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自分の、居場所。
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リッチな食事を堪能させてもらった後、自分の分の食事代くらいは置いていこうとした佐織に、橘はいつかのような呆れた目を向けてきた。
有無を言わさない眼力に押さえつけられ、バッグから取り出そうとした財布は結局日の目を見ることはなかった。
翌日の待ち合わせ時間を確認しその場で解散するはずだったが、旅館の正面玄関まで一緒に出てきた橘。
「自宅はすぐそこなので、ここまでで大丈夫です。ありがとうございます」
当然のように、佐織を送り届けようとした彼に振り向き、深く頭を下げた。
「そうか。今日はいろいろとありがとう。助かったよ」
また不意の穏やかな眼差しに、鼓動が乱れる。
威圧的に見えて、真摯な態度はギャップを生む。
こういうところがまた、女性の心を惹きつけるのだろう。
「お疲れさまでした」
「ああ、お疲れ」
そんな彼と真っ直ぐには向き合えず、妙な動悸を誤魔化しながら一礼する。
家がすぐそこだと言ったからなのか、今回は送迎を強行されることはなく、かすかな寂しさを過らせながら坂道を下ったところにある自宅へと歩いて向かった。
久しぶりの実家は、相変わらず悠然とした昔ながらの佇まいで、眼前に広がる漁港を見下ろしていた。
漁船が並ぶコンクリートの岸壁に、ちゃぽんと打ち付ける波の音が懐かしい。
玄関でぎこちなく「ただいま」と小さく口にした佐織に、寝間着姿の母は二年ぶりに帰った娘に対しても、昨日もそうであったように普段通りの「おかえり」で出迎えてくれた。
父は佐織の帰りを待ちくたびれてしまったらしく、地元の仲間と飲みに出掛けたらしかった。
いつも通りの家族の姿がとても温かく、帰りづらいと思っていたのはやっぱり一方的な気持ちのせいなんだと、あらためて思わされた。
風呂で旅の疲れを癒し、まだ学生の跡を残していた二階の自分の部屋に行く。
昔使っていたものと同じシーツをかけた布団がちゃんと用意してあって、家族は離れていてもやっぱりなんにも変わらないんだと胸が熱くなった。
懐かしい匂いに包まれたベッドの上に転がり目を閉じる。
瞼の裏に浮かび上がってくるのは、橘の姿。
何にも動じない威厳溢れる長身。
整った顔立ちなのに、世界を見据える眼は力強さに満ちている。
彼を思い出すだけで、胸がちりちりと焼けた音を立てる。
焼けた部分から思わず火照った溜め息を吐き出した。
もしかしたら、さっき佐織の送迎をしなかったのは、夕食のときの電話のせいかもしれないと思っていた。
恋人の声を聞いた彼は、彼女を恋しく思い、他の女性に構う余裕がなくなってしまったのだとしたら。
あの穏やかな表情を引き出したのは、遠い海の向こうにいる人。
(いつもと違ってたから、嫉妬だなんて……どうしたの私)
一番の特別だと彼に選ばれた女性に対して、抱いていい感情ではない。
仕事とプライベートは別物だ。
まるでお門違いな意識を無理やりにでも胸の奥に押し込めていると、前触れなく枕元に置いていたスマホが控えめに着信を知らせた。
スマホの表示を見るとそこには【橘社長】の文字。
時刻は二十ニ時半を過ぎたところで、大人となった今では夜更かしという時間ではないけれど、電話を受けるのには珍しい時間帯だ。
「はい、鹿島です」
『ああ、お疲れ』
背筋を伸ばさなければならないようなキリッとしたいつもの声の張りは、まだ取り戻していないようだ。
それでも鼓動は急かされ、上司からの電話に正座をして受けてしまった。
『悪いな、もう眠ってたろう』
「いえ、大丈夫です。何か早急な対応が必要になりましたか?」
『いや、特にそういうわけじゃないんだが』
仕事でトラブルでもあったのかと心配になったが、どうやらそういうわけでもないらしい。
小さな機器を介する二人の間に沈黙を挟む。
ほんの数秒の空白が気まずくて、佐織が先にそれを割った。
「社長、まだ酔ってるんでしょう。ホームシックにでもなりました?」
まったりとした声の感じから、彼がまだ酒に酔っていることはわかった。
少し茶化したように言うと、彼は観念したように薄く笑う。
『ああ、そうだな……そうかもしれない』
素直に認める声の弱々しさが、なぜか妙に可愛らしく思えた。
いつもとまったく違う様子に、鼓動が大袈裟に響く。
再び静かになる電話の向こうで、不意にちゃぽんと打つ波の音が聴こえた。
窓辺にでもいるのだろうか。
しかし、彼が泊まっている部屋は最上階のはずだ。
それにしては、やけに音が近い気がする。
『今夜は、月が綺麗だな』
まだ酔いの冷めていない彼は言葉尻が滑らかで、珍しく情緒的なことを言う。
「満月に近いんじゃないでしょうか。大潮だと言われていましたし」
『凄いな、月の引力ってのは。空から見たときは海かどうかもわからないほど潮が引いていたのに、今はこんなにあふれそうなくらい満ちてる』
ちゃぽん。
また耳元の近くで波の音がした。
停泊する漁船を揺らし岸壁に寄せる波の光景が脳裏に浮かぶ。
懐かしさが燻り、それを目にしたくて自室のカーテンを開けた。
遮光カーテンでは気づかなかった夜の空は、白くて丸い月が辺りを神々しく照らす。
その足元へ視線を下ろすと、水面に落ちる月の光がゆらゆらと揺れていてとても綺麗だ。
すると、岸壁の際に立つ黒い人影を見つけた。
まさかと思ったと同時に耳元に尋ねていた。
「社長、今どちらに?」
佐織の声に呼応して、その人影が自宅の二階の方を振り向き見上げてきた。
『ああ、海のそば』
どきんと鳴る心臓の音が、自分の中に響いて聞こえた。
暗くて顔は見えないけれど、月影のシルエットでこちらを見上げているのは彼だとわかった。
「なにやってるんですか、こんなに寒いのに」
『んー……海が見たくて?』
返された疑問形がやっぱり可愛らしくて、胸がむずむずとくすぐられる。
「ちょっと待っててください」と電話を切り、部屋着のまま厚手のストールだけを羽織って部屋を出た。
リッチな食事を堪能させてもらった後、自分の分の食事代くらいは置いていこうとした佐織に、橘はいつかのような呆れた目を向けてきた。
有無を言わさない眼力に押さえつけられ、バッグから取り出そうとした財布は結局日の目を見ることはなかった。
翌日の待ち合わせ時間を確認しその場で解散するはずだったが、旅館の正面玄関まで一緒に出てきた橘。
「自宅はすぐそこなので、ここまでで大丈夫です。ありがとうございます」
当然のように、佐織を送り届けようとした彼に振り向き、深く頭を下げた。
「そうか。今日はいろいろとありがとう。助かったよ」
また不意の穏やかな眼差しに、鼓動が乱れる。
威圧的に見えて、真摯な態度はギャップを生む。
こういうところがまた、女性の心を惹きつけるのだろう。
「お疲れさまでした」
「ああ、お疲れ」
そんな彼と真っ直ぐには向き合えず、妙な動悸を誤魔化しながら一礼する。
家がすぐそこだと言ったからなのか、今回は送迎を強行されることはなく、かすかな寂しさを過らせながら坂道を下ったところにある自宅へと歩いて向かった。
久しぶりの実家は、相変わらず悠然とした昔ながらの佇まいで、眼前に広がる漁港を見下ろしていた。
漁船が並ぶコンクリートの岸壁に、ちゃぽんと打ち付ける波の音が懐かしい。
玄関でぎこちなく「ただいま」と小さく口にした佐織に、寝間着姿の母は二年ぶりに帰った娘に対しても、昨日もそうであったように普段通りの「おかえり」で出迎えてくれた。
父は佐織の帰りを待ちくたびれてしまったらしく、地元の仲間と飲みに出掛けたらしかった。
いつも通りの家族の姿がとても温かく、帰りづらいと思っていたのはやっぱり一方的な気持ちのせいなんだと、あらためて思わされた。
風呂で旅の疲れを癒し、まだ学生の跡を残していた二階の自分の部屋に行く。
昔使っていたものと同じシーツをかけた布団がちゃんと用意してあって、家族は離れていてもやっぱりなんにも変わらないんだと胸が熱くなった。
懐かしい匂いに包まれたベッドの上に転がり目を閉じる。
瞼の裏に浮かび上がってくるのは、橘の姿。
何にも動じない威厳溢れる長身。
整った顔立ちなのに、世界を見据える眼は力強さに満ちている。
彼を思い出すだけで、胸がちりちりと焼けた音を立てる。
焼けた部分から思わず火照った溜め息を吐き出した。
もしかしたら、さっき佐織の送迎をしなかったのは、夕食のときの電話のせいかもしれないと思っていた。
恋人の声を聞いた彼は、彼女を恋しく思い、他の女性に構う余裕がなくなってしまったのだとしたら。
あの穏やかな表情を引き出したのは、遠い海の向こうにいる人。
(いつもと違ってたから、嫉妬だなんて……どうしたの私)
一番の特別だと彼に選ばれた女性に対して、抱いていい感情ではない。
仕事とプライベートは別物だ。
まるでお門違いな意識を無理やりにでも胸の奥に押し込めていると、前触れなく枕元に置いていたスマホが控えめに着信を知らせた。
スマホの表示を見るとそこには【橘社長】の文字。
時刻は二十ニ時半を過ぎたところで、大人となった今では夜更かしという時間ではないけれど、電話を受けるのには珍しい時間帯だ。
「はい、鹿島です」
『ああ、お疲れ』
背筋を伸ばさなければならないようなキリッとしたいつもの声の張りは、まだ取り戻していないようだ。
それでも鼓動は急かされ、上司からの電話に正座をして受けてしまった。
『悪いな、もう眠ってたろう』
「いえ、大丈夫です。何か早急な対応が必要になりましたか?」
『いや、特にそういうわけじゃないんだが』
仕事でトラブルでもあったのかと心配になったが、どうやらそういうわけでもないらしい。
小さな機器を介する二人の間に沈黙を挟む。
ほんの数秒の空白が気まずくて、佐織が先にそれを割った。
「社長、まだ酔ってるんでしょう。ホームシックにでもなりました?」
まったりとした声の感じから、彼がまだ酒に酔っていることはわかった。
少し茶化したように言うと、彼は観念したように薄く笑う。
『ああ、そうだな……そうかもしれない』
素直に認める声の弱々しさが、なぜか妙に可愛らしく思えた。
いつもとまったく違う様子に、鼓動が大袈裟に響く。
再び静かになる電話の向こうで、不意にちゃぽんと打つ波の音が聴こえた。
窓辺にでもいるのだろうか。
しかし、彼が泊まっている部屋は最上階のはずだ。
それにしては、やけに音が近い気がする。
『今夜は、月が綺麗だな』
まだ酔いの冷めていない彼は言葉尻が滑らかで、珍しく情緒的なことを言う。
「満月に近いんじゃないでしょうか。大潮だと言われていましたし」
『凄いな、月の引力ってのは。空から見たときは海かどうかもわからないほど潮が引いていたのに、今はこんなにあふれそうなくらい満ちてる』
ちゃぽん。
また耳元の近くで波の音がした。
停泊する漁船を揺らし岸壁に寄せる波の光景が脳裏に浮かぶ。
懐かしさが燻り、それを目にしたくて自室のカーテンを開けた。
遮光カーテンでは気づかなかった夜の空は、白くて丸い月が辺りを神々しく照らす。
その足元へ視線を下ろすと、水面に落ちる月の光がゆらゆらと揺れていてとても綺麗だ。
すると、岸壁の際に立つ黒い人影を見つけた。
まさかと思ったと同時に耳元に尋ねていた。
「社長、今どちらに?」
佐織の声に呼応して、その人影が自宅の二階の方を振り向き見上げてきた。
『ああ、海のそば』
どきんと鳴る心臓の音が、自分の中に響いて聞こえた。
暗くて顔は見えないけれど、月影のシルエットでこちらを見上げているのは彼だとわかった。
「なにやってるんですか、こんなに寒いのに」
『んー……海が見たくて?』
返された疑問形がやっぱり可愛らしくて、胸がむずむずとくすぐられる。
「ちょっと待っててください」と電話を切り、部屋着のまま厚手のストールだけを羽織って部屋を出た。
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