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第二章「標的は勝海舟」
第十話「慶喜の謹慎」
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徳川慶喜に声をかけられた吉直とアンリエットは、そのまま慶喜が謹慎している宿坊に招かれた。今ではその官位を剥奪されたとはいえ、慶喜は昨年まで日本の権力の頂点にいた征夷大将軍であった。その部屋に、世間からは忌み嫌われる処刑人の二人が入るなど、信じがたい事であった。
慶喜が泊っている部屋が、元は地位が高い僧が使用する物らしく、それなりに広かった。もちろん江戸城の将軍の居室ほどではあるまいが、一般の武士はこれ程広い部屋に寝泊まりする事など無いはずだ。
もっとも、吉直の実家である山田家は、処刑人として忌み嫌われるかわりに他人が避ける仕事をしているおかげで、金銭的には恵まれている。そのため、養子に過ぎない吉直も慶喜が泊る宿坊ほどではないが恵まれた部屋で暮らしていた。
アンリエットも同様だ。サンソン家の所在するパリは、貴族や資本家達の豪邸だけでなく、庶民がひしめき合って暮らす地域も存在する。その中にあってサンソン家の家屋は広々とした方に類するのだ。
更に言えば、慶喜の部屋はその広さにも関わらず、圧迫感を漂わせている。その理由は吉直とアンリエットにも一目瞭然であった。
「本……ですね。少しばかり多すぎはしませんか?」
「そうかもしれんが、何年謹慎する事になるか分からんからな。本があれば退屈せずに済む」
慶喜の部屋には所狭しと本が積み重ねられていた。あまり本を読む方ではない吉直には、これだけの本は一生かかっても読み切れない様に思えた。だが、慶喜にとってはこの程度数年とかからず読み終えてしまうのだろう。
積み重なる本の中には、和書だけではなく洋書も混じっていた。先程アンリエットに挨拶した際は、挨拶程度しか言葉を知らないと言っていたがそれは謙遜の様である。そうでなければ洋書など読もうと思わないだろう。もしも
本当に異国の言葉を殆ど知らないのであれば、謹慎中に独学で身につける自信があるのだろう。
「まあ私だって、流石にこれだけ本が山積みになってたら変だとは思うよ。だけど、この先本が差し入れられる保証は無いからね。前の時は、読み終わったら次の本と交換できたんで、こうじゃなかったんだけどな」
かつて大老井伊直弼により安政の大獄と呼ばれる対立者に対する弾圧が起きた。それに巻き込まれた慶喜は、約一年間謹慎する羽目になったのだ。その際も、読書をしていつ終えるとも知れぬ謹慎の日々を過ごしていたのであった。
「まあ気軽にしてくれ、勝海舟から君たちの事は聞いている。ギロチンの事もな」
慶喜はその場に胡坐をかいて座り、吉直達にも座るように促した。吉直はその場に正座をした。床に座る習慣の無いアンリエットは吉直の座り方を真似しようとしたのだが、その窮屈そうな座り方は合わなかった様だ。すぐに膝立ちの姿勢に変わる。軍隊でいう所の「おりしけ」という姿勢だ。
何にせよ、慶喜はこの際礼儀に関してとやかく言うつもりは無い様だ。手近に脇息を置き、砕けた様子である。
「君たちには期待しているよ。護衛の者は他にも大勢いるが、どうもギロチンというものを理解していないようだ。それで私の首が衆人環視で切り落とされて晒された時に、どれだけの影響が社会に波及するか実感が湧かないようだ」
慶喜は、ある一冊の洋書を手に取って示した。吉直はそこに何と書かれているか理解出来ず怪訝な顔をしたのだが、アンリエットの顔色が変わった。
「これは、『サンソン回想録』ですね。サンソン家四代目当主である、シャルル=アンリ・サンソンの事績が書かれた書。まさか日本にあるとは……」
「まあこれはアンリ・サンソン本人が書いたわけではなく、バルザックなる作家が取材をもとに書いたのだそうだが、よく書かれていると思う」
シャルル=アンリ・サンソンの名は、吉直もアンリエットから聞いている。仏蘭西の革命による動乱と処刑が最も激しかった時代のサンソン家の当主であり、アンリエットの高祖父にあたる人物である。
「この本はね、フランス皇帝のナポレオン三世から送られたものなのだが、こういう立場にたってみると、本当に身がつまされる思いがするね。フランスでは国王すら処刑されたんだ。国王といったら私ではなく天子様にあたる人物だよ。そんな人が処刑されたのだ。私ぐらい何かの拍子に処刑される可能性は十分にある。しかも、よりによってギロチンが日本に入り込んだとはね。日本における反革命の象徴として、私をギロチンにかけるにはおあつらえ向きの状況じゃないかね?」
まさか、そうですねなどとは言えないので、二人は口をつぐんだ。なおも慶喜は言葉を続ける。
「そして驚くべきは、どれだけ政権が変わろうと、サンソン家が処刑を担当していたと言う事だ。権力がひっくり返った後も、その巻き添えでサンソン家が弾圧されたりはしなかったという事だ。これを何と考えるべきか。忠実に職務を果たしただけなのだから、自分達の仲間が処刑されても恨んだりしなかったのか、それとも単なる便利な道具にしか思っていなかったのか。どうなんだろうね?」
これは吉直も悩むところであった。吉直の養父である七代目山田朝右衛門は、幕府の処刑人として数々の罪人を斬首に処してきた。その中には、吉田松陰なる人物もおり、その人物は現在朝廷に対して大きな影響を及ぼしている長州藩を動かす人物達の師なのだという。
果たして、養父は彼らに師の仇として復讐されてしまうのだろうか。それとも、それぞれの立場もある事から遺恨を残していないのだろうか。はたまた、山田家を単なる処刑道具として扱い、今度は幕府方の者達を処刑するために召し出すのだろうか。
これまで何度も考えてみたのだが、吉直には結論を出す事が出来なかった。
慶喜が泊っている部屋が、元は地位が高い僧が使用する物らしく、それなりに広かった。もちろん江戸城の将軍の居室ほどではあるまいが、一般の武士はこれ程広い部屋に寝泊まりする事など無いはずだ。
もっとも、吉直の実家である山田家は、処刑人として忌み嫌われるかわりに他人が避ける仕事をしているおかげで、金銭的には恵まれている。そのため、養子に過ぎない吉直も慶喜が泊る宿坊ほどではないが恵まれた部屋で暮らしていた。
アンリエットも同様だ。サンソン家の所在するパリは、貴族や資本家達の豪邸だけでなく、庶民がひしめき合って暮らす地域も存在する。その中にあってサンソン家の家屋は広々とした方に類するのだ。
更に言えば、慶喜の部屋はその広さにも関わらず、圧迫感を漂わせている。その理由は吉直とアンリエットにも一目瞭然であった。
「本……ですね。少しばかり多すぎはしませんか?」
「そうかもしれんが、何年謹慎する事になるか分からんからな。本があれば退屈せずに済む」
慶喜の部屋には所狭しと本が積み重ねられていた。あまり本を読む方ではない吉直には、これだけの本は一生かかっても読み切れない様に思えた。だが、慶喜にとってはこの程度数年とかからず読み終えてしまうのだろう。
積み重なる本の中には、和書だけではなく洋書も混じっていた。先程アンリエットに挨拶した際は、挨拶程度しか言葉を知らないと言っていたがそれは謙遜の様である。そうでなければ洋書など読もうと思わないだろう。もしも
本当に異国の言葉を殆ど知らないのであれば、謹慎中に独学で身につける自信があるのだろう。
「まあ私だって、流石にこれだけ本が山積みになってたら変だとは思うよ。だけど、この先本が差し入れられる保証は無いからね。前の時は、読み終わったら次の本と交換できたんで、こうじゃなかったんだけどな」
かつて大老井伊直弼により安政の大獄と呼ばれる対立者に対する弾圧が起きた。それに巻き込まれた慶喜は、約一年間謹慎する羽目になったのだ。その際も、読書をしていつ終えるとも知れぬ謹慎の日々を過ごしていたのであった。
「まあ気軽にしてくれ、勝海舟から君たちの事は聞いている。ギロチンの事もな」
慶喜はその場に胡坐をかいて座り、吉直達にも座るように促した。吉直はその場に正座をした。床に座る習慣の無いアンリエットは吉直の座り方を真似しようとしたのだが、その窮屈そうな座り方は合わなかった様だ。すぐに膝立ちの姿勢に変わる。軍隊でいう所の「おりしけ」という姿勢だ。
何にせよ、慶喜はこの際礼儀に関してとやかく言うつもりは無い様だ。手近に脇息を置き、砕けた様子である。
「君たちには期待しているよ。護衛の者は他にも大勢いるが、どうもギロチンというものを理解していないようだ。それで私の首が衆人環視で切り落とされて晒された時に、どれだけの影響が社会に波及するか実感が湧かないようだ」
慶喜は、ある一冊の洋書を手に取って示した。吉直はそこに何と書かれているか理解出来ず怪訝な顔をしたのだが、アンリエットの顔色が変わった。
「これは、『サンソン回想録』ですね。サンソン家四代目当主である、シャルル=アンリ・サンソンの事績が書かれた書。まさか日本にあるとは……」
「まあこれはアンリ・サンソン本人が書いたわけではなく、バルザックなる作家が取材をもとに書いたのだそうだが、よく書かれていると思う」
シャルル=アンリ・サンソンの名は、吉直もアンリエットから聞いている。仏蘭西の革命による動乱と処刑が最も激しかった時代のサンソン家の当主であり、アンリエットの高祖父にあたる人物である。
「この本はね、フランス皇帝のナポレオン三世から送られたものなのだが、こういう立場にたってみると、本当に身がつまされる思いがするね。フランスでは国王すら処刑されたんだ。国王といったら私ではなく天子様にあたる人物だよ。そんな人が処刑されたのだ。私ぐらい何かの拍子に処刑される可能性は十分にある。しかも、よりによってギロチンが日本に入り込んだとはね。日本における反革命の象徴として、私をギロチンにかけるにはおあつらえ向きの状況じゃないかね?」
まさか、そうですねなどとは言えないので、二人は口をつぐんだ。なおも慶喜は言葉を続ける。
「そして驚くべきは、どれだけ政権が変わろうと、サンソン家が処刑を担当していたと言う事だ。権力がひっくり返った後も、その巻き添えでサンソン家が弾圧されたりはしなかったという事だ。これを何と考えるべきか。忠実に職務を果たしただけなのだから、自分達の仲間が処刑されても恨んだりしなかったのか、それとも単なる便利な道具にしか思っていなかったのか。どうなんだろうね?」
これは吉直も悩むところであった。吉直の養父である七代目山田朝右衛門は、幕府の処刑人として数々の罪人を斬首に処してきた。その中には、吉田松陰なる人物もおり、その人物は現在朝廷に対して大きな影響を及ぼしている長州藩を動かす人物達の師なのだという。
果たして、養父は彼らに師の仇として復讐されてしまうのだろうか。それとも、それぞれの立場もある事から遺恨を残していないのだろうか。はたまた、山田家を単なる処刑道具として扱い、今度は幕府方の者達を処刑するために召し出すのだろうか。
これまで何度も考えてみたのだが、吉直には結論を出す事が出来なかった。
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