29 / 53
28:血の八月
しおりを挟む
……血の臭いの充満する《見返り通り》を、ハナコはひたすら走り続けていた。
その手をしっかりと握り、お母さんが前を走っている。
息を切らせながら、もう限界かも知れないと思い、それでもハナコは痛む足を無我夢中で前へ前へと出し続けた。
しばらくして廃ビルの谷間に入り、奥のほうの身を隠せる場所まで来ると、お母さんは立ち止まり、かがみ込んで、ハナコの額の汗をいつも良い匂いのする手ぬぐいで拭き取ってくれた。
「大丈夫?」
ほつれ毛を耳にかけて、お母さんが微笑んだ。
昔からそうだ。
お母さんは、なにも言わなくても、なんでも分かってくれる。
そしてそのあとは決まって、心の底からホッとする笑顔で元気づけてくれる。
「なにが起きてるの?」
緊張の糸がほぐれ、涙を流しながらハナコは訊いた。
「分からない。でも、きっと――」
お母さんは《見返り通り》に目をやり、
「――また、戦争が始まったのかもしれない」
ほとんど独りごちるようにして言った。
「戦争?」
それは、人がおおぜい死ぬ仲直りのないケンカなのだと、たまに酔っ払ってしまうまでお酒をいっぱい飲んでしまった――いつもとちがってあまり好きじゃないほうの――お母さんから何度も聞かされていた。
それは、ハナコがまだ六歳のころに、そのケンカでお父さんが死んでしまったという話だった。
哀しい話のはずなのに、その話をするとき、お母さんはいつも「あいつ、呆気なく死んじゃったわ」と締めくくり、遠い目で冷たい笑みをこぼした。
それは、ハナコを元気づけてくれるものとはちがう意味の、もっと暗くてあんまり良くない感情を含んだものだと、なんとなく理解していたけれど、今はそんなことの意味よりも、ここに来るまでに見た、血を流して倒れている大勢の人たちの姿が、振り払っても振り払っても、頭いっぱいに溢れかえっていく。
「死にたくない」
声を震わせるハナコに、お母さんがふたたび微笑みかけた。
「大丈夫。死なないわよ…… んーん、死なせない」
お母さんが、ハナコの小さな手をギュッと握りしめた。
この温かい手も、いつだってハナコの心を勇気づけてくれる。
でも――
「ハナコは、なにがあっても、お母さんが守ってあげるから」
――力づよく言うお母さんの、その手がいつもとちがって小刻みに震えているのに、ハナコは気がついていた。
不安になって見上げると、お母さんの額にうっすらと汗が滲んでいるのが分かった。
夏だけど、夏のせいなんかじゃない。
「お母さんも死なないで。んーん、あたしが死なせない」
ハナコはお母さんの手を強く握りかえした。
「……お母さんは大丈夫よ。だから、あなたはまだ泣き虫のままでいて」
微笑み、そしてお母さんがうなずいてくれる。
そのとき、通りから、ザリッ、と砂利を踏みしめる音が聞こえた。
そちらからは見えないよう、大きな鉄製のゴミ箱の影に隠れていた二人は、身を縮こまらせ、息を押し殺した。
――お願い、来ないで。
しかしその願いも虚しく、足音が着実に近づいてくる。
そして、あまりの恐怖に目を閉じたハナコの鼓膜を、
「見つけた」
野太い男の声が揺らした。
「お願いします。この娘だけは」
目を閉じたままのハナコの耳に、今度はお母さんの哀願が響く。
「お前に用はねえ。用があるのは、娘のほうだ」
言葉とともに、ハナコの頭を胸に沈めるようにして抱いていたお母さんが、むりやり引き離されたのが分かった。
恐る恐る目を開くと、泥や血にまみれた軍服に身を包む、体格の良い藪睨みの男が、お母さんの片腕を掴みながらハナコを見下ろしていた。
「……ちっ、ハズレか」
――ハズレ?
――なにが?
藪睨みはため息を吐いて、肩にさげたガンホルスターから、銃把に赤い鷹の紋章が刻まれたオートマチックピストルを抜き出して、安全装置を解除すると、その銃口をお母さんに向けた。
「わたしたちはただの一般市民です。ですからどうか、どうか、命だけは――」
「関係ない」
遮って、藪睨みが言う。
「おれたちは上官に、できうる限り派手に暴れ回れと言われているんだよ。お前ら《ゴミ漁り》どもに、《赤い鷹》の残虐さを教え込むのが、おれの仕事だ」
「せめて、この娘だけでも――」
懇願むなしく肩を蹴り飛ばされ、壁に背中を打ちつけて悶絶するお母さんを見て、己の力に酔ったのか、藪睨みは口の端を醜く歪めた。
「だからまあ、そういうことだからよ……死ね」
言って、藪睨みが引き金を引いた。
乾いた破裂音とともに、ハナコの頬に生ぬるい液体が降りかかった。鼓膜に残る甲高い残響のなかお母さんを見ると、顔の上半分が、まるでマジックのように消え失せていた。
壁に背をこすりつけながら、ハナコの肩にぶつかるようにして横倒しになったお母さんの、その部分は、いつか見た絵本の薔薇のように真っ赤だった――
――あいつ、呆気なく死んじゃったわ
お母さんの、あの冷たい言葉が胸に蘇る。
「さて、運がいいことに、お前にはこの惨劇の生き証人になってもらうが、その前にいちど試してみたいことがあるんだ。生かしてもらう見返りに、もちろん協力してくれるよな?」
一瞬、なにを言われているのか分からなかった。
藪睨みは、ガンホルスターにオートマチックピストルをしまい、ベルトを外してズボンを下ろし、ハナコの両肩を掴んだかと思うと、壁から引きはがして胸元へ引き寄せた。
つよく掴まれたせいで、肩に走る痛みに耐えながら一粒の涙をこぼすと、それを藪睨みは美味しそうに舌で舐めとってから、ハナコを地べたに組み伏せた。
「残念ながらおれは幼児性愛者じゃないが、いちどくらいはヤッてみたかったんだよ」
――ペド?
――ヤる?
――なにを?
さまざまな疑問が、一瞬間のうちに未だあどけない脳裡を駆け巡ったが、その意味が分からず、ふたたび、今度はこらえることもできず涙の流れるままに任せると、その姿に昂奮した藪睨みが、まるで獲物を前にしたヘビのように舌なめずりをして、その唇をハナコのそれへと乱暴に重ねてきた。
思わず口を強く引き結ぶと、藪睨みの酸っぱい汗の臭いが鼻腔をついた。それに耐えきれず噎せるようにして口を開くと、そこにナニカがするりと忍び込んできた。それはナメクジのようにヌルヌルとしたもので、ハナコの口蓋を、歯の裏を、そして舌を執拗に愛撫していった。
抵抗を試みて、掴まれた腕を動かそうとしたが、大人の力に勝てる道理なんかあるはずもなかった。
なすがままにされ、意識が遠のきかけたハナコの頭の中で、「死にたくないよ」という、さっき言ったばかりの言葉が、とつぜん篝火のごとく大きく強く揺らめいた。
ハナコは目を見開き、ナメクジを噛み切った。
「うぼごぼっ!」
言葉にならない声でうめき、藪睨みはハナコの腕を押さえつけていた手を口元にやった。口からあふれ出た血で、その手が真っ赤に染まっていくのを横目に見ながら、ハナコは口の中に残ったナメクジを地べたに吐き捨てた。
その刹那、太ももにヤケ火箸を押しつけられたかのような熱さが襲う。
見ると、そこには鈍色に光るナイフが深々と突き刺さっていた。
「ごろず!」
半狂乱になった馬乗りの藪睨みが叫び、飛び散る血が、ハナコに降りかかる。
ナイフを引き抜いてそれをハナコの喉元に押し当てると、藪睨みは再び、こんどは明らかに故意で血を吐きつけてきた。
目をやられ、赤くぼやける視界のなかで、それでも生への執着に突き動かされたままのハナコは、なにか武器になりそうな物を探り当てようと、背泳ぎのように手を地べたに這わせた。
すると、右手がなにか棒状の物に当たり、ハナコはそれを手が白くなるほど強く握りしめると、すぐさま藪睨みの喉元を目がけて力いっぱいに突き出した。
想像よりも柔らかい感触と、なにかが潰れるようなくぐもった音とともに、藪睨みの口からさっきの数倍もの血が噴き出し、それがハナコの顔面に降りかかった。
藪睨みは喉を掻きむしりながらそのまま仰け反り、ハナコの足のがわへと仰向けに倒れた。
上半身を起こし、痙攣する大の字の藪睨みを確認したハナコは、一度だけ頭の無くなったお母さんへと視線を走らせ、顔の血を拭って右足をかばいながら立ち上がった。
右の太ももには、いまだ熱い激痛が走り、まともに歩くことすら困難だったが、ハナコは生き残るために、空いたほうの手を壁にやって、右足を引きずりながら《見返り通り》を目指した。
《見返り通り》には、
叫びや、
怒声や、
銃声や、
爆音や、
今まで聞いたこともない音が、溢れかえっていた。
知っている場所が、知らない場所になっている。だけどあそこに行かなければ、生き残れない。そう、ハナコの勘がはっきりと教えてくれる。
気がつくと、涙は止まっていた。
ようやく通りに出て、朦朧とする意識のなか安堵のため息を漏らすと、
「見つけた」
と、藪睨みとはちがう野太い声が聞こえた。
声のしたほうを見ると、おぼろげな視線の先に、容赦という字を家にでも忘れてきたのか、頭にうっすらと血の滲む包帯を巻いた軍服が、無慈悲にもアサルトライフルの銃口をハナコに向けている姿が見えた。
「ハズレか……死ね」
包帯が、言う。
ハナコは、握りしめていたものを包帯男に向かってかまえた。
「バカが、そんなものでなにができる?」
「関係ない。死ぬのは……死んでもイヤ」
「……子どもまで野蛮だな。ほんとうなら休暇だったってのに、なにが悲しくて《ゴミ漁り》どもとの不毛な戦いのために、九番くんだりまでおれは――」
そのとき、乾いた破裂音とともに、包帯男の肩がえぐれるように吹き飛んだ。そして、唖然とする包帯男の、腹が、足が、そして頭が、血色の花を咲かせて次々と吹き飛んでいった。
なにが起こったのかも分からず、ただ呆然としながら、それでも「死ななかった」という事実にホッとして、そのまま膝から崩れおちかけたハナコは、その肩を何者かの腕で抱き止められた。
「大丈夫か?」
戦場には似つかわしくない、低く優しい声が鼓膜を揺らす。
うすれゆく意識のなか、声の主に目をやると、長い灰色の髪をうしろで束ね上げた老齢の男だった。負傷しているのか、その左足には、血色に染まる包帯が巻かれていたが、それがただのかすり傷だとでもいうように、男はハナコを軽々と抱き上げた。
自然、首に手を回して、
「ありがとう」
と、か細い声で言うと、
「礼なら、生き残ったあとに飽きるほど聞いてやる」
男は応え、そしてハナコを抱きかかえたまま振り返った。
そこにはそれぞれに武器を携えた大勢の黒服が控え、
「生き残るぞ!」
男の力強い声に応じて、皆が一斉に鬨の声を上げた。
そして、黒い驟雨。
沛然と降りしきる雨音を聞きながら、ずっと右手に握りしめたままのものに目をやると、それは――
――黒い伸縮式の特殊警棒だった。
その手をしっかりと握り、お母さんが前を走っている。
息を切らせながら、もう限界かも知れないと思い、それでもハナコは痛む足を無我夢中で前へ前へと出し続けた。
しばらくして廃ビルの谷間に入り、奥のほうの身を隠せる場所まで来ると、お母さんは立ち止まり、かがみ込んで、ハナコの額の汗をいつも良い匂いのする手ぬぐいで拭き取ってくれた。
「大丈夫?」
ほつれ毛を耳にかけて、お母さんが微笑んだ。
昔からそうだ。
お母さんは、なにも言わなくても、なんでも分かってくれる。
そしてそのあとは決まって、心の底からホッとする笑顔で元気づけてくれる。
「なにが起きてるの?」
緊張の糸がほぐれ、涙を流しながらハナコは訊いた。
「分からない。でも、きっと――」
お母さんは《見返り通り》に目をやり、
「――また、戦争が始まったのかもしれない」
ほとんど独りごちるようにして言った。
「戦争?」
それは、人がおおぜい死ぬ仲直りのないケンカなのだと、たまに酔っ払ってしまうまでお酒をいっぱい飲んでしまった――いつもとちがってあまり好きじゃないほうの――お母さんから何度も聞かされていた。
それは、ハナコがまだ六歳のころに、そのケンカでお父さんが死んでしまったという話だった。
哀しい話のはずなのに、その話をするとき、お母さんはいつも「あいつ、呆気なく死んじゃったわ」と締めくくり、遠い目で冷たい笑みをこぼした。
それは、ハナコを元気づけてくれるものとはちがう意味の、もっと暗くてあんまり良くない感情を含んだものだと、なんとなく理解していたけれど、今はそんなことの意味よりも、ここに来るまでに見た、血を流して倒れている大勢の人たちの姿が、振り払っても振り払っても、頭いっぱいに溢れかえっていく。
「死にたくない」
声を震わせるハナコに、お母さんがふたたび微笑みかけた。
「大丈夫。死なないわよ…… んーん、死なせない」
お母さんが、ハナコの小さな手をギュッと握りしめた。
この温かい手も、いつだってハナコの心を勇気づけてくれる。
でも――
「ハナコは、なにがあっても、お母さんが守ってあげるから」
――力づよく言うお母さんの、その手がいつもとちがって小刻みに震えているのに、ハナコは気がついていた。
不安になって見上げると、お母さんの額にうっすらと汗が滲んでいるのが分かった。
夏だけど、夏のせいなんかじゃない。
「お母さんも死なないで。んーん、あたしが死なせない」
ハナコはお母さんの手を強く握りかえした。
「……お母さんは大丈夫よ。だから、あなたはまだ泣き虫のままでいて」
微笑み、そしてお母さんがうなずいてくれる。
そのとき、通りから、ザリッ、と砂利を踏みしめる音が聞こえた。
そちらからは見えないよう、大きな鉄製のゴミ箱の影に隠れていた二人は、身を縮こまらせ、息を押し殺した。
――お願い、来ないで。
しかしその願いも虚しく、足音が着実に近づいてくる。
そして、あまりの恐怖に目を閉じたハナコの鼓膜を、
「見つけた」
野太い男の声が揺らした。
「お願いします。この娘だけは」
目を閉じたままのハナコの耳に、今度はお母さんの哀願が響く。
「お前に用はねえ。用があるのは、娘のほうだ」
言葉とともに、ハナコの頭を胸に沈めるようにして抱いていたお母さんが、むりやり引き離されたのが分かった。
恐る恐る目を開くと、泥や血にまみれた軍服に身を包む、体格の良い藪睨みの男が、お母さんの片腕を掴みながらハナコを見下ろしていた。
「……ちっ、ハズレか」
――ハズレ?
――なにが?
藪睨みはため息を吐いて、肩にさげたガンホルスターから、銃把に赤い鷹の紋章が刻まれたオートマチックピストルを抜き出して、安全装置を解除すると、その銃口をお母さんに向けた。
「わたしたちはただの一般市民です。ですからどうか、どうか、命だけは――」
「関係ない」
遮って、藪睨みが言う。
「おれたちは上官に、できうる限り派手に暴れ回れと言われているんだよ。お前ら《ゴミ漁り》どもに、《赤い鷹》の残虐さを教え込むのが、おれの仕事だ」
「せめて、この娘だけでも――」
懇願むなしく肩を蹴り飛ばされ、壁に背中を打ちつけて悶絶するお母さんを見て、己の力に酔ったのか、藪睨みは口の端を醜く歪めた。
「だからまあ、そういうことだからよ……死ね」
言って、藪睨みが引き金を引いた。
乾いた破裂音とともに、ハナコの頬に生ぬるい液体が降りかかった。鼓膜に残る甲高い残響のなかお母さんを見ると、顔の上半分が、まるでマジックのように消え失せていた。
壁に背をこすりつけながら、ハナコの肩にぶつかるようにして横倒しになったお母さんの、その部分は、いつか見た絵本の薔薇のように真っ赤だった――
――あいつ、呆気なく死んじゃったわ
お母さんの、あの冷たい言葉が胸に蘇る。
「さて、運がいいことに、お前にはこの惨劇の生き証人になってもらうが、その前にいちど試してみたいことがあるんだ。生かしてもらう見返りに、もちろん協力してくれるよな?」
一瞬、なにを言われているのか分からなかった。
藪睨みは、ガンホルスターにオートマチックピストルをしまい、ベルトを外してズボンを下ろし、ハナコの両肩を掴んだかと思うと、壁から引きはがして胸元へ引き寄せた。
つよく掴まれたせいで、肩に走る痛みに耐えながら一粒の涙をこぼすと、それを藪睨みは美味しそうに舌で舐めとってから、ハナコを地べたに組み伏せた。
「残念ながらおれは幼児性愛者じゃないが、いちどくらいはヤッてみたかったんだよ」
――ペド?
――ヤる?
――なにを?
さまざまな疑問が、一瞬間のうちに未だあどけない脳裡を駆け巡ったが、その意味が分からず、ふたたび、今度はこらえることもできず涙の流れるままに任せると、その姿に昂奮した藪睨みが、まるで獲物を前にしたヘビのように舌なめずりをして、その唇をハナコのそれへと乱暴に重ねてきた。
思わず口を強く引き結ぶと、藪睨みの酸っぱい汗の臭いが鼻腔をついた。それに耐えきれず噎せるようにして口を開くと、そこにナニカがするりと忍び込んできた。それはナメクジのようにヌルヌルとしたもので、ハナコの口蓋を、歯の裏を、そして舌を執拗に愛撫していった。
抵抗を試みて、掴まれた腕を動かそうとしたが、大人の力に勝てる道理なんかあるはずもなかった。
なすがままにされ、意識が遠のきかけたハナコの頭の中で、「死にたくないよ」という、さっき言ったばかりの言葉が、とつぜん篝火のごとく大きく強く揺らめいた。
ハナコは目を見開き、ナメクジを噛み切った。
「うぼごぼっ!」
言葉にならない声でうめき、藪睨みはハナコの腕を押さえつけていた手を口元にやった。口からあふれ出た血で、その手が真っ赤に染まっていくのを横目に見ながら、ハナコは口の中に残ったナメクジを地べたに吐き捨てた。
その刹那、太ももにヤケ火箸を押しつけられたかのような熱さが襲う。
見ると、そこには鈍色に光るナイフが深々と突き刺さっていた。
「ごろず!」
半狂乱になった馬乗りの藪睨みが叫び、飛び散る血が、ハナコに降りかかる。
ナイフを引き抜いてそれをハナコの喉元に押し当てると、藪睨みは再び、こんどは明らかに故意で血を吐きつけてきた。
目をやられ、赤くぼやける視界のなかで、それでも生への執着に突き動かされたままのハナコは、なにか武器になりそうな物を探り当てようと、背泳ぎのように手を地べたに這わせた。
すると、右手がなにか棒状の物に当たり、ハナコはそれを手が白くなるほど強く握りしめると、すぐさま藪睨みの喉元を目がけて力いっぱいに突き出した。
想像よりも柔らかい感触と、なにかが潰れるようなくぐもった音とともに、藪睨みの口からさっきの数倍もの血が噴き出し、それがハナコの顔面に降りかかった。
藪睨みは喉を掻きむしりながらそのまま仰け反り、ハナコの足のがわへと仰向けに倒れた。
上半身を起こし、痙攣する大の字の藪睨みを確認したハナコは、一度だけ頭の無くなったお母さんへと視線を走らせ、顔の血を拭って右足をかばいながら立ち上がった。
右の太ももには、いまだ熱い激痛が走り、まともに歩くことすら困難だったが、ハナコは生き残るために、空いたほうの手を壁にやって、右足を引きずりながら《見返り通り》を目指した。
《見返り通り》には、
叫びや、
怒声や、
銃声や、
爆音や、
今まで聞いたこともない音が、溢れかえっていた。
知っている場所が、知らない場所になっている。だけどあそこに行かなければ、生き残れない。そう、ハナコの勘がはっきりと教えてくれる。
気がつくと、涙は止まっていた。
ようやく通りに出て、朦朧とする意識のなか安堵のため息を漏らすと、
「見つけた」
と、藪睨みとはちがう野太い声が聞こえた。
声のしたほうを見ると、おぼろげな視線の先に、容赦という字を家にでも忘れてきたのか、頭にうっすらと血の滲む包帯を巻いた軍服が、無慈悲にもアサルトライフルの銃口をハナコに向けている姿が見えた。
「ハズレか……死ね」
包帯が、言う。
ハナコは、握りしめていたものを包帯男に向かってかまえた。
「バカが、そんなものでなにができる?」
「関係ない。死ぬのは……死んでもイヤ」
「……子どもまで野蛮だな。ほんとうなら休暇だったってのに、なにが悲しくて《ゴミ漁り》どもとの不毛な戦いのために、九番くんだりまでおれは――」
そのとき、乾いた破裂音とともに、包帯男の肩がえぐれるように吹き飛んだ。そして、唖然とする包帯男の、腹が、足が、そして頭が、血色の花を咲かせて次々と吹き飛んでいった。
なにが起こったのかも分からず、ただ呆然としながら、それでも「死ななかった」という事実にホッとして、そのまま膝から崩れおちかけたハナコは、その肩を何者かの腕で抱き止められた。
「大丈夫か?」
戦場には似つかわしくない、低く優しい声が鼓膜を揺らす。
うすれゆく意識のなか、声の主に目をやると、長い灰色の髪をうしろで束ね上げた老齢の男だった。負傷しているのか、その左足には、血色に染まる包帯が巻かれていたが、それがただのかすり傷だとでもいうように、男はハナコを軽々と抱き上げた。
自然、首に手を回して、
「ありがとう」
と、か細い声で言うと、
「礼なら、生き残ったあとに飽きるほど聞いてやる」
男は応え、そしてハナコを抱きかかえたまま振り返った。
そこにはそれぞれに武器を携えた大勢の黒服が控え、
「生き残るぞ!」
男の力強い声に応じて、皆が一斉に鬨の声を上げた。
そして、黒い驟雨。
沛然と降りしきる雨音を聞きながら、ずっと右手に握りしめたままのものに目をやると、それは――
――黒い伸縮式の特殊警棒だった。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説
「メジャー・インフラトン」序章3/7(僕のグランドゼロ〜マズルカの調べに乗って。少年兵の季節 FIRE!FIRE!FIRE!No2. )
あおっち
SF
とうとう、AXIS軍が、椎葉きよしたちの奮闘によって、対馬市へ追い詰められたのだ。
そして、戦いはクライマックスへ。
現舞台の北海道、定山渓温泉で、いよいよ始まった大宴会。昨年あった、対馬島嶼防衛戦の真実を知る人々。あっと、驚く展開。
この序章3/7は主人公の椎葉きよしと、共に闘う女子高生の物語なのです。ジャンプ血清保持者(ゼロ・スターター)椎葉きよしを助ける人々。
いよいよジャンプ血清を守るシンジケート、オリジナル・ペンタゴンと、異星人の関係が少しづつ明らかになるのです。
次の第4部作へ続く大切な、ほのぼのストーリー。
疲れたあなたに贈る、SF物語です。
是非、ご覧あれ。
※加筆や修正が予告なしにあります。
INNER NAUTS(インナーノーツ) 〜精神と異界の航海者〜
SunYoh
SF
ーー22世紀半ばーー
魂の源とされる精神世界「インナースペース」……その次元から無尽蔵のエネルギーを得ることを可能にした代償に、さまざまな災害や心身への未知の脅威が発生していた。
「インナーノーツ」は、時空を超越する船<アマテラス>を駆り、脅威の解消に「インナースペース」へ挑む。
<第一章 「誘い」>
粗筋
余剰次元活動艇<アマテラス>の最終試験となった有人起動試験は、原因不明のトラブルに見舞われ、中断を余儀なくされたが、同じ頃、「インナーノーツ」が所属する研究機関で保護していた少女「亜夢」にもまた異変が起こっていた……5年もの間、眠り続けていた彼女の深層無意識の中で何かが目覚めようとしている。
「インナースペース」のエネルギーを解放する特異な能力を秘めた亜夢の目覚めは、即ち、「インナースペース」のみならず、物質世界である「現象界(この世)」にも甚大な被害をもたらす可能性がある。
ーー亜夢が目覚める前に、この脅威を解消するーー
「インナーノーツ」は、この使命を胸に<アマテラス>を駆り、未知なる世界「インナースペース」へと旅立つ!
そこで彼らを待ち受けていたものとは……
※この物語はフィクションです。実際の国や団体などとは関係ありません。
※SFジャンルですが殆ど空想科学です。
※セルフレイティングに関して、若干抵触する可能性がある表現が含まれます。
※「小説家になろう」、「ノベルアップ+」でも連載中
※スピリチュアル系の内容を含みますが、特定の宗教団体等とは一切関係無く、布教、勧誘等を目的とした作品ではありません。
エンシェントソルジャー ~古の守護者と無属性の少女~
ロクマルJ
SF
百万年の時を越え
地球最強のサイボーグ兵士が目覚めた時
人類の文明は衰退し
地上は、魔法と古代文明が入り混じる
ファンタジー世界へと変容していた。
新たなる世界で、兵士は 冒険者を目指す一人の少女と出会い
再び人類の守り手として歩き出す。
そして世界の真実が解き明かされる時
人類の運命の歯車は 再び大きく動き始める...
※書き物初挑戦となります、拙い文章でお見苦しい所も多々あるとは思いますが
もし気に入って頂ける方が良ければ幸しく思います
週1話のペースを目標に更新して参ります
よろしくお願いします
▼表紙絵、挿絵プロジェクト進行中▼
イラストレーター:東雲飛鶴様協力の元、表紙・挿絵を制作中です!
表紙の原案候補その1(2019/2/25)アップしました
後にまた完成版をアップ致します!
夜空に瞬く星に向かって
松由 実行
SF
地球人が星間航行を手に入れて数百年。地球は否も応も無く、汎銀河戦争に巻き込まれていた。しかしそれは地球政府とその軍隊の話だ。銀河を股にかけて活躍する民間の船乗り達にはそんなことは関係ない。金を払ってくれるなら、非同盟国にだって荷物を運ぶ。しかし時にはヤバイ仕事が転がり込むこともある。
船を失くした地球人パイロット、マサシに怪しげな依頼が舞い込む。「私たちの星を救って欲しい。」
従軍経験も無ければ、ウデに覚えも無い、誰かから頼られるような英雄的行動をした覚えも無い。そもそも今、自分の船さえ無い。あまりに胡散臭い話だったが、報酬額に釣られてついついその話に乗ってしまった・・・
第一章 危険に見合った報酬
第二章 インターミッション ~ Dancing with Moonlight
第三章 キュメルニア・ローレライ (Cjumelneer Loreley)
第四章 ベイシティ・ブルース (Bay City Blues)
第五章 インターミッション ~ミスラのだいぼうけん
第六章 泥沼のプリンセス
※本作品は「小説家になろう」にも投稿しております。
法術装甲隊ダグフェロン 永遠に続く世紀末の国で 野球と海と『革命家』
橋本 直
SF
その文明は出会うべきではなかった
その人との出会いは歓迎すべきものではなかった
これは悲しい『出会い』の物語
『特殊な部隊』と出会うことで青年にはある『宿命』がせおわされることになる
法術装甲隊ダグフェロン 第二部
遼州人の青年『神前誠(しんぜんまこと)』が発動した『干渉空間』と『光の剣(つるぎ)により貴族主義者のクーデターを未然に防止することが出来た『近藤事件』が終わってから1か月がたった。
宇宙は誠をはじめとする『法術師』の存在を公表することで混乱に陥っていたが、誠の所属する司法局実働部隊、通称『特殊な部隊』は相変わらずおバカな生活を送っていた。
そんな『特殊な部隊』の運用艦『ふさ』艦長アメリア・クラウゼ中佐と誠の所属するシュツルム・パンツァーパイロット部隊『機動部隊第一小隊』のパイロットでサイボーグの西園寺かなめは『特殊な部隊』の野球部の夏合宿を企画した。
どうせろくな事が怒らないと思いながら仕事をさぼって参加する誠。
そこではかなめがいかに自分とはかけ離れたお嬢様で、貴族主義の国『甲武国』がどれほど自分の暮らす永遠に続く20世紀末の東和共和国と違うのかを誠は知ることになった。
しかし、彼を待っていたのは『法術』を持つ遼州人を地球人から解放しようとする『革命家』の襲撃だった。
この事件をきっかけに誠の身辺警護の必要性から誠の警護にアメリア、かなめ、そして無表情な人造人間『ラスト・バタリオン』の第一小隊小隊長カウラ・ベルガー大尉がつくことになる。
これにより誠の暮らす『男子下士官寮』は有名無実化することになった。
そんなおバカな連中を『駄目人間』嵯峨惟基特務大佐と機動部隊隊長クバルカ・ラン中佐は生暖かい目で見守っていた。
そんな『特殊な部隊』の意図とは関係なく着々と『力ある者の支配する宇宙』の実現を目指す『廃帝ハド』の野望はゆっくりと動き出しつつあった。
SFお仕事ギャグロマン小説。
基本中の基本
黒はんぺん
SF
ここは未来のテーマパーク。ギリシャ神話 を模した世界で、冒険やチャンバラを楽し めます。観光客でもある勇者は暴風雨のな か、アンドロメダ姫を救出に向かいます。
もちろんこの暴風雨も機械じかけのトリッ クなんだけど、だからといって楽じゃない ですよ。………………というお話を語るよう要請さ れ、あたしは召喚されました。あたしは違 うお話の作中人物なんですが、なんであた しが指名されたんですかね。
「メジャー・インフラトン」序章4/7(僕のグランドゼロ〜マズルカの調べに乗って。少年兵の季節JUMP! JUMP! JUMP! No1)
あおっち
SF
港に立ち上がる敵AXISの巨大ロボHARMOR。
遂に、AXIS本隊が北海道に攻めて来たのだ。
その第1次上陸先が苫小牧市だった。
これは、現実なのだ!
その発見者の苫小牧市民たちは、戦渦から脱出できるのか。
それを助ける千歳シーラスワンの御舩たち。
同時進行で圧力をかけるAXISの陽動作戦。
台湾金門県の侵略に対し、真向から立ち向かうシーラス・台湾、そしてきよしの師範のゾフィアとヴィクトリアの機動艦隊。
新たに戦いに加わった衛星シーラス2ボーチャン。
目の離せない戦略・戦術ストーリーなのだ。
昨年、椎葉きよしと共に戦かった女子高生グループ「エイモス5」からも目が離せない。
そして、遂に最強の敵「エキドナ」が目を覚ましたのだ……。
SF大河小説の前章譚、第4部作。
是非ご覧ください。
※加筆や修正が予告なしにあります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる