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特別な、場所。
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翌日の午後は、急遽の予定通り人事部会が執り行われた。
部会を終え、上階へと向かうエレベーターの中で、本来なら秘書である佐織が立つべき操作パネルの前に陣取る橘。
後ろに控える佐織へ、不意に顔だけで振り向いてきた。
『初心を思い出せるなら、またこっちに呼び戻すさ』
『え?』
『もしこの処遇が不服なら、退職を申し出るか、あるいはまた一から奮起してくれるか。あの狸の一番の見せ場は、内示を出してからだな』
切れ長の瞳に捉えられどきっとしたのは、あまりに美麗な顔が紡ぐ流暢な英語に聞き惚れていたわけではなく、浅田に関して、頭ごなしに左遷を言いつけたわけではない彼の思慮が見えたからだ。
各営業部の最上位には統括本部長がおり、福岡支社の営業部長となると、浅田は実質足を使って営業する一般社員と同等の扱いになる。
――『そもそもあれが社長に就任してからの業績が、著しく落ちているのは明白だ。肩書きだけを振りかざし、私腹を肥やしたいがためだけに、会社をひとつ潰そうとした人間を、この会社に残しているだけでもありがたく思ってもらいたいものだが』
会議に同席した人事部長も、もっともだと思っただろう。
もうそれ以上言い返すことはなく、橘の冷たくも見える内示に、部長は決定の判を押すしかなかった。
昨夜の子どものようなきらきらとした瞳は見る影もなく、橘は鋭い目付きで切り刻むように査定評に目を通していた。
『同期である人事部長に左遷を言い渡されるのは不本意だろうが、それで奮起できる根性があれば、この会社にとってもいい起爆剤になるだろう』
せめて東京本社に残してもらえないかという含みを見せていた人事部長の思いを、今二人だけのエレベーター内でそれとなく彼に伝えて返ってきた言葉はそれだった。
見せしめ、というと言い方は悪いけれど、前社長が奮起して営業に出るなら、他の社員を焚きつけるには十分だ。
橘は人事部長から言われるまでもなく、浅田前社長が社長になるまでの功績を加味した上で、営業に回すことにしたんじゃないだろうか。
『若造』だなんて横柄に言われたくらいで左遷というあまりに横暴な処遇を、この社長が何も考えずにするわけがなかったのだ。
エレベーターに乗っているだけでも姿勢よく佇む大きな背中に尊敬を抱き、胸を熱くさせられていると、到着した階で待っていた秘書課の同僚と鉢合わせた。
休憩にでも行くところだったのだろう。
「お疲れ様です」と上司に頭を下げる同僚に「Hi.」と彼は軽く片手を挙げる。
先に佐織をエレベーターから降ろしてくれる会社最上の長は、当然のように同僚の彼女が乗り込むまで扉を押さえて待った。
長い指の先までもしなやかな所作の美男子。
しかも、〝社長〟にそんなことをしてもらうのだから、同僚も一瞬戸惑いカッと頬を染めて慌ててエレベーターに乗り込んだ。
そんなことをする上司どころか、そういう男性に今まで出会ったことがない。
社長であるにもかかわらず、息をするようにレディファーストをこなす。
この日本男子は、きっとどの女性に対してもそうするのに違いない。
(そっか、私だけじゃないんだ)
社長室の扉を開ける長身を見つめながら、ふと胸を掠めた違和感が熱を冷ます。
昨夜佐織の手を取り特別な扱いをした米国育ちの美青年は、全女性の頬を容易く染めさせる罪な男なのだと、なぜか胸の隅っこにツンと沁みるものを感じた。
闇夜の中、『佐織』と呼んだ声が幻想に舞う。
他意があったわけじゃないとわかっているのに、消えそうなその声の残響を惜しんでしまう。
(女の子なら誰にでも……)
黒の重厚なエグゼクティブデスクにつく肩書に恥じない存在感。
昨日ほんの少し近さを感じた距離が、大きな机に阻まれてしまったようだ。
『このあとは、インテリア部門の営業部部長と面談予定になっております』
『ああ、そうか』
自分の中に沈んでいく重みを振り払うように、毅然と姿勢を正してきびきびとした英語で今後の予定を伝える。
対して、溜め息を吐きながら頷く彼は、若干疲れの表情を見せた。
『休憩時間を置かれますか』
『そうだな、少し頭を休めたい』
『コーヒーをお持ちしますね』
『ああ、頼むよ』
自分は秘書だ。
社長をサポートする立場にある人間だ。
この絶対実力主義の君主の威圧感に怖さを感じていたけれど、自分のステータスを上げられるチャンスだったことに違いはない。
秘書課横の給湯室で上等なコーヒーを淹れて出す。
長い指でカップを持ち上げ、湯気の立つそれを口に運ぶ姿も様になる人は、こくりと喉を動かすと、ほ、と息を吐いた。
こうした小さな労いも秘書の仕事だと自負し、コーヒーの香ばしい薫りにリラックスする彼にもう少し肩の力を抜いてもらいたくて、佐織は思っていた疑問をぶつけた。
『社長は、英語と日本語、どちらが楽ですか』
白いカップを机上のソーサーに置き、彼は長い脚を組んで革張りの椅子をゆらりと揺らす。
ゆったりと瞬いて気を抜いた切れ長の瞳が横目に見てきた。
何もかもを統べるような眼光に、やはり心臓は脈を乱す。
『なぜだ?』
『昨日と今日で、社長はずいぶんと気を回していらっしゃるので、少しだけでも気分を落ち着かせるなら、せめて使う言語くらいは楽な方がいいのではと思いまして』
橘は日本語が話せる。それでも今交わす会話は英語だ。
佐織がカモフラージュとして訳していても、理解できる日本語の話を英語で返すのは、いくら聡明な人でも多少頭の混乱はあるだろう。
ただでさえ頭を抱えなければならないこの会社の現状があり、言語の違いはさらに精神的な疲れを通常よりも増しているかもしれなかった。
彼は一度瞬き、労う佐織をじっと見据えてくる。
あまりに図々しい質問だっただろうか。
日本語がわからないふりをしているくらいだから、聞くまでもなく英語で話すほうが楽だったかもしれない。
心臓を射抜いてくる眼力に、労りの心は怖じ気づいた。
『申し訳ありません。生意気にも社長に選択肢を向けるなどと……』
『いや、構わない』
ふ、と軽く口の端で笑い、椅子を回して机に両肘をつく。
そこで両手を組み顎を支えてから、圧巻の端正さで上目遣いに佐織を見上げた。
「話すなら、もちろん日本語がいいさ。日本に居るんだから」
「え!?」
それならどうして、と納得できない現状が日本語で返された回答に眉をひそめさせた。
「では、日本語を使わないのはどうしてなんですか? どうしてわざわざ通訳をつけてまで、日本語がわからないなんて面倒なこと……」
『それはこっちの方が楽だから』
ごもっともな理由を英語で返され、言葉を見つけられなくなる。
「それと」
真っ直ぐな瞳にすっかり馴染んだ日本語を乗せた。
「君が、ただの翻訳機械じゃないからだ」
「は、い……?」
唐突に自分を理由に挙げられて、佐織はきょとんと瞬いた。
納得するもなにも、まったく理解できない理由に固まると、彼は切れ長の目をさらに細めてみせた。
「あれは巧かったぞ。〝racoon dog〟を猟犬だとは、なかなか咄嗟に出てくるものじゃない」
昨日彼が浅田に向けて言い放った無遠慮な言葉を、慌てて言い換えたとき。
必死にフォローした佐織を、日本語を理解していた彼が笑ったことを思い出した。
あの必死さを見られていたのだと思うと途端に恥ずかしくなり、上目遣いに見つめられる顔が、かっと熱くなった。
そして、顔だけでなく、体の中心から熱を沸き立たせるようなことを彼はさらりと口にする。
「俺は前々から、君に一目置いていた」
どくん、と大袈裟に鳴る胸の鼓動に、眩暈がしそうになった。
こんなに真っ直ぐな瞳に熱心に見つめられて、平静でいられる女子なんているんだろうか。
しかも、まるでずっと見ていたかのような眼差しに、心が熱く火照りだす。
「俺が最初に戦略室長として立ち会ったウェブ会議。あのとき俺が言った言葉を、君自身が選んで、必要な分だけを丁寧に言い換えていたことをよく覚えている」
――『ちょっとは勉強してから来い』
あのときのことだ。
当時戦略室長だった橘が、直属の上司達に向かって無遠慮に放っていた辛辣な言葉の数々。
いくら通訳の立場とはいえ、佐織には口が裂けても言えるわけなかっただけだ。
「君はそういった判断力に長けているように思った。もちろん、通訳は対話者同士を繋ぐ大切なコミュニケーションツールで、喧嘩をさせてしまうような人間性では務まらない仕事だ」
通訳に限らず、周りの空気を読むということは、社会人としてできて当然のことだ。
いや、この男はそれの質とは違うことを、佐織はよく知っている。
ヒヤヒヤさせられていたのはいつも佐織の方で、彼は思っていることをズケズケと無遠慮に口にするような人だ。
でもそこには、誰も文句の言えないようなきちんとした理屈を孕んでいるのを、この数日でだんだんとわかってきた。
「日本の縦社会で暮らしている人間と話すと、本当に疲れる。おべっか、建前、媚び、お世辞。……他にどんな日本語があったか」
昨夜、叔父の前で見せたあの貴公子のような姿は、完全な猫かぶりだった。
レディファーストは完璧にこなしてみせても、ああいうのは疲れてしまうらしい。
「利益を求めるための業務のはずが、そういう心情に阻まれると、途端に前に進みにくくなるんだよ」
そういうことをし続けるのが、この人にとってはストレスになる。
ただひたすら、会社のために有益なものだけを選んでいきたいのだ。
だから、相手の顔色をうかがうことを必要とせず、ただ業務的な会話だけをするために――……
「そこで適役なのが、……佐織、君だよ」
そんな仕事一徹冷徹人間は、時々こうやってすべてを統べるような瞳で心臓を射貫き、いたずらに胸をくすぐったりする。
(やだ、耳が熱い)
名前を口ずさむ深みのある声に、もう一度呼んでもらいたいと思っていたんだと、今気づかされてしまった。
「君は賢い。そして、柔軟でとても機転が利く。だから、俺は君を秘書に指名した」
口説き文句でも言われているような錯覚に陥りそうになる。
そして、叔父に言われた通り、今まで翻訳機械として影に立っているだけだった佐織の足元に、明るいライトを当てられた気がした。
自信溢れる深い声に、鼓膜同様に胸までも激しく震えさせられる。
彼がそう言うから、自分が本当に賢くて機転の利く利口な人間なんだと思わせられてしまう。
激しく震える胸から、熱い感情が湧き上がる。
自分の存在価値を認めてくれる人がいるんだと感激する心が、目下の端整な顔をぼんやりと滲ませた。
鼻の奥にツンと沁みるものを感じた途端に、橘は椅子を回してすっくと立ち上がった。
大きな窓ガラスに歩み寄った広い背中の向こうに、果てしない青い空と外の世界が広がる。
「君にはそれだけ負担をかけていることは承知だ。でもそれが君の仕事。俺のパートナーとしての役割だ」
彼はなにも、横柄に佐織を小間使いすると言っているわけじゃない。
「そして、君だからできることだ」
「はい」
佐織自身を見ていて、そして、認めているんだとわかる。
「二十分後に、インテリア部門のミーティングルームで面談を始める。インテリア部に伝えてくれ。それまでは、君も休憩を取るといい」
告げられた業務事項にはっとする。
思わず涙を零しそうになったことに気づいてうつ向くけれど、背を向けている彼からは見えるはずもない。
もしかしたら、佐織の顔を見ないようにするためにあえて立ち上がったのかもしれない。
ほんのちょっとだけ自惚れを湧かせる。
自分を見てくれるという特別感が勘違いなのかもしれなくても、ふんわりと心が浮かれた。
翌日の午後は、急遽の予定通り人事部会が執り行われた。
部会を終え、上階へと向かうエレベーターの中で、本来なら秘書である佐織が立つべき操作パネルの前に陣取る橘。
後ろに控える佐織へ、不意に顔だけで振り向いてきた。
『初心を思い出せるなら、またこっちに呼び戻すさ』
『え?』
『もしこの処遇が不服なら、退職を申し出るか、あるいはまた一から奮起してくれるか。あの狸の一番の見せ場は、内示を出してからだな』
切れ長の瞳に捉えられどきっとしたのは、あまりに美麗な顔が紡ぐ流暢な英語に聞き惚れていたわけではなく、浅田に関して、頭ごなしに左遷を言いつけたわけではない彼の思慮が見えたからだ。
各営業部の最上位には統括本部長がおり、福岡支社の営業部長となると、浅田は実質足を使って営業する一般社員と同等の扱いになる。
――『そもそもあれが社長に就任してからの業績が、著しく落ちているのは明白だ。肩書きだけを振りかざし、私腹を肥やしたいがためだけに、会社をひとつ潰そうとした人間を、この会社に残しているだけでもありがたく思ってもらいたいものだが』
会議に同席した人事部長も、もっともだと思っただろう。
もうそれ以上言い返すことはなく、橘の冷たくも見える内示に、部長は決定の判を押すしかなかった。
昨夜の子どものようなきらきらとした瞳は見る影もなく、橘は鋭い目付きで切り刻むように査定評に目を通していた。
『同期である人事部長に左遷を言い渡されるのは不本意だろうが、それで奮起できる根性があれば、この会社にとってもいい起爆剤になるだろう』
せめて東京本社に残してもらえないかという含みを見せていた人事部長の思いを、今二人だけのエレベーター内でそれとなく彼に伝えて返ってきた言葉はそれだった。
見せしめ、というと言い方は悪いけれど、前社長が奮起して営業に出るなら、他の社員を焚きつけるには十分だ。
橘は人事部長から言われるまでもなく、浅田前社長が社長になるまでの功績を加味した上で、営業に回すことにしたんじゃないだろうか。
『若造』だなんて横柄に言われたくらいで左遷というあまりに横暴な処遇を、この社長が何も考えずにするわけがなかったのだ。
エレベーターに乗っているだけでも姿勢よく佇む大きな背中に尊敬を抱き、胸を熱くさせられていると、到着した階で待っていた秘書課の同僚と鉢合わせた。
休憩にでも行くところだったのだろう。
「お疲れ様です」と上司に頭を下げる同僚に「Hi.」と彼は軽く片手を挙げる。
先に佐織をエレベーターから降ろしてくれる会社最上の長は、当然のように同僚の彼女が乗り込むまで扉を押さえて待った。
長い指の先までもしなやかな所作の美男子。
しかも、〝社長〟にそんなことをしてもらうのだから、同僚も一瞬戸惑いカッと頬を染めて慌ててエレベーターに乗り込んだ。
そんなことをする上司どころか、そういう男性に今まで出会ったことがない。
社長であるにもかかわらず、息をするようにレディファーストをこなす。
この日本男子は、きっとどの女性に対してもそうするのに違いない。
(そっか、私だけじゃないんだ)
社長室の扉を開ける長身を見つめながら、ふと胸を掠めた違和感が熱を冷ます。
昨夜佐織の手を取り特別な扱いをした米国育ちの美青年は、全女性の頬を容易く染めさせる罪な男なのだと、なぜか胸の隅っこにツンと沁みるものを感じた。
闇夜の中、『佐織』と呼んだ声が幻想に舞う。
他意があったわけじゃないとわかっているのに、消えそうなその声の残響を惜しんでしまう。
(女の子なら誰にでも……)
黒の重厚なエグゼクティブデスクにつく肩書に恥じない存在感。
昨日ほんの少し近さを感じた距離が、大きな机に阻まれてしまったようだ。
『このあとは、インテリア部門の営業部部長と面談予定になっております』
『ああ、そうか』
自分の中に沈んでいく重みを振り払うように、毅然と姿勢を正してきびきびとした英語で今後の予定を伝える。
対して、溜め息を吐きながら頷く彼は、若干疲れの表情を見せた。
『休憩時間を置かれますか』
『そうだな、少し頭を休めたい』
『コーヒーをお持ちしますね』
『ああ、頼むよ』
自分は秘書だ。
社長をサポートする立場にある人間だ。
この絶対実力主義の君主の威圧感に怖さを感じていたけれど、自分のステータスを上げられるチャンスだったことに違いはない。
秘書課横の給湯室で上等なコーヒーを淹れて出す。
長い指でカップを持ち上げ、湯気の立つそれを口に運ぶ姿も様になる人は、こくりと喉を動かすと、ほ、と息を吐いた。
こうした小さな労いも秘書の仕事だと自負し、コーヒーの香ばしい薫りにリラックスする彼にもう少し肩の力を抜いてもらいたくて、佐織は思っていた疑問をぶつけた。
『社長は、英語と日本語、どちらが楽ですか』
白いカップを机上のソーサーに置き、彼は長い脚を組んで革張りの椅子をゆらりと揺らす。
ゆったりと瞬いて気を抜いた切れ長の瞳が横目に見てきた。
何もかもを統べるような眼光に、やはり心臓は脈を乱す。
『なぜだ?』
『昨日と今日で、社長はずいぶんと気を回していらっしゃるので、少しだけでも気分を落ち着かせるなら、せめて使う言語くらいは楽な方がいいのではと思いまして』
橘は日本語が話せる。それでも今交わす会話は英語だ。
佐織がカモフラージュとして訳していても、理解できる日本語の話を英語で返すのは、いくら聡明な人でも多少頭の混乱はあるだろう。
ただでさえ頭を抱えなければならないこの会社の現状があり、言語の違いはさらに精神的な疲れを通常よりも増しているかもしれなかった。
彼は一度瞬き、労う佐織をじっと見据えてくる。
あまりに図々しい質問だっただろうか。
日本語がわからないふりをしているくらいだから、聞くまでもなく英語で話すほうが楽だったかもしれない。
心臓を射抜いてくる眼力に、労りの心は怖じ気づいた。
『申し訳ありません。生意気にも社長に選択肢を向けるなどと……』
『いや、構わない』
ふ、と軽く口の端で笑い、椅子を回して机に両肘をつく。
そこで両手を組み顎を支えてから、圧巻の端正さで上目遣いに佐織を見上げた。
「話すなら、もちろん日本語がいいさ。日本に居るんだから」
「え!?」
それならどうして、と納得できない現状が日本語で返された回答に眉をひそめさせた。
「では、日本語を使わないのはどうしてなんですか? どうしてわざわざ通訳をつけてまで、日本語がわからないなんて面倒なこと……」
『それはこっちの方が楽だから』
ごもっともな理由を英語で返され、言葉を見つけられなくなる。
「それと」
真っ直ぐな瞳にすっかり馴染んだ日本語を乗せた。
「君が、ただの翻訳機械じゃないからだ」
「は、い……?」
唐突に自分を理由に挙げられて、佐織はきょとんと瞬いた。
納得するもなにも、まったく理解できない理由に固まると、彼は切れ長の目をさらに細めてみせた。
「あれは巧かったぞ。〝racoon dog〟を猟犬だとは、なかなか咄嗟に出てくるものじゃない」
昨日彼が浅田に向けて言い放った無遠慮な言葉を、慌てて言い換えたとき。
必死にフォローした佐織を、日本語を理解していた彼が笑ったことを思い出した。
あの必死さを見られていたのだと思うと途端に恥ずかしくなり、上目遣いに見つめられる顔が、かっと熱くなった。
そして、顔だけでなく、体の中心から熱を沸き立たせるようなことを彼はさらりと口にする。
「俺は前々から、君に一目置いていた」
どくん、と大袈裟に鳴る胸の鼓動に、眩暈がしそうになった。
こんなに真っ直ぐな瞳に熱心に見つめられて、平静でいられる女子なんているんだろうか。
しかも、まるでずっと見ていたかのような眼差しに、心が熱く火照りだす。
「俺が最初に戦略室長として立ち会ったウェブ会議。あのとき俺が言った言葉を、君自身が選んで、必要な分だけを丁寧に言い換えていたことをよく覚えている」
――『ちょっとは勉強してから来い』
あのときのことだ。
当時戦略室長だった橘が、直属の上司達に向かって無遠慮に放っていた辛辣な言葉の数々。
いくら通訳の立場とはいえ、佐織には口が裂けても言えるわけなかっただけだ。
「君はそういった判断力に長けているように思った。もちろん、通訳は対話者同士を繋ぐ大切なコミュニケーションツールで、喧嘩をさせてしまうような人間性では務まらない仕事だ」
通訳に限らず、周りの空気を読むということは、社会人としてできて当然のことだ。
いや、この男はそれの質とは違うことを、佐織はよく知っている。
ヒヤヒヤさせられていたのはいつも佐織の方で、彼は思っていることをズケズケと無遠慮に口にするような人だ。
でもそこには、誰も文句の言えないようなきちんとした理屈を孕んでいるのを、この数日でだんだんとわかってきた。
「日本の縦社会で暮らしている人間と話すと、本当に疲れる。おべっか、建前、媚び、お世辞。……他にどんな日本語があったか」
昨夜、叔父の前で見せたあの貴公子のような姿は、完全な猫かぶりだった。
レディファーストは完璧にこなしてみせても、ああいうのは疲れてしまうらしい。
「利益を求めるための業務のはずが、そういう心情に阻まれると、途端に前に進みにくくなるんだよ」
そういうことをし続けるのが、この人にとってはストレスになる。
ただひたすら、会社のために有益なものだけを選んでいきたいのだ。
だから、相手の顔色をうかがうことを必要とせず、ただ業務的な会話だけをするために――……
「そこで適役なのが、……佐織、君だよ」
そんな仕事一徹冷徹人間は、時々こうやってすべてを統べるような瞳で心臓を射貫き、いたずらに胸をくすぐったりする。
(やだ、耳が熱い)
名前を口ずさむ深みのある声に、もう一度呼んでもらいたいと思っていたんだと、今気づかされてしまった。
「君は賢い。そして、柔軟でとても機転が利く。だから、俺は君を秘書に指名した」
口説き文句でも言われているような錯覚に陥りそうになる。
そして、叔父に言われた通り、今まで翻訳機械として影に立っているだけだった佐織の足元に、明るいライトを当てられた気がした。
自信溢れる深い声に、鼓膜同様に胸までも激しく震えさせられる。
彼がそう言うから、自分が本当に賢くて機転の利く利口な人間なんだと思わせられてしまう。
激しく震える胸から、熱い感情が湧き上がる。
自分の存在価値を認めてくれる人がいるんだと感激する心が、目下の端整な顔をぼんやりと滲ませた。
鼻の奥にツンと沁みるものを感じた途端に、橘は椅子を回してすっくと立ち上がった。
大きな窓ガラスに歩み寄った広い背中の向こうに、果てしない青い空と外の世界が広がる。
「君にはそれだけ負担をかけていることは承知だ。でもそれが君の仕事。俺のパートナーとしての役割だ」
彼はなにも、横柄に佐織を小間使いすると言っているわけじゃない。
「そして、君だからできることだ」
「はい」
佐織自身を見ていて、そして、認めているんだとわかる。
「二十分後に、インテリア部門のミーティングルームで面談を始める。インテリア部に伝えてくれ。それまでは、君も休憩を取るといい」
告げられた業務事項にはっとする。
思わず涙を零しそうになったことに気づいてうつ向くけれど、背を向けている彼からは見えるはずもない。
もしかしたら、佐織の顔を見ないようにするためにあえて立ち上がったのかもしれない。
ほんのちょっとだけ自惚れを湧かせる。
自分を見てくれるという特別感が勘違いなのかもしれなくても、ふんわりと心が浮かれた。
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