忍者同心 服部文蔵

大澤伝兵衛

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第二章「江戸城の象」

第八話「徳川家重の憂鬱」

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 町入能当日、千代田の城の中庭は満員大入りであった。午前と午後の二回に分けて、それぞれ二千五百人規模の町人が招かれるのだ。これだけの人間が集まる事は天下人の城とは言えそれ程多くは無い。中庭に面した大広間には俗に三百諸侯と呼ばれる大名たちも観覧しているが、それを圧倒する人だかりである。

 不寝番をしていた文蔵は、朝になって巳之吉達が登城してから一刻程仮眠をとったのだが、普段ならまだ眠気が取れないだろう。だが、これだけの町人が集まるとその発する熱気にあてられて、とても眠いどころの騒ぎではない。

 そして町入能自体も文蔵にとって面白いものであった。

 能楽について文蔵は詳しくないが、元旅芸人として芸事には聡い。流石に天下人の前で演じる能楽者は一流揃いだ。能楽に疎い文蔵は名前を知らぬ者ばかりだが。只者で無い事は理解出来た。能楽者などお高くとまった連中だと思っていたのだが、それは単なる物を知らぬことによる思い込みであった事を思い知らされた。

 その辺の野良の芸人とは格が違う。

 だが、今回の町入能で特別に行われた巳之吉一座による動物芸も能楽に劣らぬものであった。巳之吉の芸は日本各地を巡業して鍛えた筋金入りであるし、時として出島の阿蘭陀人や平戸の清国人とも交流する事により外つ国の芸を取り入れている。今回町入能に招待された町人達は江戸八百八町の名主など、目の肥えた名士層が揃っている。その様な者にも巳之吉の芸は目新しく、またその技量は他を隔絶している。巳之吉やその一座の面々の芸もそうであるし、今回特別に協力している朱音の蛇使いの芸も好評を博している。

 文蔵もこの中に混じって芸を披露するだけの腕前はあるのだが、流石に武士の身分でそれは出来ない。残念である。

 能楽もそうであるが、動物芸の披露も大いに受けた。招待された町衆は当然であるが、大名達にもである。これは予想外である。巳之吉達の芸は素晴らしいが、大名達にとっては下賤なものに過ぎないと思っていたのだが、そうとばかりでは無い様だ。

 大名も町人も芸人も、同じ人間であると言う事を文蔵はあらためて認識した。

 午前の町入能は好評の内に幕を閉じ、午後の開演のために入れ替えとなった。午前中の観客であった町人達が中庭から去っていく。

「上手くいったんじゃね?」

「あたりまえさ。誰がやってると思ってんのよ」

 町人衆の入れ替え中に、休憩をしていた朱音に文蔵は声をかけた。

 今回披露した朱音の蛇使いの芸は、複数の蛇を同時に操るものである。一匹くらいなら操る芸人はかなりいるが、十匹も同時に操れるのは朱音くらいのものだろう。師匠の巳之吉でさえ、同時に操れる蛇は五匹程度だ。

 しかも縁起物の白蛇までいたのだ。受けないはずがない。

 それにぎっくり腰から回復した巳之吉の象使いも、六尺の大イタチの曲芸もそうそう見れるものではない。

 ふと大広間の方を見やると、なんと昨晩の若侍が座っているのが見えた。あの場に座っているという事は、あの若侍はやはり高位の旗本あたりなのだろう。

 一瞬声をかけようかと思ったが、それはならぬと考え直した。不浄役人と呼ばれる町方同心が、大身旗本に話しかけるなどやってはならぬという事くらい、武家の常識に疎い文蔵にも分かる事だ。あの若侍は気にしないであろうから、誰も居ない私的な場所であれば話しかけたかもしれないが、ここは天下人の城である。大勢の幕閣諸大名も参列している公中の公の場だ。ここよりも上の公の場所と言えば、宮中位のものであろう。

 だが、文蔵はある事に気付いた。

 あの若侍、昨晩は穏やかな微笑を浮かべていたのだが、今日は何かの痛みに耐えている様な、酷く引き攣った表情を浮かべている。明らかに只事ではないのだが、周囲の者は気付いていないのか、若侍に注意を払う者はいない。

「ちょっと文蔵? そっちは拙いって」

「分かっているさ。でもそうはいかないんだよ。もしもし、そこのお方!」

 意を決した文蔵は、若侍のいる大広間の方に向かって行った。町方同心風情が呼ばれもせぬのに大広間に上がるなど、許される事ではない。流石に朱音もこれを止めようとするが、文蔵は止まらない。

「あっ、お主は……」

 大広間に上がろうとする文蔵の暴挙は朱音ではない別の人物に止められた。昨晩後から現れた田沼という少年である

「田沼殿、あの方が……」

「分かっている。分かっているからこちらに来い。騒ぎになるだろうが」

 田沼は文蔵の腕を引くと、能舞台の裏へと連れて行った。

「服部殿、貴殿自分が何をしようとしていたのか分かっているのか?」

「分かっておりますが、あのお方随分と苦しそうでしたので」

「心配してくれたのはありがたい。だが、これには事情がある。そもそもあのお方がどなたか知らぬのか?」

「昨晩は聞いておりません。そもそもあのお方、一言も話していませんでしたよ」

「それもそうだな。なら、あのお方が何者なのか知らんのも無理はあるまい。お主の事はあのお方も気に入った様なので教えておこう。あのお方の名は、徳川家重という。八代将軍吉宗様の嫡男である。そして拙者は小姓を務めている」

「……それは驚きました」

「そんな偉い人と、知り合ったの?」

 予想を超える名前が出て来て、文蔵も朱音も驚いた。服装からして相当の家柄であろうと思っていたのだが、まさか天下人の子どもであるとまでは想像がつかなかったのだ。

「それでは、あのお方――家重様は次の将軍と言う事ですね?」

 偶然とはいえ家重と文蔵は直接話した。いわば御目見えである。となれば家重が将軍になった暁には多少なりとも引きがあるやもしれぬ。別に文蔵は出世に対して貪欲な訳ではないが、生活が安定して父や弟が安心するならばそれに越したことはない。

「それは……分からぬ」

「おや? 家重様は、長子なんでしょう?」

 長子相続はこの時代において習慣化されている。まさか、天下の範たる将軍家がその原則を外れようとしているとは、文蔵は予想していなかった。

「確かに長子相続は武家の原則だが、何か事情があれば弟が跡を継ぐ事もある。お主も良く知っていよう」

「ああ、こちらの事を知っているんですか。お人が悪い」

「これも職務なのでな」

 文蔵は御家人服部家の長男でありながら、つい最近まで部屋住みの身で、家督は弟が継いだ。長子相続の原則から外れている。これは文蔵が拐かしにあったため長期に渡って行方不明であり、最早生きてはいないと思われていたためだ。

 だから、文蔵には父や弟に対する恨みは無い。当然の事とすら思う。

 それにしても田沼がすでにその様な服部家の事情を知っている事に文蔵は驚いた。恐らく家重に接近した男が、一体何者なのかと警戒していたからだ。文蔵と別れた後にすぐ調べたのだろう。

 将軍家は家督相続で揉めているようである。そこに怪しげな男が近づいたのであるから、警戒して当然だ。

「ところでお聞きしますが、家重様が家督を継げぬかもしれない理由とはやはり……」

「うむ。家重様は生まれつき御病気で、言葉を上手く話せぬ。しかも常に頭痛に襲われているらしく、どうしても顔が強張ってしまうのだ」

 どうやら田沼は文蔵の事を危険人物ではないと判断している様だ。文蔵の問いに率直に答えた。もちろん幕府の内情に詳しい者にとっては既に自明の理であるという事もあり、隠し立てする様なものではないという事情もある。だが、家重本人の小姓が直接言うのでは重みが違う。

「あの御病気のせいで、他人が理解する言葉を発する事が出来ぬ。そのせいで将軍には不適格だと言う幕府高官も多いのだ。その連中は、弟君を推している」

「でもおかしいじゃないさ。言葉を話せなくたって、頭の良い人はいくらだっているじゃない」

 ここで朱音が口を挟む。旅芸人には生まれつき体に障害を持つ者もいる。だが、その障害を除けば何ら普通の人間と違いが無い事は、共に旅芸人として暮らして来た朱音や文蔵には自明の理だ。彼らは素晴らしい芸で行く先々の人を感動させている。

「それはお前の言う通りだ。我々家重様のお傍で仕える者は家重様が素晴らしい知性の持ち主だと知っている。だが、他の者はそうではない。そなたら、唐土の韓非子という学者を知っているな?」

「……? いえ? 朱音さん知ってる?」

「文蔵が知らないならあたしも知らないわよ。お侍のあんたと違ってあたしは純粋に芸人なんだから」

「んんっ。韓非子とはな……」

 自らが良い例だと思って挙げた過去の偉人の事を、学の無い二人が全く知らず田沼は気まずいようだ。田沼は咳払いをして韓非子について説明する。

 韓非子とは古の唐土の学者で、法治を重んずる法家という学派でも代表な人物である。

 高貴な生まれであったのだが幼少時から吃音であり、周囲からは見下されていた。その文才は素晴らしいものだったが吃音のため中々省みられる事は無く、とある国の王が韓非子の所を読んで登用を決めるまで表で活躍する事は無かった。結局紆余曲折があって韓非子は自害する事になったのだが、韓非子の政策を採用した国は国力を増し、やがて唐土を統一したという。

 それ程の業績を残すきっかけとなった人物であっても、言葉を上手く話せぬという一事をもって不遇な扱いを受けてしまうという事だ。

 学の無い文蔵と朱音には田沼が説明した細かい内容は理解出来なかったが、その趣旨は理解した。

 加えて言えば、家重の場合頭痛による顔の強張りというのも負の要因であろう。人とは違う表情をいつも浮かべているのだ、もし普通に話せたとしても、この事だけで低く評価されるのは予想に難くない。

「それに家重様は非常にお優しい。ここも武家の棟梁には不適格だと言う者もいる。先日正室を亡くされてな。今は落ち着いておられずが、相当嘆かれていたのだ。これが、天下人には向かぬとな」

「それはおかしいじゃない。奥さん亡くしたのを悲しんで、何が悪いってのさ」

「だからあの象の事を見てたんですね。あの象もつがいを亡くしてこの様な異国で一人きりになってしまったので」

「恐らくはな」

 昨晩の家重の様子が文蔵の脳裏に蘇った。あの時、最近気が立っていたという象も、家重に対して暴れたりはしなかった。おそらく最愛の者を亡くした者同士通じるものがあったのだろう。そこに言葉が無くても心底で理解したのだ。

 そしてあの時、家重の顔は今の様に強張っていなかった。今の家重は痛みにより表情が強張り、まるでひょっとこの様な顔つきだ。だが、昨晩の家重はそうではなく、貴公子然とした顔立ちだった。おそらく象と心を通わせていたあの瞬間、痛みを忘れていたのだろう。

「おう、田沼殿ここにおられたか。家重様がお呼びだぞ」

「ああ、大岡殿。すぐに戻る。こちら、今朝はなした服部殿だ。情報の通り特に裏のある人間では無かったよ」

「おおやはりそうであったか。なに、服部殿の御舎弟の武蔵殿とは前に話した事がありましてな。だから何か意図があって家重に接触したのではないと思っておりましたよ」

 能楽堂の裏で話していたところ、若い侍が田沼を呼びに来た。この大岡という若い侍も、どうやら家重の側近の様である。

「申し遅れましたな。拙者、大岡忠光と申します。田沼殿と同じく家重様の小姓を仰せつかっております。昨晩は家重様のお相手ありがとうございました。楽しかったとお喜びでしたよ」

 大岡忠光と名乗った侍は、丁寧に頭を下げて文蔵達に挨拶をした。次の将軍候補の側近なのであるから、将来を嘱望された人間のはずなのだが、身分の低い人間に対しても腰が低い。

「いえ、こちらも楽しかったので、……楽しかったですと?」

「大岡殿はな、ただ一人家重様の言いたい事を正確に理解出来るのだ。我々お側仕えの要と言えよう」

 不安定な立場であるが、家重は周囲の人間に恵まれている様だと文蔵は感じた。田沼はまだ若いながらにその才気煥発が伺えるし、大岡は主の事を良く理解しているし人当たりが柔らかい。恐らく彼らの様な人材が、家重が将軍になったとしても支えていく事だろう。

 その、将軍になるという事自体に暗雲が立ち込めているのだが、そればかりはどうしようもない。だが、例え将軍になれなくとも彼らは生涯家重を支えるであろう。決して孤独ではあるまい。

 田沼は大岡に連れられて主の元に戻って行った。その場には文蔵と朱音が残される。

「偉い人も、色々大変なんだね」

「そうだな。上も下も変わらないな」

 今まで雲の上の人だと思っていた将軍家も、下々の者と変わらない悩みがある。その様に思うと少しばかり親近感が湧いて来た。

 そうなると、この町入能を少しでも良い結果にして力になってやりたい。その様な気持ちが自然と湧きおこり、二人は皆の所に戻ることにした。
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