冷徹副社長との一夜の過ちは溺愛のはじまり

真蜜綺華

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1巻

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「それでは、またのちほど」

 冷蔵庫の扉を閉じたのと同時に聞こえた、のちほど。
 電話の相手とこの後会うつもりなのか。
 ああ、そういうことか、と陽奈美は肩を落とす。
 誰かここへ来るのか、はたまた彼女が相手方に向かうのか。
 まさか男ではないだろうかと、勝手な予想に胸がわずかに軋む。
 せめて父との思い出が詰まったこの場所では、母娘だけの時間を過ごしたかった。

「誰か、来るの?」

 悲しみを押し殺し、作りきれているかわからない笑顔で問う。
 すると朱美は、待ってましたと言わんばかりに顔を華やがせた。

「十七時くらいになったら、瀧さんが来て下さるわ」 

 名前を出した朱美は、ほんのり頬を染める。

「た、瀧さん!? 何で!? 」

 想定外の名前に、陽奈美の大声がリビングを震わせる。
 あの日自宅まで送り届けてくれた瀧との関係が、まさか進展していたのか。
 眩暈めまいがするような衝撃に、開いた口が塞がらない。
 朱美は飄々ひょうひょうと、さらに驚くべきことを言い出した。

「実はあちらの別荘にお呼ばれしているの。夕飯はそちらでご馳走になろうかなって」

 瀧との関係は当然反対すべきではない。母親の第二の人生のパートナーが誰であれ、受け入れる覚悟をしなければいけないと薄々は思っていた。
 だが、陽奈美が今一番に危惧きぐするのは、別に想定されることだった。

「待っ、て……あちらってまさかとは思うけど……」
「高成さんのお宅よ。あちらも休暇で、たまたまこっちにいらしてるんですって」

 既視感のあるやり取りだ。

「賢正さんもいらしてるらしいから、お話しさせていただけるチャンスよ。先日の誤解も解かなくちゃ」

 これは、偶然などではない。
 彼女は最初から目論んでいたのだ。
 賢正の態度を見て以来、ぱったり何も言わなくなったから油断していた。
 朱美もきっと、諦めたと思っていたのに。
 彼女の中では、現在進行形で賢正との見合い話は続いていたのだ。

「誤解ってなんの誤解よ。見たでしょ? あの人めちゃくちゃ怒ってたじゃない。会社でも睨まれちゃうし、気まずいどころの話じゃないんだから」
「照れてるだけよ、きっと」

 リアルに口をあんぐりと開けてしまった。
 楽観的すぎる。
 どこをどう取ったら、あれが照れだと思うのだろう。
 明らかな嫌悪を向けられたのに、どんな顔で会えるというのか。

「とにかく、私は無理。行くならひとりで行って」
「じゃあ夕飯はどうするのよ」
「何かデリバリーでも頼むからいい」
「でももうふたりで行くって伝えちゃったから。お食事も用意してくださっていると思うし、お断りする方が逆に失礼よー」

 余計なことをしないでもらいたい。
 こっちは身バレしているのだ。
 滅多にないことだとしても、会社で顔を合わせる身にもなってほしい。
 業務以外の部分であんな風に個人的な感情を向けられると、周りになんと思われるか分からない。
 好意的ではない彼の態度を見て、やれ迫っただの振られただのと噂になる可能性は十分にあるわけで、そのうち会社で肩身が狭くなるのは想像にかたくない。
 余程の理由がない限り、ドタキャンの印象が良くなることはまずない。失礼極まりない人間としてのレッテルを首から下げておくか、気まずいだけの存在であるべきかを天秤にかけた。
 どちらであってもプラスの要素はなくて、せめてマイナス値の軽度な方にしたかった。

「副社長も振り回されて迷惑なはずだよ。そっちの方が申し訳ないよ。今回はあちらのお顔を立てて行ってもいいけど、本当にもう余計なことしないで、お願いだから」
「余計なことって何よー。ただお食事しましょうって言ってるだけなのに」

 つくづくあざとい人だと思う。
 持ち前の愛嬌で、悪さをしてもお茶目に見えるからタチが悪い。
 溜め息を吐いて頭を抱える。
 できる限り賢正との関わりは避けようと決めたばかりだったのに。
 彼にとっても迷惑な話だろう。
 どうせ顔を合わせるのなら、せめて母の勝手な行動を娘として詫びておこう。
 立っているだけで威圧を感じる彼の姿を想像しただけで体が震える。
 彼は地位のある人間だ。ひたすら謝罪の態度を示せば事態は次第に落ち着くはずだ。
 今後ひとりで生きていく人生のためにも、ここが踏ん張り時だ。

(なんでこんなことに……)

 なんだか力の入れどころが違うような気がしながらも、穏やかな日常を過ごせるよう、抱えた頭にその算段をシミュレーションした。


 *


 十七時にもなるのに、陽射しはまだまだ激しく照り付けている。
 外に出ると、熱を持った空気に囲まれすぐに汗がにじんだ。

「お待たせいたしました」

 別荘前の駐車スペースに待っていたのは、以前朱美を送り届けてくれたあの黒い車だった。
 瀧は、カジュアルなブルーのシャツに薄手のジャケットを羽織り、スラリとした白いパンツで爽やかなオフのスタイルで現れた。
 普段のかっちりとしたスーツ姿もかなり二枚目な雰囲気だが、プライベートの彼も母娘で頬を染めるくらいには決まっている。
 イケメンのギャップはズルい。

「お荷物お預かりいたします」
「あ、ありがとうございます」

 朱美は緊張した様子で、瀧に小ぶりのクーラーボックスを預けた。
 中身は彼女お手製のグレープフルーツのジュレだ。
 別荘へ到着してから、約束の時間までに見事に仕上げた。
 料理教室に通っていただけあり、腕前はそれなりにある。
 瀧は陽奈美への気遣いも抜かりなく、後部座席のドアを開いて乗車を促した。
 会社は全社的に休みのはずだが、秘書課の瀧は仕事さながらに振る舞う。
 エアコンの効いた車に乗り込み、陽奈美と同じことを考えていたらしい朱美が彼に声をかけた。

「瀧さん、夏休みもお仕事されていて、大変ですね」
「いえ、仕事ではありませんよ。高成様ご一家は、私を家族のように扱ってくださるので、私にとっても今日は休暇ですから」

 忠誠心が強いのか、本当に家族のようなものなのか、陽奈美達の送迎を苦とは思わないらしい。

「でもわざわざお迎えに来ていただいて……申し訳ありません」
「送迎は私が申し出たことですから、お気遣いなく」

 瀧はバックミラー越しに、一瞬ちらりと後部座席を見て目を細める。
 陽奈美とは目は合わず、「ありがとうございます」と上擦った声で御礼を言う朱美の様子を、彼は気にしていたような気がした。
 近所とはいえ、別荘同士は歩くには少し距離がある。
 車なのでほんの数分で到着し、じわじわ迫り来る緊張が陽奈美の背筋を伸ばさせた。
 丘の上に建つ高成家の別荘は、三条家のそれよりうんと豪奢ごうしゃだった。
 二階建ての建物がL字に庭を囲み、鮮やかなオレンジの洋瓦が真っ白の外観に映える。
 壁を大きく切り取った全面のガラス窓からは中の吹き抜けのリビングの様子がはっきりとうかがえ、プライベートを守られた立地ならではの造りだ。
 駐車スペースから玄関まで、芝生に埋まる石畳が規則正しくずらりと列を成す。
 車から降りて振り返った先の水平線は、まさしく独り占め状態。
 先導する瀧に続いて進む右手には、森を背景に大きなプールが水面を煌めかせていた。
 人が集うための空間が造られているとわかる。
 陽奈美達が招待されたように、高成家の人々はとても社交が好きなのだろう。
 一部例外も居そうな気はするけれど。

「お連れしました」

 インターホンを鳴らした瀧。
 背の高い玄関は、南国を思わせるアースカラーの観音開きでとてもハイセンスだ。
「はぁい」と聞き覚えのある声が返答した。
 楽しげな声音に、叶恵が陽奈美達の来訪を待ちかねていたことが分かって少し気が楽になる。
 しかし、ここに居るのはもちろん彼女だけではない。
 緊張の糸がピンと張っていて、触れるだけで卒倒しそうだ。
 現れた叶恵は、モスグリーンのノースリーブワンピースで、およそ五十代とは思えない若々しさだ。

「お招きいただきありがとうございます。こちらお食事の後にでも」
「あらあら、お気遣いいただいてありがとうございます」

 瀧が持つクーラーボックスを掌で示す朱美の傍らで、陽奈美は丁寧に頭を下げて挨拶をする。

「お久しぶりです。先日はお時間をいただきましてありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ。ごめんなさいね、息子があんな態度を取っちゃって。でもよかったわ、陽奈美さんもいらしてくれて。ささ、入って」

 高成家の別荘は、格段に広かった。
 玄関からリビングにかけて吹き抜けが続き、L字に造られたリビングの奥には絶景のオーシャンビューが広がっていた。
 リゾート開発を行っている会社を創業しただけのことはある、デザイン性の高い建物だ。
 通されたリビングのソファにしずと腰かけると、二階の方から声が掛けられた。

「三条さん、ご無沙汰しています」

 母娘ともにリビング階段を振り返る。
 二階から降りてきたのは、会社でもそうそう見ることはないグローイングリゾートの現社長。
 賢正の父・正清まさきよだ。
 賢正によく似たすらりとした躯体と、年を重ねた威厳により圧倒的な存在感を放っている。
 休暇中のプライベートな時間とはいえ、自身が勤める会社の社長が現れたのだから、緊張しないわけがない。
 陽奈美は朱美とともに立ち上がり、深々と頭を下げる。
 歩み寄る気配に固まりながらも、優しく声を掛ける正清に姿勢を正した。

「そんなにかしこまらなくても構いませんよ。陽奈美さんは、うちの会社の社員だとか」
「はい、広報部に所属しています」
「聞いたよ、先日はすまないことをしたね。愚息が不躾ぶしつけな態度を取ったようで」
「とんでもございません」

 本当に不躾ぶしつけだったとは、口が裂けても言えない。
 けれど、考えてみれば賢正も母親たちに振り回されたのだから同情する。
 忘れていたわけではないが、その彼も今ここにいるのだ。
 会社で受けたあの強い眼差しと嫌悪を思い出し、身震いする。
 怯える陽奈美に構わず、正清は賢正がどこにいるのかと叶恵に問う。

(私としては急いで呼ばなくても大丈夫なのですが)

 彼がいるとわかっていて来たのは陽奈美だが、本当はなるべく顔を合わせたくなかった。
 しかし心の訴えも虚しく、足音が階上から聞こえてきた。
 そちらを振り向けず、迫る気配に身構える。

「こんにちは」

 聞こえたのは、明らかな余所行き用の低音。
 陽奈美の知る限りこんなに落ち着いた雰囲気は、会社の総会か、もしくは先日の取材の最中くらいにしか聞いたことがない。

「こんにちは、賢正さん。先日はお忙しい中大変失礼いたしました」

 朱美にならい、陽奈美もそそと頭を下げる。
 極自然に、目を合わさないように。

「いえ、失礼を働いたのは僕の方です。お忙しいのは三条さんも同じだったはずなのに、こちらの都合ばかりを押し付けて、大変申し訳ございませんでした」

 朱美の向こうで、賢正が粛々と頭を下げる。
 あの苛立った様子を微塵も感じさせない低姿勢だ。
 こんなしおらしい言い方もできるのだと、拍子抜けする。

「さあさあ、立ち話してないで、お茶をれましたから」

 着席を促す叶恵は、人数分のグラスをトレーに載せてくる。
 再び腰を下ろすタイミングで、先に座った朱美の向こうにいる賢正とふと目が合った。
 見るつもりなんて全くなかったのに、つい目を見開いてしまった。
 すると、今まで穏やかに話していた賢正の目元が、わずかにひくついたのを陽奈美は見逃さなかった。
 流れるようにすっと目を逸らしたけれど、陽奈美に対する明らかな嫌厭けんえんが見えて唖然とする。
 さっきの謝罪は何だったのか。
 彼の視界から追い出された陽奈美は、思い切り口端を歪めた。

「陽奈美さんも、粗茶ですがどうぞ」

 叶恵の声かけにはっとして姿勢を正すが、素知らぬ顔で対面に着席する賢正に沸々と反発心が湧く。
 そこまで毛嫌いされるようなことはしていないはずだ。
 彼が不快に思っているのが広報での一件とお見合いについてなら、不可抗力だ。
 大企業を担う人間が、そこを一緒くたにするのだとしたら、がっかりだ。
 賢正は仕事には一切の妥協を許さず、実質的な会社のトップは社長の正清ではなく彼であると誰もが認知している。
 それがどうだ。
 彼のパーソナルな一面を見ると、なんとも感情的な人間ではないか。
 しかもこちらに非があるわけではないのに、だ。
 そちらがその態度なら、陽奈美も相応の対応をさせてもらう。
 そもそも家族同士が仲良くしているとはいえ、婚姻関係に発展させる必要はないのだから、副社長と一社員の一線を越えることはないのだ。
 当たり障りなく、今日を乗り切るだけで、明日からも平穏な日々を過ごせる。
 朱美と叶恵の体面は守られたのだから、陽奈美がこれ以上気を遣うこともないだろう。

(副社長とは、会社で会うことはほとんどないんだから)

 陽奈美の存在を不快に思うかもしれないが、それをいちいち気にするのは精神衛生上良くない。
 賢正が視線を逸らしたように、陽奈美も素知らぬ顔で出された冷茶を啜る。
 夕食が済んだら先に別荘に戻ろうと考えながら、圧倒的な存在感を放つ賢正の気配を意識の外へと追いやった。


 *


 二階までの吹き抜けのリビングは、一面のガラスの向こうに黄金色に煌めくサンセットを臨む。
 程なくして太陽は沈み、夜がやってくる。
 暗幕を引き始める空の下、持て余すほどの大きなダイニングテーブルで、高成家と三条家は向かい合って談笑していた。
 過去の思い出話に花を咲かせながら、高成家が用意したシェフのバーベキュー料理に舌鼓したつづみを打つ。
 ローストビーフにヒレステーキ、大きな貝がら付きのホタテとお頭づくりの伊勢海老。
 高級レストランで食べるものに引けを取らない豪華な料理が次々と運ばれ、テーブルを埋め尽くした。
 遠慮しなくていいという正清の言葉に甘え、陽奈美もサーモンのカルパッチョをオーダーする。
 形ばかりの資産家の三条家では、近年自宅にシェフを招くことはなかった。
 父が健在の時には、年に数度ほど誕生日などの記念の日には呼ぶこともあったのだが、やはり母娘ふたりの生活では派手な振る舞いは自然となくなっていた。
 高成家ではこういったことは日常なのだろう。
 正清に話しかけられたときにだけ口を開く賢正は、慣れた口ぶりでシェフにオーダーし、テーブルの端で静かにワインをあおっていた。

「ふたりの好みを詰め込んだ別荘だったので、なかなか決心がつかなくて。再訪するまでこんなに時間がかかっちゃいました」

 お酒が入り頬を染めながらも、物憂げな瞬間を垣間見せる母の横顔。
 あまり母の本心を聞いたことがなかったが、叶恵にであれば心をさらせるのだろう。
 母娘ふたりきりで生きて来たけれど、明るく振舞うのは陽奈美のためだったのだと気づく。
 何度だって思う。ここに父がいてくれたら、きっともっと楽しかったに違いない。
 どんなに嘆いても現実は変わらないとわかっている。
 もちろん朱美もそれは承知していて、その痛みと向き合うために今日はここへ足を運んだのだ。

「これからはいつでも予定を合わせて来ましょうよ。きっと楽しいわ」

 そんな決意に賛同してくれているのか、叶恵は朱美に明るく接してくれる。
 彼女に再会できてよかったと、嬉しそうな朱美の横顔を見て微笑ましく感じた。

「陽奈美さんもぜひご一緒に」
「ありがとうございます」

 ここで、賢正がいないときに、などという空気を読まない発言はしない。
 向かい側でグラスをあおる彼の姿が視界の端に映る。
 圧倒的な気配に、せっかくの料理の味がしたりしなかったり。
 緊張を誤魔化そうと口をつけているシャンパンはフルーティーで、ジュース感覚で飲み干した。

(高そうなシャンパンなのに、贅沢してるな……)
「陽奈美さん、そのシャンパン気に入られました?」

 叶恵がおかわりを頼む陽奈美に気づいた。

「はい、お酒には詳しくないんですが、とても飲みやすくて美味しいです」
「懇意にしているシャンパーニュの農家さんが作られているものなの。地元でしか販売されてないから、日本にはないものなんですよ」
「えっ、そんな貴重なものをいただいてよかったんですか?」
「いいのよ、たくさん買い付けてきたから。よかったら、一本お土産にお持ち帰りになって?」
「そんな、私には贅沢すぎます」
「そんなことないわ。瀧さん、一本包んでおいてくださいますか?」

 まるでギャルソンのように動き回っていた瀧が、陽奈美にシャンパンを注ぎながら「承知いたしました」と答えた。
 すみません、と恐縮しながら、頬の火照ほてりを自覚する。
 もう一口飲んだシャンパンはやっぱり美味しくて、癖になりそうだ。

「十四年前も十分素敵なお嬢さんだったけれど、さらに磨きがかかって美しくなられましたね」

 正清が上機嫌に陽奈美を褒める。

「とんでもありません」
「しかも謙虚と来たものだ。お父上の人柄の良さをしっかり受け継いでいらっしゃる。真面目な彼のように勤勉だし、なかなかこんな素敵な令嬢は見掛けないよ」
「そんな大そうなものではありません。料理もお茶もお花もできないですし、何か飛び抜けているわけでもない普通のOLです」
「君のご家庭であればわざわざ働くこともなかっただろうに。どうして就職を?」
「あなた、そんな面接みたいなこと聞かなくてもいいじゃない」

 叶恵が正清を止めるが、酒のおかげか堅苦しい感じはせず、素直に答えられる。

「いえ、構いません。入社面接に立ち会ってくださったのは人事の方でしたので、社長にこういったお話をさせていただく機会はありがたいです」

 自立して生きていくと決めるまでも不安はあった。
 けれどそれは誰しも同じことで、自分を養ってくれる親はいつまでも健在ではないし、家の資産だけで生きていける人なんて数える程だ。
 就職活動をしていたあの頃のがむしゃらな思いがよみがえった。
 今だって、日々精進しながら業務に取り組んでいる。

「母も、私が大学を卒業したら、名家のご子息と結婚させるつもりでいたようですが、私は社会に出て働きたいと思ったんです。もちろん実家を守っていくことも大切な義務だと思っています。ですが、家の名前に囚われない、自分の価値を社会の中で見てみたかったんです。結婚も幸せの形としては選択肢の一つでしたが、自分の力だけでどれだけ立っていられるか、そういうことを一度経験しておきたかったんです」

 本当は生涯独り身を貫こうと思っているなどとは言わない。
 共感されないことはわかっているからだ。

「そんな中でグローイングリゾートの【歴史と未来、人々の幸せを守り育てる】という企業理念は心に響きました。もちろん他の企業様にも面接の機会をいただきましたけれど、活気のある社風となにより社員の方々が活き活きと働いていらっしゃるのを目の当たりにして、ここで働きたいと強く思いました」

 正清に話しているのに、テーブルの端の方から強い視線を感じる。
 何も恥ずかしいことは口にしていないが、賢正から送られる視線には怯えてしまう。
 やはり、先日の一件でトラウマレベルの恐怖心が染み付いてしまっているようだ。

「これだけ芯のしっかりしたお嬢さんはなかなかお見掛けしないよ。陽奈美さんさえよければ、うちの愚息を支えるパートナーになってくれたら、こんなに心強いことはない」

 急に出てきた賢正の話に、ぎょっとして思わず顔を向けてしまう。
 同じように驚いた様子の賢正とばっちり目が合うなり、ともにぱっと視線を外した。

(結婚を断固拒否した副社長のパートナー!? 今トラウマを確信したばかりなのに、毎日怯えて暮らすなんて、そんな人生は嫌ぁ)

 親たちの前で嫌な顔などできるわけもなく、にこにこと笑顔を作り、シャンパンで喉を潤わせる。緊張とトラウマを誤魔化す自棄酒だ。
 別に自分を売りこもうとしたわけではないのに、不覚にも好印象を与えてしまった。
 だけど、自分の選んだ道を嘘でも貶したくなかったし、間違いはなかったと思っている。これからもその気持ちは変わらない。
 それに、いくら親たちが画策したところで、結婚を考えていない者同士が結ばれることはないだろう。
 互いに格式にこだわる家系でなかったことは救いだ。
 この夏、この一夜を乗り越えさえすれば、陽奈美の思い描く平穏は無事に取り戻せるはずだ。
 親たちのお気楽な未来予想図は、贅沢なもてなしの対価と思えばいい。
 酒の席での話だと割り切って、今しがた肉塊から切り出された生ハムのサラダに手を伸ばした。


 *


 お腹がふくれたあと、各々くつろぎの時間にシフトした頃、陽奈美はトレーに載せたグレープフルーツのジュレを慎重に二階へ運んでいた。
 なぜ陽奈美にこの役を任せたのか、母親たちの思惑は簡単に見透かせた。

(食事もそうだけど、そうまでして仲を取り持ちたいなんて……)

 階段を上がった誰の目も届かないところで、ふっと溜め息を吐く。
 リビングから姿を消した賢正へ、食後のデザートを渡すという任務が課せられてしまった。
 彼からはいい感情を向けられていないのは明らかだ。
 親に乗せられたとはいえ、のこのこと見合いの席についていた陽奈美を、腰掛けで働いている仕事のできない女だと認識しているだろう。


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