることで、確かに自分がここにいた……生きていたことを証明したかったのかもしれない。
少年が始めて何かを言った。
何を言ったのかは、卯月には分からない……。分からないけど、彼の言葉は、至極夢の中の自分を安心させ、胸の内に燻り続けていた黒い霧が晴れてゆく――。ぎゅっと、握り絞める少年の左手のぬくもりと優しさに、自分は初めて感謝した。
本当に……自然と……自然と、口を付く感謝の言葉と溢れる涙。
最後の最後で知ることができたこの感情に卯月は感謝していた。
※
卯月は泣き濡れた顔で目覚める。
夢なのに、右手にはいつも少年の左手の感触が残されていた。
卯月はそっと自分の右手に触れ、あの左手の優しさを思い出すと声を上げて泣いた。誰だか分からない誰かを、自分は常に強く欲していた。
蘭武は座布団の上に座らされ、紅砂の開口一番、
「お前はいい加減、自分が女であることを受け入れろ」
と、言った。
蘭武の胸に鈍い痛みが走る――。
蘭武にとって紅砂に言われる事が何より辛い。
蘭武は拳を握り締め、声を震わせた。
「それは出来ません……。今更、女らしくとか、俺には到底無理だ」
紅砂は承知の事といった風に頷き。
「無理して女らしく振舞えといってるんじゃない。お前は、お前、そのままでいい。問題は、男として、男と同じよう武道に向き合うのは止めろ、と言っているんだ。男と女では急所が異なる。女は両方の乳房がある分、男より急所が二つ多い。羅遠流は元々女人禁制だ。だから正中線を守る上下の動きが重要視され、女の急所を守る左右の動きはない。加えて男と女では体力さも歴然。女なら、女としての技を磨け!すなわち、自分自身の技だ!」
蘭武は恐る恐る顔を上げた。
「女として、自分自身の技?」
「そうだ。女には女のやり方があり、強さがある」
「女……、女……、女なんだな、俺は……どうしても……」
蘭武はまた顔を伏せ呟いた。
「だったら、こんな胸なんか……いらない……。俺には必要ないよ」
蘭武は自分の胸元に手を当て道着をきつく握り締めた。
「そんな事分からないだろ……いつかお前も子を産むかもしれない。今、その決断を下すのは早急に過ぎる」
紅砂の言葉に蘭武は首を振り、
「そんなの考えられないよ!女になんか……なりたくない……なりたくないんだ!」
膝の上に拳を置き、握り締めたまま肩を震わせ泣いた。
(子供なんか無理だ……!想う人に、この想いは決して届かない。届かせてはいけないんだから!)
蘭武の顎を伝って、涙の雫が拳に止め処なく落ちて行く。
紅砂は暫くその様子を黙って見ていたが、ゆっくりと彼女に近づくと右手を伸ばし顎に手をかけ顔を上げさせた。
涙で潤みきった瞳に紅砂の姿が映っている。
「なりたくないと言っても、お前は常に女だろ。心も、体も……」
その言葉に蘭武の目から大粒の涙が零れる。それは、もちろん自分でも分かっていることだ。でも、それを認めたら、自身の苦しみが増すとでも言わんばかりに蘭武は否定し続けた。蘭武にとって、男の振りは始まりの動機こそ違えど精神を守る重要な鎧だ。その鎧を脱いだら、どうなるか――?
蘭武は、首を横に振る。
目の前には――、紅砂がいる。
違う…、違う…、と否定する度に自身が女であることに気づかされる。そんな自分が嫌になる。
どうして女に産まれてきたのだろう?
どうしてこの人が兄なのだろう?
嫌だ…、嫌だ…、違う…違う…、を繰り返す。
言う事で、打ち消したいのだ。
女であることを―― 何より、自分の中で燻り続ける想いを……。
紅砂が蘭武に向かって身を乗り出してくる。真っ直ぐ見据えるその瞳と白皙の美貌に蘭武はいつも心奪われる。
紅砂が近付き、蘭武の耳許で囁いた。だが、それはいつものような優しさで、蘭武を包む兄の言葉とは思えない悪魔の囁きに聞こえた。
「開放しろ――、お前の中で燻ってる女をーー」
紅砂が低い声で囁くように言った。
蘭武が硬直する。
「そ……そんなものは、ありません……」
なんとか声を縛り出し、ようやく言った。
「嘘だ」
紅砂が即座に否定した。口元には艶やかな微笑みを浮かべている。そして、瞳は全てを見透かしてように蘭武を見つめている。
蘭武は退いた。
―― ああ、この人こそ、自分を惑わし、淫欲へと陥れるインキュバス―― 夢魔だ。
濡れた魅力的な唇が開き、紅砂の吐息が耳朶に当たる
「僕はお前の中の女が見たい。―― 出してみろ!」
そして、紅砂は誘うように身を引いた。
(何を言っているのだろう……本気で言っているのか?この人は……自分がそれを開放したら、困るのはこの人なのに……)
時折、蘭武は兄の紅砂が恐ろしいと感じる。
蘭武は紅砂を見つめた。
紅砂も蘭武を見ている。
紅砂の唇が開く。
「自分の思うままに体を動かしてみろ。その方が学ぶ事も多い。得る物も……」
「逆に失う物の方が多いかもしれません……」
「それは、本人次第だ。失って初めて学ぶ事もあるだろう……その時、自分がどう思うかだ。結果に対して幸と思うか、不幸と思うか、選ぶのは自分だ」
蘭武は唾を呑み込んだ。
「じ、自分にはまだ解りません……、どうすればいいのか……」
「慌てることはない。解らなくてもいい。その時が来たら自然と体が動く――、何もかもその時でいい」
はい、と小さな声で蘭武は呟く。
それを見た紅砂はそっと蘭武の髪に触れると、左手で頭を撫で自分の方へふんわりと抱き寄せた。先ほどまでの蘭武を惑わすインキュバスの姿は消え、ゆったりとした優しさだけが残る。本当に不思議な人だ。
蘭武の鼻を森緑の香が掠める。
紅砂の匂いだ。
蘭武はこの香が好きだ。深い、深い緑の香は蘭武の心を癒していく。
森の香は、人間世界のしがらみなど関係なく、蘭武を生まれたままの姿で包んでいく。
(ああ……、そうか。この人は本当に森のような人だ。森は時として人を迷わせ命を奪う恐ろしい面がある、しかし一方で人々を癒し育むことができる。この人はきっとそういう人なんだ……)
紅砂が優しく頭を撫でている。――なんて心地よい……。ずっとこのままでいれたらいいの……と蘭武は思う。
「お前はいつも僕といるときだけは女の子だな」
ガバッと蘭武が離れる。
「女の子?」
「女の子だろ?出会った時から……」
紅砂が艶やかに微笑む。
「そ、そんなことは……」
今、自分で自覚してなかったから余計に戸惑う。紅砂はひょっとして自分の想いに気づいているのだろうか?自分が紅砂の事を、好きだという事実――。でも、もしそうならば自分の中の女を出せ、とは言えないだろう。母親が違うとはいえ、二人は兄妹なのだから。
「まあいい、茶でも飲んでいくか?」
そう言って紅砂は離れ、部屋の隅に置いてある茶筒とポットを引き寄せる。
「有難う御座います」
と、蘭武は言ってテーブルに近づいた。
卯月は四鵬が部屋から出て行った後、ベットの中で、彼が血を吸った傷を眺めていた。四鵬に血を吸われた時の体中を駆け巡っていく快感は、あの幼い日の体験と同じだった。それと、四鵬の光る真紅の瞳……あの瞳もあの時と同じ――。
しかし、最初に卯月の血を吸い、傷を癒した黒い影と四鵬は明らかに違っていた。違っていたが、卯月は高まる欲情を押さえることが出来なかった。気が付けば自分の意思に反して、四鵬と肌を合わせていた。心の奥底で、違う!違う!この人は、あの時のあの人とは違う!そう叫んでも、体が思うように動かなかった。
心では、別の人を欲していたのにーー。
その事実が卯月の心を暗闇に落とした。
別のーー幼い頃に出会ったあの人を、自分は求めていたのに、四鵬と舌を絡めながら恍惚とする自分がいた。
卯月がまだ9歳だった頃。
森で血を吸い傷を癒したあの黒い影。
あの影が自分の傷口に舌を這わす度、全身に例えようのない快楽が走った。しかし、それ以上に卯月の胸を締め付けてきた感情、それは――。
哀しみ
切なさ
そんな想いが、胸の内の一点に凝縮されて行く――。それまで、茫として感じていたそれが一点に集中し、真っ暗な地の底へと吸い込まれて行く感覚。
どうして、こんな辛い想いをするのだろう……?
地の底はとても冷たく、暗く、そして、卯月自身を圧縮し、押しつぶす。
卯月の体は硬直し、筋肉が強張った。心臓の脈動も止まり、地の底で石のように硬くなっていく。苦しくて……意識も遠のき……もう……動くことも出来なかった。
しかし、遂にその苦しみが限界に達した時だった。
突如として、熱いマグマに触れたかのように、全身が熱を帯び、一気に体が上昇して行く。
今まで自分を押しつぶしていた暗い地中など、無かったかの如く体が浮遊していくと、急に視界が開けた。瞬く光の中で自分は目を大きく開き、果てしなく広がる世界を見た。
これはなんという、開放感――。
なんて優しい風――。
そして、何処からともなく湧き上がってくるクリアな感情に卯月は涙した。
あれは一体なんだったのか……?
こんな想いを私にさせるのは誰?
しかし、卯月はこの人を知っているのだ。確かに知っているはずなのだ。それ以来、卯月は時折、自分とは違う自分の夢を見る。
※
それは荒涼とした紅い大地に横たわる自分。
体中、傷ついた自分の傷口を舐め癒していく少年。
自分は最初、この少年を……いや、少年に流れる血を憎んでいた。だから、何度もこの少年が近づくと爪を立て、罵倒し、追い払おうとした。しかし、何度追い払っても、少年は自分の元にやってきた。
その時の罵声は凄惨を極めた。
少年は自分を犯し、傷つける男共に比べ遥かに軟弱だった。
少年が自分に対し、何をしたわけでもない。しかし、自分の中で、膨れ上がるどす黒い憎悪を晴らす術が何もなかった。あの男共が居る限り自分の周りには、人どころか子鼠一匹寄り付かぬ。男共の目を盗んでやって来れるのは、何故かその少年だけだった。だが、この少年が居たところで、自分の運命が変るわけでもない。あの男共から自分を解放してくれるわけでもない。少年にそんな力はない。
無い無い無い――。
何も出来ないのなら、無くていい!!
こんな奴がここに居たところで、目障りだ!!
自分が受けた苦痛を、八つ当たりでそのまま少年に与え続けた。
しかし、少年は自分が眠りにつくと、こっそり傷を舐め癒していく。自分の体に少年の舌先がそっと触れる度に、卯月は奇妙な感覚を覚え、これが少年の持つ優しさだと気づいた。
そして、次第にそれは、自分の中に渦巻く憎悪と少年の優しさが心を掻き乱していった。
何故、少年は危険を犯して、自分に罵倒されてまで、優しく自分に触れるのか……?
いつしか少年の優しく温かな舌先が傷口を這う度に、少年に気づかれぬよう自分は泣いた。泣くことで、憎悪で凝り固まった自分の心が次第に溶かされてゆく。そして、胸の内から別の澄んだ感情があふれ出す。
そんな事が数日続いた後、ついに最後の時がやってきた……。最後の時とは、まさしく自分がこの時代を自分としてきられる最期のとき――。それは、激しい痛みと苦しみ、全身から大量に流れる出血から始まった。
痛くて……痛くて……、苦しくて……苦しくて……、怖くて……怖くて……耐えられなかった。
最後にこんな思いをするのなら、早く誰かに息の根を止めてほしいと本気で願った。
その時だった――。
力強く、しっかりと……、だけど、優しくて温かな手が自分の右手を握り締める。痛みで朦朧とする自分の目にその人の姿は映らなかったが、すぐにそれが誰なのか分かった。
あの少年の手だ――。
彼の左手のぬくもり……。
そのぬくもりが自分の今の苦しみを和らげた。
気が付けば自分は泣きじゃくりながら、その少年に胸の内を全てぶつけていた。
自分が本当は、どんな風に生きたかったのか、何一つ叶わなかった自分の夢、想いを彼に語った。最後に、自分が夢見た素朴な生き方を語ることで、確かに自分がここにいた……生きていたことを証明したかったのかもしれない。
少年が始めて何かを言った。
何を言ったのかは、卯月には分からない……。分からないけど、彼の言葉は、至極夢の中の自分を安心させ、胸の内に燻り続けていた黒い霧が晴れてゆく――。ぎゅっと、握り絞める少年の左手のぬくもりと優しさに、自分は初めて感謝した。
本当に……自然と……自然と、口を付く感謝の言葉と溢れる涙。
最後の最後で知ることができたこの感情に卯月は感謝していた。
※
卯月は泣き濡れた顔で目覚める。
夢なのに、右手にはいつも少年の左手の感触が残されていた。
卯月はそっと自分の右手に触れ、あの左手の優しさを思い出すと声を上げて泣いた。誰だか分からない誰かを、自分は常に強く欲していた。
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