冷徹社長の容赦ないご愛執

真蜜綺華

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新社長、現る。

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*

『なんだこれは』
 社屋最上階二十五階にある社長室に、不機嫌な英語が低く響いた。
 出窓になった外の景色からは、他の高層ビル群にも引けを取らない自社の尊厳が窺える。
 ダークオークのシックな床張りに革靴の高い足音を響かせ、広い部屋の奥へ足を進めた橘。
 佐織と浅田に背を向けたまま、黒く艶光りするL字の高級デスクに手を添えた。
「これはなんでしょうかと……」
 十数歩歩いた部屋の真ん中で、佐織が斜め前に立つ浅田に耳打ちすると、息を飲む音がごくりと聞こえた。
『社長にまずお目通しいただく、東京本社各部署の上半期の数字と現状を……』
『俺が言っているのは、なぜこんな無駄なことをしているのかという話だ』
 浅田の意思を英訳しそれを言い切る前に、橘は語気を強めて佐織の声を遮った。
 節ばった長い指が、何束もクリップ留めされた机上の紙の山を叩く。
 明らかに不機嫌を露にしているその原因がわからず、浅田を介さず秘書の立場から恐る恐る尋ねた。
『無駄、とおっしゃりますと……?』
『見ろ。無駄がここに山のように積まれているじゃないか。このペーパーレスの時代にこの紙の量は一体なんなんだ? これを印刷するのにも時間とコストが掛かるだろう? しかも俺にこれを持ち歩けとでも言うのか? それともなにか。ここでおとなしく椅子に座って悠長に眺めろとでも? ふざけるな、それこそ時間の無駄だ。これは全部俺宛のメールに、データで寄越すように指示しろ』
 たくましい肩越しに振り返り捲し立てる英語は、さらさらと少しの淀みもなく滑らかに形のいい唇から溢れてくる。
 無駄、と言っているだけあって、その口調にも鋭い眼光にも、有益なものしか必要としないという思いが存分に込められていた。
 下で見た強さとは違う切れ長の目の奥の瞳。経営の一切を担う長としての重大な責任感が、こちら側の非を嫌でも納得させる。
 佐織はそれをダイレクトに受け取ってしまい、まるで自分が怒られているようで気分が酷く落ち込んだ。
「か、鹿島くん……」
「え、あ、はい、あの――……」
 戸惑っている浅田に、頭の揺れを堪えて要約した橘の指示を伝える。
 彼の雰囲気と相まって穏やかではない状況を悟ったらしい浅田は、みるみるうちに顔を青ざめさせ、「かしこまりました!」と頭を下げて、そそくさと社長室を出て行ってしまった。
 音を立てないよう閉められた扉を見送ると、無駄に広い社長室にたっぷり呆れを込めた溜め息が落とされた。
『いちいち指示しなきゃ動けないのか、ここの連中は』
 橘は気を取り直すように姿勢を戻し、重厚なデスクを回り込む。
 脱力して革張りの椅子にもたれ、もう一度深い溜め息を吐くと目を閉じた。
 色味の薄い水色の空を背景に、滑らかな鼻筋の横顔が無防備にも綺麗な輪郭を縁取る。
 こうやって眺めているだけなら、佐織の奥底に眠る女の本能がこそばゆくくすぐられてしかたない。
 そしてその見目に見合った高級感が、この男の溢れるほどの魅力をさらに際立たせているのだ。
 今まで、この席に座る元社長浅田の姿を見てきた。
 けれど、あのふくよかなお腹を抱えた人には、ある意味馬子にも衣装の様相が否めなかった。
 この社長室の床をモダンなフローリングに張り替えたのも、一体いくらしたのか経理課が目を剥いたであろう黒塗りのエグゼクティブデスクも、元社長の浅田が設えたもの。
 自分の肩書きを存分に振りかざし、その名に恥じぬ豪奢な環境に造り替えたのだ。
 なんという経費の無駄遣いをしてくれたのだと誰もが呆れ返っていた社長室の高級感に満ちた仕様は、今となってはどうだろう。
 机上で光る〝President社長〟 と書かれた金のプレートは、まさに今そこに座る男を待っていたかのように品位高く輝いて見える。
 座る人が違えば、こうも身の丈の相応さを見せつけることができるのだと、この若き社長は体現している。
 今この瞬間この時のために、この社長室は待ち構えていたのだ。
『今日のスケジュールはどうなってる?』
 これまでの虚無感を感動に変えている佐織を、現実へと無理やり連れ戻す冷めた声にぱちぱちと瞬いた。
 さっきまで気を抜いていたはずの秀麗な顔が、デスクに片肘をつき軽い拳で顎を抱えて佐織を見つめていた。
 なにもかもを統べてしまいそうな瞳に射抜かれ、不覚にも胸がどきりと戦慄く。
『は、はい、このあとは社内を案内いたしまして、各部署の部長と顔合わせを……』
『社内の案内?』
 秘書として頭に入れておいた社長の予定を告げると、切れ長の目元は眉間に深いシワを刻んだ。
 またなにか気に障るようなことでも言ったかと、尻すぼみになりながらも詳しい話を伝える。
『はい、橘社長はこちらにおいでになられたことがなく、浅田室長が引き継ぎを兼ねて……』
『なんのために?』
『え?』
『わざわざ今、この時間を使って足を運ぶ必要性を聞いている』
 よかれと思った浅田室長の計画。
 社の頭になるのだから、自分が統治する会社の内情くらいは知っていて悪いことはないと思うのだけれど……。
『どの部署がなにをしているかくらい把握してる。これまでの実績データも今ここに山のように積まれているし、それ以外になんのメリットがあって時間を割かなければいけないのかを尋ねているんだが』
『それは……』
 途中にすっぱい嫌みを挟んだ橘が言いたいことはわかる。
 たしかに社長自ら各部署へ足を運ぶ理由としては、〝顔見せ〟以外にこれといって絶対的な必要性はない。
 けれど、各部署の部長や社員はただの働き蟻ではない。
 人と人との関わり合いをもって、組織は成り立っているはずだ。
 社長はこの会社を建て直すための指揮を取る頭だ。
 どんな人がどんな風に動いて、どんな責任を負って働いているのか、そういう部分も総指揮者として知っていてほしい。
 それは、佐織だけが感じている綺麗事ではないと思った。
『ああ、すまない』
 悶々と口に出せない小さな反発の感情に頭を重くしていると、尖った刃物のようだった声音が急に丸みを帯びた。
 それまで張り巡らされていた鉄壁の威圧感が、ふっと質量を軽くする。
 圧しつけられるような空気が不意に解かれて、指先の力が緩み、それまで抱えていたタブレットに無意識に力を込めていたのだと気づいた。
『秘書の君に、それを追及しても仕方ないな』
 鋭さを孕んでいた瞳はゆっくりと瞬き、そこから戻ってきた視線が、穏やかに佐織の心臓に絡みついた。
『その予定を組んだのは浅田か?』
『は、はい、そうです』
『わかった』
 意外な柔らかさを見せられて、紙の山から束をひとつ取り上げる長い指の美しい所作に、視線が不用意について行く。
 手に持たれたクリップ留めのそれを見下ろす長いまつげ。
 その綺麗さが、鼓動のテンポをひとつだけ乱した。
(びっくりした……)
 社員を人と思っていない冷血漢なのかと、以前からの先入観でイメージを作り上げていたのは、どうやらこちらの方だったらしい。
 秘書という立場の人間が、上司からの指示の意図までも全てを把握しているわけではないことを、橘は理解していた。
 責めるように追及したのは、本当に社のことをなによりも先に考えていたからだ。
 仕事に無駄なことは一切排除する絶対実力主義の君主。
 だけど、無駄と言い放った山のひとつに手を付け、彼は真剣な眼差しで目を走らせている。
 生み出されてしまった無駄を、無駄なものとしては終わらせないでくれようとしているのだ。
 たしかにこの紙の山の情報は、データで送ればほんの数秒。
 印刷するには、数分の時間とトナー代、それを作業する人の手が必要となる。
 橘が言ったことは、何一つ間違ってはいない。
 会社のことを考えるのなら、こうした小さなひとつひとつに気を遣って当然なのだ。
『そのあとは? 勤務の定時は、たしかこちらの時間で十九時だったか』
『はい、社内の案内が終わったあとは、浅田室長からの引き継ぎをしていただくことになっております』
 橘は紙の束を持つ方の手首を見る。
 上質なスーツの袖口から見えたのは、金縁をあしらった黒光りの時計。
 どう見ても高級そうな腕時計は、やはり選ばれし持ち主の下で悠然と存在感を馴染ませている。
『引き継ぎはあとでもいい。まずは、この資料のデータを寄越してきた順番に、各部長をここへ呼んでくれ。営業部の他、予定の入っている部署は、後日スケジュール調整をして面談する』
『かしこまりました』
『聞きたいことが山ほどある。社内を見て回るのは、そのあとからでも構わないだろう? 時間が余ればの話だが』
『はい、それでは浅田室長にはそのように』 
 胸がすくようだった。
 さすが海外からの使者だ。やるべきことの優先順位を即座に判断する。
 会社経営のなにをわかっているわけではないけれど、この人こそ、危機の渦中にある会社の立て直しをしてくれる救世主に相応しいと、佐織は強く思った。
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