忍者同心 服部文蔵

大澤伝兵衛

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第一章「火付盗賊」

第八話「旧い記憶」

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 善三の声は幼少からの旅芸人としての暮らしで良く通る。少し芝居がかった口調で叫ばれたその内容は、神田中に響き渡った。これも、弟分だった文蔵が名を上げて出世して欲しいという願いのためである。

「服部文蔵? 服部って言ったらよお」

「そうだそうだ。確かあれだろ? この前の火事の時に活躍したっていう……」

「忍者だ、忍者」

「いや待て、違うぞ。俺は北町奉行所の同心だ!」

「同心だって? じゃあ忍者同心って事か」

「おのれ、この様な場で大っぴらに名乗るとは、忍者の道を何と心得るか」

 せっかく同心として名を上げようと善三が口上を述べたのだが、生憎と文蔵は既に忍者と誤解されて名を知られている。何をどうしたのか忍者同心などという胡乱な名を人々が口にし始めた。

 しかも、それを聞いていた百地が憎々しげな表情を浮かべている。

 まあそんな事はどうでも良い。文蔵達の目的は黒雲の半兵衛一味を捕縛する事なのだ。それ以外は枝葉末節である。

 半兵衛達が今回の襲撃を企てたのは、実は文蔵達が流した情報に踊らされての事だったのだ。

 一五郎の周辺をいくら洗っても、到底黒幕までたどり着けない。その様に考えた文蔵達は逆の発想をした。

 つまり、黒幕の方から出てきてもらうのだ。

 丁度破落戸たちを火付盗賊改に引き渡すという話が持ち上がっていた。これ以上調べてもめぼしい情報は手に入らない。その様に考えた北町奉行所は、引き渡しを決定したのである。

 それを逆用し、おびき寄せるための情報を流したのである。

「という訳だ。お前達はまんまとおびき寄せられたんだよ」

「おのれ……いや待てよ。おい、てめえら。構うこたあねえ。相手はたった三人だ。始末してから逃げれば何の問題もねえぞ!」

「ねえ、文蔵。他の捕り方はどうしたのさ」

 この作戦は、黒雲の半兵衛一味を待ち伏せして一挙に壊滅させようというものだ。当然大勢の捕り方を配置して、必勝の態勢を準備する必要がある。文蔵の後ろ盾である蝮の善衛門一家も協力しているのだが、彼らは逃走経路を塞ぐために分散している。この場での戦力ではない。

「先輩たちが出払ってたんで、内与力の諏訪様に言っておいたんだが……」

「言っておいたんだが?」

「すまんな。どうやら先輩達に伝わってなかったらしい」

 江戸の治安を預かる定町廻りの同心の人数は少ない。しかも今回の事件の様に捜査の所要が大きな場合、同心達は江戸中を駆けずり回る事になる。そのため町奉行所に戻って来る機会が少なくなり、結果的に文蔵の作戦を実働部隊たる粟口達が知らないままになっていたのだ。

「馬鹿じゃない? それじゃあ、私達だけでこいつらを相手にするの?」

「まあそういう事だ。少し手間になる。すまんね、朱音さん」

「ま、良いじゃねえか。それとも、俺と文蔵が戦ってるところ、後ろで見てるかい?」

「嫌だよ、そんなの暇じゃないさ」

 朱音は文句を並べ立てているが、決して半兵衛達との戦いを恐れているのではない。善三も文蔵も、自分達の勝利を疑う様子は見えない。

「若僧ども、舐めやがって。かかれ!」

 半兵衛の指図で手下が一斉に襲い掛かった。黒雲の半兵衛一味は文蔵一行の三倍はいる。しかも、半兵衛一味はこれまで公儀の追及をかわし続けて来たやり手である。その強さは折り紙つきだ。

 彼らの盗みは基本的に雇った悪党を使う者で矢面に立ったりはしないのだが、それでも戦わねば危難を脱せぬ事もある。それに、弱ければ悪党仲間で舐められてしまう。それでは他の悪党を手下として使う事も覚束ない。

 そこらの侍ではあっという間に惨殺されるであろう。しかも彼らが手にしているのは短いとは言っても組み立て式の短槍だ。それに対して善三も朱音も手には何も持っていない。文蔵は侍になったので刀を二本差しているが。今手にしているのは十手である。基本的に町方同心の捕り物は生かしたまま捕縛するのが目的であり、切り伏せる事は推奨されていない。

 そして実のところ文蔵は侍になったばかりなので、剣術は習い始めたばかりでその技量は大した事はないのだ。
朱音は前に進み出ると、襲い掛かる半兵衛の手下どのも先頭を行く二人に、立て続けに棒手裏剣を放った。投擲されたそれは正確無比に相手の膝を貫いた。激しく動く部位を、狙いにくい手裏剣で正確に狙撃したのだ。朱音の手裏剣の腕前は達人に迫るものである。

 次に動いたのは文蔵だ。懐から鎖分銅を取り出すと。軽く振り回して回転の勢いをつけた後、相手の足元に向かって放り投げる。旅芸人をしていた時は道すがらの狩猟や見世物に使う動物を躾けるのに使用していたのだが、人間に向かって使用しても絶大な効果がある。鎖に絡めとられて態勢を崩し、他の者も巻き添えになって転倒する。

 そこに間髪入れず善三が走り寄る。鎖分銅に絡めとられた男を掴むと、小石でも放り投げる様な手軽さで一味に向かって放った。

 人一人の重量が勢いをもって投擲されたのだ。これを食らった連中はただでは済まず、纏めて仲良く団子になった。

 そこに善三の巨体が襲い掛かる。その体躯に似合わず身軽に宙を舞い、塊になって倒れている一団の上に巨体を叩きつけた。

 これにはたまらず一味は泡を吹いて気絶する。中には骨が折れた者もいるかもしれない。

 次々と倒れていく手下を目の当たりにし、半兵衛がみるみるうちに蒼ざめていく。そして懐に手を入れ、何かを取り出して文蔵の方に向けた。

 短筒である。しかも、阿蘭陀からもたらされた燧発式だ。どの様な伝手でこれを手に入れたのか不明であるが、火縄を使用しなくても良いため使用の制限が少ない。

「いくら強かろうと、こいつには敵わねえだろ」

 黒雲の半兵衛は、これまでも強力な追手に相対して窮地に陥る事があっても、この短筒で撃退してきたのだ。どれだけ剣の腕に優れていようと、鉄砲には敵わない。

「文蔵、狙われてるぞ」

 善三が注意を促した刹那、半兵衛は手にしていた短筒を取り落とした。その手の甲には、何か短い針の様な物が刺さっている。そして、文蔵の手には筒が握られ、口に咥えられている。

 それは、吹き矢であった。文蔵はこれを使った芸で好評を博していた。朱音の手裏剣芸との共演は葛葉屋でも人気の演目である。

「すげえ、あの同心、吹き矢なんぞ使ってるぜ」

「あれだろ、噂の忍者同心だろ?」

 遠巻きに戦いを見ていた町人達が口々に騒ぎ立てている。事実とは違うのだが、それを訂正している余裕は文蔵達に無い。

「こうなれば、死なばもろとも!」

 半兵衛は腰に吊るしていた小袋を開け、中から黒い粉を辺りに撒き散らした。
これは、火薬である。火事場泥棒を生業とし、短筒を武器とする半兵衛だ。当然火薬位持っている。また、倒れている手下たちも同じう様に火薬袋を携帯している。これを火打石で引火させれば、文蔵達を巻き込んで吹き飛ばす事も可能である。

 文蔵達は火薬の原理には疎い、半兵衛が何を目論んでいるのか即座に判断出来なかった。取り敢えず何か碌でも無い事をしようとしているのは明らかなので、阻止しようと行動を開始するが判断が遅れた分行動が遅くなる。

 このままでは半兵衛の自爆を阻止できないだろう。だが、半兵衛が火打石を打ち付けようとした瞬間、白い煙が炸裂する。黒色火薬の引火によるものではない。何か粉の様な物が撒き散らされているのだ。

「忍者なら、最後まで気を抜くな」

 これを成したのは、半兵衛一味に斬られて倒れていた百地であった。危機を察知し、奥の手として隠し持っていた煙玉を投げつけたのである。煙玉の中には、唐辛子や毒草から精製した目や喉を刺激する成分が入っている。それをもろに食らった半兵衛は激しい咳とくしゃみをして屈みこんだ。

 そこに十手を構えた文蔵が突撃し、無防備な半兵衛の頭部を一撃した。この程度の煙なら、息を止めれば何程のものでもない。文蔵は気を失って倒れた半兵衛を見下ろした。

 多くの火付けや殺しをして来た大悪党である。間違いなく死罪は免れまい。それでも全く憐憫の情は湧いてこない。文蔵だけでなく善三も朱音もだ。彼らも旅芸人として生きて来た時は、裏の世界と関わっている。完全に後ろ暗い所が無いとは言えないし、生きるためにどうしても罪を犯してしまう様な者達の事も知っている。だが、こいつらは完全に別である。悪党にも人の道というものがあるのだ。

「おっと、いかん。吹き矢を抜いておかねば」

 文蔵が使用した吹き矢には、毒が塗られている。毒といっても毒性の強いものではなく、眠り薬に近い。狩猟で強い毒を使っては、食べた時に害が有るかもしれないからだ。とは言っても余りに長時間に多量の薬が体に入っては、何が起きるか分からない。体質というものもある。

 そういう事情で気絶した半兵衛の手を取り、その甲から吹き矢を抜き取った。半兵衛の手には晒が巻かれている。

 吹き矢を抜いたその時、手に巻かれた晒の結び目が解けて剥がれ落ち、手の甲が露わになる。

 半兵衛の手を見た文蔵の表情が一気に凍り付く。

 半兵衛の手の甲には猪の目紋を基調とした刺青が施されていた。左右の違いはあるが、文蔵の腕に施されているものと同じである。

「……」

 その後しばらく文蔵は黙りこくったままだった。古い付き合いの善三と朱音は、文蔵の手に施された刺青の事を知っている。善三の心中を察した二人は何も声をかけなかった。

 その後、善三は辺りに配置していた手下を集め、逃走した駕籠かきの代わりに護送されていた火事場泥棒達を火付盗賊改の役宅に運んだ。それには火盗の同心である百地が付き添う。かなりの重傷を負っているはずの百地であったが、本来これは彼の役目だ。気丈にも最後まで任務を果たすというのは、火盗の同心というだけではなく忍者の末裔としての誇りもあるのだろう。



 火付盗賊改の役宅から南町奉行所に帰る途中、文蔵は刺青の事を考えていた。半兵衛の一味は善三の手下が先に奉行所まで届けているので、共に歩いているのは善三と朱音だけである。

 文蔵が手甲で隠している腕には、半兵衛のものと同じ刺青が施されている。これは、かつて文蔵が拐かしにあった時につけられたものだ。売り物として攫われた子供達には左腕に施され、人攫いの一味は逆の右腕に施されていた。

 昔の事である。一味から逃げ出した後に葛葉屋に拾われ、共に旅する中でその事は記憶の隅に追いやられていた。だが、今こうして過去の亡霊が蘇って来たのだ。

 この日から暫く、文蔵の気は晴れる事は無かった。
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