スノウ・カントリー

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スノウ・カントリー

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 クリスマスイブ。あたしは大学の留学生寮の友人たちとスキー場近くの安っぽい貸別荘にいた。着飾ってすごす相手もいないし、家族とすごしたいと思ったことなど、この十年一度もなかった。奇跡的にそう思ったとしても帰るには飛行機だけで十時間以上かかる。家に着くのはクリスマスが終わったあとだ。
 テーブルの上には食べ終えたシチューの皿とケーキの残りとビールとポップの缶が転がっていた。何度も何度も乾杯した。今夜の主役に、もう来なくなって久しい白髭のおじいさんに、遠い故郷の人たちに。目の前の愛しい仲間に――乾杯した。ほんとうに楽しかった。
 明日スキーに行くなんて思えないほど、みんな酔っぱらっていた。男四人に女二人。専攻も年齢もちがったけど、何の気兼ねもいらない、寮の食堂のバイト仲間。きょうだい同然の人たちだった。
 時計は午後九時をまわったところ。ディナーが終わって、みな思い思いにくつろいでいた。寝るにはまだ早い。あたしは白ワインをボトルからラッパ飲みしながら、物静かなヒゲ面のノルウェー人ルーカスと明日滑るコースの話をしていた。ルーカスもかなりやりそう。明日が楽しみだ。
 あたしのとなりではピーターがクッションを抱えて部屋のすみに置かれたクリスマスツリーをぼんやりとながめていた。本名はファン・イエンイエン。台湾人だ。漢字でどう書くかは何回か教わったけど忘れてしまった。発酵学の修士課程に在籍している。台湾では学べない研究をしたくて私費で留学してきている。本当は学費が免除される博士課程に入りたかったのだが試験に通らなかった。学位をとったら台湾に戻って食品会社か卒業した大学で研究を続けたいと言っていた。
 ピーターは朝から様子がおかしかった。バカはしゃぎする人ではないけれど、お酒を飲めば楽しそうに研究の話をする。なのに、きょうはずっとだまったままだ。ここに来るあいだも、ディナーのときもどこか上の空で、話しかけても気のない返事をするばかりだった。
「ジュン~」
 リサが暖炉の前で手招きしていた。リサ・ルー・デッカー。七か国語を話すオランダ人娘。親が国際結婚しているオランダの子はたいていヨーロッパ中に親戚がいて、ドイツ語とフランス語とオランダ語とベルギー語と英語は普通に話すのだそうだ。ほかには?と訊くとスペイン語とポルトガル語はオーケーと日本語で答えた。通訳にでもなればいいのに生化学の研究者になるんだって。
 リサのとなりにはジャックがしあわせそうな顔で寝そべっていた。ジャックはリサにずっと片思いしてる。今回唯一のアメリカ人だ。これは偏見だと思うけど、たいていのアメリカ人はアメリカ英語が普通に話せるかどうか、そして出身がヨーロッパかどうかで留学生への接し方を変える。たとえば、英語があやしいアジア人は差別か子ども扱いの対象――あたしも来たばかりはそうだった。そして流暢にアメリカ英語を話すヨーロッパ人は一目置くか愛想よくふるまう対象。とてもわかりやすい。
 ジャックはそういうことをしない数少ないアメリカ人だった。アメリカ人男子としてのアイデンティ形成に失敗したからだと思うな、とリサは言う。たしかに、ジャックは大声で話すアスリートでも歯の白いインテリでもない。しかも地学を専攻してるくせにアメリカの地図が描けない。食堂のスタッフ休憩所でそれが発覚したとき、あんな単純な形も描けないのと散々あたしたちにバカにされた。でも、どうやら――ジャックが言うには――アメリカ人にとっては専門分野に秀でていることが重要なのであって、専門外のことを知らなくても特に恥ずかしいことではないのだそうだ。まあ、うなずけないでもない。
 いずれにしても、このクリスマス旅行のレンタカーや貸別荘の手配はジャックが全部よろこんで引き受けてくれた。単に外国人好きの親切な男子だとあたしは思っている。
 暖炉では太い薪が二本、オレンジ色のベールにつつまれてパチパチと音を立てていた。あたしは白ワインのボトルを持ってリサのとなりにあぐらをかいた。
「なに、リサ。天使でもおりてきた?」
「それ、あたしにもちょうだい」
 ボトルを差し出すとリサもごくごくとラッパ飲み。酔っぱらうとお行儀が悪くなるのは万国共通なのかも。
「ねえジュン、ピーターどうしたのかな」
「うん。少し変だよね。あたしも気になってた」
「どこか具合が悪いのかな」
「ちがうと思う。もっとメンタルな感じ」
 そこへジャックが首を突っ込んできた。
「訊いてみればいいじゃん」
「なにジャック、その他人事みたいな言い方」
 あたしはジャックをにらんだ。これも偏見だけれど、どうもアメリカ人男子はデリカシーに欠ける子が多い。この点についてはジャックも例外ではなかった。
「いや、そういうつもりじゃなんだけどさ」
「じゃ、どういうつもりなの」
「ねえジュン、ジャックいじりはとりあえず置いとこ」
 リサが言った。
「そうね」あたしはうなずいた。「今はピーターのことだよね」
「思うんだけど、ジャックの言う通りかもしれない」リサはピーターに目をやりながら言った。「やっぱり、ちゃんと訊いてみようよ」
 リサに同意してもらってジャックはうれしそうな顔をしている。この男をサンプルに単純さと幸福度の相関をいつか調べてみたい。
 ピーターはクッションを抱えてクリスマスツリーをながめたままだった。あたしたちはピーターの前にすわった。
「ねえ、ピーター。今朝からなんか元気ないし、何かあったの?」
 リサがたずねた。ピーターはだまったまま。
「彼女にでもフラれた?」
 あたしは冗談めかして言ってみた。
「僕も声をかけてるんだけどね」向かいのソファからルーカスが静かに言った。「ときどき中国語で何かブツブツ言って黙り込んでの繰り返し。僕の声は聞こえてないみたいだ」
「なあ、ピーター」
 ジャックがソファの後ろに回ってピーターの肩に両手を置いた。ピーターの身体がピクッと震えた。
「あ、ああ。あれ、みんな……」
「ねえ、ピーター」あたしはゆっくりとピーターに声をかけた。「できたら、何があったのか教えて。これ、あたしの勝手なんだけど、苦しくて見てらんないだ」
「ジュン……」
「わたしもよ、ピーター」
 リサが言った。俺も、僕もとジャックとルーカスがうなずく。
「そうか……。そうだよね。ずっとこんなだと気になるよね」
「なるなる」
 レネがキッチンから顔を出した。ドイツからの交換留学生。料理と男の子が好きなハンサムボーイ。今夜のディナーもほとんど一人でつくってくれた。
「コーヒー淹れたから、飲みながら聞かせて」
 ほんとに気が利く男の子だ。レネからカップを受け取って、あたしたちはピーターを囲むようにすわった。コーヒーの香りが部屋のなかに満ちた。
「実は」ピーターが話しだした。「ぼく、一度台湾に帰らないといけない」
「帰省、じゃないのね」とあたし。
「ちがう」と言ってピーターは息を吐いた。「父の会社が倒産するかもしれない」
「倒産……」
「きのう母から電話があった。取引先が倒産して、そのあおりを受けたらしい。金策に走る父の姿が見てられないから帰ってきて手伝ってほしいって」
「親父さんの会社って」とジャック。
「乾物……えっと、ドライフーズとスパイスの卸問屋」
「だけど、ピーターが帰っても」
「ぼくは長男だから家族の危機は手伝わないといけない」
「手伝うって、どうやって」
 と言いながら、あたしはピーターに食って掛かりたい気持ちが膨らんでくるのを感じた。自分でも驚くほど黒くて熱い塊り――自分より家族が優先?自分の夢はどうなるのよ、親の犠牲になってかまわないっていうの――あたしの胸はそうさけんでいた。
「わからない」ピーターは首を振った。「事務くらいならできる」
「ピーターに営業は無理そうだよね」とレネ。
「そう。営業は無理。それに、こっちに残っていても学費の援助はもう望めない。ノーホープ」
「学費ローンは?俺も借りてるぜ」
 ジャックが言った。
「留学生はだめなんだ。調べたけどだめだった」
「台湾で借りるにしても……。家のことが先よね、ピーターは」とリサ。 
「そう。ぼくには父と母への恩がある」と言うとピーターは目を閉じて背中を伸ばした。そして言った。「だから、いっぺんあきらめる」
 たぶん、いまみんなの頭には同じ思いが浮かんでいる。でも、みな自分を支えるだけで精一杯だから、口にできない。口にできる額じゃない。
「ピーター……」
 つぶやきながら、あたしはピーターに伝えたい思いを表す言葉をさがした。このままでは自分自身がいやだった。
「ごめんね、ピーター。たぶんよけいなこと言う。あたしは親の愛とか期待とかを上手に受け取れなくて、ずっと荒れてて、叔母をたよってこっちに飛び出してきちゃったから、正直、ピーターが親のため家族のためにって言うの頭ではわかるけど、理解できない」
「ジュン……」
「あたしは、ピーターが決めたことを尊重する。どんな結論でもそれは変わらない。でも、すごく青くてわがままな言い方だけど、ピーターが家の犠牲になるんじゃなくて、今はこうすることが自分にとって最善って心から思って決めてほしいの」
「ジュン、ありがとう」ピーターが言った「君が正直な気持ちを伝えてくれて、ぼくはうれしい」
「あたし。自分が家族のことでひっかっかってるから、家族のためにって言えるピーターがうらやましいだけなのかもしれない。ごめんね、つらいのはピーターなのに」
「いいんだよ、ジュン。おかげで自分の気持ちがよくわかった。たしかに義務感はある。ないと言ったらウソだ。でも、それ以上に両親や妹たちを助けたい。心からそう思う。大丈夫。犠牲だとは思ってない。それに、ぼくは戻って来る。家を何とかして、勉強し直して、もう一度博士課程にトライする」
 ピーターは言った。きっぱりと。自分をはげますように。けど、その目からは涙が落ちていた。簡単なことじゃない――たぶん不可能。それはピーターもよくわかっている。でも、いまは戻って来ると言いたい。そう言わないと夢を置いて帰れない。
「待ってるよ、ピーター。みんないつか国に帰っちゃうけど、俺はずっとアメリカにいるからさ」
 そう言うとジャックは鼻をすすりながらピーターの手を握った。
「帰る前に連絡先置いてってね」
 レネがピーターの肩に手を回した。ほおずりしそうな勢いだ。
「ありがとう、ジャック、レネ」
「あたしたちにも教えてね。台湾に行ったら絶対遊びに行く。ジュンと行っちゃうかも」
「それはうれしい。僕に外国の女性の友だちがいるなんて知ったら妹たちも驚くだろうな。台北の夜市を案内するよ。九?にも行こう」
 ピーターが笑顔を浮かべた。はにかんだような穏やかな笑顔。いつものピーターが戻ってきた。
「ありがとうみんな。これで、みじめなだけの気持ちで帰らなくて済むよ」
「提案があるんだけど」と言ってルーカスが立ち上がった。「みんなで散歩に行かないか。聖なる夜だし」
「いいねぇ」
「さんせーい!」
 スキーウェアを着てあたしたちは外に出た。雪は止んでいた。森まで行ってみようということになった。別荘地を抜けると青く沈む雪原の空に満天の星が瞬いていた。道はヒマラヤ杉の森に続いていた。森の中にロウソクを点したような窓の灯りがあった。教会だったらうれしい。ピーターのために、そしてあたしたちのために祈れる。多くを与えられていない弱き者にも祝福と勇気を授けてくださいと。
「歌おうか」ジャックが言った。
 サーイレントナーイ♪
 ジャックとは思えない澄んだ歌声。
 ホーリーナーイ♪
 ひとり、ふたりと続く。あたしも続いた。聖夜の雪原と空にあたしたちの歌。遠くに見える麓の街の灯り。彼方にそびえるレーニア山のシルエット。祈りが届いたかのようにあたしの胸は満たされていった。
 キーヨシコーノヨル♪
 なつかしい歌詞が口をついて出た。
「日本語?」リサがたずねる。
「そう」
「じゃ、あたしも」と言ってリサが歌い出した。 
 ドールセニュイー、サーンテニュイー♪
「何語?」
「フランス語」
 するとレネたちも自分の国の言葉で歌いだした。
 シュティーレナーハト、ハーイリゲナーハト♪
 グラーイデヨール、ハーイナゲヨール♪
 ピーンアンイエー、シャーイシャンイエー♪
 英語、日本語、フランス語、ドイツ語、ノルウェー語、中国語――六か国語の合唱。最初は笑い声まじりに、そして静かに故郷を想いながら、『きよしこの夜』は星空に響いていった。

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