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第8話 旦那様、どうか俺を嫌いになってください

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「白い結婚とはあの、寝室を別にするということですか」

 俺が確認を入れると、ヴァイゼンは「いかにも」と頷いた。

「出会ったばかりの男と契れと言われても嫌だろう? まずは個室で休んで、南域なんいきでの暮らしに慣れるといい」
「……お心遣いありがとうございます。ですが、1年間白い結婚を続けたらその婚姻は無効になるのはご存じですよね?」
「ああ、もちろん。1年以内にきみを惚れさせてみせるさ」

 ヴァイゼンの緑青ろくしょうの瞳に自信がのぞく。
 やはりこの人は優しくてもアルファだ。ひと皮剥けば、独占欲でギラギラしている。
 俺は悪妻計画について考え直した。短期間で騒ぎを起こすよりも、じっくり1年間かけて俺のダメさ具合を分かってもらった方がいいかもしれない。俺があまりにも問題児だと、弟のネルヴァスの縁談にまで影を落としてしまう。

「よろしくお願いします、ヴァイゼン様」

 よし、腹は決まった。
 俺は晴れやかな笑顔をヴァイゼンに向けた。
 どうか俺のことを嫌いになって。
 俺を疎ましいと遠ざけてくれ。
 神様なんか信じちゃいないけど、俺は一生を寺院で修道士として過ごすよ。望まない妊娠なんか願い下げだ。
 俺の胸のうちなど何も知らないヴァイゼンが、とろけるようなまなざしを俺に送る。
 今は俺の容姿に見惚れているようだが、そのうち本性を知れば態度を変えるだろう。アルファのプライドを傷つけてやる。
 許せ、ヴァイゼン。
 これは俺が自由を勝ち取るために必要なことなんだ。

「レムート。ゆっくりと家族になっていこう」

 無邪気そのもののヴァイゼンの笑顔から俺は視線をそらした。
 ヴァイゼンは貴族階級とは思えないほど、まっすぐな男だ。やめてくれ。そんな愛おしそうな目で俺を見ないでくれ。
 俺はあんたに嫌われなきゃいけないんだから。

「では屋敷に向かうか。歩けるか?」
「はい。ですが……少々、暑いです」

 今、俺たちがいる浜辺には太陽が照りつけている。潮風はあるものの、なかなかの熱気だ。

「その肩にかけているストールは取ったらどうだ。俺が持とう」
「そうします……」
「長袖の上衣は着たままの方がいいな。せっかくの白い肌が日に焼けてしまう」
「白い肌ですか……。やっぱり俺をそういう目でご覧になってるのですね。いやらしい」

 俺がツンと顔を背ければ、ヴァイゼンが呵々大笑かかたいしょうした。

「すまんな。俺は自他ともに認めるスケベ野郎だ。きみに触れたくてたまらない」
「では、お好きになさったら。どうせ俺はあなたのものです」
「スケベ野郎にも志というものがあってだな。無理強いは嫌なんだ。きみが俺を求めてくれた時に、たっぷりと応えたい」
「はっ。そんな日は来ませんよ」

 悪妻とは何か。
 それは旦那様の面目を丸潰しにする、気の強い嫁である。
 俺はヴァイゼンに挑発的な視線を送った。

「この俺を惚れさせる? もしもあなたの願いが叶ったならば、俺は足の指で鍵盤楽器を弾いて差し上げますよ」

 俺の心は氷解のように凍りついているし、どんな山道よりも捻じ曲がっている。さて、ヴァイゼンは領地経営のかたわら、俺を乗りこなせるかどうか。見ものだな。

「……姉上につねづね諭されている。アルファの繁栄はオメガの犠牲のもとに成り立っていると」
「話が早いですね。俺はアルファなど大嫌いです」
「だろうな」

 ヴァイゼンは俺と距離をとって歩き始めた。

「俺はきみから逃げない。どんな感情でも受け止める。だから、そばにいてほしい」
「もっと従順なオメガを探せばいいのでは?」
「自分がない人間は、この大自然のなか生きていけない。それに俺は気の強い美人が好みだ。どうぞ俺を尻に敷いてくれ」
「座り心地が悪そうな座布団ですね」

 俺のイヤミにもヴァイゼンはくじけなかった。
 からからと気持ちよさそうに声を上げて笑う。

「肖像画を見た時は真珠のような姫君だと思っていたが、きみはあれだな。真珠は真珠でも黒真珠だ。一癖も二癖もある」
「いつでも離縁してくださいませ。俺の覚悟は決まっております」
「そんな日は来ないさ」

 ヴァイゼンとの会話は、途切れることがなかった。
 俺がどんなに毒舌を吐いても、ヴァイゼンはユーモアを持って受け止めた。殴られてもおかしくないほどの暴言をいくつも放ったというのに、このアルファの精神構造は一体、どうなっているのだろう。
 姉上のノノネ様の教育の成果なのだろうか。
 俺のことをただのオメガではなく、ひとりのレムートとして見てくれている気がする。
 調子が狂う。
 キレられた方がどんなにいいか。

「さあ、着いたぞ。俺たちの家だ」

 ヴァイゼンが指さしたのは、高台の上に立った大きな屋敷だった。南域なんいきらしく窓を広々と取った、開放的な作りである。庭先に南国の花が咲いている。そういえば、季節は春だった。常緑樹の大きな葉が目に鮮やかだ。

「まずはきみの部屋に案内しよう」

 俺が案内されたのは、日陰にある一室だった。
 天蓋付きのベッドに飾り棚、そして書き物机に鏡台。いずれの調度品も南域風の素朴な造りだった。
 俺は飾り棚の上に置かれた木彫りの鳥をそっと抱き上げた。可愛いな、これ。
 
「その鳥の像はな。夫婦でひとつずつ持つんだ。情を交わしてもいいと思ったら、俺の部屋の飾り棚にきみが持っている鳥の像を置いてくれ」
「……そんなことは起こり得ません!」
「そう言うと思った。一応、知識として伝えておく」
「あなたが俺の部屋に鳥の像を置くこともあるのですか?」
「それは御法度だ。南域では、あくまで夜の主導権は妻にある」
「……アルファとしては不服なのでは?」

 ヴァイゼンは「そうだなあ」と腕組みをした。

「俺の本能はきみを奪えと命じてくるが、そいつに負けたら俺は俺でなくなってしまう」
「抑制剤でラットを回避しているのですか」
「ああ。その点は安心してくれ。弾みできみを抱きたくない」
「ヴァイゼン様は理想主義者でいらっしゃる。アルファとオメガの政略結婚に愛など生まれるものですか」

 俺が言い放つと、ヴァイゼンは毅然とした態度で否定した。

「この国ではこれまでにそういった不幸な結婚があったかも知れない。でも俺はきみを幸せにしたい」
「ならば俺に自由をください。孤独と引き換えで結構ですので」
「……喋り疲れてしまっただろう。飲み物を持ってこよう」

 ヴァイゼンは廊下へと消えていった。
 まさか領主様みずから茶坊主の真似をするのかと思っていると、そのまさかだった。ヴァイゼンはレモネードをお盆にのせて、嬉しそうな顔で運んできた。
 俺は「ありがとうございます……」と言うしかなかった。
 アルファがオメガに尽くす? そういうプレイの一環なのか?
 夜になれば荒々しく俺を蹂躙するんだろう。

「飲んでみてくれ。うまいぞ」
「では……」

 レモネードは蜂蜜とレモンの配合が絶妙だった。さっぱりとしていて、飽きがこない。俺はつい、グラスを干してしまった。
 いや、悪妻としては正解か。
 食べ方が卑しい妻は嫌われるだろう。
 俺がわざと唇を舐めた。すると、ヴァイゼンが神妙な面持ちになった。
 ん?
 俺の下品な仕草が気に障ったのかな。
 してやったりと思っていると、ヴァイゼンが「あーっ!」と大声を上げて、手で顔を覆った。

「俺の嫁はやることがいちいち可愛すぎる!」
「どこがですか。今の俺の仕草は、無作法の極みでしょう」
「だってレモネードを美味そうに飲んだあと、唇をぺろりって。愛くるしいにも程がある!」

 えーと。
 なんですかその、俺が何をやってもご褒美ですみたいな表情は。

「きみがやることならば、あくびでもなんでも上等だよ」
「俺、悪妻でしょう? あなたをこき使って、愛情を試すことばかり言っている」
「甘噛みのようでたまらない」
「……あなたがそうやって甘やかしたら、俺はとんでもない毒夫になるかも。歴史書に出てくるレオニエのように」
「そんなにも澄んだ瞳をしたきみがレオニエ? ははっ。あり得ない」
「俺の容姿はアルファの劣情を誘うための罠みたいなもので……。賞賛には値しません」
「レムート。きみにはまず、自分自身のことを好きになってほしい」

 ヴァイゼンは飾り棚に置かれた本を指差した。

「この南域がオメガの地位向上のために取り組んでいる事業をまとめた本だ。気が向いたら読んでみてほしい」
「……あなたと語らうよりは有意義そうですね」
「夕餉まで時間がある。ゆっくり休んでくれ。何かあったらその呼び鈴を鳴らすんだぞ」
「失礼致します。わたくしはザンダーと申します。レムート奥様、初めまして」

 俺の居室に、家令のザンダーなる男がやって来た。
 おっ、いいじゃないか。ザンダーは高齢でちょっと狷介けんかいな雰囲気があり、小うるさそうだ。俺は毒夫レオニエになってやると心の中で念じながら、ザンダーに高飛車に命じた。

「この衣装は暑い。着替え、それも最高級のものを用意してくれないか」

 ザンダーの金壺まなこが鋭く光った。
 よーし。
 家令に嫌われる作戦、成功だ。
 しかし俺はこの後、知ることになる……。
 ヴァイゼン・テス・ワイゼルが率いる者たちのイカれっぷりを……。
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