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録音

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ほら、スマートフォンに最初から内蔵されているアプリがいくつかあるじゃないですか。

その中のボイスログっていう、まあシンプルな録音アプリなんですけれど、私の場合はカラオケで適当に歌った音声だとか、すぐに挫折した拙いギターの音だとか、内容はなかなかに雑多なものでしたが…。

そうですね、用途は単なる暇つぶしというか…特に便利に使っていたわけではなかったです。

さて、去年の夏頃、ちょうど今から三年ほど前の話でしょうか?

当時は色々悩みの多い時期でした。入社から三ヶ月経ってなお慣れない仕事、上京した影響によるホームシックなど、いろいろな要因が重なって精神、肉体共に疲弊していました。

それも祟ってか、ある日私は盛大に寝坊をしてしまいました。

不眠が続いており、前の晩も中々寝付けなかったことを思い返しながら部屋の壁の方に目を向けます。

時計の針は11時、出勤時刻の2時間後を指していました。

一応それまではギリギリ無遅刻、無欠席ではいたので、かなり焦りましたね。

飛び起きようとしましたが、それは叶いませんでした。

体が金縛りのように動かないのです。

正確には腹筋と下半身に一切力が入らないというか、感覚が全くなく。

胸から下の肉体が無くなってしまったかのように錯覚するほどでした。

それはどうすることもできませんでしたが、幸いにも腕や首は動きました。

金縛りがストレスや疲労からくるものだという知識はあったので、その状況自体には割と冷静になれました。

ひとまず会社からも連絡が来ているだろうとスマートフォンの画面を確認すると、何やら違和感を覚えました。

ボイスログが起動しているのです。

身に覚えはありません。

誤作動、もしくは寝てる間に画面に触れてしまったのだろうと私は思いました。

録音を止めようと画面に触れると同時に、すっと私の体の感覚も戻りました。
足腰が動くのを確認すると、そのまま私はいそいそと連絡、支度を済ませ、会社へと向かいました。

その後上司への謝罪や業務に追われ、頭から今朝のことは既に消えていました。
ようやく業務を終え会社を出ると、辺りは既に暗くなり、人もまばらです。

そのはずなのですが、何故だか一瞬、空は昼のように明るく、往来が人で溢れている、そんな感覚に襲われました。

これは本格的に疲れているなと思い、いつもは軽く居酒屋やバーによるのですが、その日は早く帰って、家でゆっくり休むことにしました。

30分ほどかけてやっと帰宅し、ベッドに腰を掛けると、私は今朝のことを朧げに思い返していました。

スマートフォンを手に取り、ボイスログを開きます。

今朝のログは、しっかりと残っていました。

確認すると5時間を過ぎて録音されています。

かなり長い間起動していたようでした。
ボイスログは録音を止めると、自動的に現在の位置情報がタイトルになるはずです。

ですがその時表示されたのは「さただり村」という全く知らない地名でした。

音声データでも長時間となるとそれなりに容量を圧迫するので、削除しようとゴミ箱のマークに触れました。

しかし、何度触れても、ログが消えることはありませんでした。使い古したスマートフォンなので、単に動作が重いのだろうと思いました。

そして私は何の気無しに…いや、ほんの少しの好奇心でそのログを再生することにしました。

再生する時、背筋に這うような寒気がしたのを今でも覚えています。

最初の数分間は無音が続きました。
ですがそれは、不自然なほど静かでした。

都心から離れた閑静な街に住んでいますが、それにしてもクーラーの作動音や私の寝息、寝返りの音などは聞こえていいはずでした。

ただひたすらに、ある種人工的とも言える無音でした。

長い間それが続いたので、私は飛ばし飛ばしでログを再生していました。

しばらくして、やっと音が聞こえてきました。

ただそれは、急にというよりはフェードインのように徐々に音量が上がっていきました。

聞こえてきた音声は私の寝息でも、ましてやクーラーの作動音でもありませんでした。

それは、どこか遠い田舎の環境音のようでした。

名前も知らない虫や鳥の鳴き声、風が木々を揺らす音。

そして、荒れた道を歩く何者かの足音。
足音は絶えず聞こえているため、恐らくこの人物がログを録りながらどこかに向かっているのでしょう。

やや早歩きというか、このログを録った人物はどこか焦っているかのような印象を受けました。

私は半分夢を見ているような気分でした。

状況としてはかなり不気味なのですが、それよりも私はこのログの続きが気になってしまい、無理矢理に冷静さを取り繕っていました。

またしばらくして、息遣いからこの人物が女性であるということが推察できました。

果たして誰であるかという個人の特定については皆目検討も尽きませんが、その女性がどこかに向かっているというのは間違いではないようです。

足音から察するに石製の階段を登り始めていました。

パンプスで階段を駆け上がる足音と荒い息遣い。

やはり何か焦っている印象を受けました。

そして、階段を登り切ると女性は一度立ち止まり息を整え、またゆっくりと歩き出しました。

どうやら目的地についたようです。

数歩歩いた後、戸を開ける音がしました。

ただ、少し手こずっています。

粗野な作りの鉄製の引き戸、ちょうど体育倉庫のようなイメージでした。

途中から女性は半ば強引にして、ようやく開けられたようでした。

戸をこじ開ける大きな音がした後、また荒い息遣いをしながら

「本当にごめんなさい」 

最後に聞こえてきたこの音声はかなりの音割れやノイズを孕んでいましたが、今までとは段違いにはっきりと大きく聞こえました。

スマートフォンのマイクに向けて直接声をかけている様子で、それは、私に向けたメッセージのようでした。

私の声でした。

そのあとはずっと無音が続いていました。

ただ真っ暗で、永遠のように感じました。
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