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2話
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電話が鳴った。驚いたおますは、すぐに玄関に置いてある黒電話の受話器を取り、耳に当てた。
「もしもし……」
おそるおそるそう言うと、
『やー! 調子はどうだい?』
この能天気な口調と声、おますは一人の人物の姿が頭に浮かんだ。
「ええ、そちらもお元気そうで、えっとポッターさん」
と何気なしに冗談を言うと、
『やだ、魔法使い違いだよ。ちなみに僕の名前は伸ばし棒が一つ多い。ちなみにあの小説は1997年刊行だから、そこでは禁句だからね。気を付けて』
受話器から聞こえる声のトーンは何も変わっていないのに冷たさを感じ、背筋が凍る思いだった。
「す、すいません……」
『うんうん。わかってくれたらそれでいいんだ。あ、それからこれが本題なんだけど、近いうちににその屋敷に誰かが訪ねてくるから無視してください』
「それはどういう」
『たぶん説明しても理解と納得はできないとだろうからここでは何も言わないでおくね。それじゃ」
通話が切れた。居間まで行くと、ホタルがいつの間にかそこに鎮座していた。
「電話、誰からだったんじゃ?」
おますは何事もなかったかのように
「ただのセールスです」
と応えた。
ここの生活が徐々に慣れ始めた夏真っ盛りのある日。おますとホタルは作業着を着てガレージの前に立っていた。
おますのあてがわれた部屋から日本庭園とは反対側に位置する倉庫兼ガレージがある。
「おますよ、見てくれ」
そういってホタルはシャッターを上げた。中はかび臭く、油臭かった。そこに並べられた三台のバイク。
「今日はこやつらの手入れじゃ」
ホタルはここ最近とても調子が良く、居間に長い事居座り、おますの仕事の手を止めて談笑を楽しんでいた。その時の話の中で、バイクの話題となり今に至る。
おますはバイクに触れたことがなかった。物珍しそうに眺めながら、ホタルに尋ねた。
「これってどうしたんですか?」
「これか? おますがここで働く前に、先生からの贈り物じゃ」
なぜこんなものを……とあの男の意図がわからないおますであった。
「……てことはこれも魔法のバイクというやつですか」
「いや。これはZ400FXというカワサキのバイクじゃ。その隣がKZ1000MK2、そしてさらにその隣がホンダのCBX400じゃ」
「え」
「ん?」
しばしの沈黙が流れる。その間、おますの胸中では、どうしてそこだけ現実路線なんだよ! という叫びが体中に木霊した。
「なんじゃおます。バイクの知識はからっきしか」
「ええ、興味がなくて……」
「バイクブームなのにのう……まあ、女にはわからないというやつか」
その物言いがおますはおもしろくなかった。
「そんな言い方、女性にモテませんよ」
と嫌味をといったら、
「そうか、なら直す」
と返された。その変わり身の早さに、おますは男の性を覗き込んだ気がした。同時にほんの少しの軽蔑があらわになった。
「素直ですね」
つっけんどんな口調で言うと、
「おますに嫌われとうないからな」
とホタルはバイクを撫でた。さっきまで軽蔑が心を占めていたのに、自身を中心にされると途端に心が晴れた気がし、女の単純さもおますは知ってしまった。照れをかくすように前髪をいじりながら、
「わ、私はな、何をすればいいでしょうか……」
と顔を見られないように俯きながら尋ねた。
「ん、そうじゃのう……とりあえずそこの棚のワックスをとってくれぬか? バイク用じゃぞ」
ぎこちなくおますは、棚の方に行き、置かれていたワックスを取って自身の持っているウエスに付けてからホタルの近くに置いた。サンキューといってホタルは流れるように受け取った。なんで心が揺さぶられているのか……相手はもうこの世にはいないモノだ。恋愛経験が乏しいからって若い男性の言葉でこうも動揺している自分があまりにも滑稽だとおますは思った。おますは深呼吸をして切り替えようとした矢先、
「おますよ、これはバイク用じゃなく車の洗車用シャンプーじゃ」
車の洗車用シャンプーを渡していた。
すいません、すぐに――と言って棚に向かおうと立ち上がり足を動かしたら、もつれてしまい、立て掛けてあった脚立に接触。脚立はZ400F(バイク)Xにめがけて倒れた。ひどい接触音がガレージに響く。ついでにホタルの叫び声が後を追いかける形で轟いた。
「きれいになったな」
「そうですね」
「ここさえなければ……」
バイクのタンク部分に歪な傷が目立った。
「本当に申し訳ありません!」
おますは必死に何度も頭を下げる。
「ま、何の知識のないおますに頼んだ俺の采配ミスでもあるし、おますにケガがなくてよかったわい」
そう言ってホタルは笑っている。肩を落とすおますに気を遣わせないように振る舞っているのだとおますは感じた。そんな心遣いを受けるのは一体いつぶりだろうかとおますは考えた――生まれてこの方、母以外でいたかどうか……他人は自分に悪意しか向けない。それが普通だった。愛なんて幻想、実の父親ですら私を疎んじた。それなのにこの幽霊は……――
「それにしても意外でしたね。ホタルさんがバイクの免許を持っているなんて」
死んでいるから道路交通法とか関係はないということに言ってから気づいたおます。
おますはバイクのシートを撫でた。手間をかけて手入れしたからか、おますの中で少し愛着が湧いてくるのであった。
「持っとらんぞ」
蝉の声がよく聞こえた。おますはホタルの言っている意味を理解するのに、時間はかからなかったが、あきらかに時間は一瞬止まった気がした。
「持ってない……え、ごめんなさい冗談ですよね?」
「おますよ。俺の状況を忘れたのか? 病弱なんじゃぞ。免許なんて取りにいけるわけなかろう」
そう言われたらそうなのだが……乗れないのにこんなことやる意味はあるのか? おますが不服そうにしているのをホタルは見て取ったので、
「うむ。不満がでてくるのはもっともじゃ。しかし、こう言った乗り物は、手入れしておかないといざ乗りたい時に乗れなくなったりするもんさ」
「だとしても――」
「おますよ。俺はな、この病気が少しでもよくなって外出の許可がおりたら、すぐにでもバイクの免許を取りに行くつもりじゃ。そして夜の道路をこいつらで駆け巡りたいのじゃ。それが俺の今の目標で夢だ」
ホタルは照れくさそうに語るのだった。
「それで、おますは夢だったり、やりたいことはあるのか?」
「夢か……人並の生活かな」
と質問に応えたが、ホタルはつまらなそうな顔している。
「なんじゃい。もう少し欲を出してもよかろうに」
おますは苦笑するしかなかった。ホタルのバイクに乗る夢が叶わないのと一緒で、おますもこの先、普通の人みたいに生活できるなんて到底想像もできなかったからだ。
「何事もポジティブに行こう。さすればきっとつかめる」
その時は果たしてくるのか……おますはホタルの横顔を見て哀れな気持ちになった。
「しかし、おますよ。あちいのう」
「はい、暑いですね」
気が付いたら汗で身体中がベタベタだった。着ていたツナギの作業服が古い油の汚れなどが付着していた。おますはファスナーを下ろし、作業着の上半分を脱ぐ。
「うわ、汗まみれ」
白いTシャツは汗を吸い、おますの身体にへばりついた。
「おますよ……おぬし、意外と立派なモノを持っとるな」
まじまじとおますの胸部を見るホタルの頭に反射的に鉄槌を降り落とした。〝痛い〟とホタルはわめくが、おますはため息をつき、80年代みたいなノリだなとあきれた。
「おますよ、手入れはここまでにして風呂を沸かしてきてくれ」
「わかりました」
「そして二人で背中を洗いっこしよう」
「いい加減にしないとセクハラで訴えますよ」
「なんじゃ? セクハラとは?」
「え、セクシャルハラスメントといって性的嫌がらせのことですよ。知らないんですか?」
「うむ。知らぬ。始めて聞く単語じゃ」
そこでおますは、勘づく。この言葉はおそらく、ホタルの生前ではあまり浸透していなく、使われていない言葉だということに……。
「あ、あ、なんか女性雑誌で書かれていたような記憶があったようなないような……お風呂洗ってきますね」
誤魔化した。とても雑な誤魔化し方であった。
スポンジを泡立て、浴槽を洗う。銀色の浴槽は、いかにもな昭和の匂いを醸し出していた。
〝湯はりボタン〟〝おいだきボタン〟機能のないお風呂。おますがここに来た頃は、このことで四苦八苦の日々だった。お湯を溜めていることを忘れ何度も溢れさせた。
泡まみれの浴槽をシャワーの水で流す。泡と水が小さく丸い排水溝に渦を描きながら流れていく。まるでダンスするかのようにどんどん穴に吸い込まれ、次第に泡は消え、水だけが流れた。その光景は不浄な物を排除したようなものであった。おますはシャワーを止め、蛇口をひねりお湯を入れた。
おますが居間に行くと、ホタルがのびていた。寝息も聞こえる。疲れたのだろう。外はとても暑い。クーラーの涼しさは、体にとって癒しでしかない。まるで遊び疲れた子どものようなホタルの寝顔を見て、おますはため息まじりに微笑を浮かべた。タオルケットを一枚持ってきてホタルに掛けてやった。
しばらくしておますがお湯の状況を確認にいくと、ちょうどいい塩梅であった。なのでホタルを起こそうと試みたところ、よだれを垂らしてぐへへへ、お腹いっぱい――と寝言を発するだけだった。仕方がないと割り切っておますは風呂場に行き、汗をいっぱい含んだ服を脱いだ。浴室の洗面台の横に立て掛けてある体重計をひぱっり出す。おますはそっと片足を置き、もう片方の足をさっと体重計に乗せる。メモリが目に追えないスピードで動き、ゆらゆら減速して止まった。おますは〝ひっ!〟と引きつった声をあげ、逃げるように風呂に入った。
湯船に浸かると疲労が一気に抜けていくのが、身体を通して伝わるのを感じた。初めてバイクに触り、ワックスかけをした。それがおますにとって新鮮で、いいようのない達成感があった。天井に手をかざす。
――肌が艶やかになった気がする……
おますは自分の腕や手を揉み、そのしっとりとした艶もハリのあることを確かめた。そのまま自身の胸に両手を優しく包み込むように添える。そのまま重力に逆らうように上にあげ、落とす。もう一度胸を両手で包み込む。掌に収まらないその脂肪を見て、
「きっとこれが原因だわ……」
とさっきの体重計の数字の原因を追求しはじめたおます。これは私がグラマラスという証拠だ。無理やり納得しようとして、お腹を摘む。ムギュという効果音がでたような気がするほどの弾力。
「ダイエットしよう……」
湯船に雫が落ちた。
「もしもし……」
おそるおそるそう言うと、
『やー! 調子はどうだい?』
この能天気な口調と声、おますは一人の人物の姿が頭に浮かんだ。
「ええ、そちらもお元気そうで、えっとポッターさん」
と何気なしに冗談を言うと、
『やだ、魔法使い違いだよ。ちなみに僕の名前は伸ばし棒が一つ多い。ちなみにあの小説は1997年刊行だから、そこでは禁句だからね。気を付けて』
受話器から聞こえる声のトーンは何も変わっていないのに冷たさを感じ、背筋が凍る思いだった。
「す、すいません……」
『うんうん。わかってくれたらそれでいいんだ。あ、それからこれが本題なんだけど、近いうちににその屋敷に誰かが訪ねてくるから無視してください』
「それはどういう」
『たぶん説明しても理解と納得はできないとだろうからここでは何も言わないでおくね。それじゃ」
通話が切れた。居間まで行くと、ホタルがいつの間にかそこに鎮座していた。
「電話、誰からだったんじゃ?」
おますは何事もなかったかのように
「ただのセールスです」
と応えた。
ここの生活が徐々に慣れ始めた夏真っ盛りのある日。おますとホタルは作業着を着てガレージの前に立っていた。
おますのあてがわれた部屋から日本庭園とは反対側に位置する倉庫兼ガレージがある。
「おますよ、見てくれ」
そういってホタルはシャッターを上げた。中はかび臭く、油臭かった。そこに並べられた三台のバイク。
「今日はこやつらの手入れじゃ」
ホタルはここ最近とても調子が良く、居間に長い事居座り、おますの仕事の手を止めて談笑を楽しんでいた。その時の話の中で、バイクの話題となり今に至る。
おますはバイクに触れたことがなかった。物珍しそうに眺めながら、ホタルに尋ねた。
「これってどうしたんですか?」
「これか? おますがここで働く前に、先生からの贈り物じゃ」
なぜこんなものを……とあの男の意図がわからないおますであった。
「……てことはこれも魔法のバイクというやつですか」
「いや。これはZ400FXというカワサキのバイクじゃ。その隣がKZ1000MK2、そしてさらにその隣がホンダのCBX400じゃ」
「え」
「ん?」
しばしの沈黙が流れる。その間、おますの胸中では、どうしてそこだけ現実路線なんだよ! という叫びが体中に木霊した。
「なんじゃおます。バイクの知識はからっきしか」
「ええ、興味がなくて……」
「バイクブームなのにのう……まあ、女にはわからないというやつか」
その物言いがおますはおもしろくなかった。
「そんな言い方、女性にモテませんよ」
と嫌味をといったら、
「そうか、なら直す」
と返された。その変わり身の早さに、おますは男の性を覗き込んだ気がした。同時にほんの少しの軽蔑があらわになった。
「素直ですね」
つっけんどんな口調で言うと、
「おますに嫌われとうないからな」
とホタルはバイクを撫でた。さっきまで軽蔑が心を占めていたのに、自身を中心にされると途端に心が晴れた気がし、女の単純さもおますは知ってしまった。照れをかくすように前髪をいじりながら、
「わ、私はな、何をすればいいでしょうか……」
と顔を見られないように俯きながら尋ねた。
「ん、そうじゃのう……とりあえずそこの棚のワックスをとってくれぬか? バイク用じゃぞ」
ぎこちなくおますは、棚の方に行き、置かれていたワックスを取って自身の持っているウエスに付けてからホタルの近くに置いた。サンキューといってホタルは流れるように受け取った。なんで心が揺さぶられているのか……相手はもうこの世にはいないモノだ。恋愛経験が乏しいからって若い男性の言葉でこうも動揺している自分があまりにも滑稽だとおますは思った。おますは深呼吸をして切り替えようとした矢先、
「おますよ、これはバイク用じゃなく車の洗車用シャンプーじゃ」
車の洗車用シャンプーを渡していた。
すいません、すぐに――と言って棚に向かおうと立ち上がり足を動かしたら、もつれてしまい、立て掛けてあった脚立に接触。脚立はZ400F(バイク)Xにめがけて倒れた。ひどい接触音がガレージに響く。ついでにホタルの叫び声が後を追いかける形で轟いた。
「きれいになったな」
「そうですね」
「ここさえなければ……」
バイクのタンク部分に歪な傷が目立った。
「本当に申し訳ありません!」
おますは必死に何度も頭を下げる。
「ま、何の知識のないおますに頼んだ俺の采配ミスでもあるし、おますにケガがなくてよかったわい」
そう言ってホタルは笑っている。肩を落とすおますに気を遣わせないように振る舞っているのだとおますは感じた。そんな心遣いを受けるのは一体いつぶりだろうかとおますは考えた――生まれてこの方、母以外でいたかどうか……他人は自分に悪意しか向けない。それが普通だった。愛なんて幻想、実の父親ですら私を疎んじた。それなのにこの幽霊は……――
「それにしても意外でしたね。ホタルさんがバイクの免許を持っているなんて」
死んでいるから道路交通法とか関係はないということに言ってから気づいたおます。
おますはバイクのシートを撫でた。手間をかけて手入れしたからか、おますの中で少し愛着が湧いてくるのであった。
「持っとらんぞ」
蝉の声がよく聞こえた。おますはホタルの言っている意味を理解するのに、時間はかからなかったが、あきらかに時間は一瞬止まった気がした。
「持ってない……え、ごめんなさい冗談ですよね?」
「おますよ。俺の状況を忘れたのか? 病弱なんじゃぞ。免許なんて取りにいけるわけなかろう」
そう言われたらそうなのだが……乗れないのにこんなことやる意味はあるのか? おますが不服そうにしているのをホタルは見て取ったので、
「うむ。不満がでてくるのはもっともじゃ。しかし、こう言った乗り物は、手入れしておかないといざ乗りたい時に乗れなくなったりするもんさ」
「だとしても――」
「おますよ。俺はな、この病気が少しでもよくなって外出の許可がおりたら、すぐにでもバイクの免許を取りに行くつもりじゃ。そして夜の道路をこいつらで駆け巡りたいのじゃ。それが俺の今の目標で夢だ」
ホタルは照れくさそうに語るのだった。
「それで、おますは夢だったり、やりたいことはあるのか?」
「夢か……人並の生活かな」
と質問に応えたが、ホタルはつまらなそうな顔している。
「なんじゃい。もう少し欲を出してもよかろうに」
おますは苦笑するしかなかった。ホタルのバイクに乗る夢が叶わないのと一緒で、おますもこの先、普通の人みたいに生活できるなんて到底想像もできなかったからだ。
「何事もポジティブに行こう。さすればきっとつかめる」
その時は果たしてくるのか……おますはホタルの横顔を見て哀れな気持ちになった。
「しかし、おますよ。あちいのう」
「はい、暑いですね」
気が付いたら汗で身体中がベタベタだった。着ていたツナギの作業服が古い油の汚れなどが付着していた。おますはファスナーを下ろし、作業着の上半分を脱ぐ。
「うわ、汗まみれ」
白いTシャツは汗を吸い、おますの身体にへばりついた。
「おますよ……おぬし、意外と立派なモノを持っとるな」
まじまじとおますの胸部を見るホタルの頭に反射的に鉄槌を降り落とした。〝痛い〟とホタルはわめくが、おますはため息をつき、80年代みたいなノリだなとあきれた。
「おますよ、手入れはここまでにして風呂を沸かしてきてくれ」
「わかりました」
「そして二人で背中を洗いっこしよう」
「いい加減にしないとセクハラで訴えますよ」
「なんじゃ? セクハラとは?」
「え、セクシャルハラスメントといって性的嫌がらせのことですよ。知らないんですか?」
「うむ。知らぬ。始めて聞く単語じゃ」
そこでおますは、勘づく。この言葉はおそらく、ホタルの生前ではあまり浸透していなく、使われていない言葉だということに……。
「あ、あ、なんか女性雑誌で書かれていたような記憶があったようなないような……お風呂洗ってきますね」
誤魔化した。とても雑な誤魔化し方であった。
スポンジを泡立て、浴槽を洗う。銀色の浴槽は、いかにもな昭和の匂いを醸し出していた。
〝湯はりボタン〟〝おいだきボタン〟機能のないお風呂。おますがここに来た頃は、このことで四苦八苦の日々だった。お湯を溜めていることを忘れ何度も溢れさせた。
泡まみれの浴槽をシャワーの水で流す。泡と水が小さく丸い排水溝に渦を描きながら流れていく。まるでダンスするかのようにどんどん穴に吸い込まれ、次第に泡は消え、水だけが流れた。その光景は不浄な物を排除したようなものであった。おますはシャワーを止め、蛇口をひねりお湯を入れた。
おますが居間に行くと、ホタルがのびていた。寝息も聞こえる。疲れたのだろう。外はとても暑い。クーラーの涼しさは、体にとって癒しでしかない。まるで遊び疲れた子どものようなホタルの寝顔を見て、おますはため息まじりに微笑を浮かべた。タオルケットを一枚持ってきてホタルに掛けてやった。
しばらくしておますがお湯の状況を確認にいくと、ちょうどいい塩梅であった。なのでホタルを起こそうと試みたところ、よだれを垂らしてぐへへへ、お腹いっぱい――と寝言を発するだけだった。仕方がないと割り切っておますは風呂場に行き、汗をいっぱい含んだ服を脱いだ。浴室の洗面台の横に立て掛けてある体重計をひぱっり出す。おますはそっと片足を置き、もう片方の足をさっと体重計に乗せる。メモリが目に追えないスピードで動き、ゆらゆら減速して止まった。おますは〝ひっ!〟と引きつった声をあげ、逃げるように風呂に入った。
湯船に浸かると疲労が一気に抜けていくのが、身体を通して伝わるのを感じた。初めてバイクに触り、ワックスかけをした。それがおますにとって新鮮で、いいようのない達成感があった。天井に手をかざす。
――肌が艶やかになった気がする……
おますは自分の腕や手を揉み、そのしっとりとした艶もハリのあることを確かめた。そのまま自身の胸に両手を優しく包み込むように添える。そのまま重力に逆らうように上にあげ、落とす。もう一度胸を両手で包み込む。掌に収まらないその脂肪を見て、
「きっとこれが原因だわ……」
とさっきの体重計の数字の原因を追求しはじめたおます。これは私がグラマラスという証拠だ。無理やり納得しようとして、お腹を摘む。ムギュという効果音がでたような気がするほどの弾力。
「ダイエットしよう……」
湯船に雫が落ちた。
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