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第一章「異世界転生侍」
第二話「臭い出会い」
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「次からは、この様な事が無いように気をつけるのだぞ」
「へい、ありがとうございます。それではこれで失礼いたします」
「うむ」
南町奉行所の門から、同心に見送られて一人の男が出て来た。戯作者の夢野である。長い間手入れをしていなかったらしく、髭が野放図に伸びている。
同心にはぺこぺこと頭を下げていた夢野であったが、少し門から離れた所まで歩き、同心が奉行所の中に消えて行ったのを確認すると、裾をからげて尻を出し、奉行所目掛けて大きな屁を放った。それを見ていた門番が、鼻をつまんで顔をしかめた。直接吸い込むとは思えないが、それでも気分はよろしくあるまい。
更に、不幸にも近くを通りかかって吸い込んでしまった者が居たらしく、大きく咳込む声が響いた。
「へっ、ざまあ見ろ。誰が反省なんかすっかよ。俺は、書きたいものを書くだけだって―の。あばよ」
「待てい」
何がざまあ見ろなのか知らないが、奉行所に向かって恨みのこもった屁を放ち気が晴れて立ち去ろうとする夢野を、一人の男が肩を掴んで引き留めた。その男は遊び人風の風体だ。だが、無頼の輩というには爽やかな印象を受けるし、大身旗本や豪商のぼんぼんにしては精悍過ぎる。遊び人風であるのは確かだが、中々に珍しい種類の男であった。
「なんだよあんた。俺は長い事風呂に入ってねえんで銭湯に行きてえんだ。邪魔しないでくれよ」
「お前、人様に向かって屁をぶっかけておいて、詫びの一つもないっていうのか? しかもそんなに大きな音を立ててよう。屁を放るにしてもすかして音を出さないとか、そういう配慮があるだろうに」
男の言う事は至極当然の事である。いきなり殴りつけられても文句は言えまい。先ずは口頭で注意しているのは穏当な対応と言えるだろう。だが、今日の夢野は機嫌が悪い。
「すかした場合、理由は知らねえけど余計臭くなるじゃねえか。だから盛大に放つ代わりに臭いのを出さねえのが俺なりの配慮ってやつよ。それに、出物腫れ物所嫌わずと言うだろうが。お前さんだって、屁が我慢できなかったら、するしかねえだろうが。おっとまた出る」
屁理屈を並べながら、夢野はまたまた音をたてて屁をこいた。音を出そうが出すまいが、結局夢野の屁は臭いのには変わりが無い。面倒臭い奴に出くわした事を後悔しているのか、はたまた臭いがひどすぎるのか、男は顔をしかめた」
「それにしたっておめえよう、もう少し場所柄を考えたっていいんじゃねえのか? しかも、二度もこきやがってよ」
夢野達が居るのは、町奉行所の前であるから当然武家地である。もっと猥雑な繁華街なら兎も角、あまり下品な事をする環境ではない。町奉行所という特性から武家地にしては町人が多く出歩いているのだが、それでも秩序が支配する地である事は間違いない。
「場所柄ってもよ、戦国の世には主君の前で屁をこいた侍だっていたらしいじゃねえか。しかも新年祝賀の席で」
「そいつは叱責されて謹慎になったはずだが?」
「でも、それで恨みを買ったお殿様は殺されたって聞いたぞ。つまり、屁の一つや二つでがたがた言わないのが良いって事じゃねえか」
「それはそうだけどよ。そもそもその話は伝説だったはずだが……にしても良くそんな話を知ってるな」
夢野や男が話題にしているのは、戦国の世であったとされる逸話である。鎌倉幕府成立以前から房総半島に勢力を誇っていた千葉家は、その頃既に往年の威勢を失っていた。だが、戦国時代末期まで家は存続し、あと数年家を保てば豊臣秀吉が天下を統一し、その後の関ヶ原の戦いなどで判断を誤らねば今でも大名家として存続していた事だろう。だがある事件により当主が殺害され、それが原因で戦国から泰平の世に移る重要な時期を乗り切る事が出来なかったのである。
そのある事件は、二人が話している様に屁が原因によって引き起こされたとの噂が言い伝えられている。ある日当主である千葉邦胤は、新年の席に家臣を招いて宴席を開いていたのだが、家臣の鍬田孫五郎がその席で二度屁を放った事が全ての始まりであった。一度ならずも二度屁をこいた事に邦胤は腹を立て、しかも孫五郎が反発して口答えをした事から更に激怒し、ついには謹慎を申し付ける事になった。そして、時が過ぎて謹慎は解除されたのだが、孫五郎は屁ごときで謹慎されるという不名誉を受けたことを忘れていなかった。結局孫五郎は邦胤を暗殺してしまう事になる。
もちろん屁云々は単なる逸話であるが、一部の間では根強く言い伝えられている。
ただ、千葉氏は名門とはいえ徳川の治世では主流ではない。その過去の事象について夢野の様な単なる戯作者や、遊び人風の男が語っているのはいささか奇妙な事であった。
「お前面白い奴だな。どうだ? これから一風呂浴びて、一杯どうだい? 奢ってやるぜ」
「本当か? ご赦免されたばかりなんで、ちょうど一杯ひっかけたかったところなんだ。いいよ、行くぜ」
男はどういう訳か夢野の事が気に入ったようであるし、夢野も久しぶりに娑婆で会話が出来たのが嬉しかったようだ。二人は話をしながら、奉行所の前から立ち去って行った。
「へい、ありがとうございます。それではこれで失礼いたします」
「うむ」
南町奉行所の門から、同心に見送られて一人の男が出て来た。戯作者の夢野である。長い間手入れをしていなかったらしく、髭が野放図に伸びている。
同心にはぺこぺこと頭を下げていた夢野であったが、少し門から離れた所まで歩き、同心が奉行所の中に消えて行ったのを確認すると、裾をからげて尻を出し、奉行所目掛けて大きな屁を放った。それを見ていた門番が、鼻をつまんで顔をしかめた。直接吸い込むとは思えないが、それでも気分はよろしくあるまい。
更に、不幸にも近くを通りかかって吸い込んでしまった者が居たらしく、大きく咳込む声が響いた。
「へっ、ざまあ見ろ。誰が反省なんかすっかよ。俺は、書きたいものを書くだけだって―の。あばよ」
「待てい」
何がざまあ見ろなのか知らないが、奉行所に向かって恨みのこもった屁を放ち気が晴れて立ち去ろうとする夢野を、一人の男が肩を掴んで引き留めた。その男は遊び人風の風体だ。だが、無頼の輩というには爽やかな印象を受けるし、大身旗本や豪商のぼんぼんにしては精悍過ぎる。遊び人風であるのは確かだが、中々に珍しい種類の男であった。
「なんだよあんた。俺は長い事風呂に入ってねえんで銭湯に行きてえんだ。邪魔しないでくれよ」
「お前、人様に向かって屁をぶっかけておいて、詫びの一つもないっていうのか? しかもそんなに大きな音を立ててよう。屁を放るにしてもすかして音を出さないとか、そういう配慮があるだろうに」
男の言う事は至極当然の事である。いきなり殴りつけられても文句は言えまい。先ずは口頭で注意しているのは穏当な対応と言えるだろう。だが、今日の夢野は機嫌が悪い。
「すかした場合、理由は知らねえけど余計臭くなるじゃねえか。だから盛大に放つ代わりに臭いのを出さねえのが俺なりの配慮ってやつよ。それに、出物腫れ物所嫌わずと言うだろうが。お前さんだって、屁が我慢できなかったら、するしかねえだろうが。おっとまた出る」
屁理屈を並べながら、夢野はまたまた音をたてて屁をこいた。音を出そうが出すまいが、結局夢野の屁は臭いのには変わりが無い。面倒臭い奴に出くわした事を後悔しているのか、はたまた臭いがひどすぎるのか、男は顔をしかめた」
「それにしたっておめえよう、もう少し場所柄を考えたっていいんじゃねえのか? しかも、二度もこきやがってよ」
夢野達が居るのは、町奉行所の前であるから当然武家地である。もっと猥雑な繁華街なら兎も角、あまり下品な事をする環境ではない。町奉行所という特性から武家地にしては町人が多く出歩いているのだが、それでも秩序が支配する地である事は間違いない。
「場所柄ってもよ、戦国の世には主君の前で屁をこいた侍だっていたらしいじゃねえか。しかも新年祝賀の席で」
「そいつは叱責されて謹慎になったはずだが?」
「でも、それで恨みを買ったお殿様は殺されたって聞いたぞ。つまり、屁の一つや二つでがたがた言わないのが良いって事じゃねえか」
「それはそうだけどよ。そもそもその話は伝説だったはずだが……にしても良くそんな話を知ってるな」
夢野や男が話題にしているのは、戦国の世であったとされる逸話である。鎌倉幕府成立以前から房総半島に勢力を誇っていた千葉家は、その頃既に往年の威勢を失っていた。だが、戦国時代末期まで家は存続し、あと数年家を保てば豊臣秀吉が天下を統一し、その後の関ヶ原の戦いなどで判断を誤らねば今でも大名家として存続していた事だろう。だがある事件により当主が殺害され、それが原因で戦国から泰平の世に移る重要な時期を乗り切る事が出来なかったのである。
そのある事件は、二人が話している様に屁が原因によって引き起こされたとの噂が言い伝えられている。ある日当主である千葉邦胤は、新年の席に家臣を招いて宴席を開いていたのだが、家臣の鍬田孫五郎がその席で二度屁を放った事が全ての始まりであった。一度ならずも二度屁をこいた事に邦胤は腹を立て、しかも孫五郎が反発して口答えをした事から更に激怒し、ついには謹慎を申し付ける事になった。そして、時が過ぎて謹慎は解除されたのだが、孫五郎は屁ごときで謹慎されるという不名誉を受けたことを忘れていなかった。結局孫五郎は邦胤を暗殺してしまう事になる。
もちろん屁云々は単なる逸話であるが、一部の間では根強く言い伝えられている。
ただ、千葉氏は名門とはいえ徳川の治世では主流ではない。その過去の事象について夢野の様な単なる戯作者や、遊び人風の男が語っているのはいささか奇妙な事であった。
「お前面白い奴だな。どうだ? これから一風呂浴びて、一杯どうだい? 奢ってやるぜ」
「本当か? ご赦免されたばかりなんで、ちょうど一杯ひっかけたかったところなんだ。いいよ、行くぜ」
男はどういう訳か夢野の事が気に入ったようであるし、夢野も久しぶりに娑婆で会話が出来たのが嬉しかったようだ。二人は話をしながら、奉行所の前から立ち去って行った。
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