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遠いひと
11. 人生はチャレンジしないとね!
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人の心はとても弱い。
些細なことで揺れるし、魔が差してしまうこともある。
アパートに戻った俺は真っ先にSNSのアカウントを削除した。貝塚さんと直に対面したことをうっかり漏らさないようにするためだ。
退会ボタンを押すと、気持ちが定まった。
俺はこれからも一介のモブとして貝塚さんを応援していこう。モブにだってできることはある。CDを買ったり、カラオケで貝塚さんの楽曲を歌ったり、身近な人に貝塚さんの魅力を伝えたり。
ファンレターを書くことはもう、やめないといけないな。
俺の名前を見たら、彩子さんは新たなストーカーの登場かと神経を尖らせてしまうに違いない。
貝塚さん。
お話できて嬉しかったです。でも、すべては夢だったと思って忘れることにしますね。
シャワーを浴びた俺はベッドに横たわった。
思いのほか疲れていたらしく、すぐに眠りの波に呑み込まれた。
◆
貝塚さんと対面した翌日。
仕事を終えた俺は、友人と食事に出かけた。
あざみヶ丘から三駅離れたエリアに新しくできた創作フレンチは、期待に違わぬ美味しさだった。高い技術によって盛り付けられた料理の外観も美しい。
俺は鴨のコンフィを食べながら、どんな日本酒が合うか考えた。フレンチといえばワインだけど、日本酒とのペアリングだって乙なものだ。
向かいの席に座るタケちゃんが言った。
「誠司、どうしてアカウントを削除したんだ?」
幼なじみの質問に対して、俺は笑顔で言葉を返した。
「SNSに渦巻く負のエネルギーが嫌になっちゃって」
「最近、おまえが大好きな貝塚響也、盛大にディスられてたよな」
「うん。あれは相当堪えたよ」
俺はワイングラスを傾けた。赤ワインの深い香りを味わう。
「それに推し活ってさ。推しに対して理想を押し付ける行為だろう? だから、自制しようって思ったんだ」
「確かにそういう一面はあるかもなー。俺もSNSで激賞されると居心地が悪くなるよ。うちは地味な花屋だからさ。そんな風にスポットライトを当てないでくれって逃げ出したくなるぜ」
タケちゃんはあざみヶ丘で花屋をやっている。
野球選手のようにガタイがよくて、精悍な顔立ちのタケちゃんには女性ファンが多い。SNSのコメント欄にはいつもハートマークが飛び交っている。タケちゃんには結婚を約束している彼女がいるから、あわよくば交際したいと考えているお客様の存在は悩みの種であろう。
「貝塚響也を応援してるおまえの気持ち、遠くからだって届くと思うよ」
「タケちゃん、ありがとう」
俺たちは近況について語り合った。
「主力商品が終売になるらしくってさ。親父に、日本酒業界に未来はない。兄貴の会社で働けって言われちゃった」
「誠司は昔から酒屋のおっさんに憧れてたのにな」
「俺は自分で体験してみないと納得できないタイプだからな。酒の卸問屋をやめて家業に合流するって言った時、親父はあえて反対しなかったんだと思う」
「実際どうなの。酒屋、楽しいんだろ?」
「もちろん。辞める気なんてないよ」
ふたりのグラスが空になった。
飲み物のリストに目を走らせる。すると、『天渓』という見慣れぬ日本酒の名前があった。どんな酒だろう? 飲んでみたい。
俺は『天渓』を注文した。
ほどなくして運ばれてきた『天渓』を口に含む。すると、味覚が拡張されたかのような心地になった。
この酒、香りも強くて味の方も主張が激しい。
最近のトレンドである、飲みやすくて日本酒らしくない日本酒とは大きく異なる。スモークチーズと合わせれば、芳醇な味わいが俺を包み込んだ。
「あの。『天渓』ってどこの蔵元さんですか?」
ウェイターに訊ねてみる。信州にあるアズミノ酒造という蔵元さんだと教えられた。
信州か。発酵食品とマッチする個性が強い酒の産地だ。『天渓』のような存在感がある酒が作られたのも納得がいく。それに信州はなんといっても水がうまい。
「おっ。誠司、目がめっちゃキラキラしてるな」
「タケちゃん。俺、出会っちゃったよ。新たなる名酒に」
店を出た俺は、スマートフォンで『天渓』について調べた。
近年生み出された酒で、取引先をかなり絞っているらしい。日本酒マニアのブログでは、なかなか手に入らないレアな酒だと解説されていた。
アズミノ酒造さんは商品の横流しに関してかなり厳しいらしく、法外な価格で転売しているサイトは見当たらなかった。
「俺……うちの店で『天渓』を売りたい」
「いいんじゃねぇの? チャレンジしてみろよ」
「つながりがゼロの蔵元さんにアタックするのは初めてだけどさ。あざみヶ丘のみなさんに『天渓』を知ってもらいたい」
夜の街を歩きながら、タケちゃんが熱っぽく語った。
「俺たちであざみヶ丘商店街を盛り上げていこうぜ!」
「うん。頑張ろうな!」
さて、どうやってアズミノ酒造さんにアプローチしていこう?
タケちゃんと別れて、アパートに戻った俺は改めてネット検索をしてみた。すると、酒販店や飲食店といった業界の人間を対象とした試飲会に、アズミノ酒造さんが出展するという情報を知った。
参加申し込みの締切は、今日までとなっている。親父はもう寝ているだろう。相談している時間はない。
俺は応募フォームに必要事項を入力した。親父に怒られるのが怖くて、いい仕事ができるかってんだ。
もしもうちが『天渓』の特約店になれたら、地域の人たちに最高の美酒を届けることができる。
俺はスマートフォンのアプリをタップした。
夢を応援してもらいたい時は、貝塚響也のセカンドアルバムに収録された曲、『答えのない宿題』を聴きたくなる。
「結構意地悪なんだね。でもそんなだから好きだよ、運命さん」
俺は近所迷惑にならないボリュームでお気に入りの曲を歌った。
未来はまっさらだ。努力によってきっと変えられる。
壁掛けカレンダーに印をつける。試飲会当日が楽しみで仕方がなかった。
些細なことで揺れるし、魔が差してしまうこともある。
アパートに戻った俺は真っ先にSNSのアカウントを削除した。貝塚さんと直に対面したことをうっかり漏らさないようにするためだ。
退会ボタンを押すと、気持ちが定まった。
俺はこれからも一介のモブとして貝塚さんを応援していこう。モブにだってできることはある。CDを買ったり、カラオケで貝塚さんの楽曲を歌ったり、身近な人に貝塚さんの魅力を伝えたり。
ファンレターを書くことはもう、やめないといけないな。
俺の名前を見たら、彩子さんは新たなストーカーの登場かと神経を尖らせてしまうに違いない。
貝塚さん。
お話できて嬉しかったです。でも、すべては夢だったと思って忘れることにしますね。
シャワーを浴びた俺はベッドに横たわった。
思いのほか疲れていたらしく、すぐに眠りの波に呑み込まれた。
◆
貝塚さんと対面した翌日。
仕事を終えた俺は、友人と食事に出かけた。
あざみヶ丘から三駅離れたエリアに新しくできた創作フレンチは、期待に違わぬ美味しさだった。高い技術によって盛り付けられた料理の外観も美しい。
俺は鴨のコンフィを食べながら、どんな日本酒が合うか考えた。フレンチといえばワインだけど、日本酒とのペアリングだって乙なものだ。
向かいの席に座るタケちゃんが言った。
「誠司、どうしてアカウントを削除したんだ?」
幼なじみの質問に対して、俺は笑顔で言葉を返した。
「SNSに渦巻く負のエネルギーが嫌になっちゃって」
「最近、おまえが大好きな貝塚響也、盛大にディスられてたよな」
「うん。あれは相当堪えたよ」
俺はワイングラスを傾けた。赤ワインの深い香りを味わう。
「それに推し活ってさ。推しに対して理想を押し付ける行為だろう? だから、自制しようって思ったんだ」
「確かにそういう一面はあるかもなー。俺もSNSで激賞されると居心地が悪くなるよ。うちは地味な花屋だからさ。そんな風にスポットライトを当てないでくれって逃げ出したくなるぜ」
タケちゃんはあざみヶ丘で花屋をやっている。
野球選手のようにガタイがよくて、精悍な顔立ちのタケちゃんには女性ファンが多い。SNSのコメント欄にはいつもハートマークが飛び交っている。タケちゃんには結婚を約束している彼女がいるから、あわよくば交際したいと考えているお客様の存在は悩みの種であろう。
「貝塚響也を応援してるおまえの気持ち、遠くからだって届くと思うよ」
「タケちゃん、ありがとう」
俺たちは近況について語り合った。
「主力商品が終売になるらしくってさ。親父に、日本酒業界に未来はない。兄貴の会社で働けって言われちゃった」
「誠司は昔から酒屋のおっさんに憧れてたのにな」
「俺は自分で体験してみないと納得できないタイプだからな。酒の卸問屋をやめて家業に合流するって言った時、親父はあえて反対しなかったんだと思う」
「実際どうなの。酒屋、楽しいんだろ?」
「もちろん。辞める気なんてないよ」
ふたりのグラスが空になった。
飲み物のリストに目を走らせる。すると、『天渓』という見慣れぬ日本酒の名前があった。どんな酒だろう? 飲んでみたい。
俺は『天渓』を注文した。
ほどなくして運ばれてきた『天渓』を口に含む。すると、味覚が拡張されたかのような心地になった。
この酒、香りも強くて味の方も主張が激しい。
最近のトレンドである、飲みやすくて日本酒らしくない日本酒とは大きく異なる。スモークチーズと合わせれば、芳醇な味わいが俺を包み込んだ。
「あの。『天渓』ってどこの蔵元さんですか?」
ウェイターに訊ねてみる。信州にあるアズミノ酒造という蔵元さんだと教えられた。
信州か。発酵食品とマッチする個性が強い酒の産地だ。『天渓』のような存在感がある酒が作られたのも納得がいく。それに信州はなんといっても水がうまい。
「おっ。誠司、目がめっちゃキラキラしてるな」
「タケちゃん。俺、出会っちゃったよ。新たなる名酒に」
店を出た俺は、スマートフォンで『天渓』について調べた。
近年生み出された酒で、取引先をかなり絞っているらしい。日本酒マニアのブログでは、なかなか手に入らないレアな酒だと解説されていた。
アズミノ酒造さんは商品の横流しに関してかなり厳しいらしく、法外な価格で転売しているサイトは見当たらなかった。
「俺……うちの店で『天渓』を売りたい」
「いいんじゃねぇの? チャレンジしてみろよ」
「つながりがゼロの蔵元さんにアタックするのは初めてだけどさ。あざみヶ丘のみなさんに『天渓』を知ってもらいたい」
夜の街を歩きながら、タケちゃんが熱っぽく語った。
「俺たちであざみヶ丘商店街を盛り上げていこうぜ!」
「うん。頑張ろうな!」
さて、どうやってアズミノ酒造さんにアプローチしていこう?
タケちゃんと別れて、アパートに戻った俺は改めてネット検索をしてみた。すると、酒販店や飲食店といった業界の人間を対象とした試飲会に、アズミノ酒造さんが出展するという情報を知った。
参加申し込みの締切は、今日までとなっている。親父はもう寝ているだろう。相談している時間はない。
俺は応募フォームに必要事項を入力した。親父に怒られるのが怖くて、いい仕事ができるかってんだ。
もしもうちが『天渓』の特約店になれたら、地域の人たちに最高の美酒を届けることができる。
俺はスマートフォンのアプリをタップした。
夢を応援してもらいたい時は、貝塚響也のセカンドアルバムに収録された曲、『答えのない宿題』を聴きたくなる。
「結構意地悪なんだね。でもそんなだから好きだよ、運命さん」
俺は近所迷惑にならないボリュームでお気に入りの曲を歌った。
未来はまっさらだ。努力によってきっと変えられる。
壁掛けカレンダーに印をつける。試飲会当日が楽しみで仕方がなかった。
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