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第2話
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そろそろこの町を発とうと思います。
リュシアンが神父にそう告げたのは、満月も近づいてきたある日のことだった。
教会に滞在してから一度として神父と食事を共にしなかったリュシアンだが、この日の夕食は食堂に現れた。
若い神父はこれを喜び、快くもう一人分の皿を出した。
特に豊かとはいえない町なので、食事の内容も至ってシンプルだ。
主食のパン、つけ合わせには燻製の肉とチーズ、そして野菜たっぷりのスープ。
ボウルいっぱいのポテトサラダは、教会の菜園で栽培したジャガイモを使い、もちろん神父が心血を注いで育てたものである。
晩餐と呼ぶにはどことなく寂しげだが、それでも旅の青年と若き神父に、十分楽しい時間を提供することができたようで、食事の間、話題に尽きることはなかった。
青年はこれまで旅してきた町のことを神父に語り、神父はときに頷き、ときには驚きを見せた。
神父もまた、バチカンに行ったことがないという青年に、カトリックの総本山の様子を話して聞かせた。
いつかの書庫前での互いへの挑発などなかったかのように、それはとても有意義な時間だった。
後片づけは二人で済ませ、食事の次はコーヒーの芳しい香りを肴に、話に花を咲かせた。
お茶請けは婦人会からの差し入れというキアッケレ。「おしゃべり」という意味の小さなかわいい揚げ菓子は、夕食後には少々胃に重いように感じられたが、それでもその名のとおり、二人の会話に寄り添う形となった。
気がつけば外は闇が濃く圧し掛かっている。
警告のように、マントルピースの上の置き時計が十一回打った。
「もうこんな時間ですね」
時間を忘れて話し込んでしまったのがやや照れくさそうに、リュシアンは目を逸らし、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「悪かったな。遅くまで付き合わせちまって」
「いえ、こちらこそ。詮無い話ばかり長々と…」
「気にすんな。こっちも楽しかった」
「そう言っていただけると、私もほっとします」
そこでふいに顔を上げたリュシアンは、じっとこちらを見つめている神父の視線に気づき、性懲りもなくまたドックンと胸が鳴った。
今はだめだ。
内心で叱咤を飛ばすも、目が離せない。
夜に尋ねて来る者もいないだろうと、黒の僧衣の上に流れる月光色の髪は、コーヒーの香りとともに縛ってあった紐から解放されていた。
リュシアンは神父が髪を完全に下ろしているところを初めて見た。
その不思議な輝きと黒の対比が、肌の白さをいっそう際立たせている。
高襟と髪の間にちらちらと見え隠れするのは、白くも、血色のよい首。
リュシアンの双眸は否応なく、そこに吸い寄せられていくのだった。
これはもう自然の摂理だ。
なるべくしてなるのだ。
あの首は、己の牙を突き立てるためにある。
あそこには己の牙以外、何も相応しくない。
そうして穿たれた痕からひと筋、あるいはふた筋の血が流れる。
その赤い軌跡を、ゆっくり、じっくり、丁寧に舐め取るのだ。
自分の腕の中で、この神父もかつて母のような表情を見せてくれるだろうか。
それとも彼の血に触れたとき、母が父に囚われたように、自分は彼に服従するのだろうか。
…………どちらでもいい。
どちらも抗いがたいほど魅力的で、倒錯的で、甘い疼きをもたらしてくれる。
あまりにも一点をばかりを凝視していたため、リュシアンは神父が動いたのをとっさに気づかなかった。
我に返ったときには、するりと月光の糸が頬を撫で、肩に落ちた。
それは一瞬のことだったのか、それとも一瞬よりいま少し長い時間だったのか、リュシアンには計るすべがない。
ただ、今にも伸びてきそうになる牙を隠すため結ばれた唇に、何かが触れたのは事実だった。
そして近づいたと思った神父の顔が再び離れると、今度は眼鏡を取られた。
「あんた、いい顔してんな。やっぱおもしれえ」
…――きっとあのセリフが今晩のお開きの合図だったのだろう。
ベッドに横たわるリュシアンは、ドアの閉まる音に微かに瞼を震わせ、そしてあの白い首を瞼の裏に思い浮かべながら、夜の淵へと沈んでいった。
リュシアンが神父にそう告げたのは、満月も近づいてきたある日のことだった。
教会に滞在してから一度として神父と食事を共にしなかったリュシアンだが、この日の夕食は食堂に現れた。
若い神父はこれを喜び、快くもう一人分の皿を出した。
特に豊かとはいえない町なので、食事の内容も至ってシンプルだ。
主食のパン、つけ合わせには燻製の肉とチーズ、そして野菜たっぷりのスープ。
ボウルいっぱいのポテトサラダは、教会の菜園で栽培したジャガイモを使い、もちろん神父が心血を注いで育てたものである。
晩餐と呼ぶにはどことなく寂しげだが、それでも旅の青年と若き神父に、十分楽しい時間を提供することができたようで、食事の間、話題に尽きることはなかった。
青年はこれまで旅してきた町のことを神父に語り、神父はときに頷き、ときには驚きを見せた。
神父もまた、バチカンに行ったことがないという青年に、カトリックの総本山の様子を話して聞かせた。
いつかの書庫前での互いへの挑発などなかったかのように、それはとても有意義な時間だった。
後片づけは二人で済ませ、食事の次はコーヒーの芳しい香りを肴に、話に花を咲かせた。
お茶請けは婦人会からの差し入れというキアッケレ。「おしゃべり」という意味の小さなかわいい揚げ菓子は、夕食後には少々胃に重いように感じられたが、それでもその名のとおり、二人の会話に寄り添う形となった。
気がつけば外は闇が濃く圧し掛かっている。
警告のように、マントルピースの上の置き時計が十一回打った。
「もうこんな時間ですね」
時間を忘れて話し込んでしまったのがやや照れくさそうに、リュシアンは目を逸らし、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「悪かったな。遅くまで付き合わせちまって」
「いえ、こちらこそ。詮無い話ばかり長々と…」
「気にすんな。こっちも楽しかった」
「そう言っていただけると、私もほっとします」
そこでふいに顔を上げたリュシアンは、じっとこちらを見つめている神父の視線に気づき、性懲りもなくまたドックンと胸が鳴った。
今はだめだ。
内心で叱咤を飛ばすも、目が離せない。
夜に尋ねて来る者もいないだろうと、黒の僧衣の上に流れる月光色の髪は、コーヒーの香りとともに縛ってあった紐から解放されていた。
リュシアンは神父が髪を完全に下ろしているところを初めて見た。
その不思議な輝きと黒の対比が、肌の白さをいっそう際立たせている。
高襟と髪の間にちらちらと見え隠れするのは、白くも、血色のよい首。
リュシアンの双眸は否応なく、そこに吸い寄せられていくのだった。
これはもう自然の摂理だ。
なるべくしてなるのだ。
あの首は、己の牙を突き立てるためにある。
あそこには己の牙以外、何も相応しくない。
そうして穿たれた痕からひと筋、あるいはふた筋の血が流れる。
その赤い軌跡を、ゆっくり、じっくり、丁寧に舐め取るのだ。
自分の腕の中で、この神父もかつて母のような表情を見せてくれるだろうか。
それとも彼の血に触れたとき、母が父に囚われたように、自分は彼に服従するのだろうか。
…………どちらでもいい。
どちらも抗いがたいほど魅力的で、倒錯的で、甘い疼きをもたらしてくれる。
あまりにも一点をばかりを凝視していたため、リュシアンは神父が動いたのをとっさに気づかなかった。
我に返ったときには、するりと月光の糸が頬を撫で、肩に落ちた。
それは一瞬のことだったのか、それとも一瞬よりいま少し長い時間だったのか、リュシアンには計るすべがない。
ただ、今にも伸びてきそうになる牙を隠すため結ばれた唇に、何かが触れたのは事実だった。
そして近づいたと思った神父の顔が再び離れると、今度は眼鏡を取られた。
「あんた、いい顔してんな。やっぱおもしれえ」
…――きっとあのセリフが今晩のお開きの合図だったのだろう。
ベッドに横たわるリュシアンは、ドアの閉まる音に微かに瞼を震わせ、そしてあの白い首を瞼の裏に思い浮かべながら、夜の淵へと沈んでいった。
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