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第二章「当世妖怪捕物帳」
第四話「儒者 鳥居耀蔵」
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夢野の執筆した読本の内容が不届きだと処分を下した南町奉行の鳥居耀蔵が、夢野に対して礼を述べたいとは一体如何なることであろうか。夢野は鳥居の意図が全く読めなかった。
「この前、南町奉行所で使っていた目明しの、弁天の六郎という者達の悪事を暴いたであろう? その事に感謝しているのだ」
「ああ、あの件でございますか」
確かにそんな事件があった。
老中水野忠邦の政策で、町人達も倹約が押し付けられたため、贅沢品は見つかり次第没収される事になっていた。もちろんそんな馬鹿げた政策を実行しなければならない町奉行所の役人にとってはたまったものではないし、実際北町奉行の遠山が月番の時は、あまり積極的に役人が取り締まる事はなかった。
鳥居が奉行を務める南町奉行所が月番の時は北町よりは取り締まりがきついが、それでも最前線で働く同心達の動きは鈍かった。
当然である。町奉行所は二百年以上に渡り江戸の町人達と共にあったのだ。為政者の思い付きの政策で、これまでの信頼など壊したくないのである。
これは正式な役人のみならず、その下で働く岡っ引き達も同様だ。岡っ引きにはヤクザ者等の元犯罪者も多いのであるが、彼らにとて守るべき仁義というものがある。
彼らは鳥居の積極的な𠮟咤激励もあるため表向きは取り締まっていたのだが、その実態は遅々として進んでいなかったのだ。倹約令を完全に無視して表立って贅沢品を所持していた者を取り締まる事はあったが、これはやっているという姿勢を示すための、言わば偽装工作であったのだ。こうやって時間を稼ぎ、為政者が交代したり政策を変更したりと風向きが変わるのを待っていたのである。
だが、そこに積極的に町人を取り締まる恥知らずが出現した。
弁天の六郎は岡っ引きとして南町奉行所に従っていたのだが、六郎は手下を大勢引き連れて、江戸の町中から金品を没収して周ったのだ。また、没収を免れるための目溢しとして、大店からはかなりの金子を受け取っていたのである。
そしてあろうことか、奪い取った金品のほんの一部のみを町奉行所に提出し、残りは持ち逃げしようとしていたのだ。それには幕閣も関わっており、そのままにしていたら恐らく成功したであろう。
その弁天の六郎の企みを打ち砕いたのが夢野なのだ。
六郎の悪事を知ったのは偶然であったが、知るや否や即座に行動を開始し、知恵の限りを尽くして六郎を葬り去ったのである。
この事は江戸の町人衆からは大いに称賛された。だが、まさか六郎を使っていた南町奉行所の元締めたる鳥居が感謝していようなどと夢にも思っていなかったのである。
鳥居は実に評判が悪い人物だ。前任者の町奉行が失脚したのは鳥居の策謀のせいだという噂はまことしやかに流れているし、老中の懐刀として苛烈な政策を情け容赦無く実行に移している。
この様な人物が自分の手下の悪事を暴かれたのなら、その監督責任が自分に及ぶのを嫌うであろう。ならば、内々に処理できたのなら兎も角、夢野が六郎を成敗した時の様に江戸中に知れ渡る様なやり方には怒りこそ覚え感謝するなどとは想像も出来なかったのだ。
「お前が六郎の悪事を満天下に暴いてくれたおかげで、我々町奉行所もその悪事を知る事が出来たし、その過ちを改める事が出来たのだ。これに感謝せずして何に感謝を致すべきか」
「成る程、過ちて改めざる。これを過ちという。と言う事ですね」
「ほう? 論語を学んだ事があるのか」
夢野の言葉を聞いた鳥居が、意外そうな顔で尋ねた。鳥居は天下一の儒家である林家の生まれである。当然儒学は幼い頃から叩き込まれている。そのため、論語の一節を夢野が口にした事に反応したのだろう。
「この程度の事が言えたとしても、論語を学んだうちに入らないのではないでしょうか。寺子屋に通う小僧だってこれ位の事は教わるでしょう。それにこの一節は有名ですからね」
「それもそうか。だが、今の様に自然と口に出来るのは、中々見所があると言えよう。感心である」
鳥居は勝手に夢野の事を評価しているが、これはあながち間違いではない。確かに夢野が述べた通り、口にした論語の一節は有名であるためこれをもって学識を判断する事にはさほど意味がない。であるが、夢野の執筆した読本には四書五経をはじめとする漢籍等からの引用が多く見られる。
夢野は自分の作品を純粋なる娯楽作品として執筆している。道徳などを強く押し出している戯作者もいれば、逆に淫猥な内容を得意とする者もいる。だが夢野は、老若男女が楽しめる作品を理想としており、更には勧善懲悪で人生に生きる希望をもたらす様な内容を書いて来たのだ。そして、純粋な娯楽作品ではあるが、その内容の言わば味付けとして論語等の内容を活用しているのだ。
儒学は人が正しく生きる道を説いている。ならばその内容を上手く作品の中に取り入れれば勧善懲悪の物語になる。一つ間違えれば説教が鼻についたり抹香臭い作品になってしまうかもしれない。だが、その辺りの加減は夢野が最も得意とする事である。
であるが、これを詳しく鳥居に説明する訳にはいかない。説明したならば、夢野の学識が単なる寺子屋で学んだものとは一線を画すことが露見するだろう。鳥居は林家の人間として儒学をはじめとする多くの学問を修め、秀才として知られている。ならば話せば話すほど夢野の学識が隠しようが無くなっていく。
そうなった場合、自分の素性が知れてしまうかもしれない。その事を夢野は警戒していた。
「この前、南町奉行所で使っていた目明しの、弁天の六郎という者達の悪事を暴いたであろう? その事に感謝しているのだ」
「ああ、あの件でございますか」
確かにそんな事件があった。
老中水野忠邦の政策で、町人達も倹約が押し付けられたため、贅沢品は見つかり次第没収される事になっていた。もちろんそんな馬鹿げた政策を実行しなければならない町奉行所の役人にとってはたまったものではないし、実際北町奉行の遠山が月番の時は、あまり積極的に役人が取り締まる事はなかった。
鳥居が奉行を務める南町奉行所が月番の時は北町よりは取り締まりがきついが、それでも最前線で働く同心達の動きは鈍かった。
当然である。町奉行所は二百年以上に渡り江戸の町人達と共にあったのだ。為政者の思い付きの政策で、これまでの信頼など壊したくないのである。
これは正式な役人のみならず、その下で働く岡っ引き達も同様だ。岡っ引きにはヤクザ者等の元犯罪者も多いのであるが、彼らにとて守るべき仁義というものがある。
彼らは鳥居の積極的な𠮟咤激励もあるため表向きは取り締まっていたのだが、その実態は遅々として進んでいなかったのだ。倹約令を完全に無視して表立って贅沢品を所持していた者を取り締まる事はあったが、これはやっているという姿勢を示すための、言わば偽装工作であったのだ。こうやって時間を稼ぎ、為政者が交代したり政策を変更したりと風向きが変わるのを待っていたのである。
だが、そこに積極的に町人を取り締まる恥知らずが出現した。
弁天の六郎は岡っ引きとして南町奉行所に従っていたのだが、六郎は手下を大勢引き連れて、江戸の町中から金品を没収して周ったのだ。また、没収を免れるための目溢しとして、大店からはかなりの金子を受け取っていたのである。
そしてあろうことか、奪い取った金品のほんの一部のみを町奉行所に提出し、残りは持ち逃げしようとしていたのだ。それには幕閣も関わっており、そのままにしていたら恐らく成功したであろう。
その弁天の六郎の企みを打ち砕いたのが夢野なのだ。
六郎の悪事を知ったのは偶然であったが、知るや否や即座に行動を開始し、知恵の限りを尽くして六郎を葬り去ったのである。
この事は江戸の町人衆からは大いに称賛された。だが、まさか六郎を使っていた南町奉行所の元締めたる鳥居が感謝していようなどと夢にも思っていなかったのである。
鳥居は実に評判が悪い人物だ。前任者の町奉行が失脚したのは鳥居の策謀のせいだという噂はまことしやかに流れているし、老中の懐刀として苛烈な政策を情け容赦無く実行に移している。
この様な人物が自分の手下の悪事を暴かれたのなら、その監督責任が自分に及ぶのを嫌うであろう。ならば、内々に処理できたのなら兎も角、夢野が六郎を成敗した時の様に江戸中に知れ渡る様なやり方には怒りこそ覚え感謝するなどとは想像も出来なかったのだ。
「お前が六郎の悪事を満天下に暴いてくれたおかげで、我々町奉行所もその悪事を知る事が出来たし、その過ちを改める事が出来たのだ。これに感謝せずして何に感謝を致すべきか」
「成る程、過ちて改めざる。これを過ちという。と言う事ですね」
「ほう? 論語を学んだ事があるのか」
夢野の言葉を聞いた鳥居が、意外そうな顔で尋ねた。鳥居は天下一の儒家である林家の生まれである。当然儒学は幼い頃から叩き込まれている。そのため、論語の一節を夢野が口にした事に反応したのだろう。
「この程度の事が言えたとしても、論語を学んだうちに入らないのではないでしょうか。寺子屋に通う小僧だってこれ位の事は教わるでしょう。それにこの一節は有名ですからね」
「それもそうか。だが、今の様に自然と口に出来るのは、中々見所があると言えよう。感心である」
鳥居は勝手に夢野の事を評価しているが、これはあながち間違いではない。確かに夢野が述べた通り、口にした論語の一節は有名であるためこれをもって学識を判断する事にはさほど意味がない。であるが、夢野の執筆した読本には四書五経をはじめとする漢籍等からの引用が多く見られる。
夢野は自分の作品を純粋なる娯楽作品として執筆している。道徳などを強く押し出している戯作者もいれば、逆に淫猥な内容を得意とする者もいる。だが夢野は、老若男女が楽しめる作品を理想としており、更には勧善懲悪で人生に生きる希望をもたらす様な内容を書いて来たのだ。そして、純粋な娯楽作品ではあるが、その内容の言わば味付けとして論語等の内容を活用しているのだ。
儒学は人が正しく生きる道を説いている。ならばその内容を上手く作品の中に取り入れれば勧善懲悪の物語になる。一つ間違えれば説教が鼻についたり抹香臭い作品になってしまうかもしれない。だが、その辺りの加減は夢野が最も得意とする事である。
であるが、これを詳しく鳥居に説明する訳にはいかない。説明したならば、夢野の学識が単なる寺子屋で学んだものとは一線を画すことが露見するだろう。鳥居は林家の人間として儒学をはじめとする多くの学問を修め、秀才として知られている。ならば話せば話すほど夢野の学識が隠しようが無くなっていく。
そうなった場合、自分の素性が知れてしまうかもしれない。その事を夢野は警戒していた。
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