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「ユージーン!」

 後部座席から降りてきたのは、車を手配するために先に病院を出て待ってくれていたユージーンだ。
 目が合って急いで駆け寄っていくと、精緻な顔にふわりと花が開くような笑顔が浮かぶ。
 ――笑ってくれた。
 さっきまで感じていた不安が、すっと消えていく。

「お別れは言えた?」

 ユージーンは僕の顔を見ながら首を傾けた。白い指が僕の胸元に伸びて、抱えていた花束の黄色い花弁をつつく。

「はい。ごめんなさい、待たせてしまって」
「構わない。ところでカナン、僕からも贈り物を」
「えっ?」

 ユージーンは後ろに隠していた片手を伸ばして、ぱっと魔法みたいに花束を出した。
 薄いピンク色のフィルムに包まれた、赤いバラと白い小さな花のブーケだ。

「快気祝いだよ。おめでとう、カナン」

 渡しながら、背中を抱き寄せられた。ちゅ、と頭上からリップ音が聞こえてくる。

「うわ! い、いいの? こんな高そうなお花……!」

 二人の間にバラの香りが広がった。
 すごい。こんな綺麗な花束、Aランクのオメガが身請けされるときくらいしか見られないやつだ。

「もちろん。家に帰ったら、そっちの花と一緒に活けよう」
「はい」
「じゃあ、早速行こうか。屋敷までは、ここから車で十五分ほどの距離にある。乗って」

 僕は両手いっぱいの花を抱えて、ユージーンと一緒に後ろの座席に乗り込んだ。

「出してくれ」
「はい、承知いたしました」

 ユージーンの一言で運転手が車を発進させた。

 以前、北斗と見たユスラの地図では、国境付近の土地は川と小さな山で占められていた。

『ユスラとダチュラは不可侵条約を結んでいるが、けっして友好関係というわけじゃない。いつ戦争が起きてもおかしくねぇ状態なんだ。だから、両国の国境周辺は住む奴が少なくて、ほとんど発展しないってワケ』

 地図を見ながら北斗がそう教えてくれたことがある。
 北斗は頭が良くて、政治や国同士の問題に詳しかった。
 ――ほんとに森ばっかりだ……。

「カナン、退屈?」

 僕の心を見透かしたように、ユージーンが覗き込んでくる。

「あっ! え、えっと、えと、そんなことは!」

 まさか人の領地を『退屈な田舎ですね!』なんて言えないし!
 しどろもどろになると、ユージーンはおっとりと笑った。

「あはは。いいよ、気にしなくて。このへんをゆっくり散歩するのも楽しいものだけど、若い子ならもっと賑やかな場所に行きたいよね」
「……ごめんなさい。でもあの、あなたも十分若いんじゃ……?」

 ユージーンは落ち着いていて気品があるけど、見た目年齢はまだ二十歳そこそこだ。
 妙に年寄りめいた言い方が気になって訊くと、ユージーンは意味ありげに美しい目を細めて微笑んだ。

「君は十八だったか……七年の差はでかいんだよ。大人になればそのうちわかる。それに、貴族なんてのは挨拶周りにあちこち引き回される憐れな生き物でね。早々に人ごみは飽きたよ」

 淡々と言って、彼はシートの上で長い足を組み、そこで両手を組み合わせた。反対側の窓からぼんやり森を眺める横顔は、ほの青く輝いて見える。

「人が多いところにはそれだけ陰謀が渦巻いているし。そういうのはもううんざりなのさ」

 ユージーンは普段の表情も一定なら、その声にもあまり変化がない。なめらかで感情がなく、すっと耳に染みる音をしているのに、その言葉にはちょっとした棘があった。



 それから十分後。
 深い森を抜けて、大きな石塀の中をくぐり抜けると、遠目にも分かるほど巨大な家が現れた。
 赤茶色のレンガの壁でできた屋敷の周りには、明るい緑の丘が広がっている。

「あれがリベラ邸だよ」
「で、でっか……!」

 思わず窓に張りついて眺める僕に、ユージーンはくすくす笑った。

「あっ、すみません、落ち着きがなくて」
「別に。はしゃぐ君も可愛い」
「かっ」

 どうしてこの人はこう、息をするように砂糖を吐くんだろう。
 赤くなりながら席に戻ると、車は道を曲がって屋敷の横側についた。
 そこで車を降りると、ユージーンに手を引かれて屋敷の正面まで歩いていく。
 近くで見ると、奴隷館の三倍は大きい。
 壁や窓枠から年代は感じるけど、古臭さは微塵もなかった。

「うわぁ……」
「中に入ろうか」

 見上げてもてっぺんが見えない扉の前で、ユージーンが僕の肩を抱き寄せた。
 そのまま扉が開かれ、一歩踏み込むと、見たことのない世界が待っていた。

『おかえりなさいませ、旦那様』

 塵一つなく磨き上げられた大理石の白い床に、正面にどんと構える大階段。真ん中には赤いカーペットが敷かれていた。
 一階にも二階にも、左右にずらりと扉が並んでいる。
 数十人の使用人が列を作って出迎えてくれてるけど、これだけ部屋があればこの人たち全員がここに住めるんだろうな。
 隅には綺麗な花瓶や絵が飾られていて、下品さはどこにもないのに高級感が溢れ出していた。
 言葉を失ってぽかんとしていると、隣に立つユージーンが彼らに言った。

「この人はカナン。カナン・ミスミという。
 前もって通達しておいたとおり、カナンはダチュラ人だったが、今日から正式にこのリベラ家が引き取ることになった。彼がここで心おきなく暮らせるように、丁寧な世話をすること」

 広い室内には凛とした声がよく通る。

「旦那様」

 一番手前に立っていた年配の執事が、様子を窺うように尋ねた。

「そちらの方――カナン様は、どこのお部屋にご案内いたしましょう」
「『ジギタリス』だ」
『!?』

 ユージーンが答えた瞬間、広間にざわめきが広がった。

「――では、そちらの方は……オメガ性であられる?」

 白髪を綺麗に横に流して丸眼鏡をかけたおじいさんが、レンズの奥の目を丸く見開いて僕を見つめた。

「は、はあ……そうですけど」

 自分が訊かれているのかと思って答えたけど、おじいさんは驚いた顔のまま独り言のように呟く。

「まさか……このようなことがあろうとは……」

 彼だけじゃない。
 僕たちを迎えた使用人のみんなが、天変地異でも起きたように口をぽかんと開けていた。オメガだってだけでこんなに驚かれるのは初めてだ。
 呆気に取られていると、鋭い声が浮足立った雰囲気を断ち切った。

「性別など語る意味はない。口を慎め」

 ……え? ユージーン、怒ってる?

 突然聞こえてきた冷たい声に驚いて振り返ると……深い青色の醒めた目が老人を見下ろしていた。

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