桜田門外の赤備え

大澤伝兵衛

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桜田門外の赤備え

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 安政7年(1860年)3月3日の朝の事である。
 幕府の大老として政治の実権を握る井伊直弼の行列が、登城中に浪士達に襲撃を受けた。
 大老の行列が襲撃を受けるなど前代未聞の事だ。
 直弼を守る彦根藩士達の大半が逃走、残りの者も当日の雪のため柄袋をしており、抜刀が遅れて次々と切られていった。
 後手に回る警備の間隙を突き、一人の浪士が直弼の乗る駕籠に迫る。襲撃と同時に一発の銃弾が駕籠に撃ち込まれ、既に瀕死の重傷のはずだ。
 後は首を刎ねるだけの簡単な作業だ。
 だが、それは浪士が刀を駕籠に突き刺そうとした瞬間起きた。
「グッ!」
 浪士が血飛沫を撒き散らして倒れ伏す。その前に立つのは、返り血を浴び、血刀を引っさげた大老井伊直弼その人である。
「殿! ご無事でしたか!」
「うむ。銃弾はかすめただけじゃ」
 駕籠の傍で戦っている河西忠左衛門が、主君の方を見やりながら安堵の声を上げた。
二刀流の使い手としてその剣名を轟かせるこの豪傑は、所々浪士に切られているものの未だ健在である。
 直弼は未だ健在であるが、危難が去った訳ではない。配下の藩士は、河西等一部の者が奮戦しているがその他は刀を抜く事すらならず戦力にならない。
「怯むな! たかが殿様のお座敷剣法だ!」
 浪士の一人がそう叫び、直弼目掛けて突進するが、すぐに声も無く絶命して果てる。直弼の刀が精妙に振るわれ、浪士の喉笛を切り裂いたのだ。
 単なる殿様芸でない。長年の修練がそこにある。
 直弼は今でこそ彦根藩主であり、幕府の大老として高い地位にあるが、元は井伊家の十四男として齢三十を過ぎるまで部屋住みの身であった。
 手持ち無沙汰の直弼は、心の隙間を埋める様にあらゆる芸事に熱中した。茶道、和歌、鼓を良くしていたため、チャカポン(茶・歌・ポン)などと揶揄されたものだ。
 また、居合などの剣も特に修練し、新心新流という流派を打ち立てるまでになっている。
 直弼の剣腕が並みでない事は、浪士達もすぐに理解した。一対一では分が悪いと、手の空いた数名がまとまって切りかかった。
 そうなると分が悪い。新たな襲撃者の二人目までは見事な技で切り捨てたが、すぐに二名同時に相手にする事になって斬り合いになる。
 こうなるといけない。
 直弼はもう何年も前に不惑を過ぎており、体力は衰えている。しかも最近は大老としての激務で稽古をする暇はなく、心労で心身は万全ではない。
 そしてなにより直弼は剣の型や試斬こそ達人の域だが、竹刀稽古による打ち合いは全く経験していない。故に切り合いの距離感や機微は分からない。直弼の若い時は稽古相手がおらず、長じて藩主になってからは主君に本気で打ち込んで来る者などいなかった事によるものだ。
 直弼は常に孤独であった。
(ここまでか……)
 息が上がった直弼の脳裏に弱気な考えが浮かんでくる。
 優れた剣技を習得しながら、他者とそれを高め合ってこなかったために、今打倒されようとしている。そして、直弼を殺害せんとする浪士達は、直弼の強硬な政策に反発しての事だろう。直弼は黒船来航以来動揺する国内を鎮めるために、様々な政策を行ってきた。直弼は部屋住みであったため国元を殆ど出た事が無く、他の大名との交流も跡継ぎに指名されるまで無かった。このため他者との距離感が掴めず、その政策は独善的なものになったのかもしれない。
 他者との距離を掴めなかったために反発され、それで殺される段になった際も距離が掴めないために切り合いに負ける。なんとも皮肉な事である。
 今自分に必死の形相で切りかかってくる浪士達は、初めて自分と真剣に向き合ってくれる者なのかもしれない。不思議と浪士に対する親愛の情が湧くのだった。
「殿危ない!」
 戦闘中に余計な事を考えたせいか、直弼に隙が出来た。それを逃さず迫る浪士の剣を、直弼の配下の一人が受け止めた。
 柄袋が邪魔で刀を抜けなかった彼は、自らの体を主君の盾とする。
 肉の盾となった部下の血で、直弼の体が汚された。
 それで終わらない。当初逃走しようとしていた藩士達も、直弼の奮戦と仲間の決死の行いを見て次々と集まって来る。彼らも抜刀は出来ていない。自らの体を防壁とするだけだ。
 その光景を見て直弼の弱気な心に変化が生じる。自分はずっと一人だと思い込んでいたが、いま直弼のために命を懸ける者達がいる。藩、家、名誉のためかもしれない。しかし、今この瞬間は直弼のために戦っているのだ。
 もう、一人ではない。
「皆の者! 儂に続け!」
 直弼は檄を飛ばすと先陣を切って突撃した。直弼もその配下も血で朱く染まっていた。
 この光景を見ていた町衆によると、それはまさに古の「井伊の赤備え」の再現であったという。

 結局この危難を退けた直弼は、その武名を高めて求心力を増し、日本全体をまとめ上げていく事になった。
 そして、この事件以来直弼の政策は、かつての苛烈さを無くしたという。
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