忍者同心 服部文蔵

大澤伝兵衛

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第一章「火付盗賊」

第一話「服部文蔵参上」

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 江戸の夜は本来静かなものである。

 吉原の様な一部の歓楽街を除き、店などやっていない。それに、今は何かと倹約にうるさい徳川吉宗の治世である。高位の旗本や豪商達でさえ煌々と明かりをつける事ははばかっている。

 だが、この日ばかりは町は煌々と照らされ、喧騒に包まれていた。

 俗に火事と喧嘩は江戸の華と言うが、その前者である。大店が立ち並ぶ日本橋の一帯で火の手が上がっていた。

 折からの強風で火がまわり、立派な作りの大店が何軒も燃えている。そして更なる延焼を防ぐため、速やかに出動した町火消の者どもが風下の店を掛矢などで破壊している。

 壊されている店の主人らしき者が嘆いているのが見えるが、集まった野次馬達からは特に同情の様子など見る事は出来ない。これは別に彼らが薄情なのではない。この辺りに店を構える豪商達には阿漕な商売で財を蓄えた者も少なくない。野次馬達の中でも貧しい者にとってはざまあないとしか思えないし、延焼の恐れがない場所に店を構える商人にとっては商売敵が労せず損害を受けているのだ。それに、この程度の損害で身代を潰す様なやわな商人はこの辺りで店を構えたりはしない。皆海千山千の商売人ばかりだ。燃えにくい土蔵に唸るような金を貯蔵しており、それさえあれば、問題なく再起が可能なのだ。

 金が残っていれば、の話であるが。

「だ、誰か。そいつを捕まえてくれ! 火事場泥棒だ!」

 燃えている店の主人の一人である、駿河屋の善右衛門が屋根の上を指差しながら野次馬達に向かって言った。その方向には、複数の人影が屋根の上に集っているのが見える。

 もうもうと立ち込める煙のせいではっきりとは見えないが、燃え盛る炎に照らされた数人の人影があった。彼らの手にはそれぞれ千両箱が抱えられている。つまり数千両の小判を盗み出したと言う事だ。

「てめえらの仕業か。よくもやりやがったな!」

 屋根の上には火事場泥棒どもだけではない。町火消の纏持ちも同じく屋根に上がり、纏を振っていた。纏持ちは真っ先に火事場の最も危険な場所に飛び込む命知らずの男の中の男であり、江戸中の町人の憧れである。その矜持、はたまた火事に対する怒りによるものなのか、纏持ちは火事場泥棒に向かって殴りかかって行った。

 町火消は基本的に腕っぷしが強く、肝が太い。故に喧嘩では生半可なヤクザなどのしてしまう程だ。だが、この時ばかりは勝手が違った。火事場泥棒の一人は横殴りに振るわれた纏を上半身を逸らしただけで躱し、その一呼吸後に一瞬で間合いを詰めると纏持ちに突き出すような蹴りを放った。
 
 千両箱は重い。それを抱え、しかも足場の悪い屋根の上である。恐るべき体術であった。

 纏を振った時に態勢を崩していた纏持ちは、蹴りを食らってたまらず屋根から転げ落ちた。

 それを見ていた野次馬達から悲鳴が上がる。彼らは金を腐るほど持っている商人などどうなっても良いのだが、いつも江戸の町のために命を賭けて火事に立ち向かってくれる町火消が危険な目に遭う事までは望んでいないのだ。

「ええい、逃すな! 追え!」

「しかし熊田様、屋根の上までとても追えませぬ!」

 野次馬を掻き分けて前に進み出て来た一団が、何やら騒いでいる。

 その出で立ちから、彼らが町奉行の役人達である事が見て取れる。今月の月番からすると、彼らは北町奉行所の者達だろう。町火消は町奉行所の管轄である。火事場の指揮のために出動して来たのだ。

 彼らは火事に対処するために来たのだ。そのため、捕り物のための道具は用意していない。屋根に上るための梯子すらないのだ。

「このままでは逃げられてしまうぞ!」

「ここは任せな」

 悠々と屋根をつたって逃げようとする火事場泥棒達に歯噛みする町奉行所の役人達の脇を通り、前に進み出る者が居た。その出で立ちからすると若い貧乏御家人の様に見える。

 一体何者なのかと役人達が疑問に思っていると、その男はふわりと宙に舞い、一気に屋根にしがみついた。この辺りの店は二階建てのものばかりだ。その屋根にまで届く跳躍を見せたこの男、只者ではない。

「邪魔だ、どけ!」

 突如現れた貧乏御家人風の男に、火事場泥棒達は面食らったようだが、すぐに気を取り直して男に襲い掛かる。その手には匕首が握られている。

 火事場泥棒達は片手に重い千両箱を抱えているが、多対一である。屋根に上がるために両手を空にする必要があった男は、まだ抜刀していない。どちらが有利かは火を見るよりも明らかである。だが、

「キエィッ!」

 男は裂帛の気合を発すると、自分から前に進み出て切りかかった火事場泥棒の顎に掌底を食らわせた。もんどりうって倒れた火事場泥棒は、そのまま地面まで転がり落ちる。

「な、なに? ええい、囲め。囲んでやれば何てこたぁない!」

 火事場泥棒の首領が、手下どもに指示を飛ばす。いくら侍が強いとは言え、ここは足場の悪い屋根の上である。本来地の利を得ているのは火事場泥棒達のはずなのだ。その不利を一切感じさせない男の体術は予想外であるが、それでも包囲してしまえば問題無く倒せるはずだ。

「甘い。俺を囲むなんざ十年早い。もっと軽業でも稽古してから挑むんだな」

 男は全く動じる事は無かった。それどころか、蜻蛉を切って後ろに回り込んだ火事場泥棒の更に背後に着地すると、後ろ襟を掴んでそのまま地面に放り投げた。

 何が起きたのか理解出来ず立ち尽くす火事場泥棒も、くるりと回転しながら放たれた男の蹴りにより、側頭部や鳩尾を強打され、受け身もとれずに地面に落ちていく。

「な、何もんだ、てめえ。ただの侍じゃねえな?」

 町方には追ってこれない経路を確保して、見事逃げおおせたはずの計画が完全に崩れ落ちた首領は、驚愕しながら言った。男は侍の風体をしていながら、さっきから刀を抜く様子を見せない。こんな異様な者に遭遇してしまったのが運の尽きである。

「何者かだって? 俺の名は、服部文蔵。ただの貧乏御家人の部屋住みだ。さて、お前が最後だ。テヤッ!」

 言い終えるやいなや。男――服部文蔵は宙を舞い、首領に鋭い跳び蹴りを食らわせた。この様な当て身技はこの時代の日本において一般的ではない。何をされたのか分からないまま首領は脳天から地面に落ちていった。

「何なんだよあいつ……」

「服部文蔵って名乗ってたぞ?」

「服部? まさかあいつ忍者なのか?」

 そんな言葉がこれまで呆然とこの光景を見ていた野次馬達の口から発せられる。

 足場の悪い屋根の上であの様な体術を見せた服部文蔵は、普通の侍とは思えない。しかも、服部を名乗った。服部と言えば、服部半蔵という忍者の名が享保の世にあっても知られている。この男、服部半蔵と何か関りがあるのではないか。その様に野次馬達は思ったのだ。

「おっと。もうそろそろ門限なのでな。これにて失礼する」

 悪党を蹴散らした猛者にしては、いささか情けない発言をした服部文蔵は、屋根を伝って姿を消した。

 後に残されたのは唖然とした様子の野次馬達と、消火活動をする町火消、そして気絶した火事場泥棒どもを捕縛する役人達だけだった。

 この光景を目撃した人数は少ない。だが、面白い事が大好きな江戸の町人達の間で、忍者現るの噂は急速に広まっていったのであった。
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