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第二章「江戸城の象」
第五話「甲賀忍者 多羅尾」
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文蔵が正式な同心になってからしばらくしての事である。
文蔵は知己の芸人である巳之吉を連れて、江戸城に入ろうとしていた。もうすぐ大手門に辿り着こうかというところである。兄弟分である善三や朱音も連れている。町奉行所の管轄は町人地であり、武家地も寺社領も管轄外だ。当然、千代田の城は町方同心たる文蔵の働くべき場所ではない。別の警護担当の部署があるのだ。
では何故文蔵は城に行こうとしているのか。
それは町入能で巳之吉一座が芸を披露する事になっているのだが、前日に動物を城内に入れる事になったからだ。動物が逃げ出して何かあったら大問題である。監視が必要という事になったのだ。ならば巳之吉達一座の者が専門家でもあり一番良いはずなのだが、やはり彼らは芸人である。その様な身分の者を城内に泊めるのはまかりならんと、幕閣のうるさ型が言い出した様だ。
余計な事を言う者はいつの時代にもいるのである。
それで、見世物小屋の指導を行う町奉行所から誰か出せと言う事になったのである。だが、町奉行所は動物を取り扱う専門家では無い。世話の仕方など知らぬし、それなのに何かあったら責任を取らねばならぬのだ。
当然誰もその様なお役目に就きたくはない。皆、武士が動物の世話など出来るかなどと口上を述べたのであるが、当然口実である。侍だとて馬の世話位ある程度は自分でするものだ。
その様な状況であったが、何故か新入りの同心が動物の扱いに熟達していた。しかも、巳之吉一座とは何やら得体の知れない繋がりがある。まさにうってつけの人材だ。
そんなこんなで文蔵が巳之吉と共に城内に動物を運び、次の日まで動物の監視をする事になったのだ。
普通の侍には難しい任務だが、旅芸人をしていた時に動物を世話してきた文蔵には容易な事だ。文蔵には特に不満は無い。
文蔵一行は大手門を通り抜けて三の丸を進んで行った。大手門を抜けて大手三の門に入ると、長大な番所が見えて来る。百人番所と呼ばれる検問所である。ここで警備を担当しているのは、鉄砲百人組だ。幕府直轄の精鋭であり、武芸に秀でた侍たちが詰めている。その鉄砲百人組は、伊賀組、甲賀組、根来組、廿五騎組で編成されており、黒田家の家臣である廿五騎組は兎も角、他の伊賀組等徳川と関係の深い者達ばかりだ。
「伊賀?」
町奉行所勤めでありながら文蔵は城内の常識に疎い。そんな文蔵に世故長けた善三が訳知り顔で教えてやる。善三とて幼い頃からずっと旅に出ており、江戸に居ついたのは文蔵と変わりが無い時期だ。それでも知識量が違うのは、好奇心や人付き合いの良さの違いであろう。
そして、善三が教えてくれた内容に何か気になる言葉が混じっていた事に気付く。
「伊賀っていったら、忍者か?」
「文ちゃん、面白い事を言うねえ。戦国の頃ならともかく、享保のこの時代に忍者なんかいるわけないだろう。瓦版では文ちゃんが忍者同心なんて書かれてたけどさあ」
巳之吉が呑気な口調でそんな事を言った。
巳之吉は先日文蔵達が伊賀忍者を名乗る火付盗賊改同心、百地に絡まれた事を知らぬ。
「おい、そこの。今何と言った?」
「はい?」
大手三の門を通過しようとした時、何者かが立ちふさがり問いかけて来た。
おそらく警護の同心であろう。
だが、何か嫌な予感がした。
「ええと、見ての通り明日の町入能で芸をいたします巳之吉一座でございます。そしてわたくしめは、町奉行所の担当、服部文蔵でございます。先ぶれの者がお伝えしていると存じますが。」
嫌な予感がした文蔵は、馬鹿丁寧な口調で返答する。相手を刺激しないためである。
残念ながらそれは不発に終わった。相手は顔を強張らせている。
「そんな事はどうでも良い。『忍者といったら伊賀』そう申したな? 我等甲賀忍者を差し置いて、よくぞ申したものよ」
「そんな事いましたかね?」
実際に言ったのは、「伊賀っていったら、忍者か」である。単語の要素は似ているが、全く意味合いが違う。
それにしても検問が職務であるはずのこの侍が、通過しようとしている者の素性がどうでも良いとは何事か。
しかも自分の事を甲賀忍者だと名乗った。何とも胡乱な奴である。
「しかも貴様服部と名乗ったか。最近噂の忍者同心か。ふん、闇に潜むべき忍者が表に出てくるとは世も末よな。所詮伊賀忍者などその程度のものよ」
「はあ、そうですか」
何やら相手は怒っている。どうやら伊賀忍者と甲賀忍者とが張り合っているらしいが、忍者界隈の事など文蔵にとってはどうでも良い事である。
「多羅尾、貴様伊賀忍者を愚弄するか!」
「げ、何であんたが?」
会話に割り込んできた者がいる。それは文蔵が見知った顔だ。先日の捕り物で関わった火付盗賊改同心の百地である。彼は火盗の同心であるが、伊賀忍者の末裔という一面ももっている。そのため、世間では伊賀忍者の頭目として有名であった服部半蔵と同じ姓を名乗り、しかも世間で忍者同心と評判になった文蔵に突っかかって来たのである。
先日は敵対していたのだが、どうやら今は加勢するつもりらしい。
まあ介入されても碌な事になりそうも無いので、文蔵は余計な奴が来たと辟易した顔をしている。
「ふ、所詮伊賀者など、服部半蔵のおこぼれに預かっただけの連中よ。真の忍者は我等甲賀衆と知るが良い」
「伊賀の里を攻めた織田の大軍がどうなったか知らぬのか? 真の実力者は我々伊賀忍者よ。それにこの前、ここにいる服部文蔵がどれだけの活躍をしたか知らんのか。ああ、知らぬかもしれんな。耳聡が忍者の第一条件であるが、甲賀などにそんな心得はあるまい」
「あんたこの前、俺に服部など忍者ではないとかかんとか言ってなかったか?」
百地は敵対する甲賀に優位に立つためなら、この前喧嘩をしたばかりの文蔵の事も利用するつもりらしい。
そして悪い事に争いを聞きつけて、番所の中から大勢の同心達が集まって来た。文蔵を中心に、二手に分かれて睨み合う。
百地の後ろに群がっているのが伊賀組で、反対に多羅尾の方が甲賀組なのだと文蔵は察したが、正直どちらにも加担したくない。一応百地達伊賀組は文蔵の見方をしている様な構図になっているが、以前百地が突っかかって来たように、彼らは服部の名に連なる者を面白く思っていない。百年近く前の服部半蔵と伊賀組の因縁のためである。
もっとも、文蔵の家系は服部半蔵の一族と血縁的な関係は一切ないため迷惑千万この上ない。
「貴様ら、何をやっておる。警備はどうした?」
どう切り抜けようか文蔵が気をもんでいると、救いの手が差し伸べられた。声の方向を見ると、旗本の二人連れ立っている。その後ろには供回りが大勢控えており、相当の大身である事が見て取れる。
二人とも中年だが鍛錬を欠かしていない様で立ち振る舞いに隙が無い。服装の仕立ては良いが将軍の倹約精神をよく理解しているらしく、装飾は抑えめの綿の裃だ。
片方は文蔵も知っている顔である。
「お奉行様ではございませんか」
それは、北町奉行稲生下野守正武であった。北町奉行所同心たる文蔵の上司である。
文蔵は知己の芸人である巳之吉を連れて、江戸城に入ろうとしていた。もうすぐ大手門に辿り着こうかというところである。兄弟分である善三や朱音も連れている。町奉行所の管轄は町人地であり、武家地も寺社領も管轄外だ。当然、千代田の城は町方同心たる文蔵の働くべき場所ではない。別の警護担当の部署があるのだ。
では何故文蔵は城に行こうとしているのか。
それは町入能で巳之吉一座が芸を披露する事になっているのだが、前日に動物を城内に入れる事になったからだ。動物が逃げ出して何かあったら大問題である。監視が必要という事になったのだ。ならば巳之吉達一座の者が専門家でもあり一番良いはずなのだが、やはり彼らは芸人である。その様な身分の者を城内に泊めるのはまかりならんと、幕閣のうるさ型が言い出した様だ。
余計な事を言う者はいつの時代にもいるのである。
それで、見世物小屋の指導を行う町奉行所から誰か出せと言う事になったのである。だが、町奉行所は動物を取り扱う専門家では無い。世話の仕方など知らぬし、それなのに何かあったら責任を取らねばならぬのだ。
当然誰もその様なお役目に就きたくはない。皆、武士が動物の世話など出来るかなどと口上を述べたのであるが、当然口実である。侍だとて馬の世話位ある程度は自分でするものだ。
その様な状況であったが、何故か新入りの同心が動物の扱いに熟達していた。しかも、巳之吉一座とは何やら得体の知れない繋がりがある。まさにうってつけの人材だ。
そんなこんなで文蔵が巳之吉と共に城内に動物を運び、次の日まで動物の監視をする事になったのだ。
普通の侍には難しい任務だが、旅芸人をしていた時に動物を世話してきた文蔵には容易な事だ。文蔵には特に不満は無い。
文蔵一行は大手門を通り抜けて三の丸を進んで行った。大手門を抜けて大手三の門に入ると、長大な番所が見えて来る。百人番所と呼ばれる検問所である。ここで警備を担当しているのは、鉄砲百人組だ。幕府直轄の精鋭であり、武芸に秀でた侍たちが詰めている。その鉄砲百人組は、伊賀組、甲賀組、根来組、廿五騎組で編成されており、黒田家の家臣である廿五騎組は兎も角、他の伊賀組等徳川と関係の深い者達ばかりだ。
「伊賀?」
町奉行所勤めでありながら文蔵は城内の常識に疎い。そんな文蔵に世故長けた善三が訳知り顔で教えてやる。善三とて幼い頃からずっと旅に出ており、江戸に居ついたのは文蔵と変わりが無い時期だ。それでも知識量が違うのは、好奇心や人付き合いの良さの違いであろう。
そして、善三が教えてくれた内容に何か気になる言葉が混じっていた事に気付く。
「伊賀っていったら、忍者か?」
「文ちゃん、面白い事を言うねえ。戦国の頃ならともかく、享保のこの時代に忍者なんかいるわけないだろう。瓦版では文ちゃんが忍者同心なんて書かれてたけどさあ」
巳之吉が呑気な口調でそんな事を言った。
巳之吉は先日文蔵達が伊賀忍者を名乗る火付盗賊改同心、百地に絡まれた事を知らぬ。
「おい、そこの。今何と言った?」
「はい?」
大手三の門を通過しようとした時、何者かが立ちふさがり問いかけて来た。
おそらく警護の同心であろう。
だが、何か嫌な予感がした。
「ええと、見ての通り明日の町入能で芸をいたします巳之吉一座でございます。そしてわたくしめは、町奉行所の担当、服部文蔵でございます。先ぶれの者がお伝えしていると存じますが。」
嫌な予感がした文蔵は、馬鹿丁寧な口調で返答する。相手を刺激しないためである。
残念ながらそれは不発に終わった。相手は顔を強張らせている。
「そんな事はどうでも良い。『忍者といったら伊賀』そう申したな? 我等甲賀忍者を差し置いて、よくぞ申したものよ」
「そんな事いましたかね?」
実際に言ったのは、「伊賀っていったら、忍者か」である。単語の要素は似ているが、全く意味合いが違う。
それにしても検問が職務であるはずのこの侍が、通過しようとしている者の素性がどうでも良いとは何事か。
しかも自分の事を甲賀忍者だと名乗った。何とも胡乱な奴である。
「しかも貴様服部と名乗ったか。最近噂の忍者同心か。ふん、闇に潜むべき忍者が表に出てくるとは世も末よな。所詮伊賀忍者などその程度のものよ」
「はあ、そうですか」
何やら相手は怒っている。どうやら伊賀忍者と甲賀忍者とが張り合っているらしいが、忍者界隈の事など文蔵にとってはどうでも良い事である。
「多羅尾、貴様伊賀忍者を愚弄するか!」
「げ、何であんたが?」
会話に割り込んできた者がいる。それは文蔵が見知った顔だ。先日の捕り物で関わった火付盗賊改同心の百地である。彼は火盗の同心であるが、伊賀忍者の末裔という一面ももっている。そのため、世間では伊賀忍者の頭目として有名であった服部半蔵と同じ姓を名乗り、しかも世間で忍者同心と評判になった文蔵に突っかかって来たのである。
先日は敵対していたのだが、どうやら今は加勢するつもりらしい。
まあ介入されても碌な事になりそうも無いので、文蔵は余計な奴が来たと辟易した顔をしている。
「ふ、所詮伊賀者など、服部半蔵のおこぼれに預かっただけの連中よ。真の忍者は我等甲賀衆と知るが良い」
「伊賀の里を攻めた織田の大軍がどうなったか知らぬのか? 真の実力者は我々伊賀忍者よ。それにこの前、ここにいる服部文蔵がどれだけの活躍をしたか知らんのか。ああ、知らぬかもしれんな。耳聡が忍者の第一条件であるが、甲賀などにそんな心得はあるまい」
「あんたこの前、俺に服部など忍者ではないとかかんとか言ってなかったか?」
百地は敵対する甲賀に優位に立つためなら、この前喧嘩をしたばかりの文蔵の事も利用するつもりらしい。
そして悪い事に争いを聞きつけて、番所の中から大勢の同心達が集まって来た。文蔵を中心に、二手に分かれて睨み合う。
百地の後ろに群がっているのが伊賀組で、反対に多羅尾の方が甲賀組なのだと文蔵は察したが、正直どちらにも加担したくない。一応百地達伊賀組は文蔵の見方をしている様な構図になっているが、以前百地が突っかかって来たように、彼らは服部の名に連なる者を面白く思っていない。百年近く前の服部半蔵と伊賀組の因縁のためである。
もっとも、文蔵の家系は服部半蔵の一族と血縁的な関係は一切ないため迷惑千万この上ない。
「貴様ら、何をやっておる。警備はどうした?」
どう切り抜けようか文蔵が気をもんでいると、救いの手が差し伸べられた。声の方向を見ると、旗本の二人連れ立っている。その後ろには供回りが大勢控えており、相当の大身である事が見て取れる。
二人とも中年だが鍛錬を欠かしていない様で立ち振る舞いに隙が無い。服装の仕立ては良いが将軍の倹約精神をよく理解しているらしく、装飾は抑えめの綿の裃だ。
片方は文蔵も知っている顔である。
「お奉行様ではございませんか」
それは、北町奉行稲生下野守正武であった。北町奉行所同心たる文蔵の上司である。
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