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第1話
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「毎日毎日精が出るな」
唐突に思考を断ち切られ、リュシアンはハッと顔を上げる。
入り口に現れた神父は、相変わらず黒地の僧衣を纏い、胸に十字架を下げ、ランタン片手にやや呆れ気味の視線を投げて寄越した。
一階と地下室の間にあるこの書斎には、陽が届かなくなっている。空の支配権が太陽から月に移行したのだ。
リュシアンが持ち込んだ灯りの灯油も残り少ない。
「いつメシ食ってんだ、あんた」
「ご心配なく。ちゃんと食事はしています」
答えになっているような、いないようなことを言って、本棚から離れる。
まだまだ前菜しか食べてないですけどね、とは口に出さない。
今日の神父は、髪を何本もの細い三つ編みにして、背に垂らしていた。ときどき勉強を教わりにやってくる少女たちが、戯れにいろんな髪型を神父で試したりするので、これもそのひとつなのだろう。
聖職者とはいえ若い男性なのに、この神父は髪を遊ばれても嫌がらない。というより気にしない。結われたり編まれたりした髪型のままその日一日を過ごすので、リュシアンは町の婦人が少女たちを叱りつけ、神父に謝罪する場面に出くわしたこともあった。
初対面のときの印象があまりにも強かった所為か、神父がどんな髪型でもリュシアンは驚かない。それでも昔のどこかの王宮で流行したらしい型に結われ、おまけに愛らしく花をも挿した姿を見たときは、さすがに気の毒に思えて、笑いを噛み殺したものだった。
神父は書庫の鍵を掲げてみせて、無言で旅の青年に退室を促す。
どうせ明日もここにこもるのだからと、リュシアンは筆記用具を机に残したまま、灯りだけを手にした。
神父の正面まで来ると、ふと悪戯心が芽生えて、クスリと笑む。
彼の首にかけている十字架をひと撫でして、指で遊ぶようにして取った。
「あなたには似合いませんね」
正直にそう言ったのは、ひとつには、そのセリフでもってこの違和感だらけの神父を試したかったのである。
どう答えてくれるのか想像がつかなかったので、愉しくて仕方がなかった。
ほとんど身長差のない二人だから、リュシアンが神父の目を覗き込むのは簡単だった。
眼帯の下の左目の事情は知らないし、いい大人が不躾に訊くことでもない。
けれども露わになっているただひとつの目――右目の美しさには惹かれる。
それは冬の空を連想させるスカイブルーだった。どこまでも澄み切っていて、冷たい。
髪は夜に寄り添う月光色なのに、目は白昼を彷彿させるところが、なんとも皮肉でおもしろかった。
リュシアンの視界の端で、神父の手が動いた。
十字架を握っている手の首を掴まれ、おもむろに十字架ごと口もとまで持っていく。
何をするのかと期待していれば、十字架と鎖のつなぎ目に、触れるだけのキスをしたのだった。
「だから神の思し召しなんだろ」
似合わないのに神に仕えていることこそ、神の導き。
どんな者にも、神の御恵みは漏れることなく与えられる。
言葉にせずしてそう語る神父が、ニッと口角を上げる。
リュシアンはスカイブルーの中の自分を見た。ランタンの灯りに覆われ、ゆらゆらと揺らめいている。
トクリ、と、本能が目覚めにささやくのを聞いた。
***
不自然でない程度の急ぎ足で、リュシアンはその場から離れた。
自分の背中を見つめ、神父が一層笑みを深くしたことなど知るよしもなく、部屋に飛び込み、そのまま崩れ落ちる。
ドキドキが止まらない。
心臓の音がうるさい。
これがいわゆるときめきでないことは、勘違いのしようもなく知っている――わかっている。
身体じゅうの血が沸騰している。
細胞のひとつひとつが踊っている。
骨が軋むような、痛みともつかない甘美な疼き。
あの人だ。
ミロ・アレオッティ。
あの人に決めた。
違う。
たぶん最初から――出会ったその瞬間に、運命は決まっていたのだ。
今夜はハーフムーン。
隠された半身の行方を探すかのように、淡い光は窓を覗き込み、皺ひとつなく整えられたベッドを暗闇から晒し出す。
…リュシアンは顔を上げる。
抑えきれない衝動に口が開く。
獲物の血を欲する二本の牙が、鋭く尖り、伸びていた。
唐突に思考を断ち切られ、リュシアンはハッと顔を上げる。
入り口に現れた神父は、相変わらず黒地の僧衣を纏い、胸に十字架を下げ、ランタン片手にやや呆れ気味の視線を投げて寄越した。
一階と地下室の間にあるこの書斎には、陽が届かなくなっている。空の支配権が太陽から月に移行したのだ。
リュシアンが持ち込んだ灯りの灯油も残り少ない。
「いつメシ食ってんだ、あんた」
「ご心配なく。ちゃんと食事はしています」
答えになっているような、いないようなことを言って、本棚から離れる。
まだまだ前菜しか食べてないですけどね、とは口に出さない。
今日の神父は、髪を何本もの細い三つ編みにして、背に垂らしていた。ときどき勉強を教わりにやってくる少女たちが、戯れにいろんな髪型を神父で試したりするので、これもそのひとつなのだろう。
聖職者とはいえ若い男性なのに、この神父は髪を遊ばれても嫌がらない。というより気にしない。結われたり編まれたりした髪型のままその日一日を過ごすので、リュシアンは町の婦人が少女たちを叱りつけ、神父に謝罪する場面に出くわしたこともあった。
初対面のときの印象があまりにも強かった所為か、神父がどんな髪型でもリュシアンは驚かない。それでも昔のどこかの王宮で流行したらしい型に結われ、おまけに愛らしく花をも挿した姿を見たときは、さすがに気の毒に思えて、笑いを噛み殺したものだった。
神父は書庫の鍵を掲げてみせて、無言で旅の青年に退室を促す。
どうせ明日もここにこもるのだからと、リュシアンは筆記用具を机に残したまま、灯りだけを手にした。
神父の正面まで来ると、ふと悪戯心が芽生えて、クスリと笑む。
彼の首にかけている十字架をひと撫でして、指で遊ぶようにして取った。
「あなたには似合いませんね」
正直にそう言ったのは、ひとつには、そのセリフでもってこの違和感だらけの神父を試したかったのである。
どう答えてくれるのか想像がつかなかったので、愉しくて仕方がなかった。
ほとんど身長差のない二人だから、リュシアンが神父の目を覗き込むのは簡単だった。
眼帯の下の左目の事情は知らないし、いい大人が不躾に訊くことでもない。
けれども露わになっているただひとつの目――右目の美しさには惹かれる。
それは冬の空を連想させるスカイブルーだった。どこまでも澄み切っていて、冷たい。
髪は夜に寄り添う月光色なのに、目は白昼を彷彿させるところが、なんとも皮肉でおもしろかった。
リュシアンの視界の端で、神父の手が動いた。
十字架を握っている手の首を掴まれ、おもむろに十字架ごと口もとまで持っていく。
何をするのかと期待していれば、十字架と鎖のつなぎ目に、触れるだけのキスをしたのだった。
「だから神の思し召しなんだろ」
似合わないのに神に仕えていることこそ、神の導き。
どんな者にも、神の御恵みは漏れることなく与えられる。
言葉にせずしてそう語る神父が、ニッと口角を上げる。
リュシアンはスカイブルーの中の自分を見た。ランタンの灯りに覆われ、ゆらゆらと揺らめいている。
トクリ、と、本能が目覚めにささやくのを聞いた。
***
不自然でない程度の急ぎ足で、リュシアンはその場から離れた。
自分の背中を見つめ、神父が一層笑みを深くしたことなど知るよしもなく、部屋に飛び込み、そのまま崩れ落ちる。
ドキドキが止まらない。
心臓の音がうるさい。
これがいわゆるときめきでないことは、勘違いのしようもなく知っている――わかっている。
身体じゅうの血が沸騰している。
細胞のひとつひとつが踊っている。
骨が軋むような、痛みともつかない甘美な疼き。
あの人だ。
ミロ・アレオッティ。
あの人に決めた。
違う。
たぶん最初から――出会ったその瞬間に、運命は決まっていたのだ。
今夜はハーフムーン。
隠された半身の行方を探すかのように、淡い光は窓を覗き込み、皺ひとつなく整えられたベッドを暗闇から晒し出す。
…リュシアンは顔を上げる。
抑えきれない衝動に口が開く。
獲物の血を欲する二本の牙が、鋭く尖り、伸びていた。
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