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「四年前、十二歳で館に売られてきた僕を世話してくれたのが北斗でした」

 オメガは家を出るものだと知っていても、子どもだった僕は家族と離れるのが寂しくてずっと泣いていた。自分を売ったのは両親なんだと分かっていても。

「奴隷館に来たばかりの頃は、慣れないことだらけでなにも手につかなかったんです。窮屈な首輪をはめられて、手と足は鎖で繋がれた。週に一度は籠に詰められて、檻の中から自分を品定めする貴族たちの目にさらされて。オメガとして“使われる”よりも先に、心が潰れそうだった」

 ユージーンは眉を顰めて「話せることだけ教えてくれたらいい」と言ってくれた。奴隷だったころのことを思い出すのは確かに辛いけど、今日は話を聞いてもらいたいって気持ちのほうが大きかった。

「そんなときに北斗が声をかけてくれたんです。雑用がうまくできなくて僕が館の使用人に叱られていたら、北斗がその男を殴りつけて脅したんです。『次に俺の同室をいびったら、あのことバラすぞ』って」
「暴力沙汰を起こして問題にならなかったの?」
「はい。北斗は、その男がしょっちゅう客の金品を盗んでるってネタを握ってたから。証拠も握ってて、相手は泣き寝入りするしかなかったみたいです」
「たくましいな」

 唸るユージーンに笑って、頷く。

「僕は弱くて、いつもおどおどしてるだけだったけど、北斗は怒るか何か考えてるかのどっちかでした。館の職員になにをされても絶対落ち込まないで……僕がへこんでると、こう言ってくれました」

 ――落ち込むことないぞ。果南はなにも悪くない。悪いのはこのくだらねぇ鳥籠だ。籠の鍵を隠してるクズどもだ。
 いつか俺がお前をここから出して、ユスラへ連れて行ってやる。あの国に行けば、全然違う人生が待ってるんだから――。

 それが、この国のことを初めて知ったときだった。

 北斗は知識が豊富で、奴隷になる前はたくさん本を読んだと言っていた。
 監禁部屋で寝る前に彼が語り聞かせてくれるユスラ国の話は、どんなおとぎ話よりも嘘みたいで、魅力的だった。

「あそこでの生活は、狭い籠に閉じ込められて……いつ体を売るように言われるか、びくびくしながら待つ毎日でした。辛かったけど、あの人が話をしてくれる時間だけは大好きだった。でも……」

 もう北斗はいないのかもしれない。
 後に続くその言葉は、あえて言わなかった。
 話せば話すほど彼のことが恋しくなる。
 黙り込むと、考えていることがなんとなく伝わったのか、ユージーンは静かに言った。

「カナンにとっては、お兄さんみたいな存在だったのかな」
「兄……そう、ですね。あの人は僕より二つ年上だから、先に奴隷館にいて……色々教えてくれた先輩だし、あそこで僕を守ってくれた唯一の人です。僕はダチュラではずっと北斗を頼ってたから、たぶんそういう関係に近いんだと思う」
「僕には兄弟がいないから、少し羨ましいな」
「一人っ子なんですか」

 驚いて口にすると、そう、と軽い返事が返ってきた。
 言われてみれば、リベラ邸に来てから一度もユージーンの家族には会ったことがない。兄妹がいなくて、お父さんは亡くなっていて……お母さんはいるんだろうか。とても踏み込んで聞けないけど、頭の片隅に引っかかった。

「それで、カナンは彼の提案で国を出る決心をしたんだね」
「北斗と一緒なら、どこにでも行ける気がしてたんです。いま思えば僕は甘かった……あの国を出るなら命懸けになるのに、そんなときでも自分は守ってもらうつもりでいたんだ」

『連れ出してやる』と言われたからって、自分の命のことまで全部他人に任せきりにしていいはずがなかったんだ。目の前で北斗を失った今なら分かる。

「館を脱出した日――あなたに出逢った日。僕はヒートもまだ経験してないような身体なのに、客の相手をさせられそうになりました」

 ユージーンはそれを聞くと、一瞬表情をこわばらせた。何か言いたそうに口を開きかけたけれど、それを閉ざして「……それで?」とだけ呟いた。

「北斗は僕を守るために、脱出計画を早めることにしたんです。そうじゃなければ、もっと安全に抜け出せてたはずでした」

 その後のことはユージーンも知っている。脱出してすぐに大人に気付かれた僕たちは、国境の上で引き裂かれた。
 僕は川で誰かに救われ、ユージーンに拾われて。
 北斗はダチュラ兵に連れ戻されて、後はどうなったか分からない。

「……はぁ……」

 一通り話し終えると、どっと疲れてしまった。
 同時に、胸でぐるぐるしていた重いものがすっと無くなったような、妙な爽快感もある。

「今日まで、よく頑張った」
「……はい」

 話を聞き終えたユージーンは、テーブル越しに手を伸ばした。

「つらかったろう。そんなことを一人で抱え込んで」

 ふわふわ頭を撫でられて、「思い詰めすぎるな」と柔く揉まれる。

「よく生き延びたね」

 優しく触れてもらえて嬉しいのに、泣きたい気持ちになる。
 どんなに褒められても、いま僕がここにいられるのは――北斗の犠牲のおかげだから。

「君は幼いのに、すごい」
「すごいのは僕じゃないんです」

 僕は、ユージーンの称賛を手放しで喜ぶことはできない。

「あなたの言うように、北斗は僕を本当の弟みたいに面倒をみてくれてたんです。だから……どんくさい僕を押して、先に国境を越えさせた」

 自分が犯したあやまちを思ったら、和みかけた心がまた冷え切っていく。

「僕がもうちょっとしっかりしていれば……北斗が手を貸さなくても自分の身を守れる人間だったら、あんな最後にはならなかったのに」
「カナン。そんな風に言わないで」
「っユージーン」

 椅子から身を乗り出したユージーンは、僕を強く引き寄せた。正面から抱き締められて、その胸に顔を押しつけられる。ほのかに甘い香りがした。

「誰もがその子のように強いわけじゃないんだ。人にはできることとできないこと、それから、まだできないことがある」
「まだ……できない?」

 ユージーンは僕の背中をあやすように叩きながら、そうだ、と頷いた。

「そのときのカナンには無理だったんだ。それが分かっていたから、君の親友は君を守ると決めたんだろう。なら、カナンが今こうして穏やかに生きていることは、彼の本望のはずだ」
「でも、北斗だって国を出たかったんですよ。僕がもっと強ければ、二人でここに来られたはずなのにっ」

 つい感情的になりかけた僕に、ユージーンは囁くように言った。

「――なら、次に会うときまでに強くなればいい」

「え……?」

「そして今度は君が彼を救ってやればいいんだよ」

 人にはできることと、できないことがある。それから、まだできない……これからできるようになるかもしれない、ことがある。

「次なんてあるのかな」
「友達が死んだと思いたい?」
「嫌です」
「じゃあ生きている。それなら、必ずまた出会うチャンスがある」

 ユージーンは出会ってから、一度も大きく表情を変えたことがない。僕がダチュラ国での経験を語ってもおおげさに泣いたり、領主様や向こうの兵士たちに怒りを剥きだしにしたりすることもない。
 だけど、耳に吹きこまれる息は温かく、肩を撫でる掌はどこまでも優しかった。

 ――ユージーンを『氷血』なんて呼ぶ人は、きっとこの人のことを何も知らないんだ。

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