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第一章 少女たちの願い(前編)

逃げた先で

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「はぁ……はぁっ……」

 夏音は走っていた。
 暗い闇の中、家と家の間を縫うように必死に走る。

 あんなに強いとは思わなかった。
 自分の力なら、絶対勝てる自信があったのに。
 だって、自分の力は――

 そうこう考えているうちに、見慣れた温泉宿にたどり着いた。
 ここが夏音の家。
 逃げなきゃと思って一心不乱に逃げ惑ううちに、ここに帰ってきてしまったらしい。
 気が重い。

「……ただいまですにゃ」

 勝手口――館員用のドアを開けると、シーンという静寂だけが出迎えた。

 はぁ……とため息をついて、靴を脱ぐ。
 すると、館員の一人が夏音の方に向かってきた。

「あら、夏音さん。おかえりなさい」

 四十代ほどの優しそうな館員さんは、朗らかな笑みを浮かべる。
 そして、すぐそばにあった調理室へと入って、またすぐ料理の乗ったお盆を持って出てきた。

 忙しいのだろう。
 汗を流しているせいか、少々色っぽくなっている。
 そしてまた夏音に向き直ると、

「ごめんなさいね。夏音さんの分のお食事が出来ていないの。悪いけれど、先にお風呂に入ってきてくれる?」

 お客の少ないうちに。と付け加えると、歩きづらそうに廊下を小走りして去っていく。

「……分かったですにゃ」

 夏音は誰に言うでもなくそう零すと、浴場へ直行した。

 ☆ ☆ ☆

 「はふぅ……」

 浴場は、まだ人の少ない時間帯。心を落ち着かせるにはいい環境だ。
 温かいお湯に、心が満たされていくような気持ちになる。

 大浴場に一定時間いると、だんだん飽きてきたのか、夏音は立ち上がって露天風呂の方に向かって歩き出す。
 露天風呂は、大浴場とは違った雰囲気が漂う。

 そこで夏音は息を呑んだ。

「お、やっほ~」

 気軽に夏音に声をかけた人影は。
 深緑の長い髪と、黄色に輝く猫のような瞳が特徴的な少女だった。
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