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第8章
作戦の変更
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日曜日――美弥は、倉重の部下である藤堂宅に向っていた。倉重は、終日ゴルフだ。
倉重は結婚当初、お披露目会のようなものとして自宅に部下を3人招いた。藤堂はそのうちの一人だった。他の2人は必死で倉重のご機嫌をとっているのがわかったが、藤堂は、倉重が嫌いな事を必死で抑えているような印象を受けた。
まだ倉重が美弥に正体を現す前だったが、嫌いな上司の結婚祝いの席に来なければならないエリート会社員も大変だ……そう思ったのを覚えている。
だからこそ、今回、藤堂に狙いを定めた――。
倉重への年賀状に印刷されていた連絡先に電話をかけ「倉重の事でどうしても相談に乗っていただきたいことがあります。非常識なのは承知なのですが、人目に絶対につきたくないので、ご自宅にお伺いさせていただけたら……」と告げた。
クリーニング屋の田所さんや洋食屋の旦那さんに使った手も、今回の作戦も、すべて昔あったAVの台本だ。夫の相談を口実に、部下宅に押しかける。男にとって嫌いな上司の妻を弄ぶというのは、至上の背徳感を味わえるものだろう。
そして倉重にとっては、最大の屈辱になる――。
電話口の藤堂からとまどいが感じられたが、一度会ったこともあるからか、承諾してくれた。
ただ、一つ懸念があった。記憶では、藤堂は知的で端正な顔をしていた。まだ若く外見も優れたエリートは、凡庸な女の誘惑など歯牙にもかけないかもしれない――。
――駅からはわかりやすいです、という藤堂の言葉通り、マンションはすぐに見つかった。美弥が住んでいた朽ちかけたような単身マンションとは似ても似つかない、現代的な洒落たものだった。
少し緊張しながらオートロックの部屋番号を押した。
落ち着いた声が返ってきて、オートロックが開錠された。
エレベーターで12Fまで上がり、ドアホンを押すと、藤堂が迎えてくれた。
美弥が型どおりの侘びのあいさつをして頭を下げると、藤堂は大丈夫です――とやわらかく取りなして、スリッパを出してくれた。
そして、どうぞ上がってください―ーと言って、彼は奥に向った。「すみません、お邪魔します」と言い、おずおずと後を追った。
室内ドアの向こうはリビングだった。10畳ほどだろうか。男の一人暮らしとは思えないほど、綺麗に片付けられている。窓からの眺めもいい。閉ざされている引き戸の奥は寝室だろう。
都内から少し離れているとはいえ、家賃も結構なものなのではないか。しかし倉重と同じ会社に勤め、独身なら、さほど負担でもないのか。ギリギリの一人暮らしの経験しかない美弥には、よくわからなかった。
対面キッチンから藤堂に「どうぞソファーに座ってください」と声をかけられたが、テーブルに向って正面に二人掛けのソファーと横面にスツールがあり、とまどっていると「ああ、ボクはスツールに座りますので、どうぞソファに」と言ってくれた。恐縮しながら腰を掛けた。
高価そうなオーディオから流れているのはジャズだろうか。音楽には詳しくないが、ピアノやドラムなど一つひとつの音の輪郭が際立ち、明瞭に澄んでいるのがわかる。
コーヒーを手にスツールに座った藤堂に礼を言い「今日は、すいません。お休みの日に」美弥は、改めて侘びた――。
「いえ、驚きはしましたけども……、どうされました?」
「会社での倉重のことを教えていただきたくて……。実は、離婚を考えていまして……」
突然、上司の妻に日曜に押しかけられ、実は離婚を考えていますと告白される……。なんと迷惑な話だろう。AVの台本だから通用する話だ、と自分で話しながら美弥は思う。だが、上司の妻に興味を抱く部下と、誘惑したい妻とならリアルでも予定調和的に有り得る話なのか、そんな下らない事も思った。
藤堂は、さほど表情は変えないままに
「え……、なにかあったんですか……?」と聞いた。
部屋で年の頃も近い男女が二人きり――。女は、男の上司の妻だ。その微妙な関係に、通常なら隠微なものが空間に漂ってもいいはずだが、藤堂からは湧き立つ情欲のようなものがまるで感じられなかった。
やはり私では、この人を誘惑できない――。いくらでも綺麗な若い女性が寄ってくるだろう。私が誘惑できるのは、せいぜい年かさの男たちだ。この人は、こんな凡庸な女を抱くほど女性に困ってはいない――。
座れば少し太ももが覗く丈のスカートと、胸を強調するタイトなセーターは功は奏さないようだ。着る女側の問題か――と美弥は表情には出さずに自分を嗤った。
作戦を変更した。誘惑できないのだから、持っていない色気を出そうなどとは思わず、全く他意のない純然たる相談として、倉重との出会いから現在までを手短に朴訥と語った――。
ほとんど何も知らないまま、労働地獄から逃れたいだけの愚かな結婚だったと。倉重は結婚して半年ほどで豹変したが、私以外の人間にはどんな風に接しているのか知りたかった――と。
その思いに、うそはなかった。
藤堂は口を挟むこともなく、黙って聞いていた。
美弥が、働いて寝るだけの長らくの暮らしを語った時、表情がわずかに変わったように見えたが、倉重の事では何を語っても、全く驚く様子もなかった―――。
きっと頭の中でどんな風に当たり障りなく倉重のことを伝えようかと考えているのだろう。それはそうだ、上司の妻に上司の印象を正直に語るサラリーマンがどこにいる……、と美弥は思った。
それがいた。ここに――。
倉重は結婚当初、お披露目会のようなものとして自宅に部下を3人招いた。藤堂はそのうちの一人だった。他の2人は必死で倉重のご機嫌をとっているのがわかったが、藤堂は、倉重が嫌いな事を必死で抑えているような印象を受けた。
まだ倉重が美弥に正体を現す前だったが、嫌いな上司の結婚祝いの席に来なければならないエリート会社員も大変だ……そう思ったのを覚えている。
だからこそ、今回、藤堂に狙いを定めた――。
倉重への年賀状に印刷されていた連絡先に電話をかけ「倉重の事でどうしても相談に乗っていただきたいことがあります。非常識なのは承知なのですが、人目に絶対につきたくないので、ご自宅にお伺いさせていただけたら……」と告げた。
クリーニング屋の田所さんや洋食屋の旦那さんに使った手も、今回の作戦も、すべて昔あったAVの台本だ。夫の相談を口実に、部下宅に押しかける。男にとって嫌いな上司の妻を弄ぶというのは、至上の背徳感を味わえるものだろう。
そして倉重にとっては、最大の屈辱になる――。
電話口の藤堂からとまどいが感じられたが、一度会ったこともあるからか、承諾してくれた。
ただ、一つ懸念があった。記憶では、藤堂は知的で端正な顔をしていた。まだ若く外見も優れたエリートは、凡庸な女の誘惑など歯牙にもかけないかもしれない――。
――駅からはわかりやすいです、という藤堂の言葉通り、マンションはすぐに見つかった。美弥が住んでいた朽ちかけたような単身マンションとは似ても似つかない、現代的な洒落たものだった。
少し緊張しながらオートロックの部屋番号を押した。
落ち着いた声が返ってきて、オートロックが開錠された。
エレベーターで12Fまで上がり、ドアホンを押すと、藤堂が迎えてくれた。
美弥が型どおりの侘びのあいさつをして頭を下げると、藤堂は大丈夫です――とやわらかく取りなして、スリッパを出してくれた。
そして、どうぞ上がってください―ーと言って、彼は奥に向った。「すみません、お邪魔します」と言い、おずおずと後を追った。
室内ドアの向こうはリビングだった。10畳ほどだろうか。男の一人暮らしとは思えないほど、綺麗に片付けられている。窓からの眺めもいい。閉ざされている引き戸の奥は寝室だろう。
都内から少し離れているとはいえ、家賃も結構なものなのではないか。しかし倉重と同じ会社に勤め、独身なら、さほど負担でもないのか。ギリギリの一人暮らしの経験しかない美弥には、よくわからなかった。
対面キッチンから藤堂に「どうぞソファーに座ってください」と声をかけられたが、テーブルに向って正面に二人掛けのソファーと横面にスツールがあり、とまどっていると「ああ、ボクはスツールに座りますので、どうぞソファに」と言ってくれた。恐縮しながら腰を掛けた。
高価そうなオーディオから流れているのはジャズだろうか。音楽には詳しくないが、ピアノやドラムなど一つひとつの音の輪郭が際立ち、明瞭に澄んでいるのがわかる。
コーヒーを手にスツールに座った藤堂に礼を言い「今日は、すいません。お休みの日に」美弥は、改めて侘びた――。
「いえ、驚きはしましたけども……、どうされました?」
「会社での倉重のことを教えていただきたくて……。実は、離婚を考えていまして……」
突然、上司の妻に日曜に押しかけられ、実は離婚を考えていますと告白される……。なんと迷惑な話だろう。AVの台本だから通用する話だ、と自分で話しながら美弥は思う。だが、上司の妻に興味を抱く部下と、誘惑したい妻とならリアルでも予定調和的に有り得る話なのか、そんな下らない事も思った。
藤堂は、さほど表情は変えないままに
「え……、なにかあったんですか……?」と聞いた。
部屋で年の頃も近い男女が二人きり――。女は、男の上司の妻だ。その微妙な関係に、通常なら隠微なものが空間に漂ってもいいはずだが、藤堂からは湧き立つ情欲のようなものがまるで感じられなかった。
やはり私では、この人を誘惑できない――。いくらでも綺麗な若い女性が寄ってくるだろう。私が誘惑できるのは、せいぜい年かさの男たちだ。この人は、こんな凡庸な女を抱くほど女性に困ってはいない――。
座れば少し太ももが覗く丈のスカートと、胸を強調するタイトなセーターは功は奏さないようだ。着る女側の問題か――と美弥は表情には出さずに自分を嗤った。
作戦を変更した。誘惑できないのだから、持っていない色気を出そうなどとは思わず、全く他意のない純然たる相談として、倉重との出会いから現在までを手短に朴訥と語った――。
ほとんど何も知らないまま、労働地獄から逃れたいだけの愚かな結婚だったと。倉重は結婚して半年ほどで豹変したが、私以外の人間にはどんな風に接しているのか知りたかった――と。
その思いに、うそはなかった。
藤堂は口を挟むこともなく、黙って聞いていた。
美弥が、働いて寝るだけの長らくの暮らしを語った時、表情がわずかに変わったように見えたが、倉重の事では何を語っても、全く驚く様子もなかった―――。
きっと頭の中でどんな風に当たり障りなく倉重のことを伝えようかと考えているのだろう。それはそうだ、上司の妻に上司の印象を正直に語るサラリーマンがどこにいる……、と美弥は思った。
それがいた。ここに――。
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