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ニッポニア編
67 ジェイドの旅
しおりを挟むジェイドと黒曜は館に帰り着くとホッと息を吐いた。
「本当に良かったわね…今日はお疲れでしょう、ゆっくり休んでね。私は店があるから出掛けるけれど、お風呂に入って食事でもして、のんびりしてね」
黒曜はそう言うと、後をシズさんに頼んで出掛けて行った。
「ジェイド様、お風呂が沸きましたよ」
シズさんがそう声を掛けられるまで、ジェイドは自室の床に寝転んだまま、今日あったことを思い返していた。
『お母さん』、その存在が自分には欠けていることを子供の頃から知っていた。
父はそのことを話すことも無かったし、毎日生きることで精一杯で目の前のことだけを考えて過ごしていた。
たまに夢の中で思い出すのは、顔のない真っ黒な髪の女だった。
それは子供心に恐怖と一体になったもので、いつも夜中に叫んで飛び起きるのだった。
それが今は優しい母の顔に変わって、記憶を上書きする。
運命に翻弄され、共に過ごした時間は僅かだったが、間違いなくこの身にはあの母の血が流れている。そして、同じ血の繋がった妹弟も存在するのだ。不思議な感覚だった。
(あの子たち、可愛かったな。一緒に過ごしていたらどんなだったんだろう?
私は、いいお姉ちゃんになっていたんだろうか…)
ジェイドはそんな思考を無理やり切り離して、起き上がると浴室の方へ歩いて行った。
* * *
河原で行われた『登用試験』の結果、男性十九名、子供を含む女性六名の合計二十五名が合格した。
だが合格したと言うだけで、そこから先はまだ何も決まってはいない。
(主君時貞公は、この者たちをどのようにお使いになろうとお考えなのだろうか?)
世話役を仰せつかった古関は、主君に報告を言上する。
「殿、例の『登用試験』の結果、男女合わせて二十五名が合格致しました。して、今後はどのようにいたしましょうか?」
その問いかけに時貞公は、含みのある視線を家臣に投げかけた。
「古関、当藩は僅か石高三万石の小藩だ。抱えている家臣も少ない。
それに背後を見やれば大きな火山があり、その災害に民草の日々の暮らしは左右される。
そして周りを見渡せば、隙あらば侵略の手を延ばして来そうな輩にも囲まれておる。…そんな場所で何が我らの力となると?」
「……人の力…でしょうか?」
「は。その方、わかっておるではないか!…此度の人集めは、あらたな軍勢を立ち上げるためなのじゃ。『異能の衆』と言っても良いな。集めた者たちを訓練し、戦える軍団に育てるのが今後のお前の役目じゃ」
「しかし殿、中には十にも充たない女童もおります!」
「ふむ、それは今から育てれば、さぞや良い働きをしてくれるであろうな…」
小関は主君の言葉に内心頭を抱えた。
「せいぜい気前よく駄賃を弾んで、あの異国人たちに働いてもらうが良い。良いか、出し惜しみするでないぞ。使える家臣は誰でも使え」
* * *
ジェイドは、明るい朝の日差しの中を、ポクポクと馬の背に揺られていた。
朝早く黒曜邸を出発して、雇った馬子に手綱を引かれながら見晴らしの良い馬の上で、景色が変わりゆくのを眺めていた。
途中自分たちばかりでなく、馬のために給水や給餌も必要だが、こうして前に進むことで少しでも早く愛する人の元へ近づいているのだと思うと、気持ちが楽になった。
母に会った翌日、自分も父とオリヴィンのいる城下へ行こうと思う、と黒曜に打ち明けたら意外にもすんなり賛成してもらえて、こうして馬の手配までしてもらった。
(今夜はオリィが手紙の中で書いていたように、温泉宿に泊まってゆっくりしよう)
そう思いながら白煙を上げている火山を眺める。時折、微弱な振動が空気を伝わって来る。火山のある土地というのはこんなものなのだろうか、周りの誰も気にしている様子がない。
夕方、温泉宿にたどり着くと女性だけの相部屋をお願いされた。なんでも、農家の収穫期も終わって、温泉で湯治をしようという客がこの時期多くなるらしい。
温泉に浸かって部屋に戻ると、夕餉の膳が運ばれて来たところだった。
それほど広くない襖で区切られた部屋に四人が同部屋だった。隣は十歳くらいの女の子を連れたお母さんで、もう一人は尼さんだった。
女の子がじいっと見つめて来るので、『こんにちは』と挨拶すると、慌ててお母さんの後ろに隠れながら『…こんにちは』と小さな声で言った。
「すみません。お姉さんがあんまりお綺麗なんで、見とれているんですよ」
その子のお母さんがそう言うと、女の子はうんうんと被りを振った。
「この子はアカネといいます。私は母のキクと申します」
「翡翠、と申します。よろしくお願いしますね」
ジェイドが女の子に向かってそう言いながら微笑むと、女の子は嬉しそうに顔をぱあっとほころばせた。
黒曜の助言で今回の旅は、目立たないが上質の着物を着て、名前もこちらの名前『翡翠』を使うことにしている。
夕餉をいただきながらキクさんの話を聞くと、彼女らは宗像さまのご城下から家に帰る途中なのだそうだ。なんでもお城で働くことが決まって、荷物を取りに帰るのだと言う。
「私はこれからご城下へ行くので、また会えるかもしれませんね」
と言うと、アカネは嬉しように笑った。
夜になって布団が敷かれ、灯りを落として寝ようかと言う頃、誰かが部屋を訪ねて来た。ジェイドが一番入り口に近いところにいたので、襖を開けて顔を出すと、若い侍姿の男が立っていた。
男は一瞬驚いてジェイドの顔を見つめた後、
「あ、あの、手前は古関祐之進と申す者、こちらにキク殿とアカネ殿はおられるか?」
と焦った様子で聞いて来た。
「おります。呼んで来ますので、お待ちください」
ジェイドはそう言って、部屋を振り向きキクとアカネを呼んだ。
お侍が帰って行くと、キクが申し訳なさそうに
「翡翠さん、ありがとうございました。あの方はご城下のお侍様で、私たちが無事家から引っ越しをして来れるよう付いて来てくださったのです」
「そうなんですか、親娘二人では何かと心細いですものね」
やや、キクさんの顔が陰った。
「ええ…実家は私たちを家に押し込めておきたいようで…
あっ、ごめんなさい、こんな話。明日も早いですものね、休みましょう!」
ジェイドもちょっと二人の様子が気になったが、明日のことを考えて床に着いた。
夜中、地面が激しく揺れるのと同時に、
『ドオオオォーーーーーンン』
という何かが爆発したような音が辺りに響きわたり、宿全体が軋んで大騒ぎになった。
バラバラバラバラ……と、小石が降り注ぎ、屋根に当たる音がする。
「皆さん!河原に避難してくださいっ!」
「逃げてくださいっ!」
という声が聞こえて来て、飛び起きた。
頭に手拭いや座布団を乗せて、人々が一斉に河原の方向に走り出す。
ジェイドは咄嗟に自分の荷物の一番上に重ねてあった、赤いショールを掴んで頭から被り、逃げようと部屋を見渡した。
「キクさん、アカネちゃん、行きましょう!」
「すみません翡翠さん、こちらの庵主さまをお願いします!」
キクはアカネの手を引き、ジェイドは尼僧の方を支えて外に出る。
背後の火山を見上げて、ぞっと冷たいものが背中をつたう。
山の中腹から、赤い火柱が上がっていた。
履き物を探す時間がなかったので、みんな裸足で逃げている。足が痛いことなど気にしてはいられないが、暗い中の避難で足元は危うい。
一緒に逃げていた尼さんが何かに足を取られ、それを支えようとしたジェイドも一緒になってひっくり返ってしまった。
「痛っ…。庵主さま大丈夫ですか?」
「申し訳ありませぬ、足を挫いてしまったようです…」
そのとき、声を掛けた者がいた。
「大丈夫ですか?」
声の方を見上げると、若い男が手を差し伸べていた。
「私は大丈夫ですので、この方をお願いできませんか?足を挫いてしまったようです」
そう答えて男の顔を見ると、男もこちらをじっと見ていた。
「先ほどの、キク殿とアカネ殿の部屋の…?」
言われてみれば、あの時の若侍だった。
「はい、翡翠と申します」
男はジェイドの手を取って立ち上がらせると、今度は尼僧の方に背中を向けて
「背負いますので、掴まってください」
としゃがみ込んだ。
ジェイドは尼僧を背負った侍と一緒に河原まで避難した。ときおり、鈍い地響きが来て、空からは灰が降って来る。だが、大きい噴火はあの一度きりで収まったようだった。
そのうち辺りが明るくなって来ると、避難していた者たちも少しずつ戻っていき、その中でキクとアカネの姿も見つけることができた。
「アカネ殿、キク殿ご無事で!」
ジェイドと尼僧の傍で見守っていた祐之進が、近づいて来た親娘に声を掛ける。
「古関さま!…まあ、庵主さまと翡翠さんもご一緒で…」
「悪いが宿に戻ったら待っていてくれぬか?それがしは、庵主殿を医者に見せてまいる」
「わかりました。私たちは宿でお待ちいたします。それでは翡翠さん、まいりましょうか?」
「そうですね。…古関様、助けていただきありがとうございました。庵主さまもお大事になさってください」
ジェイドは古関と尼僧に別れを告げて、親娘と一緒に宿へ向かった。
祐之進は、親娘と共に去って行く美しい娘の後ろ姿を見送っていた。
(…この世に、あんな美しい女子がいるとは…世の中は広いな)
「…お侍さま、このような婆がご面倒を掛けて申し訳ないのぅ」
庵主さまの言葉にやっと我に返った祐之進だった。
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