鈴(りん)の鳴る夜

ISAK

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鈴(りん)の鳴る夜

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 親戚たちが帰って、リビングにはあかりと父の哲男が残った。燈の娘、郁海いくみは友だちとオンラインで何かをすると言って二階に引き上げて行った。ふたりでビールを開けた。やっと一息つけた。長い一日だった。
「俺、あいつに謝ってないんだよなあ」
「あいつって、ひかりに?」
「そう」
「何を?」
「高校生の時ひとりで夜中に自転車でコンビニに行かせたこと」
「ああ、あれね。あれはあたしも反省してんだ」
「なんでおまえが?」
「だって、あの子、姉のあたしに頼れなかったのよ。ナプキン一枚貸してって言えない姉なんだなって、悲しくなっちゃった」
「言ってくれりゃあ、俺だって、そんなに行きたきゃ自転車で行け!なんて怒鳴らなかったんだ」
「本当に行ったからね、あの子。真冬だったのに」
「三キロはあるからな。可哀そうなことをしたよ」
「あたしがトイレで見つけなかったら、あの子ずっと黙ってるつもりだったのよ。ふだん好き放題してるくせに、変なところで気をつかうんだから」
「母さんが生きてたら、こういうことにはならなかったってな。つくづく思ったよ」
 哲男は空になった缶を持って立ち上がった。燈に缶をかかげて見せる。
「飲むか?」
「あたしはいい。まだ残ってる」
 そうか、と言って哲男はキッチンにむかった。その後ろ姿に、燈は薄っすらと父に積りだした老いを見た――お父さんいくつになったんだろう。まだ老けてはいない。けれど、自分がおぼえているあの背中は、もうそこにはなかった。
 哲男がソファにもどり、ビールを開けた。あの話をするいい機会かもしれないと燈は思った。
「ねえ、お父さん」
 何気なく、明るく切り出す。深刻にはしないほうがいい。
「ん?」
「あたしがさあ、郁海を連れて帰ってきたら、おとうさん、どうする?」
 哲男は飲みかけたビールを吹き出しそうになり、あわてて手で口元をぬぐった。
「何、おまえ、出戻ってくるってことか」
「うれしい?」
「うれしいはずないだろが。娘が離婚するんだぞ」
「お料理とかしてあげるよ」
「どうだか」
「お洗濯も」
「うそくさい」
「あたしだって、こうみえて主婦歴十年になるんだからね。家にいたころとはちがうんだからもう」
「ひどかったからなあ、おまえたちは」
「しかたないじゃない。あたしたちは、あたしたちで大変だったんだから」
「母さんが入院して、おまえたちが家のことをやりだしたとき、俺は奇跡が起きたと思ったね」
「お母さんに言われたからです」
「それまで、俺が言っても母さんが言っても、何一つ家のことをしなかったおまえたちが、当番を決めてちゃんとやりだしたんだ。うれしかったねえ、俺は」
「まあ、あたしたちも、もう高校生だったからね。何て言うの、なんとなくだめなんだろうなってわかってて、最後のいいつけくらいまもらなきゃって思ったのよ、ふたりで」
「ずっと続けろ、とは言わなかったのか、母さん」
「言わなかった、よ――言ったかな」
「ま、いいさ。何とかやってこれたんだ」
 出戻って来る話の流れではなくなっていた。それはそれでいい。自分の思いは父に伝わった。燈は父の顔を見た。父は来し方を振り返っている。今日という日のこともあるが、このリビングには母と自分たちが確かにこの家にいたことを示す痕跡がありありと残っていた。棚の置物、壁の写真、窓のカーテン、テレビ、テーブル、床のキズまでが凍結保存されたように残っていた。
「大変だったでしょ」
「何が?」
「お母さんが死んでから」
「そりゃ、まあな」
「何が一番大変だった?」
「そうなあ、やっぱ料理とか家のことだな。それなりにやってはいたけど、毎日となると別物だったよな」
「がんばってたよね、お父さん」
「母さんからバトンを渡されたようなものだからな」
「重たいバトンだったでしょ」
「たしかに」
 と笑って哲男はビールを飲みほした。
「けどな、おまえが家を離れてからの晄の弁当にはまいった」
「なにそれ?」
「ほら、おまえがいたころは、あいつの分までおまえがつくってただろ」
「そうだったね」
「だから、流れとして俺がつくることになったわけだ」
「自分でやらせればよかったのに」
「朝飯の時間が惜しいって寝てるやつが弁当つくると思うか」
「たしかに」
「毎日買い弁させる余裕はないし、ほっといたらお菓子とジュースで済ますにきまってるから、俺がつくることにしたわけよ、親の務めとして」
「おかずはどうしたの。つくったの」
「冷凍食品だよ。全部冷食。半額になる日にスーパーで買いだめしといてな。全部茶色で恥ずかしいっていわれりゃ、冷凍の卵焼きとか、プチトマトとかブロッコリーを入れて。白いご飯ばっかりじゃ飽きるとか言われりゃ、冷凍ピラフを入れて」
「好き放題じゃない」
「まったくだよ」
「怒らなかったの」
「なんてえか、妙に切実に響いてな。友だちと弁当広げて、みんなカラフルなのに自分だけフライとハンバーグと春巻きだけだったら、そりゃあ、見られたくないわ。母親じゃなくて申し訳ない、と思ったわけだよ」
「そっか」
 燈にもその光景は見えた。父の悔恨も。飄々と自由に生きているように見えていた父にこんな思いがあったのだ。
「それより、俺が頭にきたのは弁当の入れ物を出さないことだ」
「ああ、そういえば、あの子そうだったね」
「おまえは、どうしてたんだ」
「出さなきゃ、つくらなかった。それだけ」
「それで、出したのか」
「うん。出てくるようになった」
「俺んときは出さなかったぞ。怒ろうが放っとこうが、どこ吹く風だ」
「甘えてたんじゃない」
「はあ、あいつが」
「か、反抗期」
「そっちだ」
「で、どうしたのお弁当?」
「百均の使い捨てパックにしたさ」
「なるほど」
「けどな、口にはしなかったけど――」
 言いかけて哲男は口をつぐんだ。音を与えられなかった言葉が宙に消えた。
「しなかったけど?」
 おずおずと燈はたずねた。父の顔はどこか痛々しく見えた。
「いや、やっぱりやめとく」
「言わなくて、平気?」
「ああ」
 晄の弁当に苦心する父の心に何かが起こっていたのだろう。口にすれば晄を壊してしまいかねない何かが。もう来ないかもしれないけれど、父が再びそれを口にしようと思ったときには、自分がそばにいてやろうと燈は思った。
「あたしさ」
「ん?」
「子どものころ、晄がうらやましかったんだ」
「おまえが?」
「うん」
「だって、おまえのほうが」
「わかってる。勉強とかスポーツとかは確かにあたしの方ができた。お父さんにもお母さんにもあたしの方がほめてもらってた。でもね――」
 燈は、ああこれが自分のまっすぐな気持ちだったんだと改めて気づいた。
「あたしもあの子みたいにお父さんにバカにされたり、からかわれたりしたかったんだ。あの子、そういうとき本当にしあわせそうだった」
「たしかに、そういうところはあったな。からかいがいはあった」
「でしょ。あたしはそれがうらやましかったんだ」
「でも、おまえだったら怒り出してだろ、あいつみたいにこき下ろしたら」
「うん。それはそう。矛盾だけどね。おかしいね」
 笑いながら燈はソファーを立った。
「もう一本飲もうかな。お父さんは?」
「ああ、たのむ」
 燈がビールを持って戻った。プシュッと音が重なった。親子だねと含み笑ってふたりは缶を合わせた。
「さっきの話だけど、郁海には話してあるのか」
「もう隠せないからね。父親が何か月も帰ってこないんだから」
「あの歳でなあ。可哀そうだな」
「うん」
「んで、郁海は?」
「じーじ独りになって可哀そうだから、面倒見てあげるんだって」
「はっ、泣かせるねえ」
 哲男の目から涙がこぼれた。
「なによ、どうしたのよ、お父さん」
「どれ、線香でも見てくるか」
 照れを取り繕うように哲男は仏間に向かった。やがてマッチを擦る音と静かなりんの音が響いてきた。
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