天保戯作者備忘録 ~大江戸ラノベ作家夢野枕辺~

大澤伝兵衛

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第一章「異世界転生侍」

第五話「自身番」

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 お上のやり口の汚さにいきり立って外に出た夢野は、町内の自身番屋に殴り込んだ。殴り込んだといっても番太郎の松助は顔見知りの腰の曲がった老人である。暴力に訴えた訳ではない。

 それに夢野は喧嘩はからきしである。松助は既に爺様になっているが、昔はこの辺りで名を売った喧嘩屋である。殴り合いになったら夢野は後れを取りかねない。

 もっとも、綾女あやめが協力してくれればおそらく勝てると夢野は踏んでいるのだが。

 その様な訳で、夢野ば今日の番太郎を代わってやると口八丁で言いくるめ、松助を追い払ったのであった。
追い払った自身番に入り込み、夢野は一体何をしようというのか。それは、町奉行所の同心を待ち伏せする事である。

 町奉行所には数多くの同心が配されているが、その中で直接犯罪者を取り締まる定町廻りの同心はほんの数人である。そのため、治安を守るためには町人達の自治に頼る事が多い。

 そのため、町人達が自分達で犯罪者を捕縛したり、何か良からぬ事を聞きつけた場合、定期的に見廻る定町廻りを自身番に招き、そこで犯人を引き渡したり相談事をするのである。この時同心は、行く先々の自身番にえ声をかけ、番太郎は用件の有無を返答するのである。

 番太郎の声を聞きつけて自身番に立ち寄った同心は、そこで周囲から見得ない所で事件について情報を得るのである。場合によっては、自身番の中で当初の犯罪者の取り調べもするのである。

 自身番の中で、何が行われているのかは周囲からうかがい知る事は出来ない。場合によっては軽微な犯罪を見過ごす代わり、重大な犯罪の情報を得る事もある。汚いようであるが、この様な事でもしなければ少ない定町廻りの同心で江戸八百八町の治安を守る事が出来ないし、いちいち厳密な裁きをしていては御裁きが事件を捌き切れずに滞ってしまうだろうし、小伝馬町の牢屋も犯罪者で溢れかえるだろう。

 そのためには、色々と内々に済ませる事も必要なのだ。

 そう、自身番の中でなら、何が起きてもばれる事は無いのである。

 夢野が考えた策は、自身番に同心を呼び寄せ、誰も見えない空間で成敗してしまうというものだ。夢野は腕っぷしはからっきしだが、綾女は相当な柔術の使い手だ。それに長屋からついて来た粂吉や半左達が協力すれば、日頃から犯罪者を相手にしている腕自慢の同心とて制圧出来るはずであった。太平の世が長く続いたため、武士とは名ばかりの文官ばかりの世の中であるが、町奉行所や火付盗賊改の同心は全くの別物である。

 もっとも、同心がいくら三十俵二人扶持の下級武士とはいえ、一応れっきとした武士である。当然小者位連れている。例え同心をなんとかしても、小者が助けを呼びに行ってしまう可能性は十分ある。それに、岡っ引きを連れている事だって多い。岡っ引きは元ヤクザ者、場合によっては現役の悪党である事すらあるため、概して喧嘩が強い。これらを相手にした場合、本当に勝てるか怪しいものだ。

 だが、酒に酔った者の考える作戦などこんなものである。はっきり言って勢いだけだ。

 実際に夢野達が襲い掛かったなら、どうなるか分かったものではない。

 夢野の作戦に対し、長屋の者達は流石作家さんだぜとか、頭の出来が違うなあとか言っているが、実際はお寒い限りである。当然金物職人や商家の雇人が軍略に通じている訳でもなく、彼らの評価などあてにはならない。

 というか、彼らも完全に酔っている。酔漢の考えなどあてにならないのは古今東西共通であろう。

「入るぞ!」

「あ……」

 急に自身番に入ってくる者があった。黒羽織が特徴的なその男は、町奉行所の同心であった。「有るか」という問いかけの声が近づいてくる前に入って来られたので、夢野達は虚を突かれて固まってしまう。

「おい、場所を借りるぞ。人手を呼んでくるから、こいつらを見張っておいてくれ」

 自身番に入って来た同心は、縄で縛られた男を床に投げ出した。どさりと床に転がった男の顔には、夢野達にも見覚えがある。

 男の名は小平治こへいじと言い、この辺りで幅を利かせているヤクザ者だ。弱い庶民に対しては常に高圧的で、隙あらば金を毟り取ろうと企む下種な輩で、しかもお上には尻尾を振る類の侠客だ。当然善良な町民からは蛇蝎の如く嫌われていたし、正統派の侠客からも一緒にされたくないと深い付き合いをする者はいなかった。その小平治が何故こうなっているのか。

「これは一体どうしたんで?」

「ああ、こ奴、金細工や南蛮渡来の品などの贅沢品を隠し持ち、高値で密売しておったのでひっ捕らえたのだ」

「はあ」

 どうやらこの同心は、夢野達が抗議しようとした贅沢品の取り締まりをして来たばかりの様だ。本来ならば講義をする絶好の機会である。なにしろ、贅沢品の密売で捕まった者がそこにおり、しかも自身番にいるため周囲からは見えない。しかもすぐに同心の配下は応援を呼びに出たため、自身番の中にいるのは夢野達と小平治と同心だけである。

 だが、そうとばかりは言えない。捕縛されているのは罪の無い庶民ではない。札付きの悪党である。しかもよく見れば同心は額から薄っすらと血を流している。恐らく小平治を捕縛する時に抵抗され、負傷したのだ。小平治は凶暴なヤクザ者で、何人も気に食わない者を殺したと噂されている。捕り物劇は激しいものであったのだろう。役柄とは言え恐るべき胆力である。

 それに、小平治がこれで処断されるなら、辺りの町人は脅かされる事が無くなり、枕を高くして眠る事が出来るだろう。

 とても抗議する気にはならなかった。

 どうしたものかと同心の方を夢野が見ていると、同心はその視線に気づいた様だ。

「なんだ、拙者の顔に何かついているか? む、お主よく見れば、夢野枕辺ではないか。何故自身番におるのだ。ここの番太郎は老人であったはずだが?」

 同心は自身番の中に待ち構えていたのが、いつもの番太郎では無い事に気付いて頭を捻った。江戸八百八町には数多の自身番が存在するのだが、よく番太郎の事まで覚えてられるものだと夢野は内心感心した。

 更に同心が夢野の事を知っているらしい言葉から記憶をたどると、この同心、夢野を捕えた同心であった事に思い至る。確かその名は、

鍵崎剣衛門かぎさきけんえもん様ですね。お久しぶりです。夢野でございます」

「おう、鍵崎だ。やはり戯作者の夢野であったか。どうしてこの様な所に……」

「それは……」

「ああそうか!」

 まさか庶民を虐める同心を成敗しに来たとは言えない。夢野は言葉に詰まった。そして夢野が言い訳を考える前に、鍵崎は何か得心したらしく手を打った。

「そういえば本日お叱りを受けて釈放されたのであったな。拙者も聞いておったぞ。感心感心。せっかく微罪で済んだのに、その後身を持ち崩すものも多いのに、こうして町の治安のために働いているのだからな。嬉しいぞ」

「は、はあ」

 鍵崎は何やら勝手に勘違いしてくれた様だ。当然訂正して本当の事など言えるわけがない。それに、こうして危険を冒して凶賊と戦う町奉行所の役人の姿を見ると、とても抗議などする気力が起きない。

「それでお役人様。小平治の奴、どれ位溜め込んでいたんですか? 小平治は悪党ですが商人ではありません。贅沢品など仕入れる方法が無いし、売り払う伝手も無いのでは?」

 夢野は黙り込んでしまったが、綾女が疑問に思っていた事を尋ねた。

 この点は、夢野も疑問に思っていたところである。夢野達は真っ当な取引をする町民が、贅沢品を取り扱ったからと取り締まられているのに対し怒りを覚えていたのだ。まさか、商取引とは関係が無いヤクザ者が関わっていようとは夢にも思っていなかったのだ。

「それはだな……む、お主は狐日狸きつねびたぬき……ではなく風谷鼬かぜたにいたちであったか。良い着眼点だな」

 鍵崎が夢野を捕えた日、戯作者だけでなく挿絵を担当している綾女の事も捕らえに来ていた。だが、綾女は自分の事を狐日狸狸で無いと言い張る事で難を切り抜けたのである。この同心、職務に忠実な実直な男である様だが、どうも抜けている所がある様だ。

「こ奴が贅沢品を取り扱っていた理由、それは、大店と裏で手を結び、隠れ家で保管したり、公儀の目を逃れての輸送を担当していたからだ。そうして大店から分け前を貰っていたのだ」

「ははあ」

 まあこれは夢野にとって予想の範囲内である。大店は成長するまでに色々汚い事をやっている事も多く、小平治の様なヤクザ者を囲っている事は多い。大店は裏でヤクザ者に汚れ仕事をさせる事で利益を生み出すし、ヤクザ者は庇護者が出来て大きな顔をし易くなる。彼らにとっては双方に利益がある良い関係である。もっとも、善良な庶民にとってはたまったものではない。

「しかもだ。そうやって贅沢品の裏取引きで貯め込んだ金を使って米、炭、紙などの生活必需品を買い占め、値を釣り上げていたのだ。これは町奉行所にとって許し難い所業である」

「なんと」

 これには夢野達は驚きの表情を隠せない。いくら小平治が豪商と組んだ贅沢品の裏取引きで儲けていようと、それは贅沢品を売買できる金持ち達だけの話である。いくら汚いやり口だろうと、正直庶民には関係が薄い話だ。もちろん、贅沢品といっても幅広いので、贅沢品とされる物でも庶民が購入できる廉価な部類は関係があるし、そういった物を取り扱う店で働く庶民もいる。だが、生活に直結しているとまでは言えない。だから、お上の政策に抗議しようとしてやって来た夢野達であるが、抗議したいのは贅沢品を好きなように流通させろという事ではない。おとり捜査の様な遣り口や、読本の様な庶民向けの娯楽の書物を取り締まる事に対する抗議をするつもりであった。

 だが、鍵崎が今取り締まった者達は、庶民の生活を苦しめる本物の大悪党である。天保の世になって飢饉が続発し、その日の食事に事欠く者は日に日に増えている。米の値段だけではなくあらゆる物の物価が高騰し、庶民は苦しみに喘いでいる。それを改善しようとしているのであれば、お上のやっている事は間違っていない事になるのだ。

 夢野は、自分の視野がいささか狭かったことに対し、心の中で自省した。

 結局、夢野達は鍵崎に抗議らしい抗議など何も出来ず、言われるままに小平治を監視しているしかなかった。しばらくすると町奉行所から応援が駆けつけ、小平治を護送していった。夢野達が何を企んでいたのかは知らぬ鍵崎は、別れ際に礼を言うと小銭を握らせてくれた。捕り物のどさくさで汚れた小平治を、自身番に上げて汚してしまった迷惑料だそうだ。

 その後少ししてから松助が戻り、事の顛末を申し送ると酔いが醒めた夢野達は長屋へと帰って行った。帰路の彼らは無口であった。
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