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第一章「火付盗賊」
第五話「火盗忍者 百地」
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火付盗賊改を名乗る男の出現に、文蔵達の戦いを物見高く見守っていた町人達も、そそくさと目を逸らして立ち去り始めた。それだけ火付盗賊改の名を恐れているのだろう。だが、文蔵は平然としたものだ。
「火付盗賊改? 一体なんだそれは」
「何だってってお主……、お主こそ何を言ってるんだ」
「すみませんね。火盗の旦那、ちょいとばかしうちの旦那は色々常識に疎いんで。おい、おめえら先に行っとけ」
火付盗賊改は、町奉行所とは別の捜査機関である。幕府が成立した頃は町奉行所のみで治安を守っていたのだが、江戸が発展するにつれ凶悪化、増加する犯罪に対応しきれなくなったのだ。そのために設置された組織が火付盗賊改である。軽易な犯罪を取り扱う町奉行所と違い、火盗では重大犯罪しか対象とせず、しかも拷問も辞さない強硬な捜査方法と権限は江戸中の悪党を震え上がらせている。
まあ恐れているのは、冤罪を恐れる良民もなのであるが。場合により旗本屋敷にすら踏み込むので、武士すら疑われる事を恐れている。
兎に角その様な組織なのであるから、江戸の町で火盗を知らぬ者はいないはずである。
とは言っても文蔵は、幼少で拐かされて以来各地を旅芸人として周り、最近まで江戸に足を踏み入れなかったのだ。知らぬのも無理はない。しかも実家に戻ってからは、部屋住みとしてあまり外と交流してこなかったのだ。
百地が唖然としている間に善三の手下たちは破落戸を乗せた戸板を運び去った。その間に善三が火盗に関して文蔵に教えてやる。
「ああなるほど、そういうお役人さんでございましたか。それで一体何の用で?」
「貴様、拙者を舐めているのか?」
「とんでもございません」
文蔵は侍としての話し方に慣れていない。旅芸人仲間同士の荒っぽい話し方か、芸人として見世物小屋で客を相手にしている時の丁寧な話し方か、仲間内で話している時かの極端なものだ。その事情を知らぬ百地からしてみれば、馬鹿丁寧な話し方は慇懃無礼としか思えないのだ。
「まあ良い。奴らは先日の火付けの一味との調べがついている。こちらに引き渡せ」
「先月の火付け?」
「ぶんぞ……服部様が火事場泥棒を捉えたあの一件でしょう」
「ああ、あれか」
文蔵も己が同心に登用されるきっかけとなった事件を思い出す。あの事件はまだ解決していないと先輩同心から聞いている。火盗も捜査を継続しているのだろう。
そうなると困るのが、あの男達を引き渡して良いのかだ。善三に教えられた火盗の役柄からすれば、火付けの一味を引き渡すのが正しいように思える。町奉行所と火盗の関係が分からないので判断に困ってしまう。
「はようせい。全く忍者などと町民どもからおだてられてのぼせおってからに」
「ん?」
百地の口から意外な言葉が出て来た。文蔵が忍者と勘違いされ、瓦版などを通じて評判になっているのは確かだが、その様な事に言及されるとは意外であった。
「別にのぼせ上ってなんかいませんよ。そもそも忍者なんかどうだって良いじゃありませんか」
「貴様、何を言う。やはり服部などに我等伊賀忍者の棟梁が務まらなかったのは自明の理であったか」
「何言ってんすか?」
一人でぶつぶつ言い始めた百地を見て文蔵は混乱した。
文蔵は知らぬ事であるが、百地は伊賀者の末裔だ。戦の世が終わって徳川の治世が始まった時、伊賀者は先手組や百人組、小普請組など様々な役職に分けられた。
無論、忍者としての役目を期待されての事ではない。そもそも、伊賀者の中に忍者はそれ程多くは無いのだ。
そして百地はその数少ない伊賀忍者の末裔であり、本人も忍者としての修業を幼少期より積んでいる。
そのため、生粋の忍者で、しかも忍者としての任務を表だってする事なく生きてた百地からすれば、文蔵の様に目立つ上に人々から賞揚される忍者と言うのは目障りで仕方がないのだ。
もちろん、文蔵は忍者ではないのだが、百地にとってそんな事は関係が無い。
ややこしい事にこの伊賀者という集団は、徳川家康に仕えた有名な武将である服部半蔵とあまり良好な関係ではなかった。服部半蔵は忍者として語られる事が多いが、実際はその父祖の代より伊賀の里を出て仕官していたため、実際の所忍者と言うには無理がある。その遠い血縁関係から服部半蔵の下に伊賀者が配置されたのだが、元々伊賀において有力では無かった服部家の下につく事を面白く思わない伊賀者は多かった。
それでも武将としての服部半蔵の武功故に従っていたのだが、服部家の代替わりによりその不満は爆発した。結局服部家は没落し、伊賀者達も様々な役職に分割して管理される事になった。
それ故に伊賀忍者である百地としては、服部に連なる者に反感を抱いているのである。
もっとも、文蔵の家は服部半蔵とは何の血縁も無い。服部半蔵と伊賀者の関係が冷え切っている際に文蔵の祖先が色々と半蔵に便宜を図ったために、その謝礼として服部の名を与えただけだ。
つまり文蔵にとっては百地の反感は筋違いでありどうでも良いし、百地にとってはその様な事情は知るべくも無いのである。
だが、百地に悪意をぶつけられた事により文蔵の肝は決まった。
「断る。とっ捕まえたのは俺達だ。もしも渡して欲しければ、正式に町奉行所に申し入れな。それをするなとまでは言わねえよ」
「おのれ、この下忍めが……」
下忍というのが百地にとっては相当の悪口であるらしいが、忍者という存在に価値を感じていない文蔵にとってはどうでも良い事である。それよりも、いきなり現れて喧嘩を売って来た百地の悔しそうな顔が心地よい。
「じゃあな。出遅れ忍者さん」
文蔵は善三を連れて、悔しがる百地を残して町奉行所に向かった。
「火付盗賊改? 一体なんだそれは」
「何だってってお主……、お主こそ何を言ってるんだ」
「すみませんね。火盗の旦那、ちょいとばかしうちの旦那は色々常識に疎いんで。おい、おめえら先に行っとけ」
火付盗賊改は、町奉行所とは別の捜査機関である。幕府が成立した頃は町奉行所のみで治安を守っていたのだが、江戸が発展するにつれ凶悪化、増加する犯罪に対応しきれなくなったのだ。そのために設置された組織が火付盗賊改である。軽易な犯罪を取り扱う町奉行所と違い、火盗では重大犯罪しか対象とせず、しかも拷問も辞さない強硬な捜査方法と権限は江戸中の悪党を震え上がらせている。
まあ恐れているのは、冤罪を恐れる良民もなのであるが。場合により旗本屋敷にすら踏み込むので、武士すら疑われる事を恐れている。
兎に角その様な組織なのであるから、江戸の町で火盗を知らぬ者はいないはずである。
とは言っても文蔵は、幼少で拐かされて以来各地を旅芸人として周り、最近まで江戸に足を踏み入れなかったのだ。知らぬのも無理はない。しかも実家に戻ってからは、部屋住みとしてあまり外と交流してこなかったのだ。
百地が唖然としている間に善三の手下たちは破落戸を乗せた戸板を運び去った。その間に善三が火盗に関して文蔵に教えてやる。
「ああなるほど、そういうお役人さんでございましたか。それで一体何の用で?」
「貴様、拙者を舐めているのか?」
「とんでもございません」
文蔵は侍としての話し方に慣れていない。旅芸人仲間同士の荒っぽい話し方か、芸人として見世物小屋で客を相手にしている時の丁寧な話し方か、仲間内で話している時かの極端なものだ。その事情を知らぬ百地からしてみれば、馬鹿丁寧な話し方は慇懃無礼としか思えないのだ。
「まあ良い。奴らは先日の火付けの一味との調べがついている。こちらに引き渡せ」
「先月の火付け?」
「ぶんぞ……服部様が火事場泥棒を捉えたあの一件でしょう」
「ああ、あれか」
文蔵も己が同心に登用されるきっかけとなった事件を思い出す。あの事件はまだ解決していないと先輩同心から聞いている。火盗も捜査を継続しているのだろう。
そうなると困るのが、あの男達を引き渡して良いのかだ。善三に教えられた火盗の役柄からすれば、火付けの一味を引き渡すのが正しいように思える。町奉行所と火盗の関係が分からないので判断に困ってしまう。
「はようせい。全く忍者などと町民どもからおだてられてのぼせおってからに」
「ん?」
百地の口から意外な言葉が出て来た。文蔵が忍者と勘違いされ、瓦版などを通じて評判になっているのは確かだが、その様な事に言及されるとは意外であった。
「別にのぼせ上ってなんかいませんよ。そもそも忍者なんかどうだって良いじゃありませんか」
「貴様、何を言う。やはり服部などに我等伊賀忍者の棟梁が務まらなかったのは自明の理であったか」
「何言ってんすか?」
一人でぶつぶつ言い始めた百地を見て文蔵は混乱した。
文蔵は知らぬ事であるが、百地は伊賀者の末裔だ。戦の世が終わって徳川の治世が始まった時、伊賀者は先手組や百人組、小普請組など様々な役職に分けられた。
無論、忍者としての役目を期待されての事ではない。そもそも、伊賀者の中に忍者はそれ程多くは無いのだ。
そして百地はその数少ない伊賀忍者の末裔であり、本人も忍者としての修業を幼少期より積んでいる。
そのため、生粋の忍者で、しかも忍者としての任務を表だってする事なく生きてた百地からすれば、文蔵の様に目立つ上に人々から賞揚される忍者と言うのは目障りで仕方がないのだ。
もちろん、文蔵は忍者ではないのだが、百地にとってそんな事は関係が無い。
ややこしい事にこの伊賀者という集団は、徳川家康に仕えた有名な武将である服部半蔵とあまり良好な関係ではなかった。服部半蔵は忍者として語られる事が多いが、実際はその父祖の代より伊賀の里を出て仕官していたため、実際の所忍者と言うには無理がある。その遠い血縁関係から服部半蔵の下に伊賀者が配置されたのだが、元々伊賀において有力では無かった服部家の下につく事を面白く思わない伊賀者は多かった。
それでも武将としての服部半蔵の武功故に従っていたのだが、服部家の代替わりによりその不満は爆発した。結局服部家は没落し、伊賀者達も様々な役職に分割して管理される事になった。
それ故に伊賀忍者である百地としては、服部に連なる者に反感を抱いているのである。
もっとも、文蔵の家は服部半蔵とは何の血縁も無い。服部半蔵と伊賀者の関係が冷え切っている際に文蔵の祖先が色々と半蔵に便宜を図ったために、その謝礼として服部の名を与えただけだ。
つまり文蔵にとっては百地の反感は筋違いでありどうでも良いし、百地にとってはその様な事情は知るべくも無いのである。
だが、百地に悪意をぶつけられた事により文蔵の肝は決まった。
「断る。とっ捕まえたのは俺達だ。もしも渡して欲しければ、正式に町奉行所に申し入れな。それをするなとまでは言わねえよ」
「おのれ、この下忍めが……」
下忍というのが百地にとっては相当の悪口であるらしいが、忍者という存在に価値を感じていない文蔵にとってはどうでも良い事である。それよりも、いきなり現れて喧嘩を売って来た百地の悔しそうな顔が心地よい。
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文蔵は善三を連れて、悔しがる百地を残して町奉行所に向かった。
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