18 / 44
第二章「当世妖怪捕物帳」
第三話「南町奉行鳥居耀蔵」
しおりを挟む
南町奉行鳥居耀蔵の執務室に案内される間、夢野は緊張するのを止める事が出来なかった。自分で言うのも何であるが、夢野は己を度胸のある方だと思っている。それは決して自信過剰な訳ではない。これまで困っている者達を見かけたならば、即座に助ける判断をして来た。それが例え凶暴なヤクザ者と対峙する事になってもである。
夢野一人の力では解決できない事もあったが、それでも夢野の強い意思が無ければ解決に向けて皆が動く事すらなかっただろう。
そうではあるが、流石に江戸でも酷吏として名が知れた鳥居耀蔵と面と向かって退治するのは、動揺を止める事が出来ないのだ。
鳥居耀蔵はまだ南町奉行となって日が浅く、北町奉行の遠山景元と比べれば江戸の町を取り仕切った期間は短い。だが、江戸の町人達に与えた影響、印象としては過去のどんな町奉行を上回っているだろう。名奉行として名を残した大岡越前守すら凌ぐだろう。
彼は大儒として知られる林家の生まれであるが、その生まれに違わず幼い頃から学問に励み、秀才として名を知られていた。そして、鳥居家に婿養子して入り幕府に仕える身となった。
幕府に出仕してからは秀才としての前評判に違わぬ働きをした。目付などの数々の役職で辣腕を振るい、時の権力者である老中水野忠邦の懐刀としてその名を知られるようになったのだ。そして水野忠邦が改革に乗り出し、自らの信じる政策を打ち出した時、その政策の実行者として鳥居耀蔵に白羽の矢が立ったのである。
水野忠邦の政策は町民を強く縛るものである。実行すれば町人達の反発も強く、それまで町人と持ちつ持たれつで江戸の町を差配してきた町奉行所の役人も抵抗を感じるものである。現に北町奉行の遠山は政策を徹底する様にとの老中の矢の催促をのらりくらりと躱しているらしいし、真っ向から反発した前南町奉行の矢部は解任されたのである。だからこそ老中の意思を体現する者として町奉行所に送り込まれてきた鳥居耀蔵の存在は大きい。
町人達からは嫌われに嫌われ、その名と甲斐守の官職をもじって妖怪などと陰口を叩かれている。
町奉行に就任して以来、鳥居耀蔵は精力的に陣頭指揮を執った。そのため、贅沢品と見なした物の没収や、出版の取り締まりなど、誰もやりたがらない汚れ仕事を次々と実行していったのだ。夢野も以前その政策に巻き込まれ、執筆した読本がお上に対して不届きであるとされ、牢に入れられてお𠮟りを受けている。当然ながら南町奉行所のお白州でその判決を下したのは他でもない鳥居耀蔵である。
夢野としては自分がかつて異世界転生侍を書いた事を後悔していないし、間違った内容であるとは微塵も思っていない。であるが、流石に鳥居耀蔵とまた顔を合わせるのは御免こうむりたいのである。
しかも、今日は絶版になった異世界転生侍の次回作である当世妖怪捕物帳の内容についてお𠮟りを受けたばかりだ。お叱りの内容は、妖怪の読本を書くのは南町奉行たる鳥居耀蔵への当てつけであるというものである。
どう考えても言いがかりである。
それは町奉行所の役人も重々承知していたのだろう。先ずもって、これは正式なお沙汰ではない。与力による内々での警告である。元より今月の月番は南町奉行所ではない。流石にこの様な馬鹿げた判決を公式に下すのは町奉行所の沽券に関わると常識的な判断があったのだろう。
ならば、何も文句などつけなければ良いのにと夢野は思うのであるが、世の中には表には出せない諸々の事情が沢山ある事も夢野は承知している。
自分は宮仕えなどしなくて良かったとつくづく感じたのであった。
「お奉行様、戯作者の夢野枕辺を連れてきました」
「入らせろ。夢野だけで構わん」
夢野を案内した鍵崎が、辿り着いた部屋の襖の外から声をかけると中から返事がした。当然の事ながらその声の主は南町奉行鳥居耀蔵その人であろう。町人達の暮らしを省みぬ酷薄な政策や、妖怪などと言う悪名から想像していた様な声ではなく、意外にも涼やかな印象を感じさせる声であった。
少々驚いた夢野であったが、鍵崎に促されて鳥居耀蔵の執務室に一人入って行く。
「戯作者の、夢野枕辺でございます」
作法に適った要領で襖を開けて部屋に入った夢野は、深々と頭を下げて名を名乗った。正直言って嫌いな相手ではあるが、だからと言ってそれを表には出さぬのが処世術というものだ。反骨精神も結構ではあるが、それを発揮する場はわきまえておかねばそれは匹夫の勇と同じである。
この場で、わざわざ町奉行に喧嘩を売る理由は無い。
「面を上げよ。今日はお前に礼を言おうと思って呼び出したのだ」
「礼……でございますか?」
意外な言葉に夢野は驚いた。今日は鳥居耀蔵のあだ名を理由に、言わば言いがかりをつけられて呼び出されてきたのである。その帰りに更なる呼び出しを奉行本人から受けたのだ。当然お𠮟りの追い討ちを食らうものと思っていた。
鳥居耀蔵は蝮の異名も持っており、執念深い人物だと噂されている。夢野に対する嫌がらせは与力に任せていたが、やはり自分からも面罵したくなったとしても、誰も不思議に思わないであろう。
それが礼とは如何なることであろう。夢野はあっけにとられたのであった。
夢野一人の力では解決できない事もあったが、それでも夢野の強い意思が無ければ解決に向けて皆が動く事すらなかっただろう。
そうではあるが、流石に江戸でも酷吏として名が知れた鳥居耀蔵と面と向かって退治するのは、動揺を止める事が出来ないのだ。
鳥居耀蔵はまだ南町奉行となって日が浅く、北町奉行の遠山景元と比べれば江戸の町を取り仕切った期間は短い。だが、江戸の町人達に与えた影響、印象としては過去のどんな町奉行を上回っているだろう。名奉行として名を残した大岡越前守すら凌ぐだろう。
彼は大儒として知られる林家の生まれであるが、その生まれに違わず幼い頃から学問に励み、秀才として名を知られていた。そして、鳥居家に婿養子して入り幕府に仕える身となった。
幕府に出仕してからは秀才としての前評判に違わぬ働きをした。目付などの数々の役職で辣腕を振るい、時の権力者である老中水野忠邦の懐刀としてその名を知られるようになったのだ。そして水野忠邦が改革に乗り出し、自らの信じる政策を打ち出した時、その政策の実行者として鳥居耀蔵に白羽の矢が立ったのである。
水野忠邦の政策は町民を強く縛るものである。実行すれば町人達の反発も強く、それまで町人と持ちつ持たれつで江戸の町を差配してきた町奉行所の役人も抵抗を感じるものである。現に北町奉行の遠山は政策を徹底する様にとの老中の矢の催促をのらりくらりと躱しているらしいし、真っ向から反発した前南町奉行の矢部は解任されたのである。だからこそ老中の意思を体現する者として町奉行所に送り込まれてきた鳥居耀蔵の存在は大きい。
町人達からは嫌われに嫌われ、その名と甲斐守の官職をもじって妖怪などと陰口を叩かれている。
町奉行に就任して以来、鳥居耀蔵は精力的に陣頭指揮を執った。そのため、贅沢品と見なした物の没収や、出版の取り締まりなど、誰もやりたがらない汚れ仕事を次々と実行していったのだ。夢野も以前その政策に巻き込まれ、執筆した読本がお上に対して不届きであるとされ、牢に入れられてお𠮟りを受けている。当然ながら南町奉行所のお白州でその判決を下したのは他でもない鳥居耀蔵である。
夢野としては自分がかつて異世界転生侍を書いた事を後悔していないし、間違った内容であるとは微塵も思っていない。であるが、流石に鳥居耀蔵とまた顔を合わせるのは御免こうむりたいのである。
しかも、今日は絶版になった異世界転生侍の次回作である当世妖怪捕物帳の内容についてお𠮟りを受けたばかりだ。お叱りの内容は、妖怪の読本を書くのは南町奉行たる鳥居耀蔵への当てつけであるというものである。
どう考えても言いがかりである。
それは町奉行所の役人も重々承知していたのだろう。先ずもって、これは正式なお沙汰ではない。与力による内々での警告である。元より今月の月番は南町奉行所ではない。流石にこの様な馬鹿げた判決を公式に下すのは町奉行所の沽券に関わると常識的な判断があったのだろう。
ならば、何も文句などつけなければ良いのにと夢野は思うのであるが、世の中には表には出せない諸々の事情が沢山ある事も夢野は承知している。
自分は宮仕えなどしなくて良かったとつくづく感じたのであった。
「お奉行様、戯作者の夢野枕辺を連れてきました」
「入らせろ。夢野だけで構わん」
夢野を案内した鍵崎が、辿り着いた部屋の襖の外から声をかけると中から返事がした。当然の事ながらその声の主は南町奉行鳥居耀蔵その人であろう。町人達の暮らしを省みぬ酷薄な政策や、妖怪などと言う悪名から想像していた様な声ではなく、意外にも涼やかな印象を感じさせる声であった。
少々驚いた夢野であったが、鍵崎に促されて鳥居耀蔵の執務室に一人入って行く。
「戯作者の、夢野枕辺でございます」
作法に適った要領で襖を開けて部屋に入った夢野は、深々と頭を下げて名を名乗った。正直言って嫌いな相手ではあるが、だからと言ってそれを表には出さぬのが処世術というものだ。反骨精神も結構ではあるが、それを発揮する場はわきまえておかねばそれは匹夫の勇と同じである。
この場で、わざわざ町奉行に喧嘩を売る理由は無い。
「面を上げよ。今日はお前に礼を言おうと思って呼び出したのだ」
「礼……でございますか?」
意外な言葉に夢野は驚いた。今日は鳥居耀蔵のあだ名を理由に、言わば言いがかりをつけられて呼び出されてきたのである。その帰りに更なる呼び出しを奉行本人から受けたのだ。当然お𠮟りの追い討ちを食らうものと思っていた。
鳥居耀蔵は蝮の異名も持っており、執念深い人物だと噂されている。夢野に対する嫌がらせは与力に任せていたが、やはり自分からも面罵したくなったとしても、誰も不思議に思わないであろう。
それが礼とは如何なることであろう。夢野はあっけにとられたのであった。
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
忍者同心 服部文蔵
大澤伝兵衛
歴史・時代
八代将軍徳川吉宗の時代、服部文蔵という武士がいた。
服部という名ではあるが有名な服部半蔵の血筋とは一切関係が無く、本人も忍者ではない。だが、とある事件での活躍で有名になり、江戸中から忍者と話題になり、評判を聞きつけた町奉行から同心として採用される事になる。
忍者同心の誕生である。
だが、忍者ではない文蔵が忍者と呼ばれる事を、伊賀、甲賀忍者の末裔たちが面白く思わず、事あるごとに文蔵に喧嘩を仕掛けて来る事に。
それに、江戸を騒がす数々の事件が起き、どうやら文蔵の過去と関りが……
東洲斎写楽の懊悩
橋本洋一
歴史・時代
時は寛政五年。長崎奉行に呼ばれ出島までやってきた江戸の版元、蔦屋重三郎は囚われの身の異国人、シャーロック・カーライルと出会う。奉行からシャーロックを江戸で世話をするように脅されて、渋々従う重三郎。その道中、シャーロックは非凡な絵の才能を明らかにしていく。そして江戸の手前、箱根の関所で詮議を受けることになった彼ら。シャーロックの名を訊ねられ、咄嗟に出たのは『写楽』という名だった――江戸を熱狂した写楽の絵。描かれた理由とは? そして金髪碧眼の写楽が江戸にやってきた目的とは?
高天神攻略の祝宴でしこたま飲まされた武田勝頼。翌朝、事の顛末を聞いた勝頼が採った行動とは?
俣彦
ファンタジー
高天神城攻略の祝宴が開かれた翌朝。武田勝頼が採った行動により、これまで疎遠となっていた武田四天王との関係が修復。一致団結し向かった先は長篠城。
空母鳳炎奮戦記
ypaaaaaaa
歴史・時代
1942年、世界初の装甲空母である鳳炎はトラック泊地に停泊していた。すでに戦時下であり、鳳炎は南洋艦隊の要とされていた。この物語はそんな鳳炎の4年に及ぶ奮戦記である。
というわけで、今回は山本双六さんの帝国の海に登場する装甲空母鳳炎の物語です!二次創作のようなものになると思うので原作と違うところも出てくると思います。(極力、なくしたいですが…。)ともかく、皆さまが楽しめたら幸いです!
後悔と快感の中で
なつき
エッセイ・ノンフィクション
後悔してる私
快感に溺れてしまってる私
なつきの体験談かも知れないです
もしもあの人達がこれを読んだらどうしよう
もっと後悔して
もっと溺れてしまうかも
※感想を聞かせてもらえたらうれしいです
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる