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28:血の八月

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 ……血の臭いの充満する《見返り通り》を、ハナコはひたすら走り続けていた。

 その手をしっかりと握り、お母さんが前を走っている。

 息を切らせながら、もう限界かも知れないと思い、それでもハナコは痛む足を無我夢中で前へ前へと出し続けた。

 しばらくして廃ビルの谷間に入り、奥のほうの身を隠せる場所まで来ると、お母さんは立ち止まり、かがみ込んで、ハナコの額の汗をいつも良い匂いのする手ぬぐいで拭き取ってくれた。

「大丈夫?」

 ほつれ毛を耳にかけて、お母さんが微笑んだ。 

 昔からそうだ。

 お母さんは、なにも言わなくても、なんでも分かってくれる。

 そしてそのあとは決まって、心の底からホッとする笑顔で元気づけてくれる。

「なにが起きてるの?」

 緊張の糸がほぐれ、涙を流しながらハナコは訊いた。

「分からない。でも、きっと――」

 お母さんは《見返り通り》に目をやり、

「――、戦争が始まったのかもしれない」

 ほとんど独りごちるようにして言った。

「戦争?」

 それは、なのだと、たまに酔っ払ってしまうまでお酒をいっぱい飲んでしまった――いつもとちがってあまり好きじゃないほうの――お母さんから何度も聞かされていた。

 それは、ハナコがまだ六歳のころに、そのでお父さんが死んでしまったという話だった。

 哀しい話のはずなのに、その話をするとき、お母さんはいつも「あいつ、呆気なく死んじゃったわ」と締めくくり、遠い目で冷たい笑みをこぼした。

 それは、ハナコを元気づけてくれるものとはちがう意味の、もっと暗くてあんまり良くない感情を含んだものだと、なんとなく理解していたけれど、今はそんなことの意味よりも、ここに来るまでに見た、血を流して倒れている大勢の人たちの姿が、振り払っても振り払っても、頭いっぱいに溢れかえっていく。

「死にたくない」

 声を震わせるハナコに、お母さんがふたたび微笑みかけた。

「大丈夫。死なないわよ…… んーん、死なせない」

 お母さんが、ハナコの小さな手をギュッと握りしめた。

 この温かい手も、いつだってハナコの心を勇気づけてくれる。

 でも――

「ハナコは、なにがあっても、お母さんが守ってあげるから」

 ――力づよく言うお母さんの、その手がいつもとちがって小刻みに震えているのに、ハナコは気がついていた。

 不安になって見上げると、お母さんの額にうっすらと汗が滲んでいるのが分かった。

 夏だけど、夏のせいなんかじゃない。

「お母さんも死なないで。んーん、あたしが死なせない」

 ハナコはお母さんの手を強く握りかえした。

「……お母さんは大丈夫よ。だから、

 微笑み、そしてお母さんがうなずいてくれる。

 そのとき、通りから、ザリッ、と砂利を踏みしめる音が聞こえた。

 そちらからは見えないよう、大きな鉄製のゴミ箱の影に隠れていた二人は、身を縮こまらせ、息を押し殺した。 

 ――お願い、来ないで。

 しかしその願いも虚しく、足音が着実に近づいてくる。

 そして、あまりの恐怖に目を閉じたハナコの鼓膜を、

「見つけた」

 野太い男の声が揺らした。

「お願いします。この娘だけは」

 目を閉じたままのハナコの耳に、今度はお母さんの哀願が響く。

「お前に用はねえ。用があるのは、だ」

 言葉とともに、ハナコの頭を胸に沈めるようにして抱いていたお母さんが、むりやり引き離されたのが分かった。

 恐る恐る目を開くと、泥や血にまみれた軍服に身を包む、体格の良い藪睨やぶにらみの男が、お母さんの片腕を掴みながらハナコを見下ろしていた。

「……ちっ、か」

 ――ハズレ? 
 ――なにが?

 藪睨みはため息を吐いて、肩にさげたガンホルスターから、銃把にの紋章が刻まれたオートマチックピストルを抜き出して、安全装置を解除すると、その銃口をお母さんに向けた。

「わたしたちはただの一般市民です。ですからどうか、どうか、命だけは――」
「関係ない」

 遮って、藪睨みが言う。

「おれたちは上官に、できうる限り派手に暴れ回れと言われているんだよ。お前ら《ゴミ漁り》どもに、《赤い鷹》の残虐さを教え込むのが、おれの仕事だ」

「せめて、この娘だけでも――」

 懇願むなしく肩を蹴り飛ばされ、壁に背中を打ちつけて悶絶するお母さんを見て、己の力に酔ったのか、藪睨みは口の端を醜く歪めた。

「だからまあ、そういうことだからよ……死ね」

 言って、藪睨みが引き金を引いた。

 乾いた破裂音とともに、ハナコの頬に生ぬるい液体が降りかかった。鼓膜に残る甲高い残響のなかお母さんを見ると、顔の上半分が、まるでマジックのように消え失せていた。

 壁に背をこすりつけながら、ハナコの肩にぶつかるようにして横倒しになったお母さんの、は、いつか見た絵本の薔薇のように真っ赤だった――

 ――あいつ、呆気なく死んじゃったわ

 お母さんの、あの冷たい言葉が胸に蘇る。

「さて、運がいいことに、お前にはこの惨劇の生き証人になってもらうが、その前にいちど試してみたいことがあるんだ。生かしてもらうに、もちろん協力してくれるよな?」

 一瞬、なにを言われているのか分からなかった。

 藪睨みは、ガンホルスターにオートマチックピストルをしまい、ベルトを外してズボンを下ろし、ハナコの両肩を掴んだかと思うと、壁から引きはがして胸元へ引き寄せた。

 つよく掴まれたせいで、肩に走る痛みに耐えながら一粒の涙をこぼすと、それを藪睨みは美味しそうに舌で舐めとってから、ハナコを地べたに組み伏せた。

「残念ながらおれは幼児性愛者ペドフィリアじゃないが、いちどくらいはヤッてみたかったんだよ」

 ――ペド?
 ――ヤる?
 ――なにを?

 さまざまな疑問が、一瞬間のうちに未だあどけない脳裡を駆け巡ったが、その意味が分からず、ふたたび、今度はこらえることもできず涙の流れるままに任せると、その姿に昂奮こうふんした藪睨みが、まるで獲物を前にしたヘビのように舌なめずりをして、その唇をハナコのそれへと乱暴に重ねてきた。

 思わず口を強く引き結ぶと、藪睨みの酸っぱい汗の臭いが鼻腔をついた。それに耐えきれずせるようにして口を開くと、そこにナニカがするりと忍び込んできた。それはナメクジのようにヌルヌルとしたもので、ハナコの口蓋こうがいを、歯の裏を、そして舌を執拗に愛撫していった。

 抵抗を試みて、掴まれた腕を動かそうとしたが、大人の力に勝てる道理なんかあるはずもなかった。

 なすがままにされ、意識が遠のきかけたハナコの頭の中で、「死にたくないよ」という、さっき言ったばかりの言葉が、とつぜん篝火かがりびのごとく大きく強く揺らめいた。

 ハナコは目を見開き、ナメクジを噛み切った。

「うぼごぼっ!」

 言葉にならない声でうめき、藪睨みはハナコの腕を押さえつけていた手を口元にやった。口からあふれ出た血で、その手が真っ赤に染まっていくのを横目に見ながら、ハナコは口の中に残ったを地べたに吐き捨てた。

 その刹那、太ももにヤケ火箸を押しつけられたかのような熱さが襲う。

 見ると、そこには鈍色にびいろに光るナイフが深々と突き刺さっていた。

「ごろず!」

 半狂乱になった馬乗りの藪睨みが叫び、飛び散る血が、ハナコに降りかかる。

 ナイフを引き抜いてそれをハナコの喉元に押し当てると、藪睨みは再び、こんどは明らかに故意で血を吐きつけてきた。

 目をやられ、赤くぼやける視界のなかで、それでも生への執着に突き動かされたままのハナコは、なにか武器になりそうな物を探り当てようと、背泳ぎのように手を地べたに這わせた。

 すると、右手がなにか棒状の物に当たり、ハナコはそれを手が白くなるほど強く握りしめると、すぐさま藪睨みの喉元を目がけて力いっぱいに突き出した。

 想像よりも柔らかい感触と、なにかが潰れるようなくぐもった音とともに、藪睨みの口からさっきの数倍もの血が噴き出し、それがハナコの顔面に降りかかった。

 藪睨みは喉を掻きむしりながらそのまま仰け反り、ハナコの足のがわへと仰向けに倒れた。

 上半身を起こし、痙攣する大の字の藪睨みを確認したハナコは、一度だけ頭の無くなったお母さんへと視線を走らせ、顔の血を拭って右足をかばいながら立ち上がった。

 右の太ももには、いまだ熱い激痛が走り、まともに歩くことすら困難だったが、ハナコは生き残るために、空いたほうの手を壁にやって、右足を引きずりながら《見返り通り》を目指した。 

《見返り通り》には、

 叫びや、
 怒声や、
 銃声や、
 爆音や、

 今まで聞いたこともない音が、溢れかえっていた。

 知っている場所が、知らない場所になっている。だけどあそこに行かなければ、生き残れない。そう、ハナコの勘がはっきりと教えてくれる。

 気がつくと、涙は止まっていた。

 ようやく通りに出て、朦朧とする意識のなか安堵のため息を漏らすと、

「見つけた」

 と、藪睨みとはちがう野太い声が聞こえた。

 声のしたほうを見ると、おぼろげな視線の先に、容赦という字を家にでも忘れてきたのか、頭にうっすらと血の滲む包帯を巻いた軍服が、無慈悲にもアサルトライフルの銃口をハナコに向けている姿が見えた。

か……死ね」

 包帯が、言う。

 ハナコは、握りしめていたものを包帯男に向かってかまえた。

「バカが、そんなものでなにができる?」
「関係ない。死ぬのは……死んでもイヤ」
「……子どもまで野蛮だな。ほんとうなら休暇だったってのに、なにが悲しくて《ゴミ漁り》どもとの不毛な戦いのために、九番くんだりまでおれは――」

 そのとき、乾いた破裂音とともに、包帯男の肩がえぐれるように吹き飛んだ。そして、唖然とする包帯男の、腹が、足が、そして頭が、血色の花を咲かせて次々と吹き飛んでいった。

 なにが起こったのかも分からず、ただ呆然としながら、それでも「死ななかった」という事実にホッとして、そのまま膝から崩れおちかけたハナコは、その肩を何者かの腕で抱き止められた。

「大丈夫か?」

 戦場には似つかわしくない、低く優しい声が鼓膜を揺らす。

 うすれゆく意識のなか、声の主に目をやると、長い灰色の髪をうしろで束ね上げた老齢の男だった。負傷しているのか、その左足には、血色に染まる包帯が巻かれていたが、それがただのかすり傷だとでもいうように、男はハナコを軽々と抱き上げた。

 自然、首に手を回して、

「ありがとう」

 と、か細い声で言うと、

「礼なら、生き残ったあとに飽きるほど聞いてやる」

 男は応え、そしてハナコを抱きかかえたまま振り返った。

 そこにはそれぞれに武器をたずさえた大勢の黒服が控え、

「生き残るぞ!」

 男の力強い声に応じて、皆が一斉にときの声を上げた。

 そして、黒い驟雨しゅうう

 沛然はいぜんと降りしきる雨音を聞きながら、ずっと右手に握りしめたままのものに目をやると、それは――

 ――黒い伸縮式の特殊警棒だった。
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