冷徹副社長との一夜の過ちは溺愛のはじまり

真蜜綺華

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1巻

1-2

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 *


 十四年前。陽奈美が両親に、高校は受験をして都内の学校に行きたいと打ち明けた中二の夏。
 朱美は幼稚園からの大学附属高校に行かせたがったが、父は自分がそうだったように陽奈美が行きたいところに行けばいいと認めてくれた。
 陽奈美は父の通った高校に憧れていた。
 幼稚園から顔ぶれの変わらない学校への進学も悪くはないけれど、もっと違う世界を見てみたいと、漠然とした憧れを抱いていたのだ。
 受験は甘くないと父にも教師にも念を押されていたその頃。
 例年、三条家所有の別荘で余暇を過ごしていたのだが、その年は初めて近くにある別の所有者の別荘へ招かれた。
 近くといっても歩いて数分はかかる。互いの別荘が見える位置にはなく、双方のプライバシーは守られていた。
 故になかなか顔を合わせる機会はなかったのだが、何がきっかけだったのか当時の陽奈美は知らないまま、高成家と夕食を共にすることになった。
 覚えているのは、三条家より広いリビングで食べたパエリアと、夜空に大きく花開いた打ち上げ花火。
 談笑する二家族の中でも、互いにひとりっ子だった高成家の息子とは少し話したような記憶がある。
 それまで、父や教師以外の異性とほとんど関ってこなかった陽奈美にとって、緊張の対象だった高成家の息子。
 薄暗がりだったこともあり、直視できなかった彼の顔はほとんど覚えていなかった。

(昔一度会ったことがあったなんて……入社したときも、全然気づかなかった)

 記憶に残っていなかったのには理由がある。
 別荘から帰ってすぐ、父が急逝した。
 脳梗塞だった。
 泣き崩れる朱美に、寄り添うのが精一杯だった。
 夏の想い出を振り返る余裕なんてなかった。
 そして、泣いてばかりで何もできなくなった朱美を見て、大切な人を失うことが怖くて仕方なくなったのだ。
 だから、恋人は要らない。結婚なんてしなくていい。
 そう思っているのに、陽奈美は今、ザ・お見合いの格好でフレンチレストランの一角に座っていた。
 湾曲したガラス窓の外で、梅雨の晴れ間が青く澄んでいる。見下ろせば都会のビル群が堅苦しく寄せ集められ、土曜の昼間も気を抜けずにいるようだ。
 手元に視線を移せば、天気に見合う爽やかな淡い水色の着物が陽奈美のありもしない気合いを物語っていた。

「昔も随分美人なお嬢さんだと思ったけれど、大人になってますます磨きがかかりましたねえ」
「そうでしょう? 自慢の娘ですから」

 大きな丸テーブルの隣同士でうふふと笑い合うふたりの母親。
 朱美の隣で髪をオールアップにまとめた淑女は、賢正の母・叶恵かなえだ。
 彼の黒髪は母親譲りなのだろう。
 朱美とは違う種類のクール系美女だが、話す雰囲気はなんだか姉妹のようにそっくりだ。
 これは意気投合するのも頷ける。

「ごめんなさいね、陽奈美さん。息子は何かと忙しくて、ギリギリにしか来られないみたいなの」
「いえ、私は全然構いません」

 とは言いつつ、早朝から着付けとヘアメイクに時間を取られ、朝食べたおにぎり一個はもう腹の虫を治めきれなくなっていた。
 引き締められる帯は苦しいし、型崩れしないように姿勢を保つのもキツい。

(せめてワンピースが良かったのに……)

 朱美が自分の着物を着せたがって譲らなかった。
 父との結納でも、これを着たのだそう。
 そう言われてしまっては、見合いを成就させようとは思っていない手前邪険にできなかった。慣れない息苦しさは静かに息を吐いて堪えるしかない。
 目の前には真っ白なクロスの上にシルバーのカトラリーが上品に並んでいる。
 早く食事を済ませて、ここを出たい。
 この場限りの見合いだ。
 特別何か気に入られようとする必要はないのだから、早く終わることだけを考える。
 円形の広いフロアには、大きなテーブルが数卓しかなく、他の客との距離もあって話し声は気にならない。
 高い天井に悠然とぶら下がるシャンデリアが高級店の象徴のように煌めく中、入口の方から「いらっしゃいませ」という声が聞こえた。
 店内へ入ってくる人影に母親ふたりが気づき、嬉々として立ち上がった。
 彼女らにならい、腰を上げて振り向くと、ギャルソンに率いられる長身の男性がこちらへ向かって闊歩かっぽしていた。
 少しうつむく目元はシャープで、通った鼻梁びりょうが美しくその顔を引き締める。
 相変わらず均整の取れた躯体をダークグレーのスーツに包み、見る者を魅了する。
 うっかり見惚れる陽奈美と、まだ少し離れたところにいる賢正の目線がかち合った。
 どきりと胸を打つのは、植え付けられた緊張。
 そして、雌の本能に抗えないときめきに頬が熱くなる。
 その途端に彼は歩みを止めた。

「待っていたわよ、賢正」
「こんにちは、先日はお世話になりました」

 声をかけるふたりに、賢正はじわりと視線を移した。

「どういうことだ」

 彼が最初に発した言葉は挨拶などではなかった。
 瞬間、陽奈美は察する。

(見合いを快諾したなんて、嘘だ)

 陽奈美の姿を見て、驚いている。
 彼は、見合いだと聞かされずにやって来たのだ。
 彼の低い声に、先日の叱責を思い出す。
 怒らせようと思ったわけではないのに、自分がその一端となっていることは違いない事実。
 謝ろうにも、眉間に深く刻まれる皺に彼の明らかな怪訝けげんと憤懣の感情が見え、怖くて口を開けない。

「あなた、こうでもしないと来なかったでしょう。あ、瀧さんを怒るのはなしね」

 瀧にも共謀させていたようだ。 
 あの日と同じ、大きな溜め息が広いホールに響く。
 ギャルソンを下がらせ、三人のいるテーブルへと歩み寄ってきた賢正は、陽奈美を一瞥いちべつした。
 一瞬だけの眼差しは相当な怒気を孕み、過ちを咎められたようで酷く気落ちする。

「結婚はしないと言ったはずだ。見合いの必要も、時間もないと」

 騙されたことに憤慨している。
 ここが会社ではないことがせめてもの救いだ。
 きっと彼の戦場である職場であれば、この苛立ちに満ちた声はもっと爆発していたに違いない。

「そんなこと言わずに、せっかく時間を作ってくださったんだから、食事するだけでもいいじゃない」

 叶恵はどこまでも朗らかに、見てわかる彼の苛立ちをあしらう。

「時間を作ったのはこちらの方だ。予定していた会合を断って来た。今からでもそちらに行く」

 もう陽奈美の方を見ることはなく、きびすを返す賢正。
 またしても、陽奈美が原因で彼を怒らせてしまった。
 正確には、今日の事情をきちんと話していなかった叶恵の所為だが、言われるがままのこのことやって来た陽奈美にも彼の怒りの矛先は向いているはずだ。
 しかも別の会合を断ってまでここへ来た彼に、気に入られなければいいという軽い気持ちでいた自分を大いに恥じた。

「ちょっと賢正。仕事も大切だけど、あなた自身のことも大切にしないと。仕事をしていく上でも支えてくれる人は必要よ」

 説得しようとする叶恵の言葉は、賢正の背中に跳ねつけられる。

「こちらは構いませんよ、叶恵さん」
「いいえ、朱美さん。せっかくの十四年来のご縁なのに、こんな簡単に足蹴にされたくありませんから」

 息子が息子なら母も母のようだ。
 頑なな性格は血縁を物語る。

「覚えてるでしょう? あなたが高校生の頃、一度うちの別荘でお食事したことがあったでしょう。あのときの三条さん。大人びた陽奈美さんが中学生だって聞いて驚いてたじゃない」

 叶恵は、奥の手でも出すように彼に投げかけた。
 陽奈美はそんな昔の話に何の力があるのかと思ったが、予想だにしない反応を目の当たりにする。
 席につくことすら拒否した彼が、母親の言葉にピタリと足を止めたのだ。
 そして、おもむろに振り返るなり、彼の驚きに満ちた眼が陽奈美を真っ直ぐに捉えた。

「あれからずっとあちらの別荘にはいらっしゃらなかったって。十四年経って偶然再会したのは、これ以上ないご縁だと思わない?」

 大きく見開いた目が陽奈美を射貫き、先日のトラウマを思い出して緊張が走る。
 けれど、見た事のない賢正の動揺する姿に、血が通った人なのだと初めて彼を身近に感じた。
 そしてその原因が自分との再会にあったと思うと、他の誰とも違う存在になったようで、胸が高鳴った。
 彼に見られていることが恥ずかしくなり、じんわりと頬が熱くなる。
 そんな自分の様子を見て、彼の表情はわずか数秒の間に驚くほど変わっていく。
 何も言えずに立ち尽くすだけの陽奈美を見つめたままの目は、みるみるいとわしげに歪んだ。

「結婚はしない」

 念を押すようにただ一言、それだけを告げた賢正は、もう振り返ることなくレストランを出ていってしまった。
 周りの客もちらちらこちらを見ている気配がする。
 なんとも言えない気まずい雰囲気に、着席を促したのは叶恵だった。

「ごめんなさい、陽奈美さん。あの子本当に仕事人間で、私生活には目もくれないのよ。マンションの部屋もちゃんと帰っているのか心配で」

 「私は大丈夫です。副社長も、きっと驚かれたんだと思います。お忙しいのは私もよく分かっていますから」
 陽奈美の目論見通りとはいかなかったが、結果だけ見れば結婚はしなくて済む雰囲気だ。
 しかし、あそこまではっきり結婚を拒否されるとは思ってもみなかった。
 そもそも朱美からは見合いを快諾したと聞いていたのに。

(なんだか私が振られたような感じになった気が……)

 ほっとした気持ちもあるが、複雑だ。

「お優しいのね、陽奈美さん。陽奈美さんがあの子のお嫁さんになってくれたら凄く安心なのに」

 賢正のあの様子を見てもなお、彼の伴侶として推してもらえるのは光栄な事だが、謝罪はしつつも叶恵は懲りていない様子だ。

「あの子にはきちんと話しておきますね。せっかくだし、お料理はいただきましょう」

 もうこの話は落着したはずだ。
 これ以上の展開はないと思い、上品なフレンチを作った笑顔で黙々と口に押し込んだ。


 *


「一応話してはみたんだけど、やっぱり直ぐに査定してもらうのは難しそうなの」

 あれから数日。
 いつもと変わらない毎日を過ごす中、休憩時間に不動産営業部へとやってきた陽奈美は、ランチの誘いがてらに同期の純哉じゅんやと話をした。

「陽奈美のお母様のお気持ちもわからなくはないけどね」
「でも、ひとりで暮らすには大きすぎる。しかも十年以上使ってない別荘までまだ持っていたなんて」
「それは陽奈美がお婿を取って、資産全部継げばいいだけの話なんじゃない? 僕はそれが一番の解決策で、親孝行だと思うけど」
「純哉までお母さんと同じこと言わないでよ」

 溜め息混じりの力ない笑いをにこやかに受け止めてくれる純哉は、見た目こそ社内でも上位クラスのイケメンなのだが、中身は陽奈美が苦手意識なく話せるくらい女子だ。
 顧客の前では、自身の華を存分に活かした営業力を見せつけるやり手のイケリーマン。
 けれど、プライベートの彼は別人で、自分のパーソナルを隠さない彼に泣かされた女性達を何人見てきたことか。
 恋愛対象が女性ではない彼との友人関係は大学生の頃からになる。

「今日の日替わりはたしか……」

 純哉がスマホで社食のリサーチをしているところに、部のフロアの空気を塗り替える人物が現れた。
 営業部長と何やら真剣な面持ちで話しながら闊歩かっぽしてきたのは、賢正だ。

「ヤバい、今日もイケメン」

 スマホを抱きしめ、乙女な発言をする純哉。
 一方陽奈美は、先日の見合い未遂事件の日から初めて遭遇する彼に、緊張と恐怖、そして若干の気まずさを感じる。
 けれど、三百はいる社員の中で、彼との接触はこれまでほぼなかった。
 しっかりとあの鋭い眼光で貫かれたのは二回きり。
 レストランでだって、自社の社員と気づいた様子はなかった。
 仮にあのあと陽奈美が社員だと聞かされていたとしても、あの拒否の仕方を見れば、顔を覚える以前の話だと思う。
 陽奈美が平然としていれば、賢正が気づくはずはない。
 そう思っていたのに――
 ランチに出る社員達がいちいち彼らの横で立ち止まり、話し込む賢正と営業部長に挨拶をしていく。
 その流れに紛れ早くこの場を離れたくて、賢正に見惚れる純哉を置いて足早に通過する。
「お疲れ様でぇす」とか細い声で頭を下げたところで、真剣な話をしている最中の賢正が、ふと会話を止めた。
 何の沈黙か自分には関係の無いものだと彼らの脇をすり抜ける陽奈美は、突き刺す視線の気配を感じた。
 シックスセンスとはよく言ったもので、五感のどれも情報を得ていないのに、賢正の強い視線が陽奈美に向けられているとわかった。
 気づかれるはずがないとタカをくくっていた陽奈美は、強い気配に思わず顔を上げる。
 視線を向けたその先では、営業部長と話していたはずの賢正が、先日と同じように目を見開いて陽奈美を見ていた。
 刹那、空気が止まる。
 そう感じたのは恐らくふたりだけだ。
 ――バレている。
 冷や汗が背を伝い、踏み出す足を鈍らせる。
 またあの断固拒否の意思をぶつけられるのかと無意識に身構えると、瞬きもしないうちに、彼の目が細められひくりと不快そうに歪んだ。
 一秒もしないほどの時間。
 その僅かな合間に、ふたりの間で起伏の激しい感情が往来した。
 目を逸らすのも、逸らされるのも同時。
 なぜか陽奈美を非難している気がして、モヤモヤとした後味の悪さが残る。

「ええ、たしかにグローリー開発と――」
「それが確かなら――」

 陽奈美などいないかのような彼らの会話を背中で聞く。
 確かにここで微笑んだら不自然極まりないだろうし、スキャンダルの元だ。
 接点を公にしないのは正しい行動である。
 それにしても、あそこまで嫌悪をあらわにしなくてもいいのではないかと思う。

(私、何かしたっけ?)

 業務上の過失ならまだ話はわかる。
 だが、彼のそれは、レストランでの出来事が起因となっているに違いなかった。
 彼にとってあのお見合いは、陽奈美の顔を覚えるほど不快な出来事だったのだろう。
 結婚を望んでいないなら、その点に限っては気が合う。
 母達が目論むような展開になる可能性は一ミリだってない。
 それなのに、彼のあの態度は腑に落ちない。

(どちらかというと、はっきり断られた私の方が不快に思ってもバチは当たらないはずなんだけど)

 それでも彼は、陽奈美の上司だ。
 副社長という圧倒的権力の持ち主。
 盾つこうものなら、ここまで積んできたキャリアが頓挫とんざしかねない。
 大人しく、平和に人生を謳歌するに限る。
 生涯独身と決めているのだから、仕事を失くすわけにはいかないのだ。

「はあ、一度でいいから副社長に抱かれてみたい」

 うっとりと頬を染めた純哉が追いついてきた。
 女嫌いの賢正なら、可能性はあるのではと思いながら、もう彼とは関わらないに越したことはないと陽奈美は密かに誓った。



    第二章


「久しぶりに行ってみましょうよ、別荘」

 朱美がそう言ったのは、数週間前のことだ。
 陽奈美の夏休みに合わせて、十四年間足を運んでいなかった別荘にもう一度行こうと言い出したのだ。
 てっきり、朱美は父との思い出の場所に行くのは辛いのではないかと思っていた。
 この間の高成家の見合い未遂事件まで、チラッとも別荘のことは口にしなかったくらいだ。
 辛いことに変わりはないだろうが、大切な場所だ。

「陽奈美もあの素敵な場所を思い出せば、手放すなんて考えはなくなるわよ、きっと」

 陽奈美はそれまですっかり別荘の存在を忘れていた。
 賢正との話がなければ、まだしばらくは思い出さなかっただろう。
 自宅同様、管理会社に任せっきりの別荘もまとめて売却しようと言った陽奈美に、返ってきた朱美の回答がそれだった。
 意外と頑固な彼女に押され、陽奈美は今、タクシーで沿岸の道路を走っている。
 避暑地とはいえ、真夏の陽射しは強い。
 けれどそれをものともせず、眼前に広がる海はきらきらと爽やかに水面を弾けさせ、都会の夜景よりもずっと雄大で神聖さすら感じる。
 流れる車窓の景色がなんだか懐かしく思えるのは、少しずつ昔の記憶がよみがえっているからだ。 
 大きなカーブを曲がったあと、その先に見えてくる長く続く白い砂浜。

「ここ、なんとなく覚えがある」
「別荘に来た時はいつもそこで海水浴していたわよ。陽奈美が小学生くらいまでだったかな」

 例年大勢の海水浴客が訪れる場所らしい。
 あちこちにカラフルなパラソルが立ち、大人も子どもも浮き輪を抱えてはしゃいでいる。

「今日はここで花火大会がありますよ」

 最寄り駅から送迎してくれているタクシー運転手は、ふたりに地元ならではの貴重な情報をくれる。

「あら、そうなんですか? 前に来た時もちょうど花火大会の日に当たった時があったわね。今日はなんだかいいことがありそうね」

 花火大会と聞いて、陽奈美は強く思い出した記憶があった。
 あれは、夏の夜のバルコニーだ。
 涼しい夜風に吹かれながら、打ち上がる大きな花火を見た。
 間近で花開いた絢爛けんらんな火花に、とても感動したのを覚えている。

「たしかあの日に高成家とお食事したのよね。リビングからでも案外近くに見えて」

 そうだ。思い出した。
 陽奈美が花火を一緒に見たのは、家族とではなかった。
 しかも、あの日夜空を見上げたバルコニーは三条家の別荘でもなくて、隣に腰掛けていたのは――

「あ、運転手さん、そこの脇道に入っていただけますか」
「承知しました」

 暗がりの中に思い出そうとした人物の姿は、朱美の声でかき消えた。
 彼女の指示通り、タクシーは両側を木々に囲まれた丘の方へ上っていく。

「久しぶりね、本当に」

 目を細めて外の景色に思いを馳せる朱美は、父との思い出を回顧しているのだろう。
 陽奈美も忘れていただけで、林道の緩やかな坂と大きなカーブはよく知っている景色だった。
 開けた場所に出ると、そこには大きな一軒家がある。
 自宅ほどまでではないけれど、コンクリート造りの建物だ。
 自然溢れる景観の中に、圧倒的な違和感でそびえ立つ二階建て。
 きちんと管理会社に任せていただけに、磨き上げられた大きなガラス窓が午後の陽光を跳ね返し今も現役の風格を漂わせている。

「懐かしい」

 潮風の匂いを感じながら降り立った陽奈美は、別荘を見上げ思わずこぼした。

「思い出してくれた? あっ、すみません」

 誇らしげに言う朱美は、運転手が下ろすスーツケースを慌てて引き取る。
 一泊二日のふたり分の荷物は、前来た時よりもぐっと少なく感じた。
 タクシーを見送ってから、十四年ぶりの別荘へ足を踏み入れる。
 中は適温に保たれ、真夏の熱気を感じさせなかった。
 真っ白の壁に囲まれた広い玄関ロビー。
 二階まで高く取られたガラスの明かり取りから、差し込む陽射しで満たされる。
 それまで気丈に振舞っていた朱美は、吹き抜けの玄関で震える深呼吸をした。

「ただいま」

 ぽつりと呟き、鼻をすする音が小さく響く。
 父との思い出がよみがえったのだろう。
 そして、もう三人で来ることはできない場所に、切ない気持ちが溢れたのだ。
 陽奈美も父と来た時のことを思い出した。
 記憶の中の父は、家族三人分の大荷物を一手に引き受けてくれていた。
 今回は一泊だけれど、あのときは何泊かしたんだろう。
 しばらくの休暇にほころぶ父の笑顔が見えた気がして、胸がきゅっと締め付けられた。

「綺麗にしてもらっていてありがたいわね。お風呂もキッチンもすぐに使えるそうよ」

 ボアのルームシューズに履き替え、大理石の床によく映えるアイアンのスケルトン階段で二階に荷物を運ぶ。
 二階の廊下は壁一面がガラスになっていて、照明はなくても外の明るさが十分行き届く。
 覚えている。
 陽奈美が使う部屋は、すぐ左手の扉だ。
 最奥の部屋を両親が使っていた。
 その手前を左に行くと、バルコニーがある。
 一旦荷物を部屋の前に置き、記憶を辿るようにそちらへ行ってみた。
 解錠した扉を押し開けたその先は殺風景なコンクリート造りで、柵の向こうに煌めく海が見える。
 覚えこそあるけれど、花火を見たあの場所ではない。
 やはりここではなかった。
 朱美が言っていたように、あれは高成家の別荘だったのだ。
 不意に脳裏を過る賢正の不機嫌な顔。
 何も悪いことはしていないはずなのに、なんだか気が引ける。
 あの顔を見たからか、朱美はあの見合い未遂から彼の話題を出すことはなかった。
 あとは陽奈美が会社で彼を上手くかわしていけば、事件のほとぼりはいつか冷めるだろう。
 荷物を部屋へ置いてリビングへ降りると、朱美は誰かと連絡を取っていた。

「先ほど着いたばかりで。ええ、そうらしいですね。今回もだなんて、やっぱりご縁があるんですねえ。はい、こちらはいつでも」

 彼女の友人関係はほとんどわからない。
 仲良さげに話している朱美を横目に、少しだけ持ってきた食料品を冷蔵庫に入れておく。
 食パンにハムとチーズ。
 サラダ用のトマトと葉物の野菜という朝食分だけの買い出しを疑問に思った。
 夕飯はどうするのかと尋ねた時、朱美は一瞬目を泳がせた。
 彼女が隠し事があまり得意ではないのは陽奈美もわかっている。
 どこからかシェフを呼ぶつもりで、その贅沢を陽奈美に怒られると思ったのか。
 十四年ぶりの別荘なのだから、少しは奮発しても何も言わないつもりだったが、予想は見事に裏切られた。


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