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第一章「火付盗賊」
第二話「北町奉行所からの勧誘」
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火事の一件があってから一ヶ月ほど経っての事である。服部文蔵の屋敷を訪ねる者があった。もっとも服部家は現在文蔵の弟が当主であり、彼は部屋住みの身であるのだが。
訪れたのは、北町奉行所の内与力の諏訪であった。
文蔵の弟は千代田の城に出仕しているので、応対するのは文蔵と、隠居した父の富蔵だ。服部家は貧しい御家人であり一人しかいない下男は当主に付き従って不在にしている。そして手伝いの老女は買い出し中だ。富蔵は既に妻を亡くし、弟の武蔵はまだ妻を迎えていないので、家に残っている文蔵自ら茶を入れて迎い入れた。
「文蔵殿を、北町奉行所の同心として迎い入れたいのだが、そちらの意向を確認したい」
諏訪は挨拶もそこそこにそう言った。この言葉に富蔵は驚きの顔を見せる。何故かと言えば、町奉行所に勤める与力や同心達は、世襲が多いからだ。名目上は一代限りの雇いなのだが、その専門的な役目柄適任者を探すとどうしても世襲になってしまうのだ。そのため、こうして諏訪が文蔵を同心にする事を申し出ているのは実に珍しい事なのだ。何か伝手でもあれば話は違うのだが、服部家にその様なものは無い。
文蔵は状況を理解していないのか、全く表情を変えていない。
「ありがたいお話ではありますが、一体どの様な理由で?」
「なに、話は簡単だ。先日文蔵殿が火付どもを成敗した件を稲生様が聞き、大層気に入りましてな。瓦版でも文蔵殿の活躍が書かれ、町民どもにも大層評判だとか。その様な者が同心になれば江戸の民も心強いだろうとの思し召しだ。ちょうど跡取りのいない同心の隠居の時期が近いので、ならばその後釜にと言う事だ」
「ははあ、なるほど」
富蔵と諏訪だけで話がどんどん進んでいく。同心にと勧誘を受けている当の文蔵は、一人蚊帳の外である。それでも特に不快に感じてはいない。何せ文蔵は二十歳にもなって部屋住みの身なのだ。当主たる弟や先代の父に従うのが筋だと思っている。
「お話、お受けしたいと存じます。拙者は隠居の身なれど元当主としての言葉です。拙者の了承した事に関して、倅も嫌とは言わぬでしょう」
ここで富蔵が言う倅とは、当主たる武蔵の事だ。富蔵としては部屋住みの息子の身の振り方が定まるのはありがたい話だし、武蔵にとしても「部屋住みの兄」などという面倒くさい存在が片付いてくれるのはありがたいに決まっている。
「承諾してくれてありがたい。これで主に顔向けが出来る。ところで、文蔵殿はどこであれほどの忍術を身につけたのかな? やはり服部家に伝わる伊賀忍者の技であるのか? だが、それにしては失礼ながら富蔵殿や武蔵殿が忍術の使い手だとは聞いた事が無い」
「いえ、拙者は忍者ではありませんよ。服部という家名でよく勘違いされますが、有名な服部半蔵の家系とは一切血縁はございません」
「その通りでございます。祖先が服部半蔵と縁があり、何かお役目で協力したとかの縁で服部の名を貰い、それ以来名乗っておりますが、我が家は忍者とは一切関係ございません」
「むむ? では文蔵殿が見せた技は一体?」
北町奉行の稲生は、文蔵が優れた忍者だと聞いて登用を諏訪に命じたのだ。前提条件が狂い、諏訪は困惑気味である。
「少々事情がありまして、拙者はああいう軽業が得意なのですよ」
「……まあ良いか。本当に忍者なのかどうかなど、どうでも良い事であろう。お奉行にも確認しておくが、おそらく同心にする決意に変わりはあるまい」
少しばかり考え込んだ諏訪であったが、文蔵を同心にするという結論には変わりが無い様だ。諏訪の様な内与力は、町奉行所の他の与力達とは違い、町奉行が奉行に任命される前から仕えている存在だ。そのため、主の考えなどわざわざ相談せずともある程度推察がつくのである。
「それはありがたい。それではありがたついでに、こちらの事情について伝えておきたいのでお聞きくだされ」
文蔵は茶を飲み干し自ら新たな茶を淹れると、真面目な顔になって諏訪に向かって話し始めた。
訪れたのは、北町奉行所の内与力の諏訪であった。
文蔵の弟は千代田の城に出仕しているので、応対するのは文蔵と、隠居した父の富蔵だ。服部家は貧しい御家人であり一人しかいない下男は当主に付き従って不在にしている。そして手伝いの老女は買い出し中だ。富蔵は既に妻を亡くし、弟の武蔵はまだ妻を迎えていないので、家に残っている文蔵自ら茶を入れて迎い入れた。
「文蔵殿を、北町奉行所の同心として迎い入れたいのだが、そちらの意向を確認したい」
諏訪は挨拶もそこそこにそう言った。この言葉に富蔵は驚きの顔を見せる。何故かと言えば、町奉行所に勤める与力や同心達は、世襲が多いからだ。名目上は一代限りの雇いなのだが、その専門的な役目柄適任者を探すとどうしても世襲になってしまうのだ。そのため、こうして諏訪が文蔵を同心にする事を申し出ているのは実に珍しい事なのだ。何か伝手でもあれば話は違うのだが、服部家にその様なものは無い。
文蔵は状況を理解していないのか、全く表情を変えていない。
「ありがたいお話ではありますが、一体どの様な理由で?」
「なに、話は簡単だ。先日文蔵殿が火付どもを成敗した件を稲生様が聞き、大層気に入りましてな。瓦版でも文蔵殿の活躍が書かれ、町民どもにも大層評判だとか。その様な者が同心になれば江戸の民も心強いだろうとの思し召しだ。ちょうど跡取りのいない同心の隠居の時期が近いので、ならばその後釜にと言う事だ」
「ははあ、なるほど」
富蔵と諏訪だけで話がどんどん進んでいく。同心にと勧誘を受けている当の文蔵は、一人蚊帳の外である。それでも特に不快に感じてはいない。何せ文蔵は二十歳にもなって部屋住みの身なのだ。当主たる弟や先代の父に従うのが筋だと思っている。
「お話、お受けしたいと存じます。拙者は隠居の身なれど元当主としての言葉です。拙者の了承した事に関して、倅も嫌とは言わぬでしょう」
ここで富蔵が言う倅とは、当主たる武蔵の事だ。富蔵としては部屋住みの息子の身の振り方が定まるのはありがたい話だし、武蔵にとしても「部屋住みの兄」などという面倒くさい存在が片付いてくれるのはありがたいに決まっている。
「承諾してくれてありがたい。これで主に顔向けが出来る。ところで、文蔵殿はどこであれほどの忍術を身につけたのかな? やはり服部家に伝わる伊賀忍者の技であるのか? だが、それにしては失礼ながら富蔵殿や武蔵殿が忍術の使い手だとは聞いた事が無い」
「いえ、拙者は忍者ではありませんよ。服部という家名でよく勘違いされますが、有名な服部半蔵の家系とは一切血縁はございません」
「その通りでございます。祖先が服部半蔵と縁があり、何かお役目で協力したとかの縁で服部の名を貰い、それ以来名乗っておりますが、我が家は忍者とは一切関係ございません」
「むむ? では文蔵殿が見せた技は一体?」
北町奉行の稲生は、文蔵が優れた忍者だと聞いて登用を諏訪に命じたのだ。前提条件が狂い、諏訪は困惑気味である。
「少々事情がありまして、拙者はああいう軽業が得意なのですよ」
「……まあ良いか。本当に忍者なのかどうかなど、どうでも良い事であろう。お奉行にも確認しておくが、おそらく同心にする決意に変わりはあるまい」
少しばかり考え込んだ諏訪であったが、文蔵を同心にするという結論には変わりが無い様だ。諏訪の様な内与力は、町奉行所の他の与力達とは違い、町奉行が奉行に任命される前から仕えている存在だ。そのため、主の考えなどわざわざ相談せずともある程度推察がつくのである。
「それはありがたい。それではありがたついでに、こちらの事情について伝えておきたいのでお聞きくだされ」
文蔵は茶を飲み干し自ら新たな茶を淹れると、真面目な顔になって諏訪に向かって話し始めた。
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