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第3話
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リュシアンの歯列を神父の舌がなぞる。
すると本来あるはずのない感触に当たり、反射的に唇が離れた。
身体の隅々まで行き渡っていた熱がいきなり消え、すかさず冷気が触手を伸ばしてくる。
リュシアンはすぐに気づいていない様子で目を瞬かせる。――左右二本の歯が、異様な長さになっていた。
八重歯が尖っている人間はいるが、これはその域を超えている。
ヴァンパイアの牙だ。
他者の血を吸う道具だ。
こんな凶器を持っていながら、ヴァンパイアではないとほざく。
血を吸われる側からすれば、そんなものは関係ない。ヴァンパイアだろうとダンピールだろう関係ない。同類なのだ。
神父が顔を逸らしている。
リュシアンの気のせいでなければ、その横顔はどことなくばつが悪そうに見えた。
どうしたというのだろう。
勝負はまだついていないし、戦いもまだ終わっていない。
熱だってまだ体でくすぶっている。
せっかくの夜なのに。
待ちに待った夜なのに。
獲物の予想外の正体と手応えにますます歓喜したのに。
俺のものになれと言われ、危うく陶酔しかけたのだ。彼を自分のものにしたい気持ちは変わらないが、逆もまたたいそう刺激的だと思った。
――それなのに、まさか、これで終いなのか。
リュシアンのうちで落胆と焦燥と微細な苛立ちが、ポンポン菓子のように弾けとぶ。
ヴァンパイア・ハンターというからには、今さら牙で驚くはずはない。だいたいこの神父の為人からして、牙程度で驚くくらいならキスを仕掛けたりしないだろう。口もとを手で隠している姿も説明がつかない。
だから、ひょっとしてこれは、視覚と触覚の認識の差によるものの所為なのかと考えてみた。確かに、目で見て存在を確認することと、実際に触れてそれを実感することは、心に与える印象が異なる。
……触れる?
はたとリュシアンの思考が急停止した。
ヴァンパイア・ハンターはダンピールの存在を目視で確認している。
それで十分じゃないのか。
何故このうえヴァンパイア・ハンターはダンピールを抱きしめる?
そればかりか粘膜接触までやる必要がどこにある?
つまり、ようするに、口づけの意味は何なんだ?
神父に近づきたいのに、体が動けない。
リュシアンの脳裏を様々な言葉や単語が、何ひとつ明確でないまま攪拌機にかけられていて、至極単純に拒否されるのが怖いからとは、かえって理解でなかった。
ただ漠然と物悲しい気持ちに支配されていることはわかっているので、神父から目を逸らせずにいた。
ついさっきまで隙間もないほどぴったりくっついていた二人の間を、今は一歩の距離が大河のように横たわっている。
たった一歩だ。
この一歩が、無辺のように果てしなく感じられた。
***
幽愁の妖精からの抱擁に身を委ねつつあったリュシアンは、神父のため息で現実に立ち返った。
獲物であり敵である男は体から力を抜き、口を覆っていた手で長い髪をかいた。もう片方の手をずいっと差し出してくるので、リュシアンは意味をはかりかねて、見返した。
神父は微苦笑していた。これが意外にも初対面から感じていた胡散臭さや矛盾さからはほど遠く、素の彼の片鱗を垣間見させる表情だった。
「まあ…なんていうか……。ちょっと吸ってみろ」
耳を疑った。
リュシアンは呆気にとられて、神父の顔と彼の手――正確には手首だが――の間で視線を忙しなく上下させた。
神父の顔つきは悪戯っ子のものに戻っていた。それは見ればわかるのに、どうしてだか感情も思考も読み取ることができなかった。
逆に神父のほうはダンピールの戸惑いが手に取るようにわかるのだろう。ほれ、とさらに手を突き出してきた。
「いいから。試してみろって」
ダンピールに噛まれ――血を吸われ――ても、吸血されたほうはヴァンパイア化しない。
そういう意味では安全だ。
神父もヴァンパイア・ハンターとしてそういう知識があるからこそ、リュシアンに手を差し出しているのかもしれない。
しかし、だからこそ変だ。
知識として理解していることと、実際にその行為を受けても大丈夫という判断とでは、存在する次元がまったく別である。であれば通常、両者の間をイコールで結べない。
にもかかわらず目の前にある手首。
魅惑的な白が実に美味そうで……ヴァンパイア・ハンターが仕掛ける罠かと疑うのも無理はなかった。
捨て身の罠だなんてこの神父らしくない気もするが、といって短い付き合いでいったい彼の何をわかった気でいるのかと、内心自嘲した。
…きっと、自分が、不必要にあれこれ考えすぎるからいけないのだ。
今夜は本能に従ってここにいる。
ならば何も考えずに、最後まで本能のささやきに耳を傾けるべきだろう。
それ以外の正解が存在しえないのも真実だった。
何しろ先ほどの口づけで煽られ、身体を構築する原子という原子が悲鳴を上げている。それを鎮めるには、もはや神父の血を用いる以外、リュシアンにどんな救済があるというのだ。
神父はにっこり笑っている。
ふつふつと湧き上がる敗北感を腹の底に押し込め、ダンピールは獲物の手を取った。
心臓が今にも口から飛び出しそうなほどドキドキしている。
夢にまで見た白い肌。
青く浮き出る血管。
魔物は恍惚として、その繊細な凹凸を撫でた。
本当は手首ではなく、首筋に牙を突き立てたいのだけれど、焦らない。
言うまでもなく手首だとてこんなにも美味しそうなのだ。
まずはこれを堪能して、それから首へいこう。
首ならば、きっと――もっと……
手の甲に恭しく唇を落とす。
唇は徐々に手首のほうへ上る。
手をひっくり返す。
少し強く押しつけて、命のリズムを刻む場所を探し当てる。
唇から神父の鼓動が伝わり、耳もとでは自身の心音がうるさく囃し立てる。
まるでふたつの命が重なり合っているかのようだ。
皮膚越しに脈を軽く舐めた魔物は、久方ぶりに欲した獲物がじっと見つめる中、その手首に己の牙を立てるのだった。
プスッという音に、月光色の髪の青年がぴくりとまなじりを震わせて瞬きをする。
と同時に、恋い焦がれた甘美な味に酔いしれるはずだったリュシアンが、手首に牙を突きたてたまま、息を呑んだ。
次の瞬間、ダンピールは神父を突き飛ばした。
すると本来あるはずのない感触に当たり、反射的に唇が離れた。
身体の隅々まで行き渡っていた熱がいきなり消え、すかさず冷気が触手を伸ばしてくる。
リュシアンはすぐに気づいていない様子で目を瞬かせる。――左右二本の歯が、異様な長さになっていた。
八重歯が尖っている人間はいるが、これはその域を超えている。
ヴァンパイアの牙だ。
他者の血を吸う道具だ。
こんな凶器を持っていながら、ヴァンパイアではないとほざく。
血を吸われる側からすれば、そんなものは関係ない。ヴァンパイアだろうとダンピールだろう関係ない。同類なのだ。
神父が顔を逸らしている。
リュシアンの気のせいでなければ、その横顔はどことなくばつが悪そうに見えた。
どうしたというのだろう。
勝負はまだついていないし、戦いもまだ終わっていない。
熱だってまだ体でくすぶっている。
せっかくの夜なのに。
待ちに待った夜なのに。
獲物の予想外の正体と手応えにますます歓喜したのに。
俺のものになれと言われ、危うく陶酔しかけたのだ。彼を自分のものにしたい気持ちは変わらないが、逆もまたたいそう刺激的だと思った。
――それなのに、まさか、これで終いなのか。
リュシアンのうちで落胆と焦燥と微細な苛立ちが、ポンポン菓子のように弾けとぶ。
ヴァンパイア・ハンターというからには、今さら牙で驚くはずはない。だいたいこの神父の為人からして、牙程度で驚くくらいならキスを仕掛けたりしないだろう。口もとを手で隠している姿も説明がつかない。
だから、ひょっとしてこれは、視覚と触覚の認識の差によるものの所為なのかと考えてみた。確かに、目で見て存在を確認することと、実際に触れてそれを実感することは、心に与える印象が異なる。
……触れる?
はたとリュシアンの思考が急停止した。
ヴァンパイア・ハンターはダンピールの存在を目視で確認している。
それで十分じゃないのか。
何故このうえヴァンパイア・ハンターはダンピールを抱きしめる?
そればかりか粘膜接触までやる必要がどこにある?
つまり、ようするに、口づけの意味は何なんだ?
神父に近づきたいのに、体が動けない。
リュシアンの脳裏を様々な言葉や単語が、何ひとつ明確でないまま攪拌機にかけられていて、至極単純に拒否されるのが怖いからとは、かえって理解でなかった。
ただ漠然と物悲しい気持ちに支配されていることはわかっているので、神父から目を逸らせずにいた。
ついさっきまで隙間もないほどぴったりくっついていた二人の間を、今は一歩の距離が大河のように横たわっている。
たった一歩だ。
この一歩が、無辺のように果てしなく感じられた。
***
幽愁の妖精からの抱擁に身を委ねつつあったリュシアンは、神父のため息で現実に立ち返った。
獲物であり敵である男は体から力を抜き、口を覆っていた手で長い髪をかいた。もう片方の手をずいっと差し出してくるので、リュシアンは意味をはかりかねて、見返した。
神父は微苦笑していた。これが意外にも初対面から感じていた胡散臭さや矛盾さからはほど遠く、素の彼の片鱗を垣間見させる表情だった。
「まあ…なんていうか……。ちょっと吸ってみろ」
耳を疑った。
リュシアンは呆気にとられて、神父の顔と彼の手――正確には手首だが――の間で視線を忙しなく上下させた。
神父の顔つきは悪戯っ子のものに戻っていた。それは見ればわかるのに、どうしてだか感情も思考も読み取ることができなかった。
逆に神父のほうはダンピールの戸惑いが手に取るようにわかるのだろう。ほれ、とさらに手を突き出してきた。
「いいから。試してみろって」
ダンピールに噛まれ――血を吸われ――ても、吸血されたほうはヴァンパイア化しない。
そういう意味では安全だ。
神父もヴァンパイア・ハンターとしてそういう知識があるからこそ、リュシアンに手を差し出しているのかもしれない。
しかし、だからこそ変だ。
知識として理解していることと、実際にその行為を受けても大丈夫という判断とでは、存在する次元がまったく別である。であれば通常、両者の間をイコールで結べない。
にもかかわらず目の前にある手首。
魅惑的な白が実に美味そうで……ヴァンパイア・ハンターが仕掛ける罠かと疑うのも無理はなかった。
捨て身の罠だなんてこの神父らしくない気もするが、といって短い付き合いでいったい彼の何をわかった気でいるのかと、内心自嘲した。
…きっと、自分が、不必要にあれこれ考えすぎるからいけないのだ。
今夜は本能に従ってここにいる。
ならば何も考えずに、最後まで本能のささやきに耳を傾けるべきだろう。
それ以外の正解が存在しえないのも真実だった。
何しろ先ほどの口づけで煽られ、身体を構築する原子という原子が悲鳴を上げている。それを鎮めるには、もはや神父の血を用いる以外、リュシアンにどんな救済があるというのだ。
神父はにっこり笑っている。
ふつふつと湧き上がる敗北感を腹の底に押し込め、ダンピールは獲物の手を取った。
心臓が今にも口から飛び出しそうなほどドキドキしている。
夢にまで見た白い肌。
青く浮き出る血管。
魔物は恍惚として、その繊細な凹凸を撫でた。
本当は手首ではなく、首筋に牙を突き立てたいのだけれど、焦らない。
言うまでもなく手首だとてこんなにも美味しそうなのだ。
まずはこれを堪能して、それから首へいこう。
首ならば、きっと――もっと……
手の甲に恭しく唇を落とす。
唇は徐々に手首のほうへ上る。
手をひっくり返す。
少し強く押しつけて、命のリズムを刻む場所を探し当てる。
唇から神父の鼓動が伝わり、耳もとでは自身の心音がうるさく囃し立てる。
まるでふたつの命が重なり合っているかのようだ。
皮膚越しに脈を軽く舐めた魔物は、久方ぶりに欲した獲物がじっと見つめる中、その手首に己の牙を立てるのだった。
プスッという音に、月光色の髪の青年がぴくりとまなじりを震わせて瞬きをする。
と同時に、恋い焦がれた甘美な味に酔いしれるはずだったリュシアンが、手首に牙を突きたてたまま、息を呑んだ。
次の瞬間、ダンピールは神父を突き飛ばした。
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