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3 アンジェリカ夫人
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遊戯室から聞こえる楽しげな声に、主アレクシスの妻、アンジェリカは足を止めた。
わがままで、遊びの相手をしてやってもちっとも懐かないコリン。もともと子供は嫌いだった。コリンのせいでますますその度合いが増した。
「どうかされましたか?」
すぐ傍らを付き従うように歩いていたメイドのシンディーも足を止め、気遣わしげにこちらを見る。たぶん、シンディーにはアンジェリカが立ち止まった理由もわかっているのだろうが、あえてわからないふりをして聞いてくる。
「いえ、何でもないわ」
そう言いながら、アンジェリカは遊戯室を覗いた。
とたん、金髪に近い薄茶の髪が、窓から差し込む日の光にきらきらしているのが目に飛び込む。鼻筋の通った細面の顔とその髪に、一瞬どきりと心臓を掴まれた。
「……フィオナ…。だったかしら…」
内心の動揺を隠すようにアンジェリカは問いかけた。
本当は、三月前にやって来たこのメイドの名は、しっかりと胸に刻まれている。あの、キャロルの双子の妹。
メイド長のベラがなぜフィオナを雇ったのか。いまだに理解できない。
だってキャロルはこの屋敷で亡くなったのだ。その妹を雇い入れるなんて正気とは思えない。フィオナには何か裏があるに違いないと思うのは当然だ。
屋敷で働く他のメイド達のことを気にかけたことは一度としてなかった。でもフィオナは別だ。
メイドにしておくには惜しいほどの美貌の持ち主の、一挙手一投足に目がいってしまう。今まで他人に心を捕らわれたことはなかった。伯爵家の娘として何不自由なく育てられ、名家であるコールドウェル伯爵家次期当主アレクシスの妻となり、これ以上はない安定した人生だ。誰かを羨むことも妬むことも忌むこともなかった。
それがどうだろう。フィオナを見ているとなぜか心が落ち着かない。
彼女は何も持っていない。メイドとして働き、この先どうなるのかもわからない。
先が決められていない人生など、アンジェリカには想像もつかない。そしておそらく、フィオナがこの先アンジェリカよりも優位な人生を送ることはないだろう。彼女はただの一介のメイドであり、平民であり、何もかもを約束されたアンジェリカとは違うのだ。フィオナには何一つアンジェリカより優れたところがない。
にもかかわらず気になるのはなぜなのだろう。
フィオナは、キャロルとそっくり同じ顔と姿でコリンと楽しげに積み木をして遊んでいる。
コリンが、ふと顔をあげアンジェリカの姿に気が付いた。
「あ、お母様」
その声にフィオナは素早く反応し、さっと立ち上がるとメイド服のスカートをつまみ頭を下げる。
「アンジェリカ奥様。今コリンお坊ちゃまのお相手をさせていただいておりました」
「見ればわかるわ」
少し前からじっと覗き見ていたのだ。なんとなく忌々しい。けれどそれを言葉にしようと思っても、上手い言い方がわからない。悶々としていると、コリンが積み木を置いて走り寄ってきた。
「ねぇねぇお母様。見て見て!」
アンジェリカのスカートの裾を掴み、引っ張ってくる。小さな手でぎゅっと掴んだ辺りが変に皺になっている。その小さな手が、子供特有のあの温かく湿ったものであることを知っていたアンジェリカはその手をスカートから離させた。
「ええ、あれは、……馬車、かしら?」
「違うよ! おっきなお船だよ! なんでわからないの? お母様のバカ!」
たった一言間違っただけでコリンはうわーんっと天を仰いで泣き出す。
本当にいらいらする。
第一、コリンの積み上げたものはどう見ても何の形にも見えず、ただ積み木がぐちゃぐちゃに積み重なっているだけなのだ。馬車という言葉も、ちっともそうとは思わなかったけれど、なんとか捻りだした答えだったのだ。
面倒だ。これだから子供は嫌いなのだ。
「あ、あの、坊ちゃま。素敵なお船ですね」
アンジェリカの苛立ちを瞬時に察したシンディーが、助け舟を出す。
「あの辺りが船の先端でしょうか。それに蒸気の吹き出し口がありますね。あれは蒸気船なのですね」
「じょうきせん……?」
聞きなれない言葉にコリンはひくっとしゃくりあげながらも泣き止んだ。涙を服の袖でごしごし拭う。
上手くコリンの気を逸らせたシンディーは、更に畳みかけるように続ける。
「ええ、そうです。蒸気船です。蒸気船をご存じとは坊ちゃまは物知りでいらっしゃいますね。近頃はあの大筒から煙をもくもく吐きながら大海を渡っていくそうにございます。ほんとに素敵なお船をつくられましたね」
「でしょう? シンディーもよくわかってるじゃないか」
偉そうに小さな胸をそらせる。
そして小さな濡れた瞳でアンジェリカを見上げた。
「やっぱりわかる人もいるんだよ。なのにお母様はちっともわかってない。シンディーの方がよっぽど物知りだ」
「あ、あの坊ちゃま?」
思わぬ方向に話が飛んで、シンディーはおろおろと間に割って入る。
「アンジェリカ奥様も蒸気船のことは知っておいでです。でも、その……」
「なに?」
「その、坊ちゃまの作られたものと蒸気船とが結びつかなかったと言いますか……」
「なんだよ、それ」
コリンはぷうっと頬を膨らませた。
アンジェリカを擁護しようとして、結局コリンの作ったものを否定したことになっている。
これでは何のフォローにもなりはしない。
もう、どうでもいい。
投げやりになった時、横からさっとコリンを抱き上げる手があった。
「坊ちゃま。積み木とは見る角度によってさまざまに見えるものにございます。アンジェリカ奥様の側から見ると、ほら。二頭立ての馬車のようにも見えるではありませんか。奥様は決して間違ったことをおっしゃってはいませんよ。違うものに見えたからと言って、残念がることなんてないんです。坊ちゃまの作られたものは、船でもあり、馬車でもある。一つで二役こなせるとっても便利なものなんですよ」
フィオナの言葉に、コリンはすっかり機嫌を直した。
わがままで、遊びの相手をしてやってもちっとも懐かないコリン。もともと子供は嫌いだった。コリンのせいでますますその度合いが増した。
「どうかされましたか?」
すぐ傍らを付き従うように歩いていたメイドのシンディーも足を止め、気遣わしげにこちらを見る。たぶん、シンディーにはアンジェリカが立ち止まった理由もわかっているのだろうが、あえてわからないふりをして聞いてくる。
「いえ、何でもないわ」
そう言いながら、アンジェリカは遊戯室を覗いた。
とたん、金髪に近い薄茶の髪が、窓から差し込む日の光にきらきらしているのが目に飛び込む。鼻筋の通った細面の顔とその髪に、一瞬どきりと心臓を掴まれた。
「……フィオナ…。だったかしら…」
内心の動揺を隠すようにアンジェリカは問いかけた。
本当は、三月前にやって来たこのメイドの名は、しっかりと胸に刻まれている。あの、キャロルの双子の妹。
メイド長のベラがなぜフィオナを雇ったのか。いまだに理解できない。
だってキャロルはこの屋敷で亡くなったのだ。その妹を雇い入れるなんて正気とは思えない。フィオナには何か裏があるに違いないと思うのは当然だ。
屋敷で働く他のメイド達のことを気にかけたことは一度としてなかった。でもフィオナは別だ。
メイドにしておくには惜しいほどの美貌の持ち主の、一挙手一投足に目がいってしまう。今まで他人に心を捕らわれたことはなかった。伯爵家の娘として何不自由なく育てられ、名家であるコールドウェル伯爵家次期当主アレクシスの妻となり、これ以上はない安定した人生だ。誰かを羨むことも妬むことも忌むこともなかった。
それがどうだろう。フィオナを見ているとなぜか心が落ち着かない。
彼女は何も持っていない。メイドとして働き、この先どうなるのかもわからない。
先が決められていない人生など、アンジェリカには想像もつかない。そしておそらく、フィオナがこの先アンジェリカよりも優位な人生を送ることはないだろう。彼女はただの一介のメイドであり、平民であり、何もかもを約束されたアンジェリカとは違うのだ。フィオナには何一つアンジェリカより優れたところがない。
にもかかわらず気になるのはなぜなのだろう。
フィオナは、キャロルとそっくり同じ顔と姿でコリンと楽しげに積み木をして遊んでいる。
コリンが、ふと顔をあげアンジェリカの姿に気が付いた。
「あ、お母様」
その声にフィオナは素早く反応し、さっと立ち上がるとメイド服のスカートをつまみ頭を下げる。
「アンジェリカ奥様。今コリンお坊ちゃまのお相手をさせていただいておりました」
「見ればわかるわ」
少し前からじっと覗き見ていたのだ。なんとなく忌々しい。けれどそれを言葉にしようと思っても、上手い言い方がわからない。悶々としていると、コリンが積み木を置いて走り寄ってきた。
「ねぇねぇお母様。見て見て!」
アンジェリカのスカートの裾を掴み、引っ張ってくる。小さな手でぎゅっと掴んだ辺りが変に皺になっている。その小さな手が、子供特有のあの温かく湿ったものであることを知っていたアンジェリカはその手をスカートから離させた。
「ええ、あれは、……馬車、かしら?」
「違うよ! おっきなお船だよ! なんでわからないの? お母様のバカ!」
たった一言間違っただけでコリンはうわーんっと天を仰いで泣き出す。
本当にいらいらする。
第一、コリンの積み上げたものはどう見ても何の形にも見えず、ただ積み木がぐちゃぐちゃに積み重なっているだけなのだ。馬車という言葉も、ちっともそうとは思わなかったけれど、なんとか捻りだした答えだったのだ。
面倒だ。これだから子供は嫌いなのだ。
「あ、あの、坊ちゃま。素敵なお船ですね」
アンジェリカの苛立ちを瞬時に察したシンディーが、助け舟を出す。
「あの辺りが船の先端でしょうか。それに蒸気の吹き出し口がありますね。あれは蒸気船なのですね」
「じょうきせん……?」
聞きなれない言葉にコリンはひくっとしゃくりあげながらも泣き止んだ。涙を服の袖でごしごし拭う。
上手くコリンの気を逸らせたシンディーは、更に畳みかけるように続ける。
「ええ、そうです。蒸気船です。蒸気船をご存じとは坊ちゃまは物知りでいらっしゃいますね。近頃はあの大筒から煙をもくもく吐きながら大海を渡っていくそうにございます。ほんとに素敵なお船をつくられましたね」
「でしょう? シンディーもよくわかってるじゃないか」
偉そうに小さな胸をそらせる。
そして小さな濡れた瞳でアンジェリカを見上げた。
「やっぱりわかる人もいるんだよ。なのにお母様はちっともわかってない。シンディーの方がよっぽど物知りだ」
「あ、あの坊ちゃま?」
思わぬ方向に話が飛んで、シンディーはおろおろと間に割って入る。
「アンジェリカ奥様も蒸気船のことは知っておいでです。でも、その……」
「なに?」
「その、坊ちゃまの作られたものと蒸気船とが結びつかなかったと言いますか……」
「なんだよ、それ」
コリンはぷうっと頬を膨らませた。
アンジェリカを擁護しようとして、結局コリンの作ったものを否定したことになっている。
これでは何のフォローにもなりはしない。
もう、どうでもいい。
投げやりになった時、横からさっとコリンを抱き上げる手があった。
「坊ちゃま。積み木とは見る角度によってさまざまに見えるものにございます。アンジェリカ奥様の側から見ると、ほら。二頭立ての馬車のようにも見えるではありませんか。奥様は決して間違ったことをおっしゃってはいませんよ。違うものに見えたからと言って、残念がることなんてないんです。坊ちゃまの作られたものは、船でもあり、馬車でもある。一つで二役こなせるとっても便利なものなんですよ」
フィオナの言葉に、コリンはすっかり機嫌を直した。
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