冷徹社長の容赦ないご愛執

真蜜綺華

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日本語、通じてますよね。

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 社長室から一番近い、二十四階にある経営戦略室フロア。
 オフィスルームのほか、大中小のミーティングルームが完備されている。隣り合う部屋同士は壁で仕切られているものの、廊下から見るとすべてガラス張りになっている。
 常になにかしらの会議が行われており、オープンになっている部屋ではなんの隠ぺいもできない。
 新社長への挨拶をさせるべく通りかかった部屋の会議を止めようとした浅田を、橘が英語で制した。
『わざわざ止めさせることはない』
 明るいグレーのカーペットを踏みながら、彼は案内のために先を歩いていた浅田を追い越して行く。
「挨拶なら、今度の臨時社員総会でするので大丈夫だそうです」
 ミーティングルームの前に浅田を置き去りにする橘。彼が言い残した言葉を拾って伝えると、見上げた浅田の目元はわずかに歪みを見せていた。
 できるだけ穏やかに言い換えたつもりだったのだけれど、橘の語気がどうにもいい雰囲気を醸さなかったらしい。
――『本当にこの会社の指揮を取っていた玉なのか? 会議の邪魔をする指揮官がどこにいる』
 制した橘は後半、こう言った。
 そのまま伝えれば絶対に角が立つ。
 橘の言ったことはもっともだと佐織も思ったけれど、ここはわざわざすべてを訳す必要はない。
 穏便に事を運べるのなら、それが両者にとっても会社にとってもいいに決まっているからだ。
 遠慮のないはっきりとした物言いをするのは、米国育ちの彼ならしかたのないことなのかもしれない。
 けれど、相手を気遣い思いやる日本人の風潮とは、やはり多少の温度差がある。
 郷に入れば郷に従えということわざが日本にあるように、向こうの国にも同じ意味の言葉は存在しているはずなのに。
 それでも彼は思ったことを地で口にする。
 わかってはいたけれど、通訳として付いている佐織が顔を青くしなければいけない。
 平和に間を取り持つことができるなら、と何事もなくその場を流してしまおうと、先を行く橘に続いて足を踏み出す。
「なにが悲しくてこんな若造に鼻であしらわれなきゃならんのだ」
 長身の背中へ向き直った浅田は、突然、あえて橘に聞こえてしまうような独り言を、さらりと言い放った。
(し、室長……!?)
 完全に嫌みを口にした浅田に、冷や汗どころではない水分が体中から噴き出す。
 まさかそれを佐織に訳させようと思っているのではないのかと横目に窺った。
 けれど、彼はなに食わぬ顔で橘に続いていく。
 日本語がわからない相手だからこそ、あえて『若造』だなんて口にできたのだ。
 三人の足音しか聞こえていなかったフロアで、浅田の声は当人の耳に届いてしまっているはず。
 どうかその意味を通訳させませんようにと、神に祈る佐織の意識の先から、チッ、と軽い舌打ちが聞こえた。
 幻聴だと思いたかったけれど、その音は自分達以外の誰も居ない廊下にたしかに響いた。
 しかもそれは、佐織と浅田の前方から。
 存在感溢れる長身の彼の、オーダースーツと思われる気品溢れる背中が、ゆっくりとこちらを振り向いてきた。
『狸みたいな腹して、のさばるだけの役立たずが』
 ゆるりと口角を上げた橘の表情を初めて見た。
 不敵な笑みというのはまさにこんな表情を言うのだろう。
「な、なんだ? ドッグ? 犬がなんだって?」
 どうやら〝dog〟の単語だけは聞き取れたらしい浅田が、振り向いた威圧感にたじろぐ。
 だけど、あまりいいことを言われたわけではないことは悟ったらしく、通訳を急かすように佐織を睨んできた。
 〝dog〟はたしかに〝犬〟だけれど、彼が口にした〝raccoon dog〟は〝狸〟の意味だ。
 頭で理解はしていても、まさかそれを直に伝えるわけがない。
「し、室長は、猟犬のように鋭い洞察力と観察眼をお持ちのようだとおっしゃっておられます」
 いぶかしく眉をひそめる浅田を慌ててフォローし、身を挺して二人の間でにこやかな笑顔を見繕う。
 今にも心臓が口から飛び出そうな佐織の後ろで、橘がふっと鼻で笑ったのがわかった。
(……え……?)
『鹿島さん』
 丁寧に英語の発音で名前を呼ばれて振り返ると、彼は切れ長の目を細めて笑っていた。
 なにがおかしいのか。
 どこに面白さを見つけたのか、不思議でしかたない。
(私の慌てる様子? 室長の誤訳?)
 そのどちらとも、日本語が理解できなければきっとわかり得ない状況なのに、だ。
 唖然とする佐織の方へ、橘は悠然とした足取りで戻ってくる。
 隣に並んだ長身は、必然的に浅田の目の前に立ちはだかる格好になった。
 胸元で腕を組み、自分よりも低い浅田をあえて上から見下ろすように、わずかに顎を上げてみせた。
 はっきりとわかりやすい発音で、それが口にされる。
 その言葉の意味に、佐織は長身を隣に見上げて大きく目を見開いた。
(……は……?)
 口元が笑んでいるから、とても穏やかに見える。
 けれど、決して笑顔とは言い難い目元はしなやかに細められているけれど、その瞳の奥におぞましいほどの怒りの炎が見えた気がした。
 彼は、間違いなく怒っていた。
 嫌みを言われたからだ。
 佐織が通訳していないのに、上司に対する明らかな侮辱の言葉を彼はきちんと理解した上で、こう言った。
――『お前は左遷だ』
 一歩間違えれば、パワハラにもなりかねない発言。
 だけど、浅田が発した暴言は、社長にそう言わせても致し方ないものだっただろう。
 もう冷や汗どころか、一瞬にして凍った周りの空気が体に張りつく。
 浅田は、橘が何を言ったのかわからない様子で、佐織にちらちらと目線で通訳を催促する。
『訳さなくていい。明日には処分を考える』
「え……」
 だいぶ語気を落ち着かせて、橘は怒りを鎮めた瞳を佐織に向けた。
 凍った空気を溶かしてくれるような穏やかな眼差しに、肩の力は抜けささやかな鼓動が揺れた。
「一体なんだと言うんだ!? 鹿島くん! 社長は何を……」
『お静かに』
 声を荒げる浅田に、橘は口元に当てたひとさし指をミーティングルームに向けた。
 さすがにこの意味はわかったようで、浅田はぐっと言葉を飲み込んだ。
『今日はもうこのくらいでいいだろう?』
 纏う空気の凪ぐ橘の意を汲み、佐織も落ち着いて浅田に伝える。
「今日は、ここまでで切り上げるそうです」
『ご案内ありがとうございました、浅田室長』
「案内くださりありがとうございました、……と」
 さっきまでの威圧は微塵も醸さず、初めて腰低く頭を下げる橘に目を見張り、ただ機械然と通訳に徹する。
『鹿島、人事部は何階だ?』
『あ、はい、二十一階です』
『これから行く。これ以外の予定はもうなかったろう?』
『は、はい』
 ぽかんとする浅田を尻目に、颯爽と踵を返す。
「お、おい、鹿島くん……」
 状況が掴めずに戸惑いを見せる浅田を気の毒に思いながらも、佐織は彼に軽く頭を下げた。
「社長はこれから別件で急用が入りました。申し訳ございませんが、これで失礼いたします。お忙しいところありがとうございました」
 それ以上のフォローはもうなにもできる気はせず、多少の後ろ髪を引かれながらも先を行く橘を追いかける。
 エレベーター前で立ち止まるすらりとした長身の後ろに付き、こっそりと上目遣いに彼を捉えた。
 整えられた黒髪は、襟足までもおしゃれで手入れが行き届ている。
 身体の造りに合わせたスーツが、社長としての存在感を上品に際立たせている。
 実力も実績も、他者には引けを取らないハイレベル男子。
 眉目秀麗、頭脳明晰。
 子どもの頃から米国で生活をしてきて、英語が堪能な彼は……
(やっぱりわかってるの……? 日本の言葉を)
 だって思い返せば、叔父の店に電話をかけたあのとき。
――『予約はふたりにしてくれ』
 あれは脳内で、頭が勝手に即時翻訳したのかと思ったけれど、……そうじゃない。
 彼は、日本語でそれを口にしたんだ。
 日本語はわかるし、話せる。
(それなのに、わざわざ私を通訳に付けるなんて……)
『鹿島、今夜なにか予定はあるか?』
「へ!?」
 じっと見据えていた先の後頭部が、いきなり美麗な顔を振り返らせてきて、驚きのあまりにおかしな反応をしてしまった。
 心の準備をせずにこの顔を見ることが、こんなに心臓を脅かすものなのだと初めて知った。
(き、気をつけなきゃ……これは心臓にかなりの負担が強いられる)
 不思議そうに片眉を上げる顔も、決して崩れない端整さ。
 不意打ちを食らった胸は動悸を激しくする。
『店、案内してもらわなきゃいけないからな』
『そ、そうでした。それならのちほどメールで……』
 動揺しながらも必死で平静を含んで応える。
 すると、どこからともなくこもった音楽流れ、会話を遮った。
 音量を大きくしながら出てきたのは、彼のスマホ。
 懐から取り出されたそれは、聞いたことのない音楽を途中で止められ、「Hi.」と応答する耳にあてられてた。
『片づいたか? いつ頃来られそうだ?』
 エレベーターの扉が開いていくのに合わせたように話し始める。
 薄い唇から紡がれる英語は、彼の聡明さによく似合っている。
 立ち姿も姿勢のいい橘のあとに続こうとすると、節ばった男らしい手のひらが、開いたエレベーターの扉を押さえた。
 さりげない気づかいに、また胸が大きく波立つ。
 実はここへ降りてきたときもそうだった。
 彼は息をするように、さりげなくレディファーストをこなすのだ。
 いち部下をも女性として扱う紳士な所作と、滑らかに英語をこぼす見惚れるほどの美麗な顔に、心臓がぼんと単純に熱を上げた。
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