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愛、始めてみるか?

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「海の見える部屋がいいな。ああ、やっぱり前世が魚だった説は正しいのかもな」
 佐織の仮説を楽し気に納得しながら、橘はおもむろに頬を撫でた。
 大きな温かさに包まれ、外気の寒さから守られているようで触れられたところから安堵が広がる。
 やわやわと感触を確かめる掌は、髪の隙間に指を滑らせ隠れた耳を探り当てた。
 耳朶の形をなぞられると、擽ったさが首筋に走り「んっ」と声を漏らしてしまった。
 肩を竦めた佐織の反応に小さく指を震わせた彼は、月光を取り込んだ瞳を揺らめかせる。
「佐織……」
 溜め息混じりに呼んだかと思うと、耳元の掌は後頭部まで滑り込み佐織ぐっと強く抱き寄せた。
 前のめりに飛び込んだ温かな胸元が、ほのかな石けんの香りで佐織を包み込む。
「しゃ、ちょ……?」
「一緒に来い」
「あの、来いってどこに……」
 慣れない出来事がひっきりなしに佐織を混乱させる。
「俺が住む部屋。まだ探していないから、ちょうどよかった」
 名案だとばかりの軽やかさだけれど、命令口調が仕事の様相を思わせ彼との距離感が掴めない。
 いよいよどういうことかわからなくなった。
 彼と一緒に住めと言われたのかと思ったが、そもそも佐織がそうする明確な根拠が見当たらない。
 佐織は彼の秘書だ。ただの部下だ。
 部屋探しの手伝いのために不動産屋へ一緒に来いと言われていると考えるのが普通。
 これは業務命令。
 だとするなら、少なからず伝わってくる緊張はいったい何か。
 頬に当たるところから跳ねる鼓動が直接的に聞こえる。
 どんな業務であっても冷徹な姿勢は崩さない彼は、今何に心乱されるのか。
 頬にかかる髪を耳にかけ、あらわにしたそこになおも柔らかな声が直接吹き込まれた。
「本当は今からでも、お前を連れて帰りたいんだけどな」
 あまりにも甘えたな声が、色気に満ちた雰囲気を醸し出す。
 甘い吐息が鼓膜をくすぐり、眩暈がしそうなほどの熱が焚きあがる。
 連れて帰る、とはつまり……。
「そ、そんなことっ、ルイさんがいるのに……っ⁉」
 佐織には想像もままならないが、知識はある。
 ドラマや漫画レベルのものだが、彼が匂わせる男女のラブロマンスが頭の中を駆け巡った。
 未知の世界の事象がまさか自分に降りかかるとは思いもせず、適切な対処方法がわからない佐織は真っ赤な顔で力任せにぐっと彼を押しやり密着から免れた。
「何想像したんだよ。案外スケベだな、佐織は」
「ち、違います!」
「いいぞ、お望み通りこのまま攫ってやろうか?」
 明らかなからかい顔の橘に、佐織は羞恥と腹立たしさを煽られぷっくりと頬を膨らす。
「社長がそんなに意地悪な人だとは思いませんでした」
 ぷいっとそっぽを向き、彼から離れて一人で階段を下る。
「冗談だって。そんなにむくれるなよ」
「セクハラです」
「悪かったよ」
 謝罪は軽く、子供をあやすような口ぶりが尚一層馬鹿にされてる感じがして許せない。
「佐織」
「知りません」
「ごめん」
 階段を降りたところで、橘が佐織の手を捕まえた。
 強く引かれたわけじゃないのに、彼の方へと体が倒れこむ。
「もしルイがいなければ、来ていたか?」
 真剣な声に変わった問いに、はっとする。
 自分でもわからないその真意が知りたくて彼を見上げると、月光に陰る表情に瞳を見つけられないまま唇が塞がれた。
 下ろされた瞼に綺麗な睫毛が並ぶ。
 見覚えがあるのは、さっきも同じように不意のキスを受けたから。
 だけど、今度は簡単には解放されない。
 呆けた佐織の唇の中に、熱を帯びた橘の舌が滑り込んできた。
「っん……」
 驚きで言葉にならない声が喉から漏れる。
 二人の隙間を埋めるように、きっちりと重ねられた唇。
 佐織を取り込まんとする彼の熱量が、咥内にねっとりと入り込んだ。
 初めての行為に逃げ惑う佐織の舌を、橘は追いかけて絡め捕る。
 ぬるぬると誘われ、擦り上げられ、彼と溶け合う粘膜。 
 熱く艶めかしい動きに翻弄されて、佐織は眩暈を覚えた。
 強く扱かれて苦しい。
 呼吸がままならない。
 なのに、なぜ甘い酩酊を感じるのか。
 少しも嫌ではない。
 むしろ、もっと……もっと……。
「は……ぁ」
 不意に、橘は佐織を解放する。
 糸を引いた口元をぬらりと月に照る舌でなめずると、彼は腰を砕いた佐織をしっかりと抱きしめた。
「ああ、このままだとマズいな」
 大きく息を吐きながら焦りを見せる彼の声をぼうっとした頭で聞く。
 わからない。
 さっきもそうだった。
 キスの意図。
 自分を欲しているように感じられるけれど、きっとそれは自惚れだ。
 彼には、海の向こうに待つ人がいるはずだ。
 ルイが言うように、ただの慰みの行為でしかないのに。
 納得しようとする頭に比例して、ずきりと胸が痛む。
 途端に泣き出しそうになり、困惑が口から零れ出た。
「どうして、こんな……」
 色めき立つ波の音にもかき消されそうな細い声。
 知りたいのに、知りたくない。
 でも尋ねずにはいられない。
「どうして私にキスするんですか」
 さっきまでざわめいていた木々も波も、佐織の言葉を邪魔すまいと息を押し殺す。
 静まり返った世界でたった一言。
 彼の低くてしっとりとした声だけが、佐織の鼓膜に落とされた。
「好きなんだ、佐織」
 人生で初めて向けられる異性からの愛の言葉。
 どこか遠いことのように聞こえて、幻聴だったのだろうかと瞬くと、彼はくすりと小さく笑った。
「突然言われても、戸惑うだろうな。俺は君の上司なんだから」
 まったくもってその通りだ。
 現実味のない言葉を寄越されても、そういった類の手引を佐織は持ち合わせていない。
 疑問の解決を求め、彼を見つめるだけが佐織のできうる術だ。
「実は俺も少し戸惑ってる。自分の気持ちに気づいたのはついさっきのことだからな」
 ひとつ任務を全うしたように肩を撫でおろし、ただただやわらかな雰囲気が醸される。
 答えをくれない彼の意図を上手く飲み込めなくて、機械仕掛けのようにことりと首をかしげた。
「かわいいな、お前」
 一瞬だけ空気を止めふっと破顔すると、また唐突なことを口走る橘。
 今度のそれはさすがの佐織にもわかりやすく、恥ずかしさにぼっと急騰した顔をうつむかせてしまった。
「いつもひたむきに頑張っている君を、周りは誰も気づいていなかったから、俺だけが見つけたんだと思ってた」
 気の利く部下だと言ってくれたから、ビジネスパートナーとして自信を持てた。
 もしいつか、彼が上司ではなくなる日が来たとしても、その自負心を忘れずにいれば、今までのような焦燥感を抱くことなく、自分の立ち位置をしっかり見据えていけるんだと思わせてくれた。
 橘は、佐織に自分の在り方を導いてくれたとても尊敬する人だ。
(そんな彼が、……私を、好き……?)
「まだひと月程度の時間で、俺が君の何を知ったんだろうな。傲慢だな。気づかないうちに高をくくっていた。何を見れば笑うのか、何を聞けば喜ぶのか。俺は何も知らない」
 落ちるトーンに、普段の自信が陰る。
「でも、あの彼は知っているんだろう。君がこの町でどう育ってきて、これまでどう生きてきたのか。俺が知りえないたくさんの君の姿を彼は見てきたんだと思うと、歯痒くて……それが幼稚な嫉妬だと気づいた」
 いつものなにものにも屈しない彼の満ち溢れるような自信が、今は鳴りを潜める。
 病にでも侵されたような声が心配になり様子を窺う。
 だけど見上げる佐織を待っていたのは、距離を縮めてきていた端整な顔。
 心の奥まで覗き込む瞳が、絡みつくように心臓を掴んだ。
「彼、って……」
「あの彼だよ。仲良さそうにしていたじゃないか、義弟くん」
「仲がいいというか、昔からの幼馴染みで……」
 大和とはただの幼馴染みで、詩織の夫だ。
 それなのに、佐織の心を覗く瞳に罪悪感が過る。
 詩織があんなことを言うからだ。
 過去を掠める、大和に対しての想い。
 気づかなければ傷つくことはない。
 様々な理由を塗り重ねて隠してきたのに、無理に引っ張り出されそうになった。
 それをこの男に見つけられてしまった。
 嫉妬の感情が降り注ぎ、まともに浴びる胸が切なく締めつけられる。
「そこ、俺の知らない佐織を知っているのが悔しかった。仕方ないことだと頭ではわかってはいたんだけれど、気持ちがどうにも納得してくれなかった。……それで気づいたんだ。俺はお前を独り占めしたかったんだって」
 独り占め。
 その言葉に、窮屈だった胸がむずむずとした気恥ずかしさにうずく。
 胸の奥から湧き上がる熱が、目新しい嬉しさをかき集めながら全身に広がっていく。
「お前は彼のこと、どう思ってた?」
 独占欲を抑えない彼の言葉には、明らかな嫉妬が色濃く塗られる。
「どう、と言われましても……」
「ああこれじゃあ回りくどいな、質問の仕方を変えよう」
 ひとりで自問自答する橘は、一度空に放った視線をすぐに戻してくる。
 少しも逃がれさせようとはしない切れ長の瞳が、直接心を捕まえに来た。
「恋人はいないと言ったな。好きなやつは? 気になっている男はいるか?」
 本当にストレートな質問だ。
 真っ直ぐに向けられるから、答えを濁せず素直に首を横に振った。
「そうか。それなら話は簡単だな。俺はくどい駆け引きが得意ではないんだ。何事にもストレートでなければ気が済まない」
 眩暈を落ち着かせるかのように、優しく頭を撫でてくる大きな手。
「他の誰かを好きになる前に、俺に惚れて」
 だけど、落ち着くどころか思考は撹拌し、自分の状況判断も上手くできずにいる。
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