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本編02「本命になるためには?」
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俺が案内されたのは、1LDKのマンションだった。恋瀬市の中心部から地下鉄で三駅の距離にある。住宅地のためか、とても静かだ。
「緊張してる?」
「はい……」
「そうだよね、初対面だし。でも、どうかラクにして」
「ありがとうございます」
名雪はネクタイを外した。
俺の目はつい、器用に動く大きな手に釘付けになってしまう。名雪は俺の熱っぽい視線を気にしてはいないようだった。イケメンは注目を浴びることに慣れているのだろう。
名雪はリビングにユニット畳を敷いていた。藍色の縁に囲まれたユニット畳は真新しく、清潔感があった。
「本当は和室がよかったんだけど、立地が合わなくて」
「なるほど」
名雪がカーテンを開けて、ベランダから顔を出した。ひゅうっと冷たい風が舞い込んできたが、名雪は楽しそうである。
「俺、ベランダから月をボーッと眺めるのが好きでさ」
「……分かります。無心になれますよね」
「冬の空ってやっぱり澄んでるね」
俺たちはしばし隣り合ってベランダから空を見上げた。濃紺の天幕に冴えた三日月が輝いている。
寒がりの名雪であるが、天体観測のためならば冷気を我慢できるらしい。
「さて。そろそろ切り上げようか。きみが風邪を引いてしまったら困るし」
「俺は健康だけが取り柄ですよ」
「そうなの? 羨ましいな。俺さあ、喉が弱くて。しょっちゅう風邪を引いてる」
俺と名雪はローテーブルを挟んで、向かい合って座った。名雪はすっかりくつろいだ表情である。
「早峰くんの趣味は?」
「……散歩と昼寝ですかね」
「へえ。可愛いね」
名雪が微笑む。写真を撮って部屋に飾りたくなるほど魅惑的な笑顔だった。
まずい。名雪にどんどん引き込まれている。俺はいつも自分から惚れてしまって相手に軽く扱われる。同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。俺は名雪の美貌から視線を外した。
「名雪さんのお部屋、綺麗に片付いてますね」
「いつ異動を告げられるか分からないから、極力モノを置かないようにしてるんだ」
その時、バスルームからピピピッという音が聞こえてきた。
「風呂の準備ができたみたいだ」
「お先にどうぞ」
「いいの?」
「名雪さん、寒がりなんでしょ。早く暖まってください」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
名雪が入浴しているあいだ、俺はスマートフォンを眺めた。先日登録したマッチングアプリに何件かメッセージが入っていた。「ちょっとMっ気のあるネコです」という俺のプロフィールに釣られたのだろう。
俺は自己嫌悪に陥った。
寂しいカラダを持て余しているくせに、明らかにヤリモクの相手には冷めてしまう。俺は肌を合わせるだけでなく、心も通わせたい。ロマンティックすぎる願望だと分かってはいるが考えを改めることはできない。
「お待たせ。早峰くん、次どうぞ」
「はい。ありがとうございます」
名雪がバスルームから出てきた。厚手のルームウェアを着ている。
湯上がりのイケメンという生き物は、なかなかに厄介だった。
ただでさえ美しい肌がほんのりと上気していて、色っぽくてたまらない。洗いたての髪からはシャンプーのいい匂いがしてきて、思わず手触りを確かめたくなった。
気を抜くと、どんどんエロティックな妄想に耽ってしまう。
俺はバスルームに向かった。
ぴかぴかに磨かれたバスルームで裸になり、体を洗う。全身は清まっていったが、俺の心は欲望まみれだった。
ソフレになろうと誘ったくせに、俺はイケメンの名雪に抱かれたがっている。
ふわふわのバスタオルで体を拭いたあと、名雪が用意してくれたルームウェアに着替えた。そして、ドライヤーで髪を乾かす。
リビングに戻ると、名雪がスマートフォンで音楽を聴いていた。ゆったりとしたリズムの洋楽だった。歌詞の響きからするとフレンチポップスのようだ。名雪ならばパリの街並みを歩いても絵になるだろう。
「もっとゆっくり入ってくれてよかったのに」
「いえ、いつも早いんです。名雪さんって音楽が好きなんですね」
「俺、ともかく癒されたいんだよ。職場で酷使されてるから」
「ゼネコンともなると、案件の規模が大きいですよね」
「早峰くん、仕事は何関係なの?」
「俺は技術屋です。光ファイバーケーブルの補修や発注を担当してます」
「すごい。理系なんだ」
「いえいえ。学生時代は数学や物理で苦労しましたよ」
しばし雑談を交わしたあと、俺は名雪に提案した。
「紙とペンを借りてもいいですか? ソフレの契約書を作りましょう。後腐れがないように」
「いいよ。大事なことだ」
名雪がさっと筆記用具を用意する。
俺はローテーブルの上にルーズリーフを広げ、ペンを握った。
「まず第一に、添い寝以外の行為はしないこと。キスもハグも握手もなしです」
「うん、分かった」
「次に、お互いの恋愛事情には干渉しないこと。そして……」
「どちらかに本命ができたら、速やかに関係を解消すること。そんなところかな?」
「そうですね」
ソフレの三原則が決まった。俺と名雪はサインを書き入れた。日付を記すことも忘れない。
俺はスマートフォンでルーズリーフの写真を撮った。
「原本は名雪さんが保管しておいてください」
「了解」
「あとはこのルールを運用してみて、気づいた項目があれば随時追加しましょう」
「そうだね。お互いにとって利がある関係にしよう」
名雪はスマートフォンに触れると、俺に訊ねた。
「早峰くんの好きな音楽は?」
「俺はあんまり詳しくなくて」
「今は、どんな曲が聴きたい気分?」
「そうですね。ゆったりリラックスできる、落ち着いた感じがいいですね」
「じゃあ、これなんてどうかな」
クラシックが流れ始めた。弦楽器が奏でるゆるやかなメロディが心の深いところに染み込んでいく。
「この音色はチェロですか?」
「そう。ブラームスの子守唄」
「名雪さんってクラシックもお好きなんですね」
「うん。寝る前にお気に入りの曲を聴くのが、俺のストレス解消法だよ」
俺たちは美しい旋律に耳を傾けた。
何曲かクラシックを堪能したあと、名雪が言った。
「そろそろ寝ようか」
「……そうですね」
名雪が寝室に移動した。俺もあとをついていった。
6畳ほどの寝室にもユニット畳が敷かれていた。名雪は手早く布団の準備をした。
ついにこの瞬間がやって来た。
俺の肩は強張っていった。
「そんなに緊張しないで。何もしないから」
「……はい」
俺は名雪とは目を合わせずに、布団の中に入った。シングルの布団なので男ふたりが横になると密着せざるを得ない。
電気が消えた。視界が真っ暗になる。
名雪の体温をルームウェア越しに感じて、俺の胸が高鳴った。こんな状態で眠れるだろうか?
加速していく脈拍を整えるために深呼吸を繰り返す。
そんな俺に名雪が優しく声をかけてきた。
「やっぱりやめる?」
「いえ……。久々の人肌だから、ちょっと戸惑っちゃって」
「俺もだよ」
イケメンなのに、名雪はしばらく相手がいなかったのか? 名雪の恋愛事情について興味がないといえば嘘になる。でも、先ほど交わしたソフレ三原則に抵触するから俺は口をつぐんだ。
俺たちは無言になった。
冷えた夜の部屋に、ふたりの吐息が満ちていく。
名雪のぬくもりとシャンプーの香りに慣れてきた頃、俺は眠りの淵に引き込まれた。
▪️
スマートフォンのアラームが鳴った。
朝が訪れたようだ。
いつもは4時頃に寒さで一旦目が覚めるのに、起床時刻である6時までぐっすりだった。珍しいこともあるものだ。
そうか。
俺は名雪に添い寝をしてもらったのだった。
布団の中に名雪の姿はなかった。おそらく洗面所にいるのだろう。寝起きの無防備な姿をソフレに見せたくないという気持ちはよく分かる。
俺の方は名雪に寝顔を見られてしまったということか。恥ずかしさが込み上げてくる。
手ぐしで簡単に髪を整えて、洗面所へと向かう。
洗面台にいた名雪がこちらを振り返った。晴れやかな表情をしている。
「すごくよく眠れたよ。早峰くんは?」
「俺もです」
「そっか。俺、イビキかいてなかった?」
イケメンの名雪とイビキというものが結びつかなくて、俺は思わず笑った。
「なんで笑うの」
「名雪さんみたいにカッコいい人は、イビキなんてかかないでしょ」
「俺、おっさんだよ。もうすぐ33歳になる」
「そうなんですか? 意外ですね」
名雪は若々しさと落ち着きを兼ね備えている。こんないい男がどうしてソフレを作るほど孤独なんだと思いかけたところで、俺はストップをかけた。ソフレ三原則を忘れてはいけない。名雪の恋愛事情には首を突っ込まないこと!
「早峰くん。洗顔フォーム、俺のでよかったら使って」
「ありがとうございます」
「朝メシは……困ったな。俺、いつもパックごはんにふりかけなんだ。手抜きもいいところだろう?」
「食費は折半という項目を契約書に追加した方がいいかもしれませんね」
「きみ、よく気がつくね」
「過去の経験から、お金関係は揉めやすいと思ったので」
俺に向かって愛していると囁いたその口で、金を返せと叫んできた男もいたっけ。「おまえは俺の部屋でよく料理を作っていた。その光熱水費をもらっていない」というのが相手の言い分だった。俺、ひどい奴と付き合ってたな。
思わず表情が沈む。
すると、名雪が俺に気遣うような視線を投げかけてきた。
「……ソフレ契約に抵触するから詳しくは聞かないけど、早峰くんってもしかして男運悪い?」
「人並みの幸せには遠かったですね」
「そうなんだ……。俺の前ではあんまり寂しそうな顔はしないでほしい。放っておけなくなる……」
そっちこそ、そんな殺し文句を言わないでほしい。気を抜いたら惚れてしまいそうだ。
俺は洗面台に立って、顔を洗った。
冷たい水によって意識がピリッと引き締まる。
名雪が使っている洗顔フォームはドラッグストアでよく安売りされているものだった。イケメンだが美容に凝るタイプではないらしい。
そういえば、美容マニアの男とも付き合ったことがあるなあ。そいつは食べ物の好き嫌いが激しい奴だったと回想しかけたところで、名雪に「早峰くん」と呼びかけられた。
「過去にトリップするのはそのぐらいにして」
「すみません」
「ごはん食べよう」
「はい」
ふたり揃ってローテーブルのそばに置かれた座布団の上に腰を下ろす。
名雪がテレビをつけた。
モーニングショーの司会の賑やかな声がリビングに響いた。
俺はパックごはんにふりかけ、そしてインスタントの味噌汁という食事を名雪と一緒にとった。
「朝はいつもこのチャンネルなんだ。構わない?」
「はい」
モーニングショーでは東京のグルメ特集をやっていた。ビリヤニという料理があるのか。恋瀬市でも食べられるのかな?
ローテーブルの上に視線を移せば、寂しい食事がのっかっている。
「名雪さん。あの、勝手な話なんですが俺、結構大食いなんですよ。今度泊まりに来る時、食材を持ち込んでもいいですか?」
「うん、もちろん。費用はちゃんと折半にするから」
「お気遣い、ありがとうございます」
大食いというのは嘘だった。俺が食べる量は標準的である。こんなに野菜が足りない食生活を続けていたら不調になってしまう。俺は名雪には元気でいてもらいたかった。
「好き嫌いとかあります?」
「なんでも食べるよ。好物は……特にないなあ。俺、食べものにあんまり関心がなくって」
その時、俺の中に邪な考えが浮かんだ。
名雪の胃袋を掴んで、俺に惚れさせるというのはどうだろうか? 俺はいつも自分から好きになってしまい、こっぴどく振られてきた。だったら今回は恋の罠を仕掛けてイケメンをゲットするのだ。
俺の腹黒い計画に気付かずに、名雪はテレビを眺めている。
「名雪さん。添い寝が必要になったら、いつでも呼んでください」
「よろしく頼むよ」
「今度は俺の家に来ませんか? 狭いですけど」
「いいの? 早峰くんってしっかりしてるから、部屋も綺麗なんだろうな」
「名雪さんのお部屋だって、ちゃんと整頓されてるじゃないですか」
「……俺はいつ転勤を命じられてもいいように、身軽にしてるだけだよ」
転勤という言葉を口にした瞬間、名雪の美しい顔に翳が差した。離ればなれになった昔の恋人を思い出しているのかもしれない。
「早峰くんの会社は、他県への異動はあるの?」
「いえ、希望しない限りは」
「うちはエリア限定職っていう制度があるけど、俺、転勤族の子どもだしさ。故郷っていうものがないわけ。特定の地方に永住したいっていう気になれないんだよね」
「そうですか……」
名雪にとって恋瀬市はいつか去っていく場所にすぎない。その事実を突きつけられて、俺の心は沈んでいった。そうだよな。俺たちは将来を誓い合った恋人じゃない。ただのソフレだ。名雪とずっと一緒にいたいだなんて考えちゃいけない。
「パックごはん、ひとつじゃ足りなかった?」
「いえ、充分です。あの、水をもらってもいいですか」
「ああ。気が付かなくてごめんね」
差し出されたグラスは、ところどころに気泡が入っていて、フォルムが丸みを帯びていた。青から緑にかけて色が変わっていくグラデーションが美しい。初めて見るタイプのグラスだった。
「素敵ですね」
「琉球ガラスだよ。沖縄に赴任してた時に買ったんだ。モノをあまり持たない主義だけど、これに関しては一目惚れしちゃって」
名雪は愛おしそうにグラスに指を這わせた。
「廃瓶も材料になってるんだよ」
「そうなんですか? こんなに見事に仕上がるんだ……」
「……記憶のかけらも、こんな風に混ざり合って綺麗に生まれ変われればいいのにって、琉球ガラスを見るたびに思うんだ」
淡い朝日が射し込むリビングに、名雪の声が寂しげに響いた。彼が抱えている記憶は、いいことばかりではないのだろう。気になるけれども、ソフレの俺が軽々しく踏み込んでいい領域ではない。
「気に入ったみたいだね。このグラス、あげようか」
「そんな。悪いですよ」
「なら、また俺の部屋に来てよ。それで、今度はこのグラスでビールでも飲もう」
「はい……」
次があることを仄めかされて、俺は舞い上がりそうになった。名雪は少しでも俺のことを気に入ってくれたのだろうか。
「じゃあ、ごちそうさま」
「ごちそうさま」
俺と名雪は出勤の準備を始めた。
▪️
その後、俺たちは頻繁に会うようになった。
ソフレという関係は予想以上に心地がよかった。独り寝の寂しさから解放されるうえに、恋人ではないから相手の気持ちが自分の方を向いているか想像しなくて済む。
毎日明るい笑顔を浮かべて仕事をしていたので課長に褒められた。
「早峰くん、ノッてるね。その調子で頼むよ」
「はい!」
元気よく返事をしたものの、ソフレができたから生活にハリができただなんて言えるわけがない。
自宅のアパートにて、職場での出来事を名雪にしたところ、「分かるよ」と微笑まれた。
「俺も、前ほど風邪を引かなくなったって言われてる。早峰くんの栄養満点の料理のおかげなんだけどね」
名雪の胃袋を掴むという下心のもと、俺は会うたびに食事を用意していた。普通の豚汁を作っただけで名雪は「すごいね!」とベタ褒めしてくれる。
でも、食にこだわりがない彼のこと、俺の味付けでなければダメだというわけでもないようだ。あくまで栄養補給がしたくて俺の料理を求めているらしい。
俺の自室には、名雪の持ち物を置くコーナーができた。名雪の方が身長が高いので、ルームウェアを貸すことができないからだ。
ベッドに横たわりながら名雪が言った。
「ねえ、早峰くん。俺たちって相性最高のソフレだね」
「そうですね」
俺も同じ意見のはずなのに、心のどこかが軋んだ音を立てた。俺はその音に気づかないフリをした。だって、名雪に惚れてしまったらいつものルートを辿ることになる。
もう傷つきたくない。
名雪のぬくもりを独占しながら、俺はどんどん欲張りになっていった。ソフレから本命に昇格するチャンスはないだろうか?
「……名雪さん、今度は何が食べたいですか?」
「なんでもいいよ」
「あの……外で会うのもアリですか? 名雪さんと行ってみたいカフェがあるんですけど」
「ごめん。日中は難しい」
「すみません。プライベートには干渉しないという約束でしたよね」
新たな話題を探していると、名雪が言った。
「今度の週末、プラネタリウムに行ってくる」
「おお。いいですね」
「俺、年間パスを持っているんだ。プラネタリウム、恋瀬市の高台にあるんだよね。景色がすごくよくてさ」
「楽しんできてください」
誰かと一緒に行くのだろうか。俺の心は曇っていった。
「緊張してる?」
「はい……」
「そうだよね、初対面だし。でも、どうかラクにして」
「ありがとうございます」
名雪はネクタイを外した。
俺の目はつい、器用に動く大きな手に釘付けになってしまう。名雪は俺の熱っぽい視線を気にしてはいないようだった。イケメンは注目を浴びることに慣れているのだろう。
名雪はリビングにユニット畳を敷いていた。藍色の縁に囲まれたユニット畳は真新しく、清潔感があった。
「本当は和室がよかったんだけど、立地が合わなくて」
「なるほど」
名雪がカーテンを開けて、ベランダから顔を出した。ひゅうっと冷たい風が舞い込んできたが、名雪は楽しそうである。
「俺、ベランダから月をボーッと眺めるのが好きでさ」
「……分かります。無心になれますよね」
「冬の空ってやっぱり澄んでるね」
俺たちはしばし隣り合ってベランダから空を見上げた。濃紺の天幕に冴えた三日月が輝いている。
寒がりの名雪であるが、天体観測のためならば冷気を我慢できるらしい。
「さて。そろそろ切り上げようか。きみが風邪を引いてしまったら困るし」
「俺は健康だけが取り柄ですよ」
「そうなの? 羨ましいな。俺さあ、喉が弱くて。しょっちゅう風邪を引いてる」
俺と名雪はローテーブルを挟んで、向かい合って座った。名雪はすっかりくつろいだ表情である。
「早峰くんの趣味は?」
「……散歩と昼寝ですかね」
「へえ。可愛いね」
名雪が微笑む。写真を撮って部屋に飾りたくなるほど魅惑的な笑顔だった。
まずい。名雪にどんどん引き込まれている。俺はいつも自分から惚れてしまって相手に軽く扱われる。同じ過ちを繰り返すわけにはいかない。俺は名雪の美貌から視線を外した。
「名雪さんのお部屋、綺麗に片付いてますね」
「いつ異動を告げられるか分からないから、極力モノを置かないようにしてるんだ」
その時、バスルームからピピピッという音が聞こえてきた。
「風呂の準備ができたみたいだ」
「お先にどうぞ」
「いいの?」
「名雪さん、寒がりなんでしょ。早く暖まってください」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
名雪が入浴しているあいだ、俺はスマートフォンを眺めた。先日登録したマッチングアプリに何件かメッセージが入っていた。「ちょっとMっ気のあるネコです」という俺のプロフィールに釣られたのだろう。
俺は自己嫌悪に陥った。
寂しいカラダを持て余しているくせに、明らかにヤリモクの相手には冷めてしまう。俺は肌を合わせるだけでなく、心も通わせたい。ロマンティックすぎる願望だと分かってはいるが考えを改めることはできない。
「お待たせ。早峰くん、次どうぞ」
「はい。ありがとうございます」
名雪がバスルームから出てきた。厚手のルームウェアを着ている。
湯上がりのイケメンという生き物は、なかなかに厄介だった。
ただでさえ美しい肌がほんのりと上気していて、色っぽくてたまらない。洗いたての髪からはシャンプーのいい匂いがしてきて、思わず手触りを確かめたくなった。
気を抜くと、どんどんエロティックな妄想に耽ってしまう。
俺はバスルームに向かった。
ぴかぴかに磨かれたバスルームで裸になり、体を洗う。全身は清まっていったが、俺の心は欲望まみれだった。
ソフレになろうと誘ったくせに、俺はイケメンの名雪に抱かれたがっている。
ふわふわのバスタオルで体を拭いたあと、名雪が用意してくれたルームウェアに着替えた。そして、ドライヤーで髪を乾かす。
リビングに戻ると、名雪がスマートフォンで音楽を聴いていた。ゆったりとしたリズムの洋楽だった。歌詞の響きからするとフレンチポップスのようだ。名雪ならばパリの街並みを歩いても絵になるだろう。
「もっとゆっくり入ってくれてよかったのに」
「いえ、いつも早いんです。名雪さんって音楽が好きなんですね」
「俺、ともかく癒されたいんだよ。職場で酷使されてるから」
「ゼネコンともなると、案件の規模が大きいですよね」
「早峰くん、仕事は何関係なの?」
「俺は技術屋です。光ファイバーケーブルの補修や発注を担当してます」
「すごい。理系なんだ」
「いえいえ。学生時代は数学や物理で苦労しましたよ」
しばし雑談を交わしたあと、俺は名雪に提案した。
「紙とペンを借りてもいいですか? ソフレの契約書を作りましょう。後腐れがないように」
「いいよ。大事なことだ」
名雪がさっと筆記用具を用意する。
俺はローテーブルの上にルーズリーフを広げ、ペンを握った。
「まず第一に、添い寝以外の行為はしないこと。キスもハグも握手もなしです」
「うん、分かった」
「次に、お互いの恋愛事情には干渉しないこと。そして……」
「どちらかに本命ができたら、速やかに関係を解消すること。そんなところかな?」
「そうですね」
ソフレの三原則が決まった。俺と名雪はサインを書き入れた。日付を記すことも忘れない。
俺はスマートフォンでルーズリーフの写真を撮った。
「原本は名雪さんが保管しておいてください」
「了解」
「あとはこのルールを運用してみて、気づいた項目があれば随時追加しましょう」
「そうだね。お互いにとって利がある関係にしよう」
名雪はスマートフォンに触れると、俺に訊ねた。
「早峰くんの好きな音楽は?」
「俺はあんまり詳しくなくて」
「今は、どんな曲が聴きたい気分?」
「そうですね。ゆったりリラックスできる、落ち着いた感じがいいですね」
「じゃあ、これなんてどうかな」
クラシックが流れ始めた。弦楽器が奏でるゆるやかなメロディが心の深いところに染み込んでいく。
「この音色はチェロですか?」
「そう。ブラームスの子守唄」
「名雪さんってクラシックもお好きなんですね」
「うん。寝る前にお気に入りの曲を聴くのが、俺のストレス解消法だよ」
俺たちは美しい旋律に耳を傾けた。
何曲かクラシックを堪能したあと、名雪が言った。
「そろそろ寝ようか」
「……そうですね」
名雪が寝室に移動した。俺もあとをついていった。
6畳ほどの寝室にもユニット畳が敷かれていた。名雪は手早く布団の準備をした。
ついにこの瞬間がやって来た。
俺の肩は強張っていった。
「そんなに緊張しないで。何もしないから」
「……はい」
俺は名雪とは目を合わせずに、布団の中に入った。シングルの布団なので男ふたりが横になると密着せざるを得ない。
電気が消えた。視界が真っ暗になる。
名雪の体温をルームウェア越しに感じて、俺の胸が高鳴った。こんな状態で眠れるだろうか?
加速していく脈拍を整えるために深呼吸を繰り返す。
そんな俺に名雪が優しく声をかけてきた。
「やっぱりやめる?」
「いえ……。久々の人肌だから、ちょっと戸惑っちゃって」
「俺もだよ」
イケメンなのに、名雪はしばらく相手がいなかったのか? 名雪の恋愛事情について興味がないといえば嘘になる。でも、先ほど交わしたソフレ三原則に抵触するから俺は口をつぐんだ。
俺たちは無言になった。
冷えた夜の部屋に、ふたりの吐息が満ちていく。
名雪のぬくもりとシャンプーの香りに慣れてきた頃、俺は眠りの淵に引き込まれた。
▪️
スマートフォンのアラームが鳴った。
朝が訪れたようだ。
いつもは4時頃に寒さで一旦目が覚めるのに、起床時刻である6時までぐっすりだった。珍しいこともあるものだ。
そうか。
俺は名雪に添い寝をしてもらったのだった。
布団の中に名雪の姿はなかった。おそらく洗面所にいるのだろう。寝起きの無防備な姿をソフレに見せたくないという気持ちはよく分かる。
俺の方は名雪に寝顔を見られてしまったということか。恥ずかしさが込み上げてくる。
手ぐしで簡単に髪を整えて、洗面所へと向かう。
洗面台にいた名雪がこちらを振り返った。晴れやかな表情をしている。
「すごくよく眠れたよ。早峰くんは?」
「俺もです」
「そっか。俺、イビキかいてなかった?」
イケメンの名雪とイビキというものが結びつかなくて、俺は思わず笑った。
「なんで笑うの」
「名雪さんみたいにカッコいい人は、イビキなんてかかないでしょ」
「俺、おっさんだよ。もうすぐ33歳になる」
「そうなんですか? 意外ですね」
名雪は若々しさと落ち着きを兼ね備えている。こんないい男がどうしてソフレを作るほど孤独なんだと思いかけたところで、俺はストップをかけた。ソフレ三原則を忘れてはいけない。名雪の恋愛事情には首を突っ込まないこと!
「早峰くん。洗顔フォーム、俺のでよかったら使って」
「ありがとうございます」
「朝メシは……困ったな。俺、いつもパックごはんにふりかけなんだ。手抜きもいいところだろう?」
「食費は折半という項目を契約書に追加した方がいいかもしれませんね」
「きみ、よく気がつくね」
「過去の経験から、お金関係は揉めやすいと思ったので」
俺に向かって愛していると囁いたその口で、金を返せと叫んできた男もいたっけ。「おまえは俺の部屋でよく料理を作っていた。その光熱水費をもらっていない」というのが相手の言い分だった。俺、ひどい奴と付き合ってたな。
思わず表情が沈む。
すると、名雪が俺に気遣うような視線を投げかけてきた。
「……ソフレ契約に抵触するから詳しくは聞かないけど、早峰くんってもしかして男運悪い?」
「人並みの幸せには遠かったですね」
「そうなんだ……。俺の前ではあんまり寂しそうな顔はしないでほしい。放っておけなくなる……」
そっちこそ、そんな殺し文句を言わないでほしい。気を抜いたら惚れてしまいそうだ。
俺は洗面台に立って、顔を洗った。
冷たい水によって意識がピリッと引き締まる。
名雪が使っている洗顔フォームはドラッグストアでよく安売りされているものだった。イケメンだが美容に凝るタイプではないらしい。
そういえば、美容マニアの男とも付き合ったことがあるなあ。そいつは食べ物の好き嫌いが激しい奴だったと回想しかけたところで、名雪に「早峰くん」と呼びかけられた。
「過去にトリップするのはそのぐらいにして」
「すみません」
「ごはん食べよう」
「はい」
ふたり揃ってローテーブルのそばに置かれた座布団の上に腰を下ろす。
名雪がテレビをつけた。
モーニングショーの司会の賑やかな声がリビングに響いた。
俺はパックごはんにふりかけ、そしてインスタントの味噌汁という食事を名雪と一緒にとった。
「朝はいつもこのチャンネルなんだ。構わない?」
「はい」
モーニングショーでは東京のグルメ特集をやっていた。ビリヤニという料理があるのか。恋瀬市でも食べられるのかな?
ローテーブルの上に視線を移せば、寂しい食事がのっかっている。
「名雪さん。あの、勝手な話なんですが俺、結構大食いなんですよ。今度泊まりに来る時、食材を持ち込んでもいいですか?」
「うん、もちろん。費用はちゃんと折半にするから」
「お気遣い、ありがとうございます」
大食いというのは嘘だった。俺が食べる量は標準的である。こんなに野菜が足りない食生活を続けていたら不調になってしまう。俺は名雪には元気でいてもらいたかった。
「好き嫌いとかあります?」
「なんでも食べるよ。好物は……特にないなあ。俺、食べものにあんまり関心がなくって」
その時、俺の中に邪な考えが浮かんだ。
名雪の胃袋を掴んで、俺に惚れさせるというのはどうだろうか? 俺はいつも自分から好きになってしまい、こっぴどく振られてきた。だったら今回は恋の罠を仕掛けてイケメンをゲットするのだ。
俺の腹黒い計画に気付かずに、名雪はテレビを眺めている。
「名雪さん。添い寝が必要になったら、いつでも呼んでください」
「よろしく頼むよ」
「今度は俺の家に来ませんか? 狭いですけど」
「いいの? 早峰くんってしっかりしてるから、部屋も綺麗なんだろうな」
「名雪さんのお部屋だって、ちゃんと整頓されてるじゃないですか」
「……俺はいつ転勤を命じられてもいいように、身軽にしてるだけだよ」
転勤という言葉を口にした瞬間、名雪の美しい顔に翳が差した。離ればなれになった昔の恋人を思い出しているのかもしれない。
「早峰くんの会社は、他県への異動はあるの?」
「いえ、希望しない限りは」
「うちはエリア限定職っていう制度があるけど、俺、転勤族の子どもだしさ。故郷っていうものがないわけ。特定の地方に永住したいっていう気になれないんだよね」
「そうですか……」
名雪にとって恋瀬市はいつか去っていく場所にすぎない。その事実を突きつけられて、俺の心は沈んでいった。そうだよな。俺たちは将来を誓い合った恋人じゃない。ただのソフレだ。名雪とずっと一緒にいたいだなんて考えちゃいけない。
「パックごはん、ひとつじゃ足りなかった?」
「いえ、充分です。あの、水をもらってもいいですか」
「ああ。気が付かなくてごめんね」
差し出されたグラスは、ところどころに気泡が入っていて、フォルムが丸みを帯びていた。青から緑にかけて色が変わっていくグラデーションが美しい。初めて見るタイプのグラスだった。
「素敵ですね」
「琉球ガラスだよ。沖縄に赴任してた時に買ったんだ。モノをあまり持たない主義だけど、これに関しては一目惚れしちゃって」
名雪は愛おしそうにグラスに指を這わせた。
「廃瓶も材料になってるんだよ」
「そうなんですか? こんなに見事に仕上がるんだ……」
「……記憶のかけらも、こんな風に混ざり合って綺麗に生まれ変われればいいのにって、琉球ガラスを見るたびに思うんだ」
淡い朝日が射し込むリビングに、名雪の声が寂しげに響いた。彼が抱えている記憶は、いいことばかりではないのだろう。気になるけれども、ソフレの俺が軽々しく踏み込んでいい領域ではない。
「気に入ったみたいだね。このグラス、あげようか」
「そんな。悪いですよ」
「なら、また俺の部屋に来てよ。それで、今度はこのグラスでビールでも飲もう」
「はい……」
次があることを仄めかされて、俺は舞い上がりそうになった。名雪は少しでも俺のことを気に入ってくれたのだろうか。
「じゃあ、ごちそうさま」
「ごちそうさま」
俺と名雪は出勤の準備を始めた。
▪️
その後、俺たちは頻繁に会うようになった。
ソフレという関係は予想以上に心地がよかった。独り寝の寂しさから解放されるうえに、恋人ではないから相手の気持ちが自分の方を向いているか想像しなくて済む。
毎日明るい笑顔を浮かべて仕事をしていたので課長に褒められた。
「早峰くん、ノッてるね。その調子で頼むよ」
「はい!」
元気よく返事をしたものの、ソフレができたから生活にハリができただなんて言えるわけがない。
自宅のアパートにて、職場での出来事を名雪にしたところ、「分かるよ」と微笑まれた。
「俺も、前ほど風邪を引かなくなったって言われてる。早峰くんの栄養満点の料理のおかげなんだけどね」
名雪の胃袋を掴むという下心のもと、俺は会うたびに食事を用意していた。普通の豚汁を作っただけで名雪は「すごいね!」とベタ褒めしてくれる。
でも、食にこだわりがない彼のこと、俺の味付けでなければダメだというわけでもないようだ。あくまで栄養補給がしたくて俺の料理を求めているらしい。
俺の自室には、名雪の持ち物を置くコーナーができた。名雪の方が身長が高いので、ルームウェアを貸すことができないからだ。
ベッドに横たわりながら名雪が言った。
「ねえ、早峰くん。俺たちって相性最高のソフレだね」
「そうですね」
俺も同じ意見のはずなのに、心のどこかが軋んだ音を立てた。俺はその音に気づかないフリをした。だって、名雪に惚れてしまったらいつものルートを辿ることになる。
もう傷つきたくない。
名雪のぬくもりを独占しながら、俺はどんどん欲張りになっていった。ソフレから本命に昇格するチャンスはないだろうか?
「……名雪さん、今度は何が食べたいですか?」
「なんでもいいよ」
「あの……外で会うのもアリですか? 名雪さんと行ってみたいカフェがあるんですけど」
「ごめん。日中は難しい」
「すみません。プライベートには干渉しないという約束でしたよね」
新たな話題を探していると、名雪が言った。
「今度の週末、プラネタリウムに行ってくる」
「おお。いいですね」
「俺、年間パスを持っているんだ。プラネタリウム、恋瀬市の高台にあるんだよね。景色がすごくよくてさ」
「楽しんできてください」
誰かと一緒に行くのだろうか。俺の心は曇っていった。
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