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9 ダイナー
しおりを挟む時刻は午後八時近かった。肌寒い夜の闇を、車のヘッドライトが切り裂いていく。
助手席に座っていたフィルは、闇の中、遠くに転々とした明かりがあることに気づいた。それまで闇と、途切れることのない道路ばかり見続けていたフィルは思わず身を乗り出す。
すると運転席のグレッグがこちらへ身体を寄せてきて、耳打ちするように告げた。
「さぁ、サングラーへようこそ。とりあえずどこかで何か食べよう」
グレッグは町に入ってすぐ、「サンディーズ」というダイナーの駐車場へと車を滑り込ませた。闇の中、赤とオレンジ色のネオンサインがきらきらと光っている。
グレッグに続いてフィルは車から出ようとしたが、地面に足を下ろした瞬間、がくんとその場に座り込んでしまった。剥き出しの足がアスファルトに擦れて少し痛む。
「おいおい、大丈夫か!」気づいたグレッグが慌てて駆け寄ってきた。
「すみません、身体に力が入らなくて」
彼の腕を借りて立ち上がりつつ、フィルは昨日の夜から何も食べていないことに気づく。結局独力では歩き出せず、グレッグに引っ張られるようにしてダイナーへと入った。
グレッグか片手で扉を引き開けると、ちりんちりんっと鈴の音がした。ふわっとした暖かい空気が二人を出迎え、同時に料理の匂いが空腹の男達の手を引く。明るい照明が白と黒のブロックチェックの床を照らし、前の客が払い落としていった食べかすが、テーブル席の影にそっと身を潜めているのが見えた。
グレッグにテーブル席へと誘導され、フィルはテーブルを支えに立った後、すぐ倒れ込むように座った。裸足の裏が重圧から解放される。グレッグもどさりと席に着くと、大きな溜息をついた。大きな身体がさらに大きく膨らみ、その後で少しだけ縮む。
「やれやれ、さてと」彼はメニュー表を掴んで広げた。
フィルは首だけを動かして周りを見渡す。狭い店内には他にも客がぽつぽついた。カウンターにはコーヒーを片手に、天井に設置されたテレビを見る男。遠くのテーブル席には、スマホを横に置き、ステーキを静かに食べている中年の男。店内は落ち着いた状態だった。
「ほら、あんたは何を注文する?」
「あ……」グレッグからメニュー表を受け取った時、フィルは手持ちが一銭もないことに気づいた。どうしようかと固まっていると、ふいにグレッグがふっと微笑む。
「ここは俺が奢るよ。俺とあんたの出会いの記念だ」
「でも……」
「そうさせてくれ。それに何だか懐かしくてな」
そう言ってグレッグは厨房の方へさっと手を上げた。すると、赤と白のストライプのユニフォームを着た、どっしりとした体躯の女性がずんずん歩いてくる。彼女の持つコーヒーポットの中身が揺れていた。フィルは慌ててメニューに目を通す。グレッグがステーキを注文し、それに続いてフィルはオニオンスープを注文した。
女性がコーヒーを置いて立ち去ると、グレッグはカップを持ち上げて一口飲んだ。
「昔を思い出すよ。オギー坊にも、何度か飯を奢ったことがあってな」
彼はカップ越しに目を細めた。「最初は、餌を取られてたまるかって感じの野良犬みたく警戒されたがね。でも、あの食いっぷりは最高なんだぜ。あんた、見たことあるかい?」
フィルは何度も頷いた。忘れもしない。彼を夕食へ招待した夜。作りすぎてしまった料理を平らげていくオギー。彼が愛おしくて堪らなかった。笑って、触れて、幸せだった――
「僕は彼を愛してる」頬を伝い落ちていく涙が熱かった。「それを彼に言えなかった……言わなかったんだ。怖かったから……」
「それはあいつが、今朝のあの警官みたいに襲ってくると思ったからか?」
「違う!」
首を激しく横に振った時、両目に溜まっていた涙が弾け出た。視界が輪郭を取り戻すと、フィルはグレッグを半ば睨みつけるようにして見る。「彼の過去は今朝まで知らなかった……知っていたとしても、僕に彼を恐れる理由なんてない! だって――」
そこでフィルは一度言葉を切り、濡れた目元を手の甲でごしごしと拭った。深呼吸をした時――ふいに込み上げてきた笑みを涙で濡らしながら、再びグレッグを見やる。
「彼は最初、僕の金魚を助けるために部屋へやって来たんですよ」
「わははは! 金魚か! そりゃいい!」
グレッグはカップを持ったまま、身体を仰け反らせて笑った。フィルも笑った。笑って目を細める度に、目に溜まっていた涙が弾けて出て行く。その涙が乾く頃、ウエイトレスの女性がやって来て、二人が頼んだ料理がテーブルへと並べられた。
フィルはオニオンスープを覗き込む。半分に切られたオニオンが、黄金色のスープに浸かっていた。香ばしい匂いが漂い、それが温かい湯気に乗って鼻孔へと流れ込んでくる。スプーンを突っ込んでぐるりと回してみると、柔らかく溶け出したオニオンの下から、スープをたっぷり吸って重くなったパンが出てきた。スプーンでパンを少し崩し、スープとオニオンと一緒にして口に運ぶ。身体中がぽっと熱くなるような感覚がした。
「あんたも美味そうに食べるなぁ。うんうん、いいことだ」
グレッグは満足げに頷きながら、ナイフでステーキを大きく切った。それをフォークで刺して口の中へと押し込む。頬が丸く膨らみ、すぼめた口からは肉の脂身がひょっこりと見えたが、それもやがて口の中へと消えていった。グレイビーソースがぽたりと皿へ落ちる。
「オギーも、ちゃんと食事をとっているでしょうか?」
ふいに胸に蘇った不安の冷たさが、スープの暖かみの中で悪目立ちする。
ステーキを飲み下したグレッグは、少し考え込むように視線を落とした。ナイフとフォークは握ったままだったが、皿に両脇に触れているだけだ。
「……まだこの町へ来ていないということは、車やタクシー、バスを使っているわけじゃなさそうだ。急に飛び出してきたから、手持ちの金がないのかもしれん。あんたみたいにな」
「そんな」フィルは思わず身を乗り出した。「彼が出て行ったのは夜明けです。まさか一日中飲み食いせず、歩いてここへ向かっているなんて……」
「決めつけてはない。かもしれないって話だ」
グレッグは二切れ目のステーキを口へと押し込む。しかし、咀嚼する彼の表情は厳しく、まるで汚い雑巾でも食んでいるようだった。
フィルはどうしても食事を続けられない。黄金色に輝いていたはずのスープは、今や冷えた廃液のように見える。黙っていると、グレッグがテーブルをこんこんと叩く振動を感じた。
「聞いてもいいか」グレッグはナイフとフォークを置く。「オギーはどうして、あんたの元から飛び出すようなことを? あのヤバい奴に追われていたからか?」
「いいえ……僕が前のパートナーとの関係を、断ち切れていなかったせいです」
「それを知ったからか……」
「僕は彼にこのことを知られたくなかった。こんな問題に巻き込みたくなかった――でも知られてしまったその日、僕は問い詰めてくるオギーを突き放しました……あぁ、僕は彼に謝らなければいけない。何もかも僕のせいなんです!」
後悔の念が込み上げてきて、フィルは持っていたスプーンをぎゅっと握り締めた。その瞬間、手首に小さな痛みが走り、思わず顔をしかめる。見下ろした手首に目立った傷はないが、皮膚の下で何かが軋んでいるようだった。
「こんな僕が追いかけてきたところで、オギーには迷惑なだけなのかもしれません」
すると、グレッグがまたテーブルをこんこんと叩いた。
「そんなことねぇさ。あいつはあんたに怒っちゃいないし、恨んでることもないだろう」
「どうしてそう言えるんです?」
「メールの文章を覚えているか? あいつは『俺は戻らないといけない』と言ったんだ」
ぴんと来ないフィルが首を傾げ、グレッグが「つまりな――」と口を開きかけたその時、グレッグのポケットに入っていたスマートフォンがけたたましく鳴りだした。
「俺だ。どうした」
グレッグは素早くスマートフォンを耳に押し当てる。フィルは彼の厳めしかった表情が、みるみる驚きの表情へと変わっていくのを目の当たりにした。グレッグの目が大きく見開かれ、視線が合った時、フィルは少しほっとして微笑みかけさえした。しかし通話を切った後のグレッグの口から飛び出してきた言葉で、浮かびかけた微笑みは凍りつく。
「……病院からだ。通報があったらしい。町の外で、頭から血を流して倒れていた男が発見されて、発見者が病院へ運んでいるらしいが……そいつが、もしかしたらオギーじゃないかって……」
フィルとグレッグは食事の代金をテーブルに置き去りにし、大急ぎでダイナーを飛び出した。車に乗り込んで駐車場から出て行く時、グレッグが急にアクセルを踏んだせいで、フィルの身体はシートに押しつけられる。さらに道路へ出る時、グレッグは急ハンドルを切った。フィルが驚いてグレッグの方を見ると、彼の顔はすっかり生気を失っていた。目は見開かれていて、呼吸も荒い。
「グレッグ!」
道路の先に信号機の赤い光を見た瞬間、フィルは咄嗟に彼の分厚い肩に縋り付いた。
するとグレッグははっと鋭く息を吸い、慌ててブレーキを踏んだ。車は停止線のすぐ手前で停まり、車内に差し込んできた赤い光が二人の顔を照らす。
「すまねぇ……」グレッグは大きな掌で目元を覆った。「昔からそうなんだ。あいつは無茶なことをする男なんだよ。くそ、それはわかってたんだ。だけど、まさか……」
「無茶なことって?」
フィルが尋ねたのと同時に、信号が「進め」と告げる。青く照らされた車内でグレッグは顔を上げ、深呼吸をした後で慎重に車を発進させた。
フィルは彼の口元を注意深く見つめる。やがてその口が開かれた。
「怒りの制御が難しいと色んな問題が起こる。あっという間に周りが見えなくなって、誰かを深く傷つけちまうこともある。だが、それだけじゃねぇんだ。怒りを無理矢理制御しようとしたり、その矛先が自分だったりすると……自分自身を傷つけることもある」
「まさか」
グレッグは絞り出すような声で言う。
「あんたのところから飛び出していったのも、おそらくその一環だろう。あんたを傷つけたと思ったんだ――そんな自分に腹を立てて……いつだって自分は罰を受けるべき人間だと思い込んでやがる」
「そんな!」フィルはグレッグの肩に再度縋った。「傷つけたのは僕の方なのに!」
「誰かを傷つけてしまうかもしれない」
グレッグの声が車内に重く響き渡る。我に返ったフィルが彼から離れると、グレッグは一瞬こちらを見た後、悲しげな声音で言った。
「寝ても覚めても、そう自分に対して考えることが、どれほど恐ろしいことかわかるか?」
フィルは彼の横顔をじっと見つめ、しばらくの沈黙の末、静かに答えた。
「想像もできません」
車は闇夜を走り続け、やがて丘を登り始めた。その上にあるサングラー病院は、もう目と鼻の先だった。
身体ががたがたと揺れていた。
『暴力はやめてと言ったでしょ!』
細い、枯れ木のような指が両肩に食い込んでくる。肩を揺らすその力は弱々しかったが、オギーはそれを振り払うことができなかった。すっかり身体から力が抜け、汚いカーペットの上に座り込んで、血に塗れた両手を見下ろすことしかできない。
『お父さんを殺したのね! 殺しちゃったのね! 血を流しているじゃない!』
頭蓋骨にまできんきんと響くような声だ。オギーが感じられる痛みはこの声が引き起こす頭痛のみで、父を殴り潰した両手の痛みは消えてしまっていた。
それでも、オギーは呟くように告げた。
『母さん、両手が痛いよ。ずきずきするんだ』
『とんでもないことをしたわね! あんたはとんでもないことをしたのよ!』
『母さん、聞いて。痛いんだ、痛くてたまらない。それと――』
『警察を!』
過去の残響が、闇に溶けていたオギーの意識を蘇らせた。
身体に感じていた揺れが、頭を割らんばかりの苦痛へと変わっていく。しかし身体は動かず、自由が効くのは、半開きになった目蓋が覆う眼球だけだった。目を動かすと、自分の上に夜空がなく、それを覆わんとする木々もなくなっていることに気づく。闇の中、やや汚れた天井と窓ガラスが見えた。その窓の外では、等間隔に光が後ろへ流れている。
ごうごう、ぶんぶんという音、タイヤが道路を噛み、擦って進んでいく振動。
(車の中か?)
後部座席で仰向けになっていたようで、右足は膝を折って座席にかかっており、左足はだらりと座席の下へ落ちていた。のろのろと身体を起こしかけたその時、車がカーブに差しかかり、バランスを崩したオギーは左半身から座席の下へどさりと落ちてしまった。
「きゃっ、目を覚ましたのね!」
ふいに聞こえてきた女性の声に、オギーは驚いて顔を上げた。暗いせいで、運転席にいる彼女の顔はよく見えない。さらに闇は人間の想像力を助長させる。一瞬すれ違った街灯が、女性のシルエットを映し出した――細くぱさぱさしたボブカットの黒髪。
一瞬の闇の後、また街灯とすれ違う――ファンデーションの塗りすぎで粉っぽい肌。
ストロボのような光が車内を照らす――引き攣った顔に、血走った目。
そこに母がいる、とオギーは思った。事件後、息子が出所しても姿を見せず、未だどこにいるかわからない母がそこにいる――という幻影にオギーの脳は侵された。
オギーは運転席の女を凝視しながら、狭い空間で後退りしようともがいた。
「俺は自分で行かなくちゃならない。自分で行ける。自分で行かなくちゃ意味がないんだ」
「落ち着いて! 頭から血が出でるのよ!」母とは似ても似つかない若い声が、歪んで響いてくる――『私は何度も言ったわ。何度も言ったのよ』
「今から自分で何とかする」
『あんたに何ができるって言うの? 暴力はやめてと言ったのに、それも聞けない悪い子だったわよね。そんで家族をめちゃくちゃにして。刑務所にいたからチャラになると思ってるの? なんて楽な罪滅ぼしかしら』
現実では、運転中の女性がオギーのうわごとに答えつつ、きちんと前を向いて運転している。しかしオギーの目に映る世界では、母が鬼の形相でこちらを睨んでいた。彼女は限界まで首を伸ばし、後部座席のオギーに顔を近づけてくる。筋張った首には指の痕があった。
「おれはただ、たすけたかった……」
『言い訳ね』
「かあさん、きいて」オギーは目を見開いた。「おねがい、きいて。いうから、きいて」
『あんたには――』
母の暗い口が開いた瞬間、オギーは耐えられなくなった。咄嗟に車の扉の方へ手を伸ばし、ハンドルを掴んで思い切り引き開ける。車内灯が点き、冷たい風が吹き込む。
「ちょっと! 何してるの!」
突然服を掴まれて、ぐいと引き戻された。それと同時に車が急停止し、その勢いで目の前の扉がばんと閉まる。車内にまた闇が戻り、思わず振り返ったオギーは、憤怒の表情の母と対峙することになった。
「これ以上は迷惑かけたくない、自分で何とかできるから、もう構わないでくれ」
今度は、母は何も言わなかった。こんなにも恐ろしいことはない。
オギーは服を掴んでいた手を振り解くと、扉のハンドルへと飛びついた。しかし、いくら力を込めて引いてもびくともしない。車がまた動き出したのがわかった。
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