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第一章「異世界転生侍」
第六話「弁天の六郎」
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長屋で飲み直した夢野達であったが、あまり盛り上がらなかった。
当然だ。
いきり立ってお上の非道を正してやると出て行ったのに、そのお上がどれだけ庶民のために力を尽くしていたのか見せつけられたのだ。
自分達の見識の狭さを自覚するだけの器量は、彼らとて持ち合わせていた。
そんな訳で、せっかくの夢野の放免を祝う集まりだったが、竜頭蛇尾に終わり、すぐに解散する運びとなった。
宴会が終わってすぐ、夢野は綾女と一緒に町に出かけた。夕飯と次の日の飯を買いに行くためだ。夢野も綾女も料理はほとんどしないので、基本的に外で食うか買って来るか、それとも歩き売りが近くを通りかかった時に呼び止めるかである。
もうそろそろ西の空が赤くなり、日没が近づいていた。
飯を買うと言っても、既に相当飲んでいる。どうせ明日の朝になってもろくに腹に入るまい。その辺の煮売り屋で少しばかり買って帰るつもりであった。
馴染みの煮売り屋で持参した椀に、幾つか見繕って入れて貰っている最中、耳をつんざくような叫び声が聞こえた。
「ちょっと見て来る。お前は先に帰っててくれ」
「いいけど、気をつけるんだよ。あんた、喧嘩はほんとからっきしなんだからさ」
「一応、これでも総鴎先生のところで免状は貰ってるんだけどねえ」
総鴎先生とは近所で柔術を教えている老人だ。若い頃は渋川流を中心に、全国を行脚しながら多くの武芸を修業したとかで、今では一流を開いて江戸に道場を開いている。武士のみならず町人にも門戸を開いており、道場は結構な賑わいを見せている。また、素質があると判断すれば女人でも入門を許可しており、綾女は入門した女人の中でも抜群の実力者であった。
総鴎先生は実戦本位の武人であるが、経済的な感覚も持ち合わせている。多少実力が劣っていようと、ある程度の修業期間があれば、金で免状を発行している。
武芸をある程度習得しなければ家督相続を許されない様な家風の一門に生まれたのに、本人に全く武芸の素養が無い場合に重宝されている。また、昨今は御家人株を買って武士の身分を手に入れる町人が増えているが、一応武士という事なので、箔つけのために実力に欠けていても武芸の免状を入手したい者は多いのである。
理由は人それぞれであるが、夢野もその様な者達と同様免状を金で買っていた。手を抜けない性格であるため、極めて真面目に修業に励んでいたのだが、生憎と素質は全く無かったのである。流石に普通の町人よりはましであろうが、その辺の三下にすら後れを取りかねない実力しか持ち合わせていない。
それに対して綾女の実力は本物である。道場でも実力者を数えれば、確実に三本の指に入る剛の者だ。外見は良いので入門仕立ての事情を知らぬ者が甘く見て挑む事は数知れないのだが、例外なく叩き伏せられている。
そんな猛女が何故絵師などやっているのか、皆不思議に思っている。綾女の事を幼い頃から知っている夢野すら知らないのだから、恐らく誰も知らないだろう。
まあ、夢野の喧嘩の実力は兎も角、好き好んで暴力沙汰に加わりたい訳ではない。元々物見高い性格だし、物書きとして何事にも見聞を広めたいという思いもある。
ただ、今回の揉め事には、何か嫌なものを感じていた。
俗に火事と喧嘩は江戸の華という。創作なら兎も角現実での荒事は嫌いな夢野であるが、真の江戸っ子の喧嘩には華がある事自体は夢野も感じている。
喧嘩の理由は下らない事も多く、何故その様な事で血を流せるのかと思うものも多いのだが、基本的に後を引く事は無い。卑怯な手は使わず、代表同士の一騎討ちで決着する事もしばしばだ。
そういった一種の清々しさを、この騒ぎからは感じないのである。
騒ぎのする方へ夢野が進んで行くと、人だかりが出来ていた。手刀を切りながら人を掻き分けて前の方に出ると、そこには言い争っている集団がいた。いや、言い争うというのは正確ではない。片方が一方的に責め立てている。
「ちょっとすみませんよ。何がありましたんで?」
「どうもこうもねえよ。ヨウカイの手下の連中が、ああやって言いがかりをつけてやがるんだ」
職人風の男に尋ねたら、顔をしかめながら小声で教えてくれた。男の言葉の通り、人だかりのぽっかり空いた中心部には、町奉行所の同心達が使っている岡っ引きらしい連中が居た。いかにも元悪党ですと言わんばかりの悪人面揃いで、その中の首領格は辺りでも名が知れた親分である弁天の六郎であった。
連中に責め立てられているのは、旅姿の若い女であった。彼女の傍らには連れの者らしい老人が倒れている。頭からは血を流している。どうやら六郎達に殴られた様だ。
「それではこの簪は没収する。この様なご禁制の品を日中から憚らず身につけるとは、天下を恐れぬ不届きものである。それを募集だけで許してやるのだ。感謝するのだな」
「返してください。それは母の形見なのです。もう髪にさしたりしませんし、過料ならお支払いします」
片手に金の簪をちらつかせ、もう片方の手で黒く塗った木製の十手を突きつけた六郎は、厭味ったらしく告げた。
そんな六郎に対して、少女は必死の表情で訴えかけるが、六郎は毛頭聞く気は無い様だ。
「馬鹿言っちゃいけねえな。俺達をその辺の破落戸と勘違いしてねえか? 俺達はお上から十手を預かる身だぜ。そんな袖の下なんて貰う訳が無いだろうが」
嘘である。たまたま衆人環視での出来事だから賄賂を貰いはしないが、六郎はごうつくばりで有名だ。些細な事で責め立て、それを見逃してやる代わりに金銭を要求するのは日常茶飯事だ。そのためこの界隈では蛇蝎の如く嫌われている。
「ですが……」
「くどい奴だな。お上に楯突くとはふてえ女だ。待てよ? ここまで反抗的で反省の色が無いと言う事は、他にも隠し持ってるかもしれんな。おい、与助。お前もそう思うだろ?」
「はい、親分。もう少し詳しく調べた方が良いですぜ」
「最近の町人どもは、表だって贅沢出来ないから着物の裏地を豪華にしている連中もいるらしいですぜ。まったくお上を恐れぬとんでもねえ奴らです」
六郎は、子分たちと何やら話し始めた。
夢野は話が嫌な方へ進んでいるのを感じた。
「六郎の旦那。ここはこの女が御禁制の品を隠し持っていないか、詳しく調べてみる必要があるのではないでしょうか」
「なんと与助君。詳しく身体を検めるには、服を脱がさねばならないのだが、君はそんな事をしろというのかね?」
「その通りです。六郎様。拙者とて本意ではありませぬが、お上の威光を示すにはそうするしかないかと。それとも六郎様は、女を裸にしたく無いという私的な感情を、お上より与えられた役目より優先させるのですか?」
真面目腐った顔で芝居がかった言葉を言っているが、芝居がかった感じである。
実に白々しい。
「分かったよ。与助君。私とてお上より十手を預かる身だ。お上の威光をあまねく知らしめるためには、私情は捨てねばならん。よくぞ言ってくれた。やりたまえ。ふひひ」
それまで無理に硬い表情を作っていた六郎の顔が、ここで崩れた。助平そうな表情を露わにし、手下に顎で示した。
少女をこの場で裸にしてしまおうとしてるのは明白だ。
一の子分である与助を先頭に、手下たちのいやらしい手が迫るが、それを止める者は誰もいない。この様な暴挙は止めさせたいのは皆同じ思いだが、相手が悪過ぎる。
昨今は南町奉行である鳥居甲斐守の配下が、幕府の改革のためにそれに従わぬ者を盛大に取り締まっている。中には家財没収になったり死んだ者すらいるのだ。実態は何にせよ改革により出されたお触れを守るための取り締まりであるというのは大きい。
今、六郎一味を止めに入ったら、罪人として扱われるのは想像に難くない。自分の命を賭してまで少女を助けようとする者がいないのは、仕方の無い事である。
いや、今まさに少女の着物に与助の手がかかろうとしたその瞬間、その手を止める者があった。
夢野枕辺である。
夢野は与助のいやらしい指を掴み、関節を逆方向に捩じった。いくら悪党の世界で喧嘩慣れをして痛みに強かろうと、これには耐えられない。体勢を崩して転げ回った。
「貴様、何もんだ!」
「俺達に楯突くとはどういう了見だ」
「……」
夢野は六郎一味の問いに答えず、無言のまま柔術の構えで対峙した。
「何とか言ったらどうなんだ!」
「……」
急に現れた夢野に対して六郎一味は警戒しているが、夢野の内心は千々に乱れていた。
先ほどは不意を突いたので上手く技をかけられたが、まともに戦っては武闘派で知られる六郎一味に敵う訳がない。しかも、敵は多数なのだ。
加えて言えばまだ酒が残っており、万全の状態ではない。
「親分、あいつ懐に手を入れましたぜ」
「気をつけろ、ドスを抜いたら構う事はない、叩きのめせ!」
無言で懐に手を入れた夢野に、六郎一味は警戒を強めた。どう考えても六郎一味の方が優勢なのだが、夢野がそれほど動じた所を魅せていないのが不気味なのだろう。
「あばよ!」
均衡が不意に崩れた。夢野がくるりと後ろを振り向いて、少女の手を引いて遁走を開始したのだ。一瞬あっけにとられた六郎一味であったが、実戦には強い。すぐに気を取り直して追いかけようとした。
だが、それは果たせなかった。
夢野は逃げる途中に懐から銭袋を取り出すと、その中身を辺り一帯にぶちまけたのだ。
あちこちに天保通宝やら一朱金やらが散乱する。それに野次馬が群がったのである。こうなると六郎一味にも統制が効かない。あっという間に夢野は姿を眩ました。
盛大に小判をばら撒けないのは少々残念であるが、夢野の今の財力ではこれが限界である。
そしていつの間にか倒れていた老人は姿を消していたのだった。
「ふう、何とか撒いたかな? おっといけねえ。頭を引っ込めな」
「おい、あっちにはいなかったぞ。こっちはどうだ?」
「いや、いねえな」
路地裏に置かれていた大樽に隠れていた夢野は、もうそろそろ大丈夫かと思って顔を覗かせたのだが、まだ追手が近くに居る事を察知して慌てて首を引っ込めた。
樽の中には、一緒に逃げ出した少女もいる。
「もうこの辺りにはいないんじゃねえか?」
中々夢野が見つからない事に苛立ち、六郎の配下達はそんな事を言っている。既に日は落ちており、長い時間を捜索している事を示している。夢野は心の中でさっさと諦めろと毒づいた。
「でも、連れて帰らねえと親分が怒るんじゃないか?」
「いや、今日は結構な稼ぎになったから、酒でも飲めばすぐに機嫌が良くなるさ」
「そうだな。もう暗いしもう見つかりっこねえしな」
六郎の手下達はようやく諦め、何処かへ立ち去って行った。しばらくは警戒して樽の中に夢野達は潜んでいたが、一味が戻ってこないのを見計らい外に出た。
当然だ。
いきり立ってお上の非道を正してやると出て行ったのに、そのお上がどれだけ庶民のために力を尽くしていたのか見せつけられたのだ。
自分達の見識の狭さを自覚するだけの器量は、彼らとて持ち合わせていた。
そんな訳で、せっかくの夢野の放免を祝う集まりだったが、竜頭蛇尾に終わり、すぐに解散する運びとなった。
宴会が終わってすぐ、夢野は綾女と一緒に町に出かけた。夕飯と次の日の飯を買いに行くためだ。夢野も綾女も料理はほとんどしないので、基本的に外で食うか買って来るか、それとも歩き売りが近くを通りかかった時に呼び止めるかである。
もうそろそろ西の空が赤くなり、日没が近づいていた。
飯を買うと言っても、既に相当飲んでいる。どうせ明日の朝になってもろくに腹に入るまい。その辺の煮売り屋で少しばかり買って帰るつもりであった。
馴染みの煮売り屋で持参した椀に、幾つか見繕って入れて貰っている最中、耳をつんざくような叫び声が聞こえた。
「ちょっと見て来る。お前は先に帰っててくれ」
「いいけど、気をつけるんだよ。あんた、喧嘩はほんとからっきしなんだからさ」
「一応、これでも総鴎先生のところで免状は貰ってるんだけどねえ」
総鴎先生とは近所で柔術を教えている老人だ。若い頃は渋川流を中心に、全国を行脚しながら多くの武芸を修業したとかで、今では一流を開いて江戸に道場を開いている。武士のみならず町人にも門戸を開いており、道場は結構な賑わいを見せている。また、素質があると判断すれば女人でも入門を許可しており、綾女は入門した女人の中でも抜群の実力者であった。
総鴎先生は実戦本位の武人であるが、経済的な感覚も持ち合わせている。多少実力が劣っていようと、ある程度の修業期間があれば、金で免状を発行している。
武芸をある程度習得しなければ家督相続を許されない様な家風の一門に生まれたのに、本人に全く武芸の素養が無い場合に重宝されている。また、昨今は御家人株を買って武士の身分を手に入れる町人が増えているが、一応武士という事なので、箔つけのために実力に欠けていても武芸の免状を入手したい者は多いのである。
理由は人それぞれであるが、夢野もその様な者達と同様免状を金で買っていた。手を抜けない性格であるため、極めて真面目に修業に励んでいたのだが、生憎と素質は全く無かったのである。流石に普通の町人よりはましであろうが、その辺の三下にすら後れを取りかねない実力しか持ち合わせていない。
それに対して綾女の実力は本物である。道場でも実力者を数えれば、確実に三本の指に入る剛の者だ。外見は良いので入門仕立ての事情を知らぬ者が甘く見て挑む事は数知れないのだが、例外なく叩き伏せられている。
そんな猛女が何故絵師などやっているのか、皆不思議に思っている。綾女の事を幼い頃から知っている夢野すら知らないのだから、恐らく誰も知らないだろう。
まあ、夢野の喧嘩の実力は兎も角、好き好んで暴力沙汰に加わりたい訳ではない。元々物見高い性格だし、物書きとして何事にも見聞を広めたいという思いもある。
ただ、今回の揉め事には、何か嫌なものを感じていた。
俗に火事と喧嘩は江戸の華という。創作なら兎も角現実での荒事は嫌いな夢野であるが、真の江戸っ子の喧嘩には華がある事自体は夢野も感じている。
喧嘩の理由は下らない事も多く、何故その様な事で血を流せるのかと思うものも多いのだが、基本的に後を引く事は無い。卑怯な手は使わず、代表同士の一騎討ちで決着する事もしばしばだ。
そういった一種の清々しさを、この騒ぎからは感じないのである。
騒ぎのする方へ夢野が進んで行くと、人だかりが出来ていた。手刀を切りながら人を掻き分けて前の方に出ると、そこには言い争っている集団がいた。いや、言い争うというのは正確ではない。片方が一方的に責め立てている。
「ちょっとすみませんよ。何がありましたんで?」
「どうもこうもねえよ。ヨウカイの手下の連中が、ああやって言いがかりをつけてやがるんだ」
職人風の男に尋ねたら、顔をしかめながら小声で教えてくれた。男の言葉の通り、人だかりのぽっかり空いた中心部には、町奉行所の同心達が使っている岡っ引きらしい連中が居た。いかにも元悪党ですと言わんばかりの悪人面揃いで、その中の首領格は辺りでも名が知れた親分である弁天の六郎であった。
連中に責め立てられているのは、旅姿の若い女であった。彼女の傍らには連れの者らしい老人が倒れている。頭からは血を流している。どうやら六郎達に殴られた様だ。
「それではこの簪は没収する。この様なご禁制の品を日中から憚らず身につけるとは、天下を恐れぬ不届きものである。それを募集だけで許してやるのだ。感謝するのだな」
「返してください。それは母の形見なのです。もう髪にさしたりしませんし、過料ならお支払いします」
片手に金の簪をちらつかせ、もう片方の手で黒く塗った木製の十手を突きつけた六郎は、厭味ったらしく告げた。
そんな六郎に対して、少女は必死の表情で訴えかけるが、六郎は毛頭聞く気は無い様だ。
「馬鹿言っちゃいけねえな。俺達をその辺の破落戸と勘違いしてねえか? 俺達はお上から十手を預かる身だぜ。そんな袖の下なんて貰う訳が無いだろうが」
嘘である。たまたま衆人環視での出来事だから賄賂を貰いはしないが、六郎はごうつくばりで有名だ。些細な事で責め立て、それを見逃してやる代わりに金銭を要求するのは日常茶飯事だ。そのためこの界隈では蛇蝎の如く嫌われている。
「ですが……」
「くどい奴だな。お上に楯突くとはふてえ女だ。待てよ? ここまで反抗的で反省の色が無いと言う事は、他にも隠し持ってるかもしれんな。おい、与助。お前もそう思うだろ?」
「はい、親分。もう少し詳しく調べた方が良いですぜ」
「最近の町人どもは、表だって贅沢出来ないから着物の裏地を豪華にしている連中もいるらしいですぜ。まったくお上を恐れぬとんでもねえ奴らです」
六郎は、子分たちと何やら話し始めた。
夢野は話が嫌な方へ進んでいるのを感じた。
「六郎の旦那。ここはこの女が御禁制の品を隠し持っていないか、詳しく調べてみる必要があるのではないでしょうか」
「なんと与助君。詳しく身体を検めるには、服を脱がさねばならないのだが、君はそんな事をしろというのかね?」
「その通りです。六郎様。拙者とて本意ではありませぬが、お上の威光を示すにはそうするしかないかと。それとも六郎様は、女を裸にしたく無いという私的な感情を、お上より与えられた役目より優先させるのですか?」
真面目腐った顔で芝居がかった言葉を言っているが、芝居がかった感じである。
実に白々しい。
「分かったよ。与助君。私とてお上より十手を預かる身だ。お上の威光をあまねく知らしめるためには、私情は捨てねばならん。よくぞ言ってくれた。やりたまえ。ふひひ」
それまで無理に硬い表情を作っていた六郎の顔が、ここで崩れた。助平そうな表情を露わにし、手下に顎で示した。
少女をこの場で裸にしてしまおうとしてるのは明白だ。
一の子分である与助を先頭に、手下たちのいやらしい手が迫るが、それを止める者は誰もいない。この様な暴挙は止めさせたいのは皆同じ思いだが、相手が悪過ぎる。
昨今は南町奉行である鳥居甲斐守の配下が、幕府の改革のためにそれに従わぬ者を盛大に取り締まっている。中には家財没収になったり死んだ者すらいるのだ。実態は何にせよ改革により出されたお触れを守るための取り締まりであるというのは大きい。
今、六郎一味を止めに入ったら、罪人として扱われるのは想像に難くない。自分の命を賭してまで少女を助けようとする者がいないのは、仕方の無い事である。
いや、今まさに少女の着物に与助の手がかかろうとしたその瞬間、その手を止める者があった。
夢野枕辺である。
夢野は与助のいやらしい指を掴み、関節を逆方向に捩じった。いくら悪党の世界で喧嘩慣れをして痛みに強かろうと、これには耐えられない。体勢を崩して転げ回った。
「貴様、何もんだ!」
「俺達に楯突くとはどういう了見だ」
「……」
夢野は六郎一味の問いに答えず、無言のまま柔術の構えで対峙した。
「何とか言ったらどうなんだ!」
「……」
急に現れた夢野に対して六郎一味は警戒しているが、夢野の内心は千々に乱れていた。
先ほどは不意を突いたので上手く技をかけられたが、まともに戦っては武闘派で知られる六郎一味に敵う訳がない。しかも、敵は多数なのだ。
加えて言えばまだ酒が残っており、万全の状態ではない。
「親分、あいつ懐に手を入れましたぜ」
「気をつけろ、ドスを抜いたら構う事はない、叩きのめせ!」
無言で懐に手を入れた夢野に、六郎一味は警戒を強めた。どう考えても六郎一味の方が優勢なのだが、夢野がそれほど動じた所を魅せていないのが不気味なのだろう。
「あばよ!」
均衡が不意に崩れた。夢野がくるりと後ろを振り向いて、少女の手を引いて遁走を開始したのだ。一瞬あっけにとられた六郎一味であったが、実戦には強い。すぐに気を取り直して追いかけようとした。
だが、それは果たせなかった。
夢野は逃げる途中に懐から銭袋を取り出すと、その中身を辺り一帯にぶちまけたのだ。
あちこちに天保通宝やら一朱金やらが散乱する。それに野次馬が群がったのである。こうなると六郎一味にも統制が効かない。あっという間に夢野は姿を眩ました。
盛大に小判をばら撒けないのは少々残念であるが、夢野の今の財力ではこれが限界である。
そしていつの間にか倒れていた老人は姿を消していたのだった。
「ふう、何とか撒いたかな? おっといけねえ。頭を引っ込めな」
「おい、あっちにはいなかったぞ。こっちはどうだ?」
「いや、いねえな」
路地裏に置かれていた大樽に隠れていた夢野は、もうそろそろ大丈夫かと思って顔を覗かせたのだが、まだ追手が近くに居る事を察知して慌てて首を引っ込めた。
樽の中には、一緒に逃げ出した少女もいる。
「もうこの辺りにはいないんじゃねえか?」
中々夢野が見つからない事に苛立ち、六郎の配下達はそんな事を言っている。既に日は落ちており、長い時間を捜索している事を示している。夢野は心の中でさっさと諦めろと毒づいた。
「でも、連れて帰らねえと親分が怒るんじゃないか?」
「いや、今日は結構な稼ぎになったから、酒でも飲めばすぐに機嫌が良くなるさ」
「そうだな。もう暗いしもう見つかりっこねえしな」
六郎の手下達はようやく諦め、何処かへ立ち去って行った。しばらくは警戒して樽の中に夢野達は潜んでいたが、一味が戻ってこないのを見計らい外に出た。
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