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遠いひと
12. 俺とあなたは住む世界が違うんです
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翌日。
店に出勤すると、親父は電話中だった。
「あのー。メールにてソフトドリンクをご発注をいただいたのですが、お間違いないでしょうか」
もしかして、彩子さんからのオーダーが届いたのかな。
親父は困惑している。
「ムネーモシュネー様は大手の芸能事務所ですよね? どうしてうちみたいな小さな酒屋にご注文をされたのですか?」
彩子さんはやり手だから、親父を納得させる理由をすらすらと口にしたことだろう。
やがて、いたずらメールではないことが分かったらしい。親父は頭を下げた。
「お忙しいところ、ご説明ありがとうございます。ご発注、確かに承りました。今後とも沢辺酒店をよろしくお願いいたします」
受話器を置いた親父は、フーッとため息をついた。
「おはよう」
「誠司。おまえがホームページに力を入れてくれたおかげで、大手の芸能事務所から発注が来たぞ」
「やったじゃん」
「ムネーモシュネーって知ってるよな? おまえの好きなアーティスト、なんていったっけ。作曲家の貝塚征一郎の息子。彼もそこの事務所だろ」
「そうだね。それでさ、親父」
試飲会に参加する件を伝えると、親父が渋い表情になった。
「おいおい。『天渓』だと? その酒は最近開かれた国内最大級のコンペで優勝したって聞いたぜ。蔵元は確か、信州だろ? 23区内の酒屋ならともかく、西東京の住宅地にある小さな店なんて相手にしてもらえないと思うぞ」
「チャレンジする前から諦めるなんて、俺は嫌だ。試飲会で即座に商談が成立するだなんて思ってないよ。時間をかけて蔵元さんと関係を築いていきたい」
「……誠司」
「タケちゃんも頑張ってるからさ。俺、あざみヶ丘商店街を盛り上げたいんだ」
レジカウンターにいた母さんが、軽やかな笑い声を上げた。
「ふふっ。誠司も言うようになったじゃない。昔はもっとオドオドしてたのに」
「いつまでも見習いのままじゃいられないからな。仕事でもっと結果を出していきたい」
「お父さん、聞いたでしょ? 誠司は本気よ」
「……誠司。おまえが目指してるもんは、生半可な努力じゃ手に入らねぇぞ」
「うん。分かってる」
俺はシャッターを上げた。舗道から暑熱が伝わってくる。夏は大好きだ。濃い青空が綺麗だし、花火や祭りといったお楽しみがいっぱいある。
時刻は午前11時。さて、開店だ。
「いらっしゃいませ!」
俺は本日一番目のお客様を笑顔で迎えた。
◆
いよいよフォトスタジオにドリンクを届ける日がやって来た。
親父と母さんは俺を見送るために、店の外に出た。
「フレーフレー、誠司! かっ飛ばせ! できたら貝塚響也くんのサインもらってきてちょうだい」
「いや、仕事で行くんだから、そういうのはナシだ。あと、撮影の様子とかも守秘義務に反するから教えられないよ。あらかじめ言っておく」
「誠司ったら。ドがつくほど真面目ねぇ」
俺はふたりに手を振ると、出発した。
彩子さんに指定された納品先は都心の一等地にある。俺はふだんは走らない道を進んだ。フォトスタジオに貝塚さんがいると思うとテンションが上がった。でも、「俺はモブ」という呪文を心の中で繰り返して、気分を鎮めた。
順調に走っているうちに、ビル街に差しかかった。
大都会の真ん中で、垢抜けない保冷バンは悪目立ちしていることだろう。俺は高級車の後ろを安全運転で走った。
やがて目的地であるフォトスタジオが見えてきた。1階が駐車場になっている。俺は空きスペースに車を停めた。
折り畳み式の台車をセットして、ドリンクケースを載せる。
エレベーターで2階に上がると受付があった。
「副島様からドリンクのご注文をいただきました、沢辺酒店です。納品に参りました」
「少々お待ちください」
女性スタッフが彩子さんを呼びに行く。
受付ブースに、撮影スペースで交わされている会話が聞こえてくる。
「貝塚さーん。もっとナチュラルな笑顔をください!」
シャッター音が鳴り響く。
貝塚さんはあまり調子がよくないらしく、撮影は難航しているようだった。
「沢辺さん。納品ご苦労様」
本日の彩子さんは白いセットアップを華麗に着こなしている。この人自身が芸能人になれそうなほどに美しい。そして、相変わらず迫力がある。
「ドリンク、中まで運んでくれるかしら」
「かしこまりました」
俺は台車を押して、撮影スペースに近づいた。
カメラの前に立っていた貝塚さんが嬉しそうな声を出した。
「沢辺さん! 来てくれたんだね!」
「あっ、ちょっと。貝塚さーん! 今の表情でもう一回お願いしますよ」
「少し休憩させてくれ」
貝塚さんはオーバーサイズの白いシャツにジーンズを合わせていた。シンプルな服がかえって貝塚さんのよさを引き出している。
初めて会った時よりも顔色がいい。メイクの効果もあるんだろうけど、心が弾んでいることが伝わってくる。
「お疲れ様です」
俺は頭を下げた。
そして、彩子さんに伝票を差し出した。
「受領のサインをお願いします」
「分かったわ」
「沢辺さん。無視しないでよ」
すがるような目を向けられたが、俺は気づかないふりをした。
だって俺はモブで、この人はスターだ。ふたりの世界が交わることはない。
「それでいいのよ」
彩子さんは小声で囁くと、艶然と微笑んだ。
俺はサインが記された伝票をエプロンのポケットにしまった。
「お邪魔いたしました」
折り畳んだ台車を担いで、エレベーターに乗り込む。
1階に着いた。
エレベーターから出ると、後ろから名前を呼ばれた。
「沢辺さん! 行かないで」
なんと、貝塚さんが駐車場に立っていた。ダッシュで駆けつけたのだろう。頬が紅潮している。
「きみがくれたファンレターを読み返した。やっぱりきみは、僕にとって必要な人だ!」
「これからも貝塚さんを応援してます。遠くから」
「そんなこと言わないでくれ。僕のそばにいてほしい」
「言ったでしょう? 俺は推しに認識されたくないオタクだって」
「……またそれを言うの? 僕はこんなにもきみを求めているのに」
「推しと俺は同じフレームに収まっちゃいけないんですよ」
「そんな理屈、ぶっ飛ばしてやる」
貝塚さんが至近距離まで迫ってきた。
フレグランスの淡い香りが俺の鼻腔をくすぐった。美しい双眸に見つめられていると夢の世界に連れて行かれそうになる。
でも俺は現実を生きないといけない。
「貝塚さん。これからも沢辺酒店をよろしくお願いします」
「……沢辺さん。それがきみの答えなんだね」
貝塚さんはうつむいた。
推しが落ち込んでいる姿を目の当たりにして心が痛んだ。俺は感情のスイッチを切った。この人の隣にいるべき相手は、俺ではない。
保冷バンの後部に台車を積み終えると、彩子さんが現れた。
「響也くん! カメラマンが困ってるじゃない。早く戻りなさい」
「……すみません」
「そんな顔をして。今回のアー写のテーマは『満開の笑顔』よ。忘れたの?」
彩子さんの色っぽい唇からため息が漏れる。
「沢辺さん、いつもゴタゴタに巻き込んでしまってごめんなさい。響也くんは人やモノに依存しやすい傾向があるの。今はあなたにお熱みたい」
「貝塚さん。俺は、推しとファンという関係を崩すつもりはありません。あなたにはもっと、ふさわしい相手がいるでしょう? 俺とあなたは住む世界が違うんです」
重たい沈黙がのしかかる。
貝塚さんが眉根を寄せて、肩を震わせた。
「……彩子さん。撮影を抜け出して、申し訳ありませんでした。スタジオに戻るよ」
「ちゃんと笑えそう?」
「もちろん。僕もプロのはしくれだから」
そして、ふたりは去っていった。
俺は運転席に座った。
ルームミラーに映る俺の顔は平凡そのものだった。あと何日かしたら、貝塚さんは俺のことなど忘れてしまうだろう。彼は一般人が物珍しいだけなのだ。
保冷バンが動き出す。
俺は都心を離れ、あざみヶ丘に戻った。
店に出勤すると、親父は電話中だった。
「あのー。メールにてソフトドリンクをご発注をいただいたのですが、お間違いないでしょうか」
もしかして、彩子さんからのオーダーが届いたのかな。
親父は困惑している。
「ムネーモシュネー様は大手の芸能事務所ですよね? どうしてうちみたいな小さな酒屋にご注文をされたのですか?」
彩子さんはやり手だから、親父を納得させる理由をすらすらと口にしたことだろう。
やがて、いたずらメールではないことが分かったらしい。親父は頭を下げた。
「お忙しいところ、ご説明ありがとうございます。ご発注、確かに承りました。今後とも沢辺酒店をよろしくお願いいたします」
受話器を置いた親父は、フーッとため息をついた。
「おはよう」
「誠司。おまえがホームページに力を入れてくれたおかげで、大手の芸能事務所から発注が来たぞ」
「やったじゃん」
「ムネーモシュネーって知ってるよな? おまえの好きなアーティスト、なんていったっけ。作曲家の貝塚征一郎の息子。彼もそこの事務所だろ」
「そうだね。それでさ、親父」
試飲会に参加する件を伝えると、親父が渋い表情になった。
「おいおい。『天渓』だと? その酒は最近開かれた国内最大級のコンペで優勝したって聞いたぜ。蔵元は確か、信州だろ? 23区内の酒屋ならともかく、西東京の住宅地にある小さな店なんて相手にしてもらえないと思うぞ」
「チャレンジする前から諦めるなんて、俺は嫌だ。試飲会で即座に商談が成立するだなんて思ってないよ。時間をかけて蔵元さんと関係を築いていきたい」
「……誠司」
「タケちゃんも頑張ってるからさ。俺、あざみヶ丘商店街を盛り上げたいんだ」
レジカウンターにいた母さんが、軽やかな笑い声を上げた。
「ふふっ。誠司も言うようになったじゃない。昔はもっとオドオドしてたのに」
「いつまでも見習いのままじゃいられないからな。仕事でもっと結果を出していきたい」
「お父さん、聞いたでしょ? 誠司は本気よ」
「……誠司。おまえが目指してるもんは、生半可な努力じゃ手に入らねぇぞ」
「うん。分かってる」
俺はシャッターを上げた。舗道から暑熱が伝わってくる。夏は大好きだ。濃い青空が綺麗だし、花火や祭りといったお楽しみがいっぱいある。
時刻は午前11時。さて、開店だ。
「いらっしゃいませ!」
俺は本日一番目のお客様を笑顔で迎えた。
◆
いよいよフォトスタジオにドリンクを届ける日がやって来た。
親父と母さんは俺を見送るために、店の外に出た。
「フレーフレー、誠司! かっ飛ばせ! できたら貝塚響也くんのサインもらってきてちょうだい」
「いや、仕事で行くんだから、そういうのはナシだ。あと、撮影の様子とかも守秘義務に反するから教えられないよ。あらかじめ言っておく」
「誠司ったら。ドがつくほど真面目ねぇ」
俺はふたりに手を振ると、出発した。
彩子さんに指定された納品先は都心の一等地にある。俺はふだんは走らない道を進んだ。フォトスタジオに貝塚さんがいると思うとテンションが上がった。でも、「俺はモブ」という呪文を心の中で繰り返して、気分を鎮めた。
順調に走っているうちに、ビル街に差しかかった。
大都会の真ん中で、垢抜けない保冷バンは悪目立ちしていることだろう。俺は高級車の後ろを安全運転で走った。
やがて目的地であるフォトスタジオが見えてきた。1階が駐車場になっている。俺は空きスペースに車を停めた。
折り畳み式の台車をセットして、ドリンクケースを載せる。
エレベーターで2階に上がると受付があった。
「副島様からドリンクのご注文をいただきました、沢辺酒店です。納品に参りました」
「少々お待ちください」
女性スタッフが彩子さんを呼びに行く。
受付ブースに、撮影スペースで交わされている会話が聞こえてくる。
「貝塚さーん。もっとナチュラルな笑顔をください!」
シャッター音が鳴り響く。
貝塚さんはあまり調子がよくないらしく、撮影は難航しているようだった。
「沢辺さん。納品ご苦労様」
本日の彩子さんは白いセットアップを華麗に着こなしている。この人自身が芸能人になれそうなほどに美しい。そして、相変わらず迫力がある。
「ドリンク、中まで運んでくれるかしら」
「かしこまりました」
俺は台車を押して、撮影スペースに近づいた。
カメラの前に立っていた貝塚さんが嬉しそうな声を出した。
「沢辺さん! 来てくれたんだね!」
「あっ、ちょっと。貝塚さーん! 今の表情でもう一回お願いしますよ」
「少し休憩させてくれ」
貝塚さんはオーバーサイズの白いシャツにジーンズを合わせていた。シンプルな服がかえって貝塚さんのよさを引き出している。
初めて会った時よりも顔色がいい。メイクの効果もあるんだろうけど、心が弾んでいることが伝わってくる。
「お疲れ様です」
俺は頭を下げた。
そして、彩子さんに伝票を差し出した。
「受領のサインをお願いします」
「分かったわ」
「沢辺さん。無視しないでよ」
すがるような目を向けられたが、俺は気づかないふりをした。
だって俺はモブで、この人はスターだ。ふたりの世界が交わることはない。
「それでいいのよ」
彩子さんは小声で囁くと、艶然と微笑んだ。
俺はサインが記された伝票をエプロンのポケットにしまった。
「お邪魔いたしました」
折り畳んだ台車を担いで、エレベーターに乗り込む。
1階に着いた。
エレベーターから出ると、後ろから名前を呼ばれた。
「沢辺さん! 行かないで」
なんと、貝塚さんが駐車場に立っていた。ダッシュで駆けつけたのだろう。頬が紅潮している。
「きみがくれたファンレターを読み返した。やっぱりきみは、僕にとって必要な人だ!」
「これからも貝塚さんを応援してます。遠くから」
「そんなこと言わないでくれ。僕のそばにいてほしい」
「言ったでしょう? 俺は推しに認識されたくないオタクだって」
「……またそれを言うの? 僕はこんなにもきみを求めているのに」
「推しと俺は同じフレームに収まっちゃいけないんですよ」
「そんな理屈、ぶっ飛ばしてやる」
貝塚さんが至近距離まで迫ってきた。
フレグランスの淡い香りが俺の鼻腔をくすぐった。美しい双眸に見つめられていると夢の世界に連れて行かれそうになる。
でも俺は現実を生きないといけない。
「貝塚さん。これからも沢辺酒店をよろしくお願いします」
「……沢辺さん。それがきみの答えなんだね」
貝塚さんはうつむいた。
推しが落ち込んでいる姿を目の当たりにして心が痛んだ。俺は感情のスイッチを切った。この人の隣にいるべき相手は、俺ではない。
保冷バンの後部に台車を積み終えると、彩子さんが現れた。
「響也くん! カメラマンが困ってるじゃない。早く戻りなさい」
「……すみません」
「そんな顔をして。今回のアー写のテーマは『満開の笑顔』よ。忘れたの?」
彩子さんの色っぽい唇からため息が漏れる。
「沢辺さん、いつもゴタゴタに巻き込んでしまってごめんなさい。響也くんは人やモノに依存しやすい傾向があるの。今はあなたにお熱みたい」
「貝塚さん。俺は、推しとファンという関係を崩すつもりはありません。あなたにはもっと、ふさわしい相手がいるでしょう? 俺とあなたは住む世界が違うんです」
重たい沈黙がのしかかる。
貝塚さんが眉根を寄せて、肩を震わせた。
「……彩子さん。撮影を抜け出して、申し訳ありませんでした。スタジオに戻るよ」
「ちゃんと笑えそう?」
「もちろん。僕もプロのはしくれだから」
そして、ふたりは去っていった。
俺は運転席に座った。
ルームミラーに映る俺の顔は平凡そのものだった。あと何日かしたら、貝塚さんは俺のことなど忘れてしまうだろう。彼は一般人が物珍しいだけなのだ。
保冷バンが動き出す。
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