30年越しのバレンタイン

雨宮 千夏

文字の大きさ
上 下
1 / 1

渡せなかったチョコレート

しおりを挟む

 「決裁をお願いします」というメモ書きとともに、新しく採用する派遣社員の経歴書が数名分、机の上に置かれていた。
 部下が上げてきた派遣社員を不採用とすることは、ほぼない。
 言葉は悪いがコールセンター業務の経験が少しあれば誰でもいい。
 マニュアルにそって受け答えしてくれればそれでいいのだから。
 
 入れ替わりも激しいため派遣社員の面接、採用は部下に任せている。
 知らぬまに社内初の女性コールセンター統括などという立場になってしまった私は、最後の決裁をするだけだ。
 著しく不都合があれば派遣会社にクレームをいれ、契約を切ってしまえばいい。残酷なシステムを普及させた政府とそれを活用する企業、どっちもどっちか――。
 
 いつもはパラパラと形ばかり経歴書をめくって決裁印を押し、部下に告げるだけだが、その日は一人の経歴書の名前に目がとまった。44歳、私と同年齢だ。出身中学の欄に目をやると、私と同じ中学が記されていた。


 遠い記憶が瞬く間に立ち上がってくる―――。

 ―――男はいわば学校のアイドル的存在だった。

 どこの中学校にも一人はいる、同級生はもちろん下級生の女子生徒にまで知られているような。
 端正でありながらジャニーズ系の可愛さものぞかせる容姿にサッカー部のエースとくれば、騒がれないはずがない。そして成績も悪くはなかった。

 バレンタインなどは、山ほどのチョコレートが入っているであろう大きな袋を抱えて、放課後の運動場に向う彼の後ろ姿を覚えている。
 ジャニーズのアイドルになら私も手紙を添えてチョコを送ることはできたろう。
 しかし、ジャニーズのアイドルより遥かに近い存在のはずの学校のアイドルは、ある意味、テレビ画面に映るアイドルより遠い存在だった。

 分厚いメガネをかけ、野暮ったいだけの長い髪を無造作に束ねて、仲のいいほんの数人といつも教室のすみっこにいる少女。きっと、ほとんどの男子生徒は少女の名前すらロクに知らなかったにちがいない。
 そんな存在が学校一のアイドルにチョコなんて渡せるはずがなかった。近づけるはずがなかった――。


 ―――内線の音に我に返り、受話器を手にとった。
「うん、派遣さんOK。全員すすめて」と部下に告げた。


 ―――高校に入学して新しい環境に馴染んだ頃には、少女は恋そのものよりも恋をしうる自分になることを誓った。

 メガネをはずしコンタクトに代え、髪をバッサリと切った。
 鏡に映るのは、やはり冴えない少女だったが、それでも別人になれたような気がした。

 男のことはさほど思い出しもしなくなっていた。もともと恋といえるほどしっかりとした想いではなかったのだろう。集団催眠にかかったように皆と同じように憧れていただけだったのか。この先は、そんなものではなく本当に誰かを好きになった時、せめてチョコを渡せるぐらいにはなりたかった。
 
 やがて大学へと進み、少しずつメイクを覚えた頃、恋は遠いものではなくなっていた。
 少ないながら恋の経験を重ね、肉体の悦びも知り、そして別れに泣いた。
 時は瞬く間に過ぎゆき、就職先を考える時期にきていた。折りしも世にネットが現れた頃だ。しかし、世間一般にはまださほど普及していなかった。私はこれから爆発的にネットが普及すると考え、就職先にプロバイダを選んだ。

 採用され三年もすると会社は急成長を遂げ、入社競争率はおそろしいものとなった。

 以来二十数年つつがなく勤めてきただけだが、私の立場は今では仰々しいものになっていた――。


 ―――男の初出勤となる日、部下が男を連れあいさつにやってきた。

 部下から紹介されるとともに「よろしくお願いします」と頭を下げる男に、いつも通りに微笑みながら「こちらこそよろしくお願いします」と頭を下げる。
 
 これだけで顔合わせは終わりだ。男と部下が去っていく。
 
 ほんの数秒の対面だったが、男を観察するには十分だった。あの頃の面影はいくらかは残ってはいた。しかし決定的に違っているものがあった。それは人間が身にまとうオーラのようなものだ。あの頃の自信にあふれ華やいだものはどこにもなかった。

 代わりに男を覆っていたのは人生に倦み疲れた中年男にありがちのものだった。
 どんな人生を辿ったかは知らない。知る必要もない―――。

 派遣社員と私の接点はほぼない。
 だが、月末に出勤簿の最終確認印をもらいにくる。今日はその日だ。

 男がやってきた。頭を下げながら遠慮がちに「お願いします」と出勤簿を差し出した。
 出勤日に部下の印が押されていることを確認し、私は一番下の最終確認欄に印を押す。
「おつかれさまでした」と言って出金簿を手渡すと、男は「ありがとうございます」とまた丁寧に頭を下げた。

 背を向け立ち去ろうとした男に「あ、よかったら一ついかがですか?」と声をかける。
 仕事中、少しだけ糖分が欲しい時のために無造作にチョコレートを入れているカップを差し出した。
 男は恭しく「あ、ありがとうございます」と、一つ手にとった。


 もう私は分厚いメガネはかけていない。髪もずいぶんと短くなった。
 結婚して苗字も変わり、何より三十年という歳月が経った。男は今、記憶の片隅にも残っていない少女と三十年ぶりに我知らず対面している。同級生だと告げたら、どんな顔をするだろうか。
 もっともそんなことはしない。

 14歳の頃の自分を頭に思い浮かべた。
 そして母親が、年頃の娘をからかうような気持ちで心の中でつぶやいた。
 
 チョコ渡せたじゃん―――と。
 
 私は周りに気付かれない程度、少しだけ微笑んだ。


                       (了)
しおりを挟む

この作品の感想を投稿する


処理中です...