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第二章「当世妖怪捕物帳」
第二話「町奉行からの呼び出し」
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「夢野よ、これからは気をつける様に。よいな?」
「へい、鍵崎様、分かりました。気を付けます。それではこれにて」
南町奉行所の門から、同心に見送られて一人の男が出て来た。戯作者の夢野である。夢野は同心の鍵崎に向かって何度も頭を下げながら門から歩いて行く。そして何度も振り返り、鍵崎がいなくなったのを確認すると、
「はん! これでも食らいな!」
裾をからげて尻を出し、大きな音を立てて屁を放った。
不幸な門番は、もろに吸い込んでしまったらしく大きく咽て悶えた。どうやら目にも何かが染みているらしく、涙を浮かべている。
もしもこの瞬間に町奉行所に襲撃があったとしたら、襲撃を警戒すべき門番が使い物にならず奇襲を受け、前代未聞の被害を被っていた矢も知れぬ。
「おい、夢野。貴様町奉行所に向け、屁を放るとはどういう了見だ?」
「げ、鍵崎様」
意趣返しが終わり留飲を下げて立ち去ろうとした夢野の肩を、いつの間にか戻って来ていた鍵崎が掴んで呼び止めた。この間合いであれば門番よりももろに屁を食らったはずなのだが多少顔をしかめているが、さほど苦しむ様子は見られない。恐るべき精神力なのか、とんでもなく鈍感なのかは不明であるが、どちらにせよ武士にとって求められる素養である。武士は食わねど高楊枝だし、苦しくても痛くてもそれを表に出さぬものである。
そんな場違いな事を思い、夢野は内心感心していた。
「いや、わざとじゃないですよ? 腹の調子が悪かったんですが、これまでは神聖なる町奉行所の中を汚してはならぬと思って我慢していたんですよ。それで、外に出たとたんん緊張の糸がぷっつんしまして」
「おおそうか。それは殊勝な心掛けである」
鍵崎は真面目で有能な同心だが、妙に素直すぎる所がある。夢野のその場しのぎの出鱈目を信じ込んでしまったようだ。近くで悶えている門番は、前回夢野が釈放された時も同じ所業をしていたのでわざとである事を知っている。だが、苦しみの余りまだそれを口に出す事は出来ない。
「それでは今度こそさようなら」
ぼろが出ない内に立ち去ろうとした夢野の肩を、それでも鍵崎は離さなかった。
「離してくださいよ。こうやって尻を出している状態で背後から捕まえられていると、何か危険を感じてしまいますので。それとも、そういう用件ですか? 生憎そういう趣味はないのですが」
「馬鹿者! 俺にも衆道の気は無いし、尻など裾を戻して隠せば良いではないか。呼び止めたのは、お主に用事が出来たからだ」
「用事? 用事はもう済んだんじゃないですか?」
夢野は先ほどまで南町奉行所内で、役人からこんこんと説諭されていた。何の咎めを受けていたのかと言うと、「当世妖怪捕物帳」の内容がお奉行様に対して不敬であると言う事だ。
「しかし、妖怪を題材にした読本を書いたからって不敬だというのは、ちょっと無理が無いですかね?」
「むう、それは俺も思わんではないが、与力様がそういうのだから仕方ないではないか」
夢野が執筆した『当世妖怪捕物帳』は、勧善懲悪の物語である。読んだ者を悪の道に誘うようなものではない。主人公は仲間の妖怪と共に悪の妖怪を成敗する好青年であり、最近流行り始めた白浪物の様に悪党が活躍したりもしない。退治されるのは妖怪であるため、お上に属する者が悪役として出てくるのでもなく、徳川の世に反逆的な要素も無いはずだ。
この点、前作の『異世界転生侍』で主人公が多数の女人に好意を抱かれていく展開が、将軍家を揶揄されていると言いがかりをつけられた経験から注意を払ったところだ。
戯作者の中には、敢えてお上を批判するような書き方をする者もいる。それはそれで一つの戯作者としての在り方だと、その意思は尊重する。だが、夢野は純粋に娯楽作品を皆に届けたいという思いが強い。それに、自分の作品を世に送り出す際、世話になった版元や挿し絵を書いてくれた絵師も巻き込んだりしたくはないとも思っている。
だから、今回の作品は十分注意をして執筆したので、まさか文句をつけらるとは夢にも思っていなかったのだ。
「でもさ、鳥居様が陰で妖怪って呼ばれてるからって、妖怪を題材にした読本まで取り締まるのはどうかと思いますよ」
「しっ、声が大きいぞ」
南町奉行の鳥居耀蔵は甲斐守の称号を授かっている。そのため、耀と甲斐をもじって庶民からは妖怪と揶揄されているのだ。これは、鳥居が老中水野忠邦の懐刀として、水野の政策を忠実に、そして苛烈に実行しているからに他ならない。水野の改革は庶民の痛みも伴うものであり、大きな反発を呼んでいる。それに、その政策が本当に効果があるのか怪しいものも多くある。そのため、北町奉行の遠山は政策の実施に消極的なのであるが、南町奉行たる鳥居は積極的に政策の実現を図っているのである。
この様な事もあって鳥居の江戸における評判は最悪である。ここまで嫌われた町奉行はそうはいないだろう。
そして奉行が庶民に嫌われている事を役人もよく知っているので、何かとぴりぴりしているのだ。夢野が捕まったのはそんな事情がある。
そして流石にこんな理由で正式な罰を下すのは無理だと分かっているのだろう。夢野はお白州に呼ばれる事なく、内々に説教をくらって釈放されたのであった。
「まあそれは良いんですけど、一体何の用で? 町奉行所からお叱りを食らった直後に、その足で町奉行所の中にまた呼び出されるとかあまり気分の良いものではないんですが? それに、一介の戯作者に何の要件ですか」
「それがな、お奉行様がお主の事を呼んでいるのだ」
「はあ?」
鍵崎が語る予想外の理由に、夢野は驚きを隠せなかった。
「へい、鍵崎様、分かりました。気を付けます。それではこれにて」
南町奉行所の門から、同心に見送られて一人の男が出て来た。戯作者の夢野である。夢野は同心の鍵崎に向かって何度も頭を下げながら門から歩いて行く。そして何度も振り返り、鍵崎がいなくなったのを確認すると、
「はん! これでも食らいな!」
裾をからげて尻を出し、大きな音を立てて屁を放った。
不幸な門番は、もろに吸い込んでしまったらしく大きく咽て悶えた。どうやら目にも何かが染みているらしく、涙を浮かべている。
もしもこの瞬間に町奉行所に襲撃があったとしたら、襲撃を警戒すべき門番が使い物にならず奇襲を受け、前代未聞の被害を被っていた矢も知れぬ。
「おい、夢野。貴様町奉行所に向け、屁を放るとはどういう了見だ?」
「げ、鍵崎様」
意趣返しが終わり留飲を下げて立ち去ろうとした夢野の肩を、いつの間にか戻って来ていた鍵崎が掴んで呼び止めた。この間合いであれば門番よりももろに屁を食らったはずなのだが多少顔をしかめているが、さほど苦しむ様子は見られない。恐るべき精神力なのか、とんでもなく鈍感なのかは不明であるが、どちらにせよ武士にとって求められる素養である。武士は食わねど高楊枝だし、苦しくても痛くてもそれを表に出さぬものである。
そんな場違いな事を思い、夢野は内心感心していた。
「いや、わざとじゃないですよ? 腹の調子が悪かったんですが、これまでは神聖なる町奉行所の中を汚してはならぬと思って我慢していたんですよ。それで、外に出たとたんん緊張の糸がぷっつんしまして」
「おおそうか。それは殊勝な心掛けである」
鍵崎は真面目で有能な同心だが、妙に素直すぎる所がある。夢野のその場しのぎの出鱈目を信じ込んでしまったようだ。近くで悶えている門番は、前回夢野が釈放された時も同じ所業をしていたのでわざとである事を知っている。だが、苦しみの余りまだそれを口に出す事は出来ない。
「それでは今度こそさようなら」
ぼろが出ない内に立ち去ろうとした夢野の肩を、それでも鍵崎は離さなかった。
「離してくださいよ。こうやって尻を出している状態で背後から捕まえられていると、何か危険を感じてしまいますので。それとも、そういう用件ですか? 生憎そういう趣味はないのですが」
「馬鹿者! 俺にも衆道の気は無いし、尻など裾を戻して隠せば良いではないか。呼び止めたのは、お主に用事が出来たからだ」
「用事? 用事はもう済んだんじゃないですか?」
夢野は先ほどまで南町奉行所内で、役人からこんこんと説諭されていた。何の咎めを受けていたのかと言うと、「当世妖怪捕物帳」の内容がお奉行様に対して不敬であると言う事だ。
「しかし、妖怪を題材にした読本を書いたからって不敬だというのは、ちょっと無理が無いですかね?」
「むう、それは俺も思わんではないが、与力様がそういうのだから仕方ないではないか」
夢野が執筆した『当世妖怪捕物帳』は、勧善懲悪の物語である。読んだ者を悪の道に誘うようなものではない。主人公は仲間の妖怪と共に悪の妖怪を成敗する好青年であり、最近流行り始めた白浪物の様に悪党が活躍したりもしない。退治されるのは妖怪であるため、お上に属する者が悪役として出てくるのでもなく、徳川の世に反逆的な要素も無いはずだ。
この点、前作の『異世界転生侍』で主人公が多数の女人に好意を抱かれていく展開が、将軍家を揶揄されていると言いがかりをつけられた経験から注意を払ったところだ。
戯作者の中には、敢えてお上を批判するような書き方をする者もいる。それはそれで一つの戯作者としての在り方だと、その意思は尊重する。だが、夢野は純粋に娯楽作品を皆に届けたいという思いが強い。それに、自分の作品を世に送り出す際、世話になった版元や挿し絵を書いてくれた絵師も巻き込んだりしたくはないとも思っている。
だから、今回の作品は十分注意をして執筆したので、まさか文句をつけらるとは夢にも思っていなかったのだ。
「でもさ、鳥居様が陰で妖怪って呼ばれてるからって、妖怪を題材にした読本まで取り締まるのはどうかと思いますよ」
「しっ、声が大きいぞ」
南町奉行の鳥居耀蔵は甲斐守の称号を授かっている。そのため、耀と甲斐をもじって庶民からは妖怪と揶揄されているのだ。これは、鳥居が老中水野忠邦の懐刀として、水野の政策を忠実に、そして苛烈に実行しているからに他ならない。水野の改革は庶民の痛みも伴うものであり、大きな反発を呼んでいる。それに、その政策が本当に効果があるのか怪しいものも多くある。そのため、北町奉行の遠山は政策の実施に消極的なのであるが、南町奉行たる鳥居は積極的に政策の実現を図っているのである。
この様な事もあって鳥居の江戸における評判は最悪である。ここまで嫌われた町奉行はそうはいないだろう。
そして奉行が庶民に嫌われている事を役人もよく知っているので、何かとぴりぴりしているのだ。夢野が捕まったのはそんな事情がある。
そして流石にこんな理由で正式な罰を下すのは無理だと分かっているのだろう。夢野はお白州に呼ばれる事なく、内々に説教をくらって釈放されたのであった。
「まあそれは良いんですけど、一体何の用で? 町奉行所からお叱りを食らった直後に、その足で町奉行所の中にまた呼び出されるとかあまり気分の良いものではないんですが? それに、一介の戯作者に何の要件ですか」
「それがな、お奉行様がお主の事を呼んでいるのだ」
「はあ?」
鍵崎が語る予想外の理由に、夢野は驚きを隠せなかった。
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